阪神タイガース
[Uncyclopedia|▼Menu]
日本一出世した阪神ファンどんでん

阪神タイガース(はんしんたいがーす)は、大阪市神戸市の間に位置する西宮市を本拠地とする、の一家である。阪神間の秩序を取り仕切る人間たちに飼い慣らされている。

摂津の虎軍団とも呼ばれるもアンチどころか、ファンからも「セ界最弱じゃないの?」なんて揶揄されていたこともある、ある意味「最強軍団」。京都が反目しているため関西近畿ではない。

球団創設以来、期待させるだけ期待させといて大一番でズッコケる伝統を見せてくれる集団である。プロ野球界最強の球団。その戦いぶりに幾度も翻弄され、何度となく落胆させられようとも、時折みせてくれる偶然の勝利の喜びを忘れられない為に、どれだけ悪態をついても結局は応援してくれるという半ば気違いと看做されている大多数の「猛虎魂主義者」(阪神タイガース教トラキチ)の存在に支えられている事で知られており、大阪湾岸の阪神地域では、すら恐れる動物集団でもある。

なお、お馴染みの「猛虎打線」の意味だが、「もうここら辺でいいかげん打ってくれ打線」の略称であるのは言うまでもないのだ。
目次

1 概要

1.1 チームの特長


2 歴史

2.1 1リーグ制から2リーグ制の発足、第1次低迷期まで

2.2 プチ黄金期

2.3 第2次低迷期

2.4 1年間の栄光・初の日本一

2.5 苦悶の暗黒時代

2.5.1 第1次暗黒期

2.5.2 たった1年の輝きと、忍び寄る魔の時

2.5.3 第2次暗黒期

2.5.4 まだ続く第2次暗黒期

2.5.5 終わりの見えない第2次暗黒期

2.5.6 暗黒阪神 トホホ伝説


2.6 黄金時代の到来

2.6.1 2005年 秋の悪夢

2.6.2 2008年 秋の悪夢再び


2.7 第3次低迷期

2.7.1 2010年 優勝に手が届くことはありませんでした
266d
2.7.2 2011年 統一球導入、そして・・・


2.8 押し寄せる世代交代の波

2.8.1 2013年 二年目のジンクス?

2.8.2 2014年 さぁ、勝負の3年目!!熱くなれ!!

2.8.3 2015年 80周年メモリアル!

2.8.4 2016年?2018年

2.8.5 2019年



3 拉致事業

4 摂津におけるタイガース信仰

5 球団名についての阪神地域民の認識

6 主な選手

7 主なファン

8 脚注

9 関連項目

概要ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「阪神タイガース」の項目を執筆しています。長文が読めないバカな人のために、チャクウィキバカたちが「 ⇒阪神タイガース」の項目を執筆しています。

大男(巨大人間)の集まりが球団として発足したのは良いけど、対戦相手が居なけりゃ話にならないので、野球仲間を募集した。

そこで話に乗ったのが、電車屋さんの阪神。「学生野球で盛り上がる甲子園に、もっとオモロイ野球を!!」って、ついつい勢いに任せて野球チームを立ち上げたのが、1935年の事である。その翌年にはそれら野球チームを統括する専門連盟が組織され、その一員として加わったんで、その春から開催された公式戦にも混ぜてもらったという。現在に続くプロ野球リーグ戦のひな型みたいなモンである。って事は一応、最古参のプロ野球団の1つに数えてもらえるようだ。

1990年代、読売新聞グループの資金力をバックにした大男集団の金に物を言わせて選手を集める手法(金満主義)を、「何でも欲しがる病」などと称してトラキチ(=猛虎魂主義者)は強烈に批判した。「ジャイアンツ愛」とは「金に目がくらんだ亡者の戯言」、とまで罵った。

しかし、阪神が屈指の金持ち球団になって、大男集団と同レベルないしそれをも凌ぐ選手集めをするに至った現在では、阪神の下請け球団と揶揄される貧乏な広島鯉軍を裏切った選手がこの球団の主力となっている。その後も勢いは衰えず、シアトル・マリナーズからも選手を買い取っている。広島で育てて阪神が使う。広島の選手は将来阪神で活躍することを夢見て辛苦に耐えて練習している。
チームの特長

