阪神タイガース
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…第2次低迷期[編集]1964年以降、またも低迷期に突入した。しかも今度は長い。それでもトラキチのみなさんがファンを辞めなかったのは、江夏豊と田淵幸一が居たからである。

チームの順位には直結しなくても、強烈な個性と成績で楽しませてもらえるだけでファンが満足した。どうやら藤村のオッちゃんの頃と変わらない時代の再来である。それでもオッちゃんが1人で張り切るよりも、役者が多い分だけチーム順位の下落は小さかったので、悲観しなかったようである。

その江夏や田淵が選手? 12b2 ?しての全盛期を迎える頃には、チームの戦績にも直結しだした。そして、勝ちを譲り続けていた大男集団の9連覇をようやく阻む機会が訪れた1973年。熱戦を勝ち抜いて、残る2試合で1つ勝てば優勝というところまでこぎつけた。ところが、その2試合とも敗戦して大男集団に、またしても優勝を譲ってしまったのである。

話はそこで終わらない。甲子園での優勝を信じていたファンは逆上し暴徒化。球場内に乱入するも怒りをチームに向けず、その最終戦の対戦相手だった大男集団の王貞治など主力選手に向け、彼らに襲いかかったと言うのだから最低な話である。もちろん、選手へのお仕置きも狙っていた。でも控え室に立て籠もる選手には、日付が変わろうとも手を出せずに断念した。

なお、この年は情けない戦いぶりばかりが注目されるが、当時の監督であった金田正泰(第17代。自身にとっては第11代以来の第2次政権)がシーズン中に1度、そしてファン感謝デーの後に1度、それぞれ別の選手から殴られた、という物騒な逸話も残されている。
起用法への不満くらいなら多少の差はあれど、どこの球団でも有り得る話である。しかし問題は、日頃からトゲのある言動に不満を募らせる選手たちからの人望が無かったという、人間性にあったのだ。そこを采配の確かさ、などで黙らせられれば余程の手腕なのだろうが、最終戦を遡ること4試合、後楽園での巨人との直接対決で7-0でリードしていながら10-10のドローなどという煮え切らない、ツメの甘い試合で御茶を濁したのも優勝を獲り逃がした一因になっている以上、チームの求心力を保てなかったようである。

やがて、輝きを失った江夏・田淵たちをあっさり放出。またチームの作り直しに歳月を費やし始めた。
1年間の栄光・初の日本一

かつてのスター選手であるムッシュが2度目の監督に就任した1985年。伝説級の大男とのシーズン最初の3連戦をバックスクリーン3連発に代表される奇跡的勝ちっぷりで乗り切ると、凶暴な竜素早い燕気荒な鯉悠長な鯨を相手にしても勝ち星を重ね続けた。

終わってみれば219本のチーム本塁打を挙げる猛打で、21年ぶりの優勝。日本シリーズでもその勢いだけで、初の日本一に輝いた。

ただ、かつて暴徒化したファンは勝ってもなぜか暴徒化した。しかも、 2ab5 やってはいけない事をやってのけたファンによって、野球の神様による御仕置きがマムシの毒のようにチームを蝕みだした…。
苦悶の暗黒時代長文が読めないバカな人のために、チャクウィキバカたちが「 ⇒阪神暗黒時代」の項目を執筆しています。
第1次暗黒期

1987年、あの日本一からわずか2年後とは思えないほど勝てなくなった。2度の8連敗に代表される、借金42(83敗6分)という散々たる負けっぷり。当時、ただ1人でチームの沈没を救おうとしておられたオクラホマから降臨された現人神の打率すら下回るのでは…と冷やかされた、チーム勝率.331は現在まで更新されることのない球団ワースト記録である。大暗黒時代の幕開けだった。この頃から球団は「負け犬ヘボ阪神」「ダメ虎」と揶揄されるようになった。

何しろ1987年から1991年までの5シーズン、130試合制で50勝すら出来ないシーズンが2度。60勝が1度も無いのである。

1988年にも純8連敗と、引き分けを含む8連敗を1度ずつ記録。もはや3・4連敗なんて当たり前になっていた。

開幕5連敗でスタートした1991年にも8連敗を記録したが、これだけじゃなかった。6月に入った途端、「ひとあし早い梅雨入り」と言われた1勝を挟んだだけの10連敗・7連敗を記録。シーズン終盤にも駆け込みの7連敗を記録した。

当然のように5シーズンで最下位が4度。1989年だけが、横浜大洋銀行との最下位争いを制して5位になった程度。見事に、ダメっぷりを見せ付けてくれました。
たった1年の輝きと、忍び寄る魔の時

あの藤村のオッちゃんが亡くなった1992年、ズタボロの投手陣整備に重点を置いた選手獲得が実を結んだのか、それともオッちゃんが影ながら力を与えてくれたのか、ダメなチームが勝ち続けた。1986年以来の60勝突破、優勝争いにまで絡む躍進である。9月には、春頃には誰もが夢にも思っていなかった優勝さえ見えてきた。

