トカラ列島
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本来の表記は「吐?喇列島」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。

吐?喇列島(トカラ列島)吐?喇列島南西諸島九州日本東シナ海太平洋フィリピン海
地理
場所東シナ海(七島灘[1]
諸島薩南諸島
島数12[1]
主要な島中之島諏訪之瀬島口之島平島宝島小宝島悪石島
面積101.35 km2 (39.13 sq mi)[1]
長さ160 km (99 mi)[1]
最高標高979 m (3,212 ft)
最高峰御岳(中之島

日本
都道府県 鹿児島県
鹿児島郡
市町村 十島村
最大都市中之島(人口158人)
人口統計
人口784人(2016年10月1日年時点)
人口密度7.74 /km2 (20.05 /sq mi)
鹿児島県内におけるトカラ列島の位置(薩南諸島中部) 中之島の夜明け。フェリーとしまより撮影 宝島港の壁画。背後に女神山を望む。2007年5月 横当島の東峰のステレオ空中写真(1978年)
国土交通省国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

吐?喇列島(とかられっとう)は、南西諸島のうち、鹿児島県側の薩南諸島に属する島嶼群。行政区域は全島が鹿児島県鹿児島郡十島村である。
目次

1 地理

2 歴史

3 沿革

4 主な島

5 列島へのアクセス

6 その他

7 脚注

8 参考文献

9 関連項目

10 外部リンク

地理

天気予報区分では奄美地方の一部である。漢字表記が難しいことや「?」がJIS X 0208に収録されていないため、トカラ列島と表記されることが多いほか、吐喝喇列島という代用表記もみられる。過去には、七島(しちとう)・川辺七島(かわなべしちとう)・宝七島(たからしちとう)とも呼ばれた[1]

明治期以前は、上三島黒島硫黄島竹島など)と合わせてトカラ列島(下七島)は薩摩国川辺郡に属し十島(じっとう)と呼ばれていた。1897年にはそのまま大隅国大島郡に編入。1908年島嶼町村制により十島村(じっとうそん)となる。第二次世界大戦後、下七島がアメリカ軍軍政下に入り、上三島は日本に残される。1952年2月4日に下七島が日本に返還、2月10日に十島村(としまむら)として発足した。返還まで十島村(じっとうそん)であった上三島は、同日付で村域を上三島、町名を三島村に変更し分立された。

東シナ海から流れて来る海流が下七島付近で大きくうねるため、海の難所・七島灘として古くから知られていた[2]
歴史

地名の由来については諸説あるものの、「沖の海原」を指す「トハラ」から転訛したという説が有力。

宝島からは縄文後期弥生中期の土器が出土している。

続日本紀』には、699年8月19日(文武天皇3年七月辛未)に、多?、夜久、菴美、度感の人が物を貢いだことが記されており、これらの地名はそれぞれ種子島屋久島奄美大島徳之島に当たるが、度感をトカラ列島に比定する説もある。いっぽう、『日本書紀』に吐火羅(白雉5年)、覩貨邏(斉明天皇3年)の文字が見え、中国西域の人種であるとする説の一方で、日向筑紫、「海見嶋」に漂着との記述がある事から、これをトカラ列島に比定する説もある[2]

古くは朝廷から南海(南西諸島)に派遣される覓国使や遣唐使の海上目標や休憩地として認識されていた。中世の日宋貿易においても同様であり、平家の落人伝説もある。列島各島には平家末裔を称する島司があり、島の実権と祭祀を掌握していた。1227年(安貞元年)には十島が川辺氏による支配が及び。15 - 16世紀には種子島氏の勢力も及ぶ。1450年(宝徳2年)、朝鮮の船が難破し臥蛇島に漂着、生存者の内2名は薩摩、2名は琉球に連行される。これをもって臥蛇島などが日琉両属体制にあったとする説がある[3][2]

中近世(16 - 18世紀)にはトカラ列島の海域を本拠に薩摩と琉球の間の交易を取り持つ海上交易勢力としての七島衆が現れる。琉球侵攻では薩摩兵の水先案内人を務め琉球にも入り死者も出ている。一方で薩摩の内情を琉球王府に伝えるなど、日和見的立場を取っていた。琉球侵攻ののち、トカラ列島は薩摩藩島津氏の直轄領となり七島地頭(島津家臣)と七島郡司(七島衆)が置かれる。[4]

畳表の原材料であるシチトウの由来の地。シチトウという名称は、小宝島を宝島に入れて数えるとトカラ列島が7つの島から成ることに由来する。シチトウの苗は江戸時代にトカラ列島から豊後国日出藩(現在の大分県日出町)へ持ち込まれ、後に全国の家庭の畳表に使われるようになった。柔道創設時代に講道館の畳にも使われて柔道畳としても発展し、1964年東京オリンピック柔道会場にも使用された。

文政7年(1824年)には宝島イギリス船が来島し、牛を略奪したイギリス人1名が射殺される宝島事件が起きた。翌年の文政8年(1825年)には異国船打払令が出された。 

1944年(昭和19年)8月、疎開船対馬丸悪石島沖で米軍に撃沈され沈没した(対馬丸事件)。

1946年8月、引揚者や復員兵を乗せ密航(当時は米軍統治下)した宝永丸が定員超過のため中之島沖で沈没、50人の犠牲者を出した。[2]
沿革

明治期以前は、
上三島黒島硫黄島竹島など)と合わせてトカラ列島(下七島)は薩摩国川辺郡に属し十島(じっとう)と呼ばれていた。


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