オットー・フォン・ビスマルク
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孫については「オットー・フォン・ビスマルク (1897-1975)」をご覧ください。

オットー・フォン・ビスマルクOtto von Bismarck
1890年8月31日のビスマルク
生年月日1815年4月1日
出生地 プロイセン王国
ザクセン県(ドイツ語版)・シェーンハウゼン(ドイツ語版)
没年月日 (1898-07-30) 1898年7月30日(83歳没)
死没地 ドイツ帝国
 プロイセン王国
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン県(ドイツ語版)・フリードリヒスルー(ドイツ語版)
出身校ゲッティンゲン大学
ベルリン大学
称号侯爵Furst
配偶者ヨハンナ・フォン・ビスマルク(ドイツ語版)(旧姓フォン・プットカマー)
親族ヘルベルト・フォン・ビスマルク(長男)
サイン
 プロイセン王国首相
在任期間1862年9月23日 - 1872年12月21日
1873年11月9日 - 1890年3月18日
国王ヴィルヘルム1世
フリードリヒ3世
ヴィルヘルム2世
 プロイセン王国外相(ドイツ語版)
内閣ビスマルク内閣
在任期間1862年10月8日 - 1890年3月20日
北ドイツ連邦首相(ドイツ語版)
在任期間1867年7月14日 - 1871年3月
連邦主席ヴィルヘルム1世
ドイツ帝国首相
在任期間1871年3月21日 - 1890年3月20日
皇帝ヴィルヘルム1世
フリードリヒ3世
ヴィルヘルム2世
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オットー・エドゥアルト・レオポルト・フュルスト侯爵)・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン(: Otto Eduard Leopold Furst von Bismarck-Schonhausen, 1815年4月1日 - 1898年7月30日)は、プロイセン及びドイツ政治家貴族プロイセン王国首相(在職1862年-1890年)、北ドイツ連邦首相(在職1867年-1871年)、ドイツ帝国首相(在職1871年-1890年)を歴任した。ドイツ統一の中心人物であり、「鉄血宰相(: Eiserne Kanzler)」の異名を取る。

プロイセン東部の地主貴族ユンカーの出身。代議士・外交官を経て、1862年プロイセン国王ヴィルヘルム1世からプロイセン首相(ドイツ語版)に任命され、軍制改革(ドイツ語版)を断行してドイツ統一戦争に乗り出した。1867年普墺戦争の勝利で北ドイツ連邦を樹立し、ついで1871年普仏戦争の勝利で南ドイツ諸国も取り込んだドイツ帝国を樹立した。プロイセン首相に加えてドイツ帝国首相も兼務し、1890年に失脚するまで強力にドイツを指導した。文化闘争社会主義者鎮圧法などで反体制分子を厳しく取り締まる一方、諸制度の近代化改革を行い、また世界に先駆けて全国民強制加入の社会保険制度を創出する社会政策を行った。卓越した外交力で国際政治においても主導的人物となり、19世紀後半のヨーロッパに「ビスマルク体制」と呼ばれる国際関係を構築した。
目次

1 概要

2 生涯

2.1 政界入りまで

2.1.1 生誕とその時代背景

2.1.2 幼少・少年期

2.1.3 大学時代

2.1.4 官吏試補

2.1.5 農場経営

2.1.6 敬虔主義のサークルで


2.2 代議士

2.2.1 連合州議会議員

2.2.2 1848年革命をめぐって

2.2.3 議員失職期・革命の衰退

2.2.4 プロイセン衆議院議員

2.2.5 ドイツ連合とオルミュッツ協定をめぐって


2.3 外交官

2.3.1 連邦議会プロイセン公使

2.3.2 クリミア戦争をめぐって

2.3.3 反墺親仏派に

2.3.4 駐ロシア大使に左遷

2.3.5 イタリア統一戦争をめぐって

2.3.6 自由主義勢力の台頭

2.3.7 駐フランス大使


2.4 プロイセン首相

2.4.1 首相任命

2.4.2 鉄血演説

2.4.3 自由主義者との対立


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