ドイツ社会民主党
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また社会主義者は「祖国なき輩」として社会的にも迫害を受けた。しかしながらこれらの弾圧や迫害がかえって同党の結束力を高めることとなった[1][2]

1890年の帝国議会選挙(ドイツ語版)では得票率のうえでは19%を獲得して第一党となっている(ただし保守系議員に著しく有利な選挙区制度により議席の上では第一党とはなれなかった)。さらに同年9月に社会主義者鎮圧法が失効。これを機に社会主義労働者党はドイツ社会民主党(SPD)と党名を変更した。アウグスト・ベーベルパウル・ジンガーを党首とした指導体制が築かれた。社民党の党員数は1905年に38万人[2]、1907年に53万人[3]、1912年に97万人[3]、1913年に108万人を突破した[2]。社民党と密接な関係を持っていた自由労働組合(ドイツ語版)も1913年には組合員250万人を突破している。自由労働組合は社民党の支持母体の中でも随一の存在だった[4]

1912年の帝国議会選挙(ドイツ語版)では社民党は得票率34.8%を獲得して得票の上でも議席の上でも第1党となった。国際的にも第二インターナショナルの中心勢力として重要な存在だった。無数の社会団体やスポーツクラブ、新聞などを保有して文化面での活動も広げていった。しかし議院内閣制が確立しなかった帝政ドイツにおいては議会の第1党となっても社民党はなお「隔離」された存在であり続けた[2]。結局1890年以降も帝政期を通じて社民党員はいたるところで「祖国なき輩」として差別待遇を受け続けた[5]

また帝政ドイツでは帝国議会が男子普通選挙であったものの、帝国に加盟する各邦国の選挙制度はプロイセン王国の三等級選挙権制度(ドイツ語版)に代表されるように厳しい制限選挙のもとにあったため、社民党が地方(邦国)政治に進出していくのは困難であった。プロイセン議会(ドイツ語版)には社民党は1908年まで1議席も持てず、ザクセン議会(ドイツ語版)においても1890年代こそ10議席程度保有していたものの、それ以降は1議席に落ち込んでいる。一方で男子普通選挙を導入していたバイエルン王国ヴュルテンベルク王国バーデン大公国では社民党は浸透した。これらの邦国では社民党はリベラル政党と連携することが多く、後述する「修正主義」「社会改良主義」の拠点となっていた[6]
修正主義派と革命派の分裂 革命派のローザ・ルクセンブルク

1891年に社民党はマルクス主義に基づくエルフルト綱領(ドイツ語版)を制定している。1899年にはエドゥアルト・ベルンシュタインが、資本主義社会を革命で社会主義へ変えるというマルクス主義を修正して、議会活動を通じて社会を改良していく方針に変更するべきだという修正主義を主張したが、1903年のドレスデン大会で当時は党内の主流派だったカール・カウツキーローザ・ルクセンブルク教条主義者の猛反対に遭って否決され、マルクス主義の革命主義は温存された[2]

一方ベーベルら党指導部は修正主義派・革命派のどちらにも与さず、「今は合法的活動と党組織の拡充に専念し、来たるべき体制の危機に備える」という「待機戦術」「消耗戦術」を唱道し続けた。こうした折衷的立場をとることによって党の分裂を回避しようと苦心した[4]。1910年に革命派のローザ・ルクセンブルクが革命を活性化させようと大衆ストライキを唱道すると、ベーベルやカウツキーらは「中央派」を形成し、修正主義派・革命派双方をけん制した[2]
植民地に対する見解

結党から長きにわたって社民党は原則として植民地領有や植民地政策に反対してきた。しかし党の規模が成長するにしたがって修正主義的な立場から「植民地支配は文明国の権利であり義務である」として植民地支配を支持する党員が増えていった[7]。植民地問題は政府にとって社民党の支持層である労働者を含めて全国民から支持を得やすい問題であった。ドイツ領南西アフリカで発生したホッテントット族の反乱に伴う軍の駐留費の予算案をめぐって行われた1907年初頭の「ホッテントット選挙」(ドイツ語版)においても植民地支配に反対していた社民党は労働者から離反されて後退を余儀なくされている[8]。こうした情勢から社民党は1907年9月の第2インターナショナルのシュトゥットガルト大会(ドイツ語版)において「社会主義的植民地政策」を宣言し、植民地領有を公然と認めるに至った[9]
政府への接近

第一次世界大戦前夜の時期、ブルジョワ陣営に急進的ナショナリズムが浸透した影響で、ブルジョワ諸政党が「もっと強力な軍拡を推し進めよ」と政府批判を展開する局面があった。こうした「右からの反体制勢力」の出現により社民党は政府がその圧力に屈さない限りにおいて、政府に友好的な立場をとる政党になりはじめた。特に1907年のホッテントット選挙後、社民党は反戦や反軍拡を積極的には主張しなくなっていった[10]
第一次世界大戦 社民党主流派の「城内平和」路線に反発して独立社民党を結成したフーゴー・ハーゼ

1914年8月にドイツは第一次世界大戦に参戦した[11]。ドイツ社民党の主流派は戦争を支持した(城内平和)。このことは世界を驚かせた。ロシアの社会主義指導者ウラジーミル・レーニンはドイツ社民党の戦争支持を「裏切り」と呼んで批判している。しかしマルクスエンゲルスも社民党党首ベーベルも「ロシア帝国ツァーリズムこそがヨーロッパ社会主義運動の最大の敵」と定義しており、ことにエンゲルスは1892年の論文の中で「もしフランス共和国がツァーリの支配するロシア帝国と組むのであれば遺憾ながらドイツ社会主義者はフランスと戦うしかないだろう」とまで言及していた[12]。これらを考えればドイツ社会主義者の主流であるドイツ社民党が戦争を支持したことはさほど不思議なことではなかったともいえる。

一方で社民党内には「城内平和」に否定的な非主流の左派勢力もあり、彼らには2つのグループがあった。一つはカール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルクらが率いる「スパルタクス団」、もう一つはフーゴー・ハーゼ率いる「ハーゼ・グループ」である。1915年春に戦争目的論争が勃発するとカール・カウツキーやエドゥアルト・ベルンシュタインら党の長老が「ハーゼ・グループ」を支持するようになったため、「ハーゼ・グループ」の勢いが増した。1915年春の戦時公債発行の際には賛成票を投じることを拒否する社民党議員が20人ほど出た[13]1917年4月に潜水艦作戦とロマノフ帝政崩壊後のロシアに関する論争が起きたことでこの分裂は決定的となり、党内左派勢力はハーゼを党首とする独立社会民主党(USPD)を結成するに至った。「スパルタクス団」もこれに参加した[14]。以降独立社民党は「帝国主義戦争」の原理的反対者による強力なブロックと化し[14]、多数派社民党を「ドイツ帝国主義の手先」と罵倒するようになった[15]


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