カルメン・マキ
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カルメン・マキ
生誕 (1951-05-18)
1951年5月18日(67歳)
出身地 日本神奈川県鎌倉市
学歴香蘭女学校中退
ジャンルロック
職業歌手
担当楽器
活動期間1969年 -
共同作業者カルメン・マキ&タイムマシーン
ブルース・クリエイション
カルメン・マキ&OZ
カルメン・マキ&LAFF
うるさくてゴメンねBAND
公式サイト ⇒カルメン・マキ?Carmen Maki

カルメン・マキ(旧本名:Maki Annette Lovelace[1]1951年5月18日 - )は、歌手ロックミュージシャンである。日本国籍を取得するまでの本名はMAKI ANNETTE LOVELACEであったが、現在の本名は非公表。
目次

1 来歴

1.1 誕生?歌謡曲時代

1.2 ロックへの転向

1.3 OZ結成?解散まで

1.4 OZ以降?活動休止まで

1.5 復帰?現在


2 エピソード

3 ディスコグラフィー

3.1 オリジナル・アルバム

3.2 ベスト・アルバム

3.3 シングル

3.4 映像作品


4 主な出演作品

4.1 映画

4.2 テレビドラマ

4.3 NHK紅白歌合戦出場歴


5 脚注

6 外部リンク

来歴
誕生?歌謡曲時代

アイルランド人ユダヤ人の血を引くアメリカ人の父と日本人の母との間に神奈川県鎌倉市で生まれる[1]

1968年、私立香蘭女学校高等学校を2年次で中退。イラストレーター役者になろうかと考えていた時期に、詩人の寺山修司が主宰していた劇団「天井桟敷」の舞台『青ひげ』にたまたま友人に連れられていった。その舞台に感銘を受けた彼女は即入団を決意。同じ年の8月に新宿厚生年金会館での「書を捨てよ町へ出よう」が初舞台[1]。この時、CBSソニーの関係者の目に止まり、歌手として契約。芸名の「カルメン・マキ」はこの時期に舞台の練習中にたまたま思いついたものだという。

1969年に「時には母のない子のように」(作詞:寺山修司、作曲:田中未知)でデビュー。17歳とは思えないその妖艶な雰囲気と歌唱力、そして哀愁のある歌いっぷりが話題を呼んだ。「本当に親のいない子供にとっては残酷な歌」と言う批判の声があったものの[2]、累計でミリオンセラー[3]の大ヒット。この曲で第20回NHK紅白歌合戦への出場も果たす。ステージにはジーンズ姿で登場し、司会者に「ジーパンもステージ衣装になる時代が来ました」と紹介された。ちなみに、当時の彼女の曲の作曲武満徹クニ河内が、作詞は前述の寺山修司や谷川俊太郎が、それぞれ手がけている。

これ以降も個性派歌手として活動し、6枚のシングルと3枚のアルバムをリリースする。前述の「時には母のない子のように」の他にも「山羊にひかれて」や「私が死んでも」「戦争は知らない」と言ったヒット曲が出た。

1970年、写真集『篠山紀信集 NUDE』(篠山紀信)でヌードを披露。
ロックへの転向

彼女のキャリアを語る上で欠かせないのはロックへの転向である。そもそものきっかけは、「時には母のない子のように」のレコード大賞受賞でCBSソニー社長から「ご褒美」としてレコードプレイヤーLP盤数枚をプレゼントされた時の事である。

そのLP盤の中にジャニス・ジョプリンがあった。それを聴いたマキは衝撃を受け、1970年に突然のロック転向を表明する。直後近田春夫(のちにハルヲフォンを結成)、立川直樹らと「カルメン・マキ&タイムマシーン」と言うバンドを結成するが、すぐに解散。その後さまざまなバンドがバッキングについたが、最終的には当時の実力派バンドであった、ギタリスト竹田和夫率いるブルース・クリエイション(第2期)に落ち着き、1971年にコラボレーション・アルバムである『カルメン・マキ&ブルース・クリエイション』を発表。それまで黒人霊歌をもとにしたフォークなどを歌うシンガーから、女性ロッカーへとイメージ・チェンジをした。
OZ結成?解散まで

1972年には当時18歳であったギタリストの春日博文らとともに「カルメン・マキ&OZ」を結成。メンバーは、春日博文(ギター)、鳴瀬喜博(ベース、後にカシオペア加入)、樋口晶之(ドラムス、のちに竜童組)。

結成当初は順風満帆とは言えず、所属事務所からはキャバレー回りを強要され、時には客から「こんな曲では踊れない」とビンを投げつけられることもあったと言う。

しかし、こうした地道な活動が実を結び、1974年ポリドールからシングル「午前一時のスケッチ」でデビュー。翌1975年1月にはファーストアルバム『カルメン・マキ&OZ』をリリース。10万枚以上を売る当時のロックアルバムとしては大ヒットとなった。このアルバムに収録されている約12分にも及ぶ大作「私は風」は、のちにさまざまな歌手、ミュージシャンにカバーされ、その中でも特に中森明菜のものが有名である。なお、この録音前後にマキと春日以外のメンバーが総入れ替えとなっている。ドラムは西哲也、古田宣司の1stアルバム参加を経て、内藤正美が1975年末まで在籍。ベースは千代谷晃を経て、1stアルバム録音の後から、後期OZの音に決定的影響を与えた川上茂幸に替わった。

1975年5月、ジェフ・ベック・グループグランド・ファンク・レイルロードの来日公演のオープニング・アクトを務める[1]

1976年アメリカ合衆国ロサンゼルスでセカンド『閉ざされた町』を4か月かけて制作。ファーストに引き続き「閉ざされた町」や「火の鳥」といった大作路線を継承しながらも風格を漂わせたものに仕上がっている。「閉ざされた町」でドラムを担当したのは久藤賀一。

1977年の10月18日新宿厚生年金会館でのステージを最後に解散。その年の12月にはサードアルバム『III』を発表。前2作とは打って変わってポップな楽曲が並んだ。また解散の翌年8月にはシングル盤として「私は風」、そして10月の解散ステージと同年5月の日比谷野外音楽堂のライブ音源を収録した『ライヴ』がリリースされている。『III』『ライヴ』録音時のメンバーはマキ、春日、川上、武田治(Dr)、川崎雅文(川崎真弘)(Kb)であった。


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