でもやっぱり、そこは阪神。お家芸ともいえる結末が待っていた。

その9月に入って引き分けを挟む7連勝で甲子園を離れた後の長期遠征、ビジター13連戦で4連敗・2連敗・4連敗の大炎上(内、1点差負けが7つ)。ツバメ球団に復調の機会を与えてしまう。

優勝を賭けた10月10日の甲子園決戦でも、勝負弱さは変わらず。ツバメに2-5で負けて、目の前で胴上げされた。

だがたった1年程度で投手王国などという思い上がりも甚だしい当シーズンの善戦をマグレとは思わず、ホントに優勝できると思ってオフには戦力増強を企てた。それが当時のエース・野田浩司を手放してまで獲得した、最凶のスイッチ・ヒッターとの呼び声高い松永浩美の加入である。

翌1993年の開幕戦。5-12の大敗を喫するチームの中で、5打数5安打と1人で気を吐いて移籍デビューを飾った松永であった。後半戦からは背番号を02に変更する奇抜さ、85年の真弓ですら出来なかった「3戦連続の先頭打者本塁打」を記録するなど、話題に事欠かない存在価値を示している。ただ、最強の所以であった「長打力と並存する機動力」がサッパリなほど脚の状態が悪く、80試合程度の出場に止まった為に必ずしも獲得成功とは言えなかった。それでも「1年目なんだし、体調さえ整えば2年目からは挽回できる」と周囲に期待を持たせるような輝きを、断片的に見せていた。
なお、チーム全体を見渡すと、松永の獲得だけで得点力向上を目論んだ歪みが、外野へコンバートさせられた助っ人のパチョレックに最も影響した。前年、躍進の原動力となった中軸打者なのに打点が88→36まで激減したのである。その激減分を松永を始めとする他の選手でカバーできなかった訳だから、かえって得点力を低下させてしまったチームは前年とは全く逆の勝敗(67勝63敗→63勝67敗)という、4位でシーズンを終えたのだった。

ところが、チームの内外にはオフになって激震が走った。「FA権を取得した松永による、何のためらいも無い田舎もんへの移籍」である。結局「あれほどの出血をしといて、野田も松永も、何も手元に残っていない」という、誰もがキツネに摘まれた心境であった。その背番号02は現在でも黒歴史として、松永在籍の事実ともども厳重に封印されている。

なお1994年までは前々年の余力だろうか、3シーズン連続で60勝突破。前年同様4位に踏みとどまる事が出来た。しかし、このオフには数少ない得点源であり、働きの見込める陽気な外人のトーマス・オマリーを放出。浮揚し始めたチーム成績に並び立たない、球団による無計画とも言える戦力整備の姿勢が、みんなの知らない内に再び厄災を招き入れていた…。
第2次暗黒期

阪神・淡路大震災の衝撃を受けた1995年には? 14c9 ??び暗黒時代に突入、この年だけで5度の5連敗を成し遂げている。だが、それ以上に当シーズンを象徴していたのが、夏場に喫した1勝ずつを挟んだだけの5連敗・9連敗・5連敗という大盤振る舞い。しかもこれは甲子園14連戦で1つしか勝っていないというダメっぷりである。ちなみに放出したオマリーなんてツバメで大活躍と、踏んだり蹴ったりである。更には同じ兵庫県を本拠にするパ・リーグ球団のオリックス・ブルーウェーブが震災のダメージを特に受けた神戸市民を勇気づけるかのようにこの年リーグ優勝を果たしたため、タイガースに対する関西民の目は無残な成績と対照的チームの存在からいよいよ失望へ変わりはじめて行った。

しかもこの年、サンテレビが「チームが60勝するのはいつか?」という豪華商品をかけた大掛かりな懸賞キャンペーンをしていたが、この1995年には60勝どころか46勝しかできなかったため、とんでもない企画倒れに終わってしまった。そしてこの年途中から1996年シーズン終盤残り数試合というところまでの監督が誰も思い出せない。いや思いださないほうが幸せなので忘れたふりをしているのが賢明であろう。

1997年から、ムッシュには3度目の監督に就任してもらい、立て直しを図ろうとも無理なものは無理。この年を物語っているのが、「新害人マイク・グリーンウェルの、『神のお告げを受けた』なんてテキトーな理由による、たった7試合出場での自主退団」である。

大金を積んでまで主砲に据えようとした構想を、木っ端微塵に吹き飛ばされた球団。ここから、動揺に駆り立てられた迷走が始まった。

そこで切羽詰って、味噌カツ球団が使い古したダネル・コールズなんか拾ってきた、という慌てぶり。案の定、この年で即解雇。ココで懲りときゃいいのに、オフには使い古しの第2弾アロンゾ・パウエルまで拾ってくる始末。動けない・ヒザが悪い、との懸念で放出された外人を獲得してまで戦力整備に努めた。しかし数年後、この使い回しの仕返しをなぜか中日にされる。(イバン・クルーズ、マーク・バルデス)
まだ続く第2次暗黒期

