グナエウス・ポンペイウス
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グナエウス・ポンペイウス
Gnaeus Pompeius Magnus

生誕紀元前106年9月29日
ローマ
死没紀元前48年9月29日
アレクサンドリア
所属組織共和政ローマ
最終階級執政官(コンスル)
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グナエウス・ポンペイウス・マグヌス(ラテン語: Gnaeus Pompeius Magnus, 紀元前106年9月29日 - 紀元前48年9月29日)は、共和政ローマ期の軍人であり政治家。ルキウス・コルネリウス・スッラからマグヌス(「偉大な」の意)と称され、ガイウス・ユリウス・カエサル及びマルクス・リキニウス・クラッスス第一回三頭政治を行ったが、ローマ内戦でカエサルに敗北、最終的に暗殺された。
目次

1 生涯

1.1 幼少期及び青年期

1.2 スッラ配下の俊英

1.3 ヒスパニア遠征

1.4 執政官就任

1.5 海賊征討戦

1.6 小アジア・オリエント遠征

1.6.1 ミトリダテス6世征討

1.6.2 オリエント征服


1.7 ローマの第一人者

1.8 三頭政治(Triumviratus)

1.8.1 三頭政治初期

1.8.2 ルッカ会談

1.8.3 三頭政治崩壊


1.9 ローマ内戦

1.10 最期


2 家族・妻

3 末裔

4 ポンペイウス年表

5 評価・登場作品

6 脚注

7 参考文献

7.1 伝記


8 関連項目

生涯
幼少期及び青年期

グナエウス・ポンペイウスは、同名のグナエウス・ポンペイウス・ストラボを父として生まれた。ポンペイウスが属したポンペイウス一門はエクィテス(騎士階級)に属し、古来からの政治上の名門とは言えなかったものの、中部イタリアのピケヌム(現:アスコリ・ピチェーノ県)近郊に大きな所領を持つ裕福な家系であった[1]。父グナエウスは紀元前104年及び紀元前92年プラエトル(法務官)、紀元前89年にはコンスル(執政官)の座を占め、政治的なエリートコースを歩んでいた。父がコンスルであった紀元前89年にポンペイウスは教育課程を修了したが、同盟市戦争でローマ軍の指揮を執っていた父から従軍するよう呼び出しを受けて、ポンペイウスは僅か18歳で初陣を飾ることとなった[2]
スッラ配下の俊英

紀元前87年、反対派であるオプティマテス(閥族派)のルキウス・コルネリウス・スッラがローマを離れていた間に、ポプラレス(民衆派)のガイウス・マリウスは軍を率いてローマへ侵攻した。オプティマテスに属したポンペイウスの父はこの時期に死去した[3]。ポンペイウスは未だ若年であったことや、ポンペイウスの一族による周到な用意もあって父に連座すること無く、マリウスらの粛清から逃れることができた。その後、ポンペイウスはローマへ戻った際に略奪の罪で告発され、ポンペイウスの妻・アンティスティア(最初の妻)の父がプラエトルであったこともあって免れることが出来たものの、以降しばらくの間ポンペイウスは雌伏の時期を過ごす。

紀元前83年、マリウス亡き後のローマを制圧するためにスッラがギリシアから軍を率いて攻め込んだ際に、ポンペイウスは自費で募兵した3個軍団を率いてスッラの軍へ合流した。スッラはポンペイウスの参戦が、執政官グナエウス・パピリウス・カルボ有するローマ軍団への対応に有用であったこともあり、スッラはポンペイウスの合流を歓迎したという。紀元前82年、スッラがローマ市を制圧してプロスクリプティオに基づく密告を導入してポプラレスの多くを殺害した。自らは終身独裁官(ディクタトル)となった後、スッラはポンペイウスを繋ぎ止めるため、アンティスティアと離婚して、スッラの遠縁に当たるアエミリア(Aemilia Scaura)と結婚するよう強要し、ポンペイウスは従わざるを得なかった[4]

スッラはイタリア本国が落ち着いたところで、シキリア属州アフリカ属州へ逃れて未だ残るポプラレスの征討をポンペイウスに命じたが、紀元前82年の内にシキリアはあっさりとポンペイウスの手に落ち(シキリアは当時のローマにとって重要な穀倉であり生命線であった)、カルボ及びポプラレスを多数捕らえて殺害した。紀元前81年にはヌミディアへ逃れていたグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス(ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスの兄)を殺害、ドミティウスに組したヒアルバスを捕虜としてヒエムプサル2世(ユバ1世の父)をヌミディア王に据えた。[5]

これらの功績を以て、ポンペイウスは「インペラトル」と呼ばれ、スッラからは「マグヌス」と評された(ポンペイウスはスッラ生存中は「マグヌス」と名乗ることはなく、スッラ死去後に使うこととなる)。ポンペイウスはシキリア・アフリカでの勝利を以て凱旋式を挙行できるようにスッラに申し出て、当初は難色を示したスッラであったがこれを認めた。25歳での凱旋式はスキピオ・アフリカヌスを上回る最年少記録であった[6]紀元前78年にスッラが死亡した時、ポンペイウスはクィントゥス・ルタティウス・カトゥルスらと共にスッラの国葬を主張し、軍隊の支持もあってこれが認められた。
ヒスパニア遠征 ヒスパニア


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