サタジット・レイ
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サタジット・レイ
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肖像画
生年月日 (1921-05-02) 1921年5月2日
没年月日 (1992-04-23) 1992年4月23日(70歳没)
出生地 イギリス領インド帝国 コルカタ
死没地 インド コルカタ
職業映画監督、制作、脚本、作家、音楽監督、カリグラファー、詩人。
配偶者ビジョヤ・レイ
主な作品
「オプー三部作」(『大地のうた』『大河のうた』『大樹のうた』)
『音楽サロン』
遠い雷鳴

 受賞
アカデミー賞
名誉賞
1991年
カンヌ国際映画祭
国際カトリック映画事務局賞
1956年『大地のうた』
ヴェネツィア国際映画祭
金獅子賞
1957年『大河のうた』
国際映画批評家連盟賞
1957年『大河のうた』
1972年『株式会社 ザ・カンパニー』
栄誉金獅子賞
1982年
ベルリン国際映画祭
金熊賞
1973年遠い雷鳴
監督賞
1964年『大都会』
1965年『チャルラータ』
OCIC賞
1965年『チャルラータ』
特別賞
1966年『ナヤック』
その他の賞

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幼少時のサタジット・レイ 22歳のサタジット・レイ 父シュクマルと母スプラバ(1914年) サタジット・レイ(1955年)

サタジット・レイ(ベンガル語:??????? ????, ヒンディー語:??????? ???, 英語:Satyajit Ray, 1921年5月2日 - 1992年4月23日)はインド映像作家。彼は映画界における巨匠の一人に挙げられる。映画制作以外にも、築き上げた彼独特の文体で執筆された小説や、カリグラフィーなど広告媒体の制作でも知られる。

サタジットはコルカタ市の、世界的に有名なベンガル人芸術文学一家に生まれた。彼の経歴は広告媒体の制作から始まり、ロンドン滞在時にフランス人映像作家のジャン・ルノワールと出逢い、またイタリア人ネオレアリズモヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』を見たことから、自主映画の製作に身を投じた。

サタジットが制作した映画はドキュメンタリー短編映画も含めて37本ある。彼はまたフィクションの作家、出版者、イラストレーター、グラフィックデザイナー、そして映画評論も行った。1955年に公開されたレイ初の映画『大地のうた(英語版)』は、国際的な賞を11個授かり、その中にはカンヌ国際映画祭のBest Human Documentaryもある。この作品と、1956年の『大河のうた(英語版)』、1959年の『大樹のうた(英語版)』の3作は「オプー三部作(英語版)」と呼ばれる。

サタジットは脚本、キャスティング、映画音楽、編集から、制作した映画のクレジット・タイトルや広告のデザインまでも手がけた。彼は生涯において、インドの第32回ナショナル・フィルム・アワードや国際的な映画祭や式典でのものを含む数々の賞を受け、1992年にはアカデミー名誉賞を授かった。同年、インド政府はレイにバーナトラトナ賞(英語版)を贈呈した。
目次

1 生涯

1.1 生誕と家族

1.2 オプー三部作(1950-1959年)

1.3 『女神』から『チャルラータ』まで(1959-1964年)

1.4 新たな取り組み(1965-1982年)

1.5 シッキムのドキュメント

1.6 晩年


2 主な監督作品

3 映画制作

4 文学作品

5 カリグラファー

6 評価

7 影響

8 受賞

9 脚注

10 参考文献

11 外部リンク

生涯
生誕と家族

サタジット・レイの先祖は少なくとも十世代前まで遡ることができる[1]。祖父(Upendrakishore Ray)は作家、イラストレーターであり出版も行い、また哲学者そしてアマチュア天文学者、さらには19世紀のベンガルで興った宗教および社会活動ブラフモ・サマージの指導者でもあった。新聞U. Ray and Sonsの創刊も行い、これがサタジットに批判的精神の根底部分を形づくる要因となった。父シュクマル・レイ(英語版)はベンガル語で書かれたノンセンスバース(英語版)や児童文学の嚆矢であり、またイラスト制作や批判活動も行っていた。サタジットは、シュクマルと母スプラバの間に生まれた。

サタジットがわずか3歳の時に父シュクマルが亡くなり、一家はスプラバのわずかな収入で生きなければならなくなった。彼はコルカタのバーリグンジ政府高校(英語版)で学び、コルカタ大学の管区カレッジ(英語版)で経済学の学士(オーナーズ)を修めた。しかし既に彼の興味はいつもファインアートに向けられていた。1940年、母親はラビンドラナート・タゴールが設立したシャンティニケトン(英語版)のタゴール国際大学(英語版)へ進学するよう求めた。しかしコルカタに愛着を持つサタジットは、シャンティニケトンで学業生活を送ることに乗り気でなかった[2]。しかし母の説得と、タゴールを尊敬していたこともあって、納得して進学した。シャンティニケトンでサタジットは東洋芸術に触れ、後に認めたところによると有名な画家であるノンドラル・ボーズ(英語版)[3]やビノード・ビハーリー・ムカルジー(英語版)からたくさんの事を学んだ。後に、サタジットはムカルジーのドキュメント映画『The Inner Eye』を制作した。また彼はアジャンター石窟群エローラ石窟群エレファンタ石窟群を訪れ、そのインド芸術から大きな刺激を受けた[4]

1943年、サタジットはイギリス人が経営する広告会社D.J. Keymer に就職し、下級映像制作者 (junior visualiser) として月80ルピーの給料を得た。彼はグラフィックデザインを好み制作を上手くこなしていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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