この1997年オフには、阪神の運命を大きく変える事となった、久慈照嘉・関川浩一⇔ 11d7 大豊泰昭・矢野輝弘という大きめなトレードも断行している。これには、

関川浩一の捕手としての能力が、あまりにお粗末であったため、正捕手を矢野にすることで捕手問題に終止符を打ちたかったから

矢野輝弘の顔がお馬さん(中日の2番手捕手をやる中で狸から、お馬さんに進化したものと考えられ…)であったために中日の2番手から阪神の正捕手に進化できるという学説(お馬さん理論)に基づき、吉田監督が判断したから

などの理由を挙げられている。もっとも、このトレードに限っては大成功、阪神黄金時代への礎になった。

しかしそれは2000年代になってからの話。「あの人物」の監督就任が功を奏した、偶然の産物に過ぎない。この頃すでに正捕手を外され、外野手としての活路を模索していた関川から、同じく外野との2足のワラジであっても中途半端な境遇の矢野に替えて何が変わるのか?という、「松永トレード」で懲りてないような球団のやり方には当時のキチガイ集団の多くが激怒した。

1998年には案の定、いやキチガイ集団の想像さえも遥かに上回る怒涛の12連敗という球団記録を打ち立てた。

味噌カツ球団から廃棄された、脂身のような3人は どうだったのか?というと、パウエルなんて4番起用スタートから尻すぼみの代打要員への転落、やはりシーズン終了を待たずに解雇。矢野に至っても「あの人物」との出会いが無いのだから、覚醒の兆しすら無かった。せいぜい大豊の21本塁打(打率.231・三振94)で満足するくらいしか、救いが無かったのである。他にも、久慈を放出したのも密かに痛手。若手の今岡誠に替わった遊撃では、守備範囲が著しく狭小化した。
終わりの見えない第2次暗黒期

どうにもならない状態に、とうとう1999年になって嫌々だったけど、「あの人物」に監督を要請するほど追い込まれた。そう、ツンデレのジジイである。

この想像を絶する弱さにはジジイでも混乱したのか「一試合に2人のピッチャーを2度ずつ使う」などの奇行に走るほどであった。一時は応急処置になっただろうが、長年染み付いた体質なんて1年だけで改まる訳が無い。さらに嫁のババアが変なチャンバラババアに因縁を付けられて世にも低レベルな醜い大喧嘩をマスゴミを巻き込んで繰り広げ、みるみるジジイのやる気を奪っていった。

我慢して戦い続けたたものの、7月に喫した2度の4連敗が微 1224 震となっただけでもうチームは動揺。直後にキングボンビーに取り憑かれた9連敗である。序盤に積み立てた、僅かばかりの貯金を散財し始めた。しかもそれだけでは終わらない。9月にも直下型12連敗が直撃。阪神だけが未だに大震災に見舞われていたのであった。対象的に、あのトレードで放出された関川なんて、味噌カツ球団リーグ優勝の立役者とまで持ち上げられており、「あのトレードは何だったんだ!!」と、トラキチの中で再び怒りのバクハツを誘発させている。

結局、2001年まで4年連続最下位を記録するなど、ジジイでさえも手に負えぬ瀕死状態にまで陥っていた。トラキチ達もそんなチームを半ば見放していたため、甲子園の空席だらけのスタンドは夏でも寒々しい有様であった。

でもジジイは、矢野輝弘をコツコツと正捕手に育て、F1マシンややっと芽が出てきた大砲候補、まだ荒削りだが才能の片鱗を見せた左腕などチームに希望を残して去っていった。ただこの時点ではまさかの黄金期が訪れるほど、とは誰も思うわけがなかった…。
暗黒阪神 トホホ伝説

吉田第2期監督時代の終わりである1987年から野村監督時代が終焉する2001年までの15年間で、最下位10回に対しAクラス入りは僅か1回。これでもチーム順位とは別に球団のヒーローにでも注目できるのだったら、まだ救いもあった。昨今におけるあの球団のように。

しかしこの15年に及ぶ阪神暗黒時代は、藤村のオッちゃんは おろか江夏や田淵がいた頃のような楽しみすら全く無い、空虚な時代であった。下に記したのは大暗黒時代(1・2期両方を含めて)における諸種エピソード、そのほんの一部である。