基本的に打高投低のチームである。そのため後述する大量得点差で勝っているのに追い付かれ、あわよくば敗戦(V9アシスト etc)と言ったようなバカ試合(逆もまた然り)や、接戦で進んできた試合終盤に一発打たれて負ける(行くな!行くな!越えるな! etc)などと言う試合が多い。お笑い球団と揶揄される所以である。

2017年現在、12球団で二番目に日本一から遠ざかっている球団である(1985年が最後。一番は1984年の d0d 広島)。また現存するチームで「(日本一)÷(存在した年)」が一番少ない、つまり統計上「最も日本一になりにくいチーム」である。また、日本一の回数が2005年に誕生したばかりの東北の狗鷲と同じで、その前年にお亡くなりになられた大阪の猛牛を除けば、1回のみと83年も野球をしていたとは思えないのである。ぐうの音もでないほどの弱小で知られるあの横浜球団ですら日本一2回の実績があるのだから相当悲惨な数字と言える。余談だが横浜、楽天球団の日本シリーズ進出回数は過去3又は1回なので、日本シリーズ制覇率だけで言えば実は横浜は66.7%、楽天は100%であり、何回か進出しての1回と言う阪神とはかなりの差がある。数字だけ見ればぶっちゃけ横浜以下のバキューン!!

一応フォローしておくと、滅多に日本シリーズに出られないが、出た時の相手がぐうの音も出ないほど強いチームばかりでフルボッコされるのがいつも阪神というお約束がある。唯一の日本一の1985年以降出場できたのは2003,2005,2014だが、2003年(日本シリーズ得失点差4位タイ)、2005年(日本シリーズ得失点差ぶっちぎり1位)、2014年(前回に続き日本シリーズ2度目の本塁打0、阪神のみの称号)、と納得の結果になってる。

2003年ダイエーホークスは100打点を叩き出した打者が4人おり、信じられないことにシーズン800得点してる(そのせいで某球団が900失点してる)、とかいうキチガイ打線で、投手も「平成の大エース」と呼ばれた斉藤を筆頭にフィクションみたいなチームであった。

2005年ロッテマリーンズは、「なんだロッテか」と思ったら「得失点差21世紀最大」とかいうまたおかしいチームで、得失点差+261は12チーム史上最多とかいう歴史に残る打線と投手と鉄壁な布陣に「メジャーでリーグ優勝経験持つ監督で(歴史上唯一の日米優勝監督)短期決戦はまかせろ」とかいう近代最強と言っても過言ではない鬼畜チーム(33-4は必然!?)が、松坂大輔を擁する西武を軽く捻り準備運動してから、杉内和田新垣と強力投手陣擁するホークス(この年のラスボスと呼ばれた)との激戦を制した、とコンディションに 13f8 まで隙のないチームであった。ちなみにWBC2006日本代表が2005ロッテの選手だらけだったのは言うまでもなく、韓国代表の4番でベストナイン入りした56本塁打のあの人も2005年まではロッテだった(2006年以降巨人の4番打ってた人)。

2014年ホークスはCSのジンクスも無事終え、言うまでもなく孫マネーで読売も真っ青の大正義チームである。

2000年以降の得失点差1位2005マリーンズ、2位2003ホークス、3位2011ホークス、と実に上位2チームの年がいずれも阪神優勝の年である。ちなみに唯一の阪神日本一の1985年の相手である西武は言うまでもなく「常勝西武」「西武黄金期」であり、3連覇、6連覇と恐ろしいチームであったのも笑える。3連覇、6連覇でも恐ろしいが、実は間の年は「ブライアントの4打席連続HRがなかったら優勝してた」とNPB史上巨人でも無理だった「10連覇」をあわやなしとげようとした恐ろしいチームである。


グランド外でもアレなチームで、2010年ドラフトまで実に25年間も当たりくじを引いていなかった。外れ1位では引いてたけどね。大石の達者の時なんて結果的に確率50%だったのを見事に外してハゲ監督に真横で喜ばれたし。2011年はドラフト1位の一本釣りに成功。おハムに横槍入れられて意気消沈の巨人を尻目に久々の当たりくじにファンも関係者も安堵した。もっとも、育成がお粗末な阪神できちんと一軍戦で活躍するかどうかは選手次第であるが。

