イタリア王国_(1805年-1814年)
[Wikipedia|▼Menu]

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。
出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2012年2月)
イタリア王国

1805年 - 1814年




国旗)(国章

イタリア王国(1812年)

公用語イタリア語
首都ミラノ
イタリア王
1805年 - 1814年ナポレオーネ(フランス皇帝ナポレオン1世)

変遷
成立1805年
終焉1814年

イタリア王国(イタリアおうこく、イタリア語: Regno d'Italia)は、ナポレオン戦争中の1805年から1814年に、イタリア半島に存在した国家の1つ。ナポレオン1世により設立された。イタリア中東部と北部を含み、首都はミラノであった。
目次

1 歴史

1.1 誕生

1.2 崩壊


2 関連項目

3 外部リンク

歴史 1807年のイタリア王国の領域。イストリア、ダルマチア等を含む
誕生

1805年3月18日プレスブルクの和約とともにオーストリア帝国ゴリツィアヴェネト県を放棄した。ヴェネトはイタリア共和国に統合され、「イタリア王国」が創られることとなる。

ナポレオン・ボナパルトは1804年にピウス7世により戴冠され、元老院によりフランス皇帝と宣言された。イタリア共和国もイタリア王国に変えられ、ナポレオン自身がイタリア王となり、ミラノのドゥオーモの内部で1805年5月26日に戴冠した。そして、ナポレオンを盲目的に信頼し、自身の政治的目的の追求を恐れない養子のウジェーヌ・ド・ボアルネがイタリア副王に任命された。

1809年にはゴリツィアとトリエステイストリアダルマツィア、カッターロ湾は王国からはずされ、リュブリャナを州都とするイリュリア州としてフランスの支配下となった。
崩壊

1814年にナポレオンの時代が終わると、イタリア王国も終焉を迎える。1814年4月6日、ナポレオンは即座に退位を表明し、11日にはそれが公認された。16日にはボアルネはオーストリアの元帥ベッレガルデと休戦することを連絡しあい、王位はナポレオンの敗北から救われる事が出来るのではないかと期待した。

激昂した群集が起こした私刑による財務大臣ジュゼッペ・プリーナの死など、4月20日のミラノの無秩序の後、ボアルネはやはり住民の支持がないことを知った。人々は実際、それをフランスへの憎しみと同一視していた。ボアルネは4月26日に副王位を辞し、翌日に妻の故郷バイエルン王国に亡命してイタリアを後にした。ナポレオンのイタリア王国はこのような終焉となった。
関連項目 ロンバルディアの鉄王冠。ナポレオンがイタリア王の戴冠時に使用した ナポレオン時代:
40リラ硬貨 1810年のイタリア。黄緑がイタリア王国

ナポレオン・ボナパルト

ジョアシャン・ミュラ

フランス第一帝政

ナポレオン戦争

チスパダーナ共和国

トランスパダーナ共和国

チザルピーナ共和国

ロマーナ共和国

ナポレターナ共和国

ナポリ王国

シチリア王国

サルデーニャ王国

イタリア共和国 (1802年-1805年)

ウィーン会議

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、イタリア王国 (1805年-1814年)に関連するメディアがあります。


Napitalia ナポレオン下のイタリア王国の軍隊










フランス革命戦争ナポレオン戦争期(1792年 - 1815年)の衛星国
フランス革命期アルバ | アンコーナ | バタヴィア | ベルガモ | ボロニェーゼ | ブーロン | ブレーシャ | チザルピーナ | チスパダーナ | シスレニア | クレーマ | ダンツィヒ | エトルリア | ヘルヴェティア | イリュリア | イタリア | リグリア | マインツ | パルテノペア | ペスカーラ | ローラシア | ローマ | ティベリーナ | トランスパダーナ |
ナポレオン戦争期ドイツ: ライン同盟 | ヴェストファーレン | フランクフルト | ベルク | イタリア: エトルリア | イタリア | ナポリ | ルッカ・エ・ピオンビーノ | ネーデルラント: ホラント | ポーランド: ワルシャワ | スペイン


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:22 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:FIRTREE