3連戦のうち1試合は勝つと思って3試合のチケットを取ったら、3試合とも完封負けだった。

9回表を終えて5-0でリードしていながら、9回裏だけで6点を奪われてサヨナラ負けを喫した。

バースの再来・バース2世と評され、全く活躍せずすぐ帰国してしまう外国人選手が毎年きた。

ファン感謝デーで、2軍選手がたけし軍団と試合をやって負けた。

ファンは完全に悟り、負けることを前提として試合を楽しみに来ていた。そして勝った時は猿の如く馬鹿騒ぎし、球場周辺は無法地帯と化した。

負け試合を見に行ったことを「芝生鑑賞」「高校野球の下見」「西宮小・中連体の下見」と呼んでいた。

「二度と来るか」と暴言を吐いて球場を去った観客が、翌日も変わらず球場へ試合観戦に来ていた。

試合途中からテレビ中継が始まったとき、既に 2758 阪神の先発投手は降板していた。

シーズン中、3日に1回はファンを辞めようと思っていた。

1回の攻撃、1番和田豊の応援歌を歌い始めた時が、試合で一番楽しい時だった。

甲子園に来たときの一番の楽しみは、トラッキーのパフォーマンスだった。

周囲がまだ半袖の時から始まるストーブリーグ。それもまだ着始めた頃。

高校野球常勝で知られるPL学園より弱いと、毎年のように騒がれていた。

そのおかげで、「最下位はサッカーリーグのようにPL学園とリーグ入れ替え試合を行え」という冗談が冗談に聞こえなかった。

G党アナウンサーは1985年、「阪神の好調はハレー彗星(の到来)と同じくらいの珍事」と言ったが、それが真実に思えた。

毎日のように負けていたので、デイリースポーツは大本営発表もどきの報道をした。2連勝でも「破竹」扱いされた。

前日に3回持たずに降板させられた先発投手が、翌日には6回から敗戦処理として登板していた。

ヒーローインタビューで新庄剛志が「明日も勝つ!!」と発言すると、次の試合から怒涛の12連敗。

絵馬や短冊に「阪神優勝」を書き願う人がいた。「優勝はしなくてもいいから5位になってくれ」というものもあった。

父親に阪神が弱い理由を尋ねたら、「阪神だから」と一蹴された。

読売巨人戦で3タテすると、半年間はその話だけでファンが盛り上がることができた。

東京スポーツに「評論家によるセリーグ最下位予想で阪神1位」と書かれた。

1992年の2位を「準優勝」、最下位脱出を「セリーグの5本の指に入った」、最下位を「6位入賞」ないし「定位置」と呼んだ。

序盤で一時的に首位となった時、それに最下位を抜ける度ごとにファンが道頓堀へ飛び込んだ。

やけくそで1998年4月1日に監督が「阪神優勝!」というエイプリルフール記者会見をしたが、その年も最下位だった。

ファンが球団に抗議するため、応援を一時やめてしまった。スタンドはほぼ無人状態となった。

黄金時代の到来

2002年監督が故メイショウニシモトすらなれなかった日本一を仙台の球団で一番目になった人に替わり、落ち目のお荷物の乳酸菌に逃げた正捕手にタックルで山田を追い出した正捕手が壊されるも、最下位は脱出できた。

2003年、前任のツンデレのジジイによってチームに加えられた選手(赤星憲広藤本敦士)たちと、覚醒のきっかけを与えられた既存の選手(今岡誠・矢野輝弘・井川慶)たちがようやく本領を発揮する。さらに赤いとこから拉致してきた鉄人僕らのジェフ、ジェロッド・リガンら新たに加わった戦力と、歯車がガッチリ噛み合う。シーズンの序盤からラストスパートのような勢いで飛び出したチームは、あれよあれよと言う間に18年ぶりの優勝を決めたのであった。長い間ファンが待ち焦がれたあの優勝は前任者によってもたらされたものであり、決して星野の手腕だけで導かれたものではない。ええ、星野による長嶋巨人的な金満補強をファンは無視します[1]

2004年からはどんでんに率いられ、再び脅威となったに挑むことになった。どんでんを始め、藤川大和、今岡など面白フェイスが多い球団となった。

2003年に続き2005年にもJFKの大活躍や今岡の超ビッグバン大確変などによりリーグ優勝を果たした。この頃は1990年代まで栄華を誇っていた大男集団がガタガタ状態(2001年からの5年間で監督が3回交代し、球団初の4年連続V逸を記録する)に陥り、「虎と大男が入れ替わった」・「虎の時代の到来」と呼ばれもした。しかし、2003年の日本シリーズでは「野球をするタコ」こと王貞治率いるアホークスに惜敗。特に第6戦はサニックスの宗政社長(当時のホークスのヘルメット広告主)が始球式を行い、そこで阪神が勝っていれば「御前試合で阪神優勝」という瀬戸際だったため、サニックス社員は本気でgkbrだった。2005年のそれについては後述する

115a 2007年は大男や竜との混戦の中で、両者から引き離されたところを連勝で追いつく快進撃を見せたが、その後同じペースで今度は連敗を重ねて3位で終わり、プレーオフでもそれと変わらない試合を見せ、あっけなく終戦に至った。