短期決戦に恐ろしく弱いため、クライマックスシリーズではソフトバンク以下の戦績を残している。(日本シリーズは「相手が鬼畜」という言い訳ができるレベルだが、CSで格下チームにフルボッコされたりが常)

また、チーム内やフロント内でイザコザが起こり、俗にいうお家騒動がオフの風物詩である。内紛の多さでは紀伊半島の向こう側と虎の争いを繰り広げており、敗戦したのに球団社長がガッツポーズをする、阪急電車が阪神電車に殴り込みをする、阪神電車に331形334号電車を復元して走らせるなど、派手なお家騒動が期待される。
歴史
1リーグ制から2リーグ制の発足、第1次低迷期まで

甲子園が大阪府に無い(兵庫県西宮市)のにも関わらず、大阪タイガースとして産声を上げたバカな球団。

1リーグ時代では、大男(巨大人間)の集まりに何度も優勝されていたけど、大男を差し置いて優勝を4度もカッさらったなど、? 161e ?力不均衡の中でも下々の戦績を残している。 巨人-阪神戦におけるファンの様子。球場の外まで盛り上がりを見せている。

しかし、七色の変化球を操ると言われる若林忠志だけはかなり強かった。

やがて1950年から、リーグは新興集団を加えた上で2つに分割された。その際には、東西の両人気動物集団を中心とする構想があった。セントラル・リーグの中核に大男(巨大人間)の集まりを定め、並立するパシフィック・リーグには阪神地域の虎集団を中心に何球団かを分出させ、プロ野球界を盛り上げる算段だった。しかし当時から人気のあった大男の集まりとの興業権に目の眩んだダメ虎は、大男の所属するリーグの方にホイホイついていった。これが現在に至るまで、ダメ虎集団がセントラル・リーグに属している理由である。と同時に、パシフィック・リーグが幕開けの当初から長期月見草時代に突入していった原因ともなっている。

しかし恥も外聞もなく大男に尻尾振ったダメ虎には、キツーイお仕置きが待っていた。新興集団による「選手引き抜き」である。おかげで、一時は「ダイナマイト打線」とまで呼ばれた煌びやかなオーダーで新リーグ戦に臨めたはずが、主力という主力をゴッソリと半数以上も引き抜かれたどころか、新入団予定の選手まで奪われたために、2リーグ発足時からしばらくは「骨抜き状態」で戦い続けざるを得なかった。対する大男なんて黄金時代と言われるほど人材が溢れており、優勝なんて言うまでもなく当然無理だった。

それでもトラキチには、無駄な希望が残ってた。引き抜き対象だったのに残留してくれた4番打者、藤村富美男の存在である。

チームがヨレヨレでも藤村のオッちゃんが、ガンガン打ってくれる。成績が伴う上に、芸人さんを思わせるような珍妙なプレーを見せてくれるサービス感覚にも長けていたという。それだけでファンは幸せになった。しかもそれが大男戦になると、彼らのリミッターは簡単に外れた。その様子を上の絵が、今日に伝えている。
プチ黄金期

1958年限りで藤村のオッちゃんが居なくなったが、その分村山実やムッシュなど新たな戦力が少しずつ育ってきた。なお、1961年になって「大阪タイガース」の命名のおかしさにようやく気付いた球団が阪神タイガースに? 125f ?名している。

翌1962年、オッちゃんがパッカンパッカン打ってた頃とは対象的に、投手力を中心とし、守備力で支える。あとは野となれ山となれ戦術がズバリはまった。掠め獲った1・2点を守り抜くと言うバカっぷりで、敗北しなければならないのにうっかり優勝しちゃったのである。2リーグ分裂後ようやく初優勝という事態に、浮かれるファンと関係者。オープンカーを連ねるパレードを催されると、キチガイファンは半狂乱化した。それが1964年にもまぐれで優勝しちゃっている。でもこの年は、忙しかったのでパレード無し。

