サウード家
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サウード家(?? ????? ?l Sa??d)は、サウジアラビア王家


目次

1 名称

2 歴史

2.1 第一次サウード王国

2.2 オスマン・サウジ戦争

2.3 第二次サウード王国

2.4 ナジュド及びハッサ王国

2.5 ナジュド・スルタン国

2.6 ナジュド及びヒジャーズ王国

2.7 サウジアラビア


3 関連項目


名称

サウジアラビアの英語名に含まれる Saudi、アラビア語名に含まれる ????????? al-Su??d?ya は、いずれも「サウード家の」という意味である。
歴史詳細は「en:Unification of Saudi Arabia」を参照
第一次サウード王国

元来、サウード家はアラブ人のスンナ派のアナイザ族(英語版)に属するアラビア半島中部のディルイーヤの支配者だった。18世紀中頃、ムハンマド・イブン=サウード(英語版)(在位: 1744年 - 1765年)がイスラームの純化を唱えるムハンマド・イブン=アブドゥルワッハーブと盟約を結んで、ワッハーブ主義の保護者となる代わりにワッハーブ派勢力の世俗支配者としての正統性を認められて、勢力を拡大した。ムハンマドの興した第一次サウード王国は、マッカ(メッカ)・マディーナ(メディナ)を征服し、19世紀初頭までにアラビア半島の大部分を支配するまでに成長した。
オスマン・サウジ戦争

オスマン・サウジ戦争1811年 - 1818年)ではワッハーブ主義の拡大を恐れたオスマン帝国とそのエジプトのen:Egypt Eyalet(ムハンマド・アリー朝)太守ムハンマド・アリーの派遣した討伐軍により首都ディルイーヤが攻略され、崩壊した。
第二次サウード王国

その後、トゥルキー・ビン・アブドゥッラー(英語版)がリヤドに移って1824年第二次サウード王国を復興したがナジュド中南部の小勢力に留まり、Royal Civil Warとも呼ばれる1891年1月24日のen:Battle of Mulaydaではナジュド北部の支配者ラシード家(英語版)によって首都を奪われ、アブドゥッラフマーン・ビン・ファイサル・アール=サウード(英語版)がクウェートに亡命し、ジャバル・シャンマル王国がナジュドを支配した。
ナジュド及びハッサ王国

1902年のリヤドの戦い(英語版)に至ってアブドゥルアズィーズ・イブン=サウードがリヤドを奪還してサウード王国を復興した(ナジュド及びハッサ王国)。その後、en:Battle of Dilamとサウード・ラシード戦争(英語版)(en:Battle of Unaizah (1904)、en:Battle of Bekeriyah (1904)、en:Battle of Shinanah (1904)、en:Battle of Rawdat Muhanna (1906)、en:Battle of Tarafiyah (1907))が続いた。

1915年、en:Battle of Jarrab。en:Al-Khurma dispute(1918年 - 1919年)。クウェート・ナジュド国境戦争(英語版)(1919年 - 1920年)。
ナジュド・スルタン国

1921年にはラシード家を滅ぼしてナジュド・スルタン国が成立した(en:Conquest of Ha'il)。en:Ikhwan raids on Transjordan(1922年 - 1924年)。
ナジュド及びヒジャーズ王国

ヒジャーズからハーシム家フサインヒジャーズ王国勢力を駆逐し(en:Saudi conquest of Hejaz)、1926年には現サウジアラビアの版図を征服(ナジュド及びヒジャーズ王国)。en:Ikhwan Revolt(1927年 - 1930年)。en:Ikhwan raid on Busayya、en:Battle of Sabilla、en:Battle of Jabal Shammar (1929)。
サウジアラビア詳細は「アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード#家族」を参照

1932年、アブドゥルアズィーズ・イブン=サウードが勅令によりサウジアラビアの建国を宣言、初代国王に就任した。1934年サウジ・イエメン戦争、en:Idrisid Emirate of Asirを併合。

一夫多妻制のため、初代国王アブドゥルアズィーズには、数は不確定ながら50人?200人の子供がいるといわれ、王位継承権を持つ第2世代の王子は1900年生まれから1947年生まれまで36人を数えた。第2代国王サウード、第3代国王ファイサル、第4代国王ハーリド、第5代国王ファハド、第6代国王アブドゥッラー、第7代国王サルマーンのいずれもこの第2世代の王子であり、異母兄弟若しくは同母兄弟が年長順に王位継承を続けてきた。1975年には第3代国王ファイサルが甥のファイサル・ビン・ムサーイド(英語版)王子に暗殺された。

1992年に制定された基本法により、サウジアラビア国王は初代国王アブドゥルアズィーズの男系の子孫であることが定められた。王族はワッハーブ派のムスリムとしか結婚が許されないため、海外の王侯貴族との政略結婚などはあまり行われていない。

サウード家はサウジアラビアにおいて、ワッハーブ主義の保護者として正統性から絶大な地位を持ち、安定した政権を保ちつづけているが、第5代国王ファハドの即位以来、「スデイリー・セブン」と呼ばれる国内の有力豪族スデイリー部族の母を持つ第5代国王ファハドの同母兄弟が中央政界で力を持っており、異母弟である第6代国王アブドゥッラーなどその他の王族と微妙な関係にあるとされた。

第3世代となる初代国王の孫の世代は男性だけでも254人が公式に確認されており、王位継承問題が深刻化すると見られていたが、2015年に第7代国王サルマーンが、ナーイフ元皇太子の息子のムハンマド・ビン・ナーイフを王位継承順第2位となる副皇太子に就任させ、更に同年に王位継承順第1位の皇太子に昇格させたことによって、初めて第3世代が王位継承者に挙がることとなった。これにより第3世代への王位継承問題に道筋がつけられた。

なお、2009年時点までに第6世代まで誕生している。一夫多妻制により鼠算式に王族が増えていった結果、第6世代まで含めたサウード王家の総数は一万人を超えるとも言われており、単純に総人口で割ると国民2700人前後に1人の割合で王族が居ることになる。
関連項目

アル=ワリード・ビン・タラール


更新日時:2017年12月11日(月)13:56
取得日時:2018/07/08 08:46


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