その反省か、2008年は序盤から一気に飛ばした2003年と同様に、一時は他球団ファンを沈黙させたかに見えたが…これについても詳しくは後述しよう
2005年 秋の悪夢 岡田阪神の惨敗に、ファンから吹き上がる「怨嗟の気」。球場の外からもハッキリと見てとれる

2005年、リーグ優勝を果たした阪神。ファンのみなさんが「お口の恋人しばいたれ」を合言葉として千葉の黒船との日本シリーズに臨むべく、ペナントレース終盤戦での競り合いを勝ち抜いたチーム状態そのままに、意気揚々と千葉へ乗り込んだ、はずだった…。

それが蓋を開けてみたら、初戦から投手陣が滅多打ちにされ、2戦連続の10失点という公開処刑に遭う大惨事(うち1試合は霧によって処刑を途中終了してもらった)。

「まだ2試合くらい大丈夫。さぁ甲子園へ戻って仕切り直しだ!」という展開を選手もファンも、誰もが期待した。ところが、またしても10失点。これで3戦連続である。

その3戦とも、あまりに一方的な試合内容の為に、出番を失った相手チームの幕張の防波堤・コバマサでさえも吃驚な、炎上ショーであった。そうなると、もうお手上げ。「逆立ちしたって勝てっこない」という暗黒時代さながらの空気に包まれてしまったのである。

結局、4試合で たった4点しか奪えぬ一方で33失点を喫してボロ負け。なんJの歴史に残る大敗となった。

「これのどこが日本シリーズなんだ(怒)!!」とのお叱りを浴びるほど、何の見所も無い、お恥ずかしい試合の数々であった。

終始そんな展開だったので特に大阪辺りでは、この話題を出すと、もれなく 159a バキューン!![2]

なお、このシリーズがトラウマになったのか、次の日本シリーズ出場まで9年もかかってしまった。(まぁ、力がないから出れバキューン!!)

詳細は2005年の日本シリーズを参照。



2008年 秋の悪夢再び 日刊スポーツグラフ V逸記念号「何がVやねん!タイガース」

2008年、ダメ虎集団はペナントレース序盤から飛ばしに飛ばし、最盛期には宿敵の大男集団に13ゲームもの差をつけ、今年こそ間違いなく優勝やで!! と教徒を狂喜させた。

しかし、夏が過ぎ赤とんぼが飛ぶ頃に雛見沢症候群を発症し、運命の10月8日にトキオドームにて雛見沢症候群L5を発症し、監督以下全員が喉を掻き毟った。大阪では虎キチ数名が同じく道頓堀に飛びこんだ。カーネルおじさんは安堵したが……。

そして10月10日、なんとか生き残ったバカモノと恥さらしどんでん及び選手達は横浜までノコノコ出かけといて、粛清中の鯨に殺された為、13ゲーム差をひっくり返されて大男集団の優勝に貢献するという、プロ野球史上に末代まで残るであろう「どんでん返し」を行った。なお監督のどんでん(返し)はファンにせがまれ切腹を行ったらしい。だけどセ・リーグ2位の監督が引責辞任したというのに、Bクラスの監督が誰一人辞めないという事態は、ちょっとよく解からない。

そしてクライマックスシリーズ1stステージにおいて、俺竜軍団に案の定、止めを刺された。その後どんでんは選手達に囲まれ、清々しく宙を舞った後に、地面に叩き付けられた。
第3次低迷期
真弓政権

どんでんの切腹辞任に伴い、OBの真弓明信を31代監督に迎えた。優勝争いに絡めると評される一方で、主力選手の高齢化で機能低下も心配されるのに、肝心の控え若手・中堅は台頭不足という 2459 長年の懸案事項を含んでいるチーム。今思えば、展開によっては転落する危険も含んでいたが、当時は誰も全く危惧しなかったチームを、2年契約の真弓新監督に託すこととなった。

その1年目、2009年についてはこちらで。

阪神タイガース/2009年も参照。
2010年 優勝に手が届くことはありませんでした

4月の東京ドームでの一戦で5本塁打を浴びせて逆転勝ちを飾るなど、前年の貧打は何だったんだと小一時間問い詰めたくなるほどの打棒爆発に酔いしれたお祭り集団。岩田どころか能見すら居なくなる先発だけでなく、前年同様に継投を誤まる首脳陣の悪癖に振り回される投手陣の惨状に見舞われようとも打ちまくった打撃陣。そして8月の3連発には、ついに今年こそ優勝や!!との思い込みの強い阪神オタクの望みどおり、前年の惨状に反してAクラス確実どころか首位にだって上り詰めた。中でも、自力で獲得した新外人のマット・マートンが毎年のようにバースの再来などと呼ばれるダメ外人しか連れてこない阪神フロントにしては珍しく大活躍、あの内野安打の達人ですら達成できなかったシーズン211本安打という新記録を公式戦数が達人の日本在籍時代より14多いとはいえ達成するなど、阪神にとっては久々の優良助っ人獲得となった。