じゃあ2度の優勝で日本シリーズは、どうしたの?って、そこはまぁ検閲により削除。特に2度目なんて、誰も見ていませんでした。

なにしろ2度目は、日本シリーズの前日までペナントレースをやってたんで、前売りに頼れず、満足にチケットを売れなかった。おかげで第1戦から2万人割れという寂しい集客である。

それでも熱戦が続けば、次第に盛り上がっていくのが例年の日本シリーズなのだが「この年ばかりは長引いては困る」理由があった。そういう年に限って10月10日の第7戦にまで、もつれ込む。

そう、のちに休日として定められた10月10日、国民どころか、日本シリーズに携わった選手や関係者でさえも待ち望んでいた東京オリンピックの開幕日と重なってしまったのである。

お客さんも正直なもので、第1戦を下回る1万5000人程度が甲子園に足を運んだだけ。オリンピック観たさに落ち着かないダメ虎は、対戦相手の南海のスカタンスタンカから、シリーズ3度目の完封を食らって白旗を揚げたのだ。

後述される「2005年の惨劇」ほどでは無いにせよ「貧打のオン・パレード」という、お恥ずかしい戦いであった。しかし、関心の薄さに救われ、世間には知られずに済みました。めでたし、めでたし。
第2次低迷期

1964年以降、またも低迷期に突入した。しかも今度は長い。それでもトラキチのみなさんがファンを辞めなかったのは、江夏豊と田淵幸一が居たからである。

チームの順位には直結しなくても、強烈な個性と成績で楽しませてもらえるだけでファンが満足した。どうやら藤村のオッちゃんの頃と変わらない時代の再来である。それでもオッちゃんが1人で張り切るよりも、役者が多い分だけチーム順位の下落は小さかったので、悲観しなかったようである。

その江夏や田淵 7fca が選手としての全盛期を迎える頃には、チームの戦績にも直結しだした。そして、勝ちを譲り続けていた大男集団の9連覇をようやく阻む機会が訪れた1973年。熱戦を勝ち抜いて、残る2試合で1つ勝てば優勝というところまでこぎつけた。ところが、その2試合とも敗戦して大男集団に、またしても優勝を譲ってしまったのである。

話はそこで終わらない。甲子園での優勝を信じていたファンは逆上し暴徒化。球場内に乱入するも怒りをチームに向けず、その最終戦の対戦相手だった大男集団の王貞治など主力選手に向け、彼らに襲いかかったと言うのだから最低な話である。もちろん、選手へのお仕置きも狙っていた。でも控え室に立て籠もる選手には、日付が変わろうとも手を出せずに断念した。

なお、この年は情けない戦いぶりばかりが注目されるが、当時の監督であった金田正泰(第17代。自身にとっては第11代以来の第2次政権)がシーズン中に1度、そしてファン感謝デーの後に1度、それぞれ別の選手から殴られた、という物騒な逸話も残されている。
起用法への不満くらいなら多少の差はあれど、どこの球団でも有り得る話である。しかし問題は、日頃からトゲのある言動に不満を募らせる選手たちからの人望が無かったという、人間性にあったのだ。そこを采配の確かさ、などで黙らせられれば余程の手腕なのだろうが、最終戦を遡ること4試合、後楽園での巨人との直接対決で7-0でリードしていながら10-10のドローなどという煮え切らない、ツメの甘い試合で御茶を濁したのも優勝を獲り逃がした一因になっている以上、チームの求心力を保てなかったようである。

やがて、輝きを失った江夏・田淵たちをあっさり放出。またチームの作り直しに歳月を費やし始めた。
1年間の栄光・初の日本一

かつてのスター選手であるムッシュが2度目の監督に就任した1985年。伝説級の大男とのシーズン最初の3連戦をバックスクリーン3連発に代表される奇跡的勝ちっぷりで乗り切ると、凶暴な竜素早い燕気荒な鯉悠長な鯨を相手にしても勝ち星を重ね続けた。

終わってみれば219本のチーム本塁打を挙げる猛打で、21年ぶりの優勝。日本シリーズでもその勢いだけで、初の日本一に輝いた。

ただ、かつて暴徒化したファンは勝ってもなぜか暴徒化した。しかも、やってはいけない事をやってのけたファンによって、野球の神様による御仕置きがマムシの毒のようにチームを蝕みだした…。
苦悶の暗黒時代長文