しかし、打棒爆発のリバウンドだけでなく、恒例となった秋口からの失速も重なると、ダメ監督の真骨頂“黒魔術”采配が威力を発揮。9月には、マシンガン代走・代打の使い過ぎで『投手に外野守らせる』とか、一度に5ポジションで選手交替させたため『金本の使いどころを忘れる』といった、素人を思わせるダメ采配を次々と披露。おかげで竜軍団に1位を譲ってしまう。それでも残試合の多さに救われて2位なのに他力本願でM8を点灯させたものの、9月30日、この年も転売問題を噴出させた球団の4番・自球団のファンが期待しているときは打てず、相手球団のファンが最も望んでいない時に限って本塁打を放つ男火の玉ストレートが惨敗。しかもこの試合は、よりによって黄金時代の礎を築いた功労者の一人である矢野の引退試合でもあった。そんなことから阪神ファンは2008年10月8日同様、絶望の底に叩き落とされた。このショックの影響はファンばかりか選手へも影響したようで、翌日10月1日の貧乏な鯉相手の戦にもボロ負け、あっさり白旗を上げた。結局、10月2日にはヤクルトに負けときながらニコニコ胴上げ、という味噌カツ軍団の屈辱を許した。

それでも、あの2年前の悪夢を思い出さないようにしながらクライマックスシリーズで挽回を期した。幸いにも大男軍団の自滅によるタナボタで2位を確定し、数年に及んだ改修工事を終える本拠地甲子園での1stステージ開催で再スタートできる好条件を得た。

にもかかわらず、いざ試合が始まってみると阪神の投手陣はメッタ刺し。1戦目はあっさり敗戦、2戦目ではまたまた給仕がサヨナラ男に打たれて屈辱的な逆転負けを喫し、結局は2年前の2008年同様に2位なのに2ndステージへの進出を逃す結末と終わった。しかも、大活躍だった赤鬼さんや上述したイチローを越えた男が涙を流しているというのに、緊張感無くニヤニヤ笑う眼鏡の監督は恥も外聞もなく、コーチング・スタッフすら変えぬ続投表明、球団も契約をもう2年延長したという。それでいて2軍の優勝監督だけクビである。わけがわからないよ。

ちなみに、ほぼレギュラーのスタメンで何も賞を獲れなかったのは新井貴浩だけである。
2011年 統一球導入、そして・・・

『あれだけ猛打を奮った打線に、先発投手陣が戻ってくれば優勝や!!』と安易に信じたお祭り集団。しかしフタを開けてみれば公式球改正の煽りで超絶貧打、ダイナマイト打線が『タコ焼き打線』[3]に成り下がった。4月を3割3分強の25番と言う選手を除けば、2割がやっとという打者ばかり。中でも5番ブラ砲・6番ジョージ・7番鉄人の2割未満トリオが数少ない好機をブッ潰し続けた。

得点を挙げられぬ中、キャンプも満足に消化できず明らかな調整不足というジョージと鉄人が、リード・守備面でも疫病神。そこへ5月からはダメ監督の黒魔術も本領を発揮し始め、横浜に3タテを食らうほどの負のスパイラルに陥る始末。福岡や札幌までタコ焼き売りに行った結果、6月6日には借金を最大11(42試合で26敗1分)にまで膨 fdd らませた。

おまけになんちゃってアイドル軍団顔面センターさんからも打ち切り映画の宣伝イベントで「阪神タイガースさん」への改革案を出されるなど散々だった。

しかし、その屈辱的な言動に躍起になってか、阪神の最終兵器の打撃復調と共に無双状態だった金持ち投手に黒星をつけるなど中途半端にチーム状況が上向いた。……が、前年に西村をぶっ壊して以降再三「二の舞投手を作るな」との周囲の忠告を無視し榎田酷使を実行、それに拍車をかける様にロリコバ・久保田ンゴが次々離脱、結局榎田もボロ雑巾と成ってしまった。こうなっては渡辺だけが頼りの綱で、球児の持ち腐れとなってしまう。

それでも燕の失速のおかげで一応首位争いに加わった8月では8月恒例の死のロードでは前年同様ひとあし早過ぎる猛スパートを見せ「こんなんやってたら9月以降もたんやろ…」「真弓ちっとは考えろや!」「山脇・久保、何してんねん(怒)」と言うファンが発する罵声入りのいやーな予感は的中し、9月には前年に続く珍事“代走・西村”を発動させた黒魔術采配に代表される迷走っぷりで検閲により削除。特に9月の神宮にて竜しか眼中にない燕達との対戦では6戦全敗、そして5試合が逆転負けというハプニング、しかも燕の不良品にすら抑えられる始末。

そのせいか、大阪ドームでの阪神主催試合にて観客がたったの12000人ぽっちと言う、およそ昨今の阪神主催試合とは思えぬ動員数を、本拠地甲子園でなくてもファンのお膝元たる大阪市内の球場で記録するなど、球団の置かれる環境が暗黒時代のそれ程度にまで落ち込んだ。ちなみに大男軍も似たような成績のためか、東京ドームでの最低観客動員を記録したが、それでも32000人である。いかに摂津の人間が無情か、この面からもお分かりいただけるであろう。

それでも珍ヲタの皆さんが完全に応援をやめてしまわない理由は、ひとつ上を走る大男の集まりが、なかなかCS進出を決められない為であった。そこへ、球団への苦情電話の多さに耐えかねた無能な阪神フロントからチームのCS進出失敗ならば、真弓監督を解? 1364 ?という当初の方針を撤回する発表である。さあクビにされちゃたまらんとダメ監督がいい意味で本領を発揮し始めた。

←やれるんなら始めからやれや!!!と言うのがファンの共通意見であったが……

シーズンも大詰めのVS虎の3連戦。同じ時、東京ではのカードが組まれていた。CS出場を目指す我が阪神には是が非でもヤクルトに勝ち、中日に3位巨人を倒してもらわねばならなかったのである。そこで利害関係の一致した竜と虎の通称「竜虎同盟」が組まれた。…筈であったが、事件が起こる。約束通りツバメを3タテしたタイガースのお膳立てにより、乳酸菌軍団から首位を譲ってもらった尾張の竜軍が、知らぬ間にマジック2を点灯させながら参勤交代で赴いた現代の江戸城にて、あろうことか東京ドーム・バッティングセンターを開業。大男軍との3連戦で3戦合計23失点を喫して3連敗したのである。これにより自力でCS進出を確定した読売ジャイアンツに対し、同日の試合をする前から真弓政権2回目のBクラスも確定したタイガースであった。

中日2連敗の報にはお祭り集団も達観し、ダメ監督が解任されるならと3戦目では生まれて初めて巨人を応援した等と言うファンまで生み出している。

ちなみに中日はその後、横浜にて来シーズンからはファンの課金状況によって成績が左右する球団と引き分けたのち、燕軍団の自滅により球団史上初のセリーグ連覇を決めた。なお家騒動を抱えた狡猾狸からしてみれば中日が優勝さえできれば後のことなどどうでもよかったのである。

結局、日本人年俸総額35億と言うをも凌ぐ金満っぷりを見せ付け、最多安打・最高出塁率・打点王・セーブ王を擁し、かつリーグ最高チーム打率を残したにもかかわらず、3位にすら届かぬBクラスの4位に加え、借金を抱えたままシーズン終了。

それでも「ダメ監督解任なら来季に期待できる」「打つだけではあかんねん、もっと投手陣に重きをおいて立て直さな」とファンが妄想する中、次期監督には真弓政権下でも力量の怪しい打撃コーチを内部昇格。第3次暗黒期の到来を匂わせた。
押し寄せる世代交代の波
和田政権

ダメ戻りしつつある現状に胡坐をかく、これまたダメな球団運営陣は、コーチから昇格させた和田豊を32代監督に指名した。現役時から幹部候補的あつかいで、個人成績なら1流っぽかった。ただ、あの暗黒90年代の選手である。それにチームは、大ベテラン・鉄人の劣化問題に見られるように、前任・前々任監督の見過ごしてきた“主力の世代交替”は遅々として進んでいない。また、中継ぎの再建など、多くの難題を抱えている。果たして、? 1370 ?んな戦果を見せるのか...。

詳細は2012年の阪神タイガースを参照。



2013年 二年目のジンクス?

次世代のエース藤浪晋太郎を引き当て、金本城島の老害二人に引導を渡したスパイス和田。反抗的だったアゴも球団を去り、代わりに無能陣はアメリカ旅行帰りとツンデレとどんでんの批判の的であった人も獲得。至れり尽くせりなオフを満喫していた。この年は疫病神をGMに招聘、和田中村の暗黒タッグでシーズンを進めていくこととなった。そしてGMがスカウトの助言を無視し、ヤニキがいなくなり余計に辛くなった人の代わりのサードである助っ人外国人1打席で2度死ぬ通販コーヒー会社も獲得。かねてよりメンチの再来と騒がれていたが、結果は検閲により削除むしろ打点を上げてるだけメンチの方が活躍したような……

昨シーズン5位と、無能と蔑まれた真弓監督以下の成績を叩き出したスパイスなのだが、何故こんなにも余裕があるのかと言えば、それは闘将星野以降続く就任二年目の成績にあった。上述した2003、2005、2010ともに各監督の就任二年目の成績なのである。つまり和田は寝てようが遊んでようが、それこそ松田聖子似の熟女との不倫がバレようが、それが日曜昼の全国放送で晒されようが、挙げ句甲子園の阪神ファンから奈々コールをされようが、阪神の躍進は既に折り込み済みなのであった。スパイチュ騒動については各自ググられたし。

昨シーズンとはうってかわって大男の集まりが序盤から絶好調を維持した今年。一時失速したときこそ首位の座を奪取したものの所詮は一日天下、巨人相手に三タテかましても反対に三タテ食らうどころか横浜にも本拠地で三タテ食らうダメっぷりで結局上に追い付くには至らなかった。

では下に落ちるかと言ったらそうではなく、阪神以外の4球団が徒党を組んで巨人に白星を供給し始めたため、世にも低レベルな三位争いが勃発。ここ最近でようやく、? 14c8 ?貧球団が抜け出すも、お得意の借金からは、抜け出せない。結局上から10ゲーム離され、大男の独走で、2013年も幕が閉じた。最後に14年ぶりに7カード連続負け越し、10カード連続勝ち越しなしという悲惨で、何とも惨めな結末であった。そのため2位確実と言っていたファンもおかんむり。とりあえず、2位です。これが躍進?前年5位から2位なので、間違いなく躍進です。4度目の正直とか言って出場した、下克上シリーズは地元甲子園のスタンドの半分をまっかっかにされたあげく、あっけなく2連敗。これで下克上シリーズ1勝8敗ということになった。でも桧山が有終の美を飾ってくれたおかげでCS敗退そのものは終わりよければ全て良し精神で結構許された。オフには欠陥商品、阪神ファンが1番や!!な人、第3回WBCの日本代表の内野守備走塁コーチを招聘した。さぁ2014年スパイスの辞任なるかそれとも…
2014年 さぁ、勝負の3年目!!熱くなれ!!

矢野・鉄人・代打神と黄金時代を支えた選手の引退により野手陣の世代交代が進み始める。しかし、投手陣には能見・安藤・福原とベテラン勢が居座っておりこちらの世代交代も急務となった。

和田就任3年目、結果を残さなければクビ!和田阪神の運命やいかに…?

詳細は2014年の阪神タイガースを参照。



2015年 80周年メモリアル!

80周年メモリアルイヤーの幕開けだ。スローガンが熱くなれ!!からas oneに変わったのは謎だが、鳥谷の残留も決定した。Go for the Top as one !!

詳細は2015年の阪神タイガースを参照。


・・・という意気込みだった阪神タイガース。開幕3連勝も、他球団に潰され、一時的に最下位に落ちた。もう駄目かと思ったものの、終盤に入ってからまさかの猛虎の追撃の発動。最終盤まで首位争奪戦に参加したが、やはり笑いの神は見放さない。結局3位でクライマックスシリーズ進出が決定したが、因縁の巨人からのフルボッコ。進撃でもないほどの巨人を、なんとか王者燕は食い止めた。僅か4年で消えた和田政権。
金本政権

2016年?2018年

2016年,鉄人・ 131e 金本知憲が「超変革」を掲げて監督になり、更に守護神・球児が虎復帰。優勝間違いなし、と思っていたらまさかのBクラス圏内を彷徨うわ、本拠地甲子園で読売に1勝もできないわで検閲により削除。2017年はAクラスになるも、泥試合の末にCS敗退。結局タイガースはカルト宗教に乗っ取られる、金本監督がプロ野球史上初の申告セーフティスクイズを行なうなどして地獄と化してしまい、金本はクビ。
矢野政権

2019年

鉄人に代わって、創価学会会員が監督に就任。春季キャンプに新人を何人か召喚し、そのうち社会人出の二人をまさかの開幕スタメンに。どこの超変革だ!この年はからエースピッチャーを強奪。しかしいくらエースを引っこ抜いたところでチームが強くなるわけではなく、逆に打線の援護が検閲により削除だったため、開幕5戦の総得点はお察しください。さらに期待していた新人も、坪井智哉2世は1世よろしく開幕から飛ばしていくが、藤本敦士2世は2世の活躍には及ばない、開幕5戦0安打で、5戦目で早くも学会員に飽きられる。セ界一の大教祖の説教を聞きに行くべきであろう。そんな2019年は鳥谷が前半期時点で得点圏.000(26-0)という成績を叩き出しなんJ民は爆笑。そんな中でもバカファンは打席に立つたびに応援の声を浴びせていた。しかしその鳥谷が引退を表明すると、このあたりからフロントがごたつき始める。なんとシーズン途中に獲得した打線強化の切り札ソラーテが、起用への不満を起因に強制帰米。さらにエースメッセンジャーまでもが2軍でもがくうちに現役引退。マルテの加入でももとから元気のなかった打線は、とうとう大野雄大にノーヒットノーランを喫する始末。新体制でも光明が見えない状態に陥っていた。一応推し並べてリリーフ陣は悪くなかった。ストッパーのドリスが途中離脱するともう一度藤川をこの地に擁して健在を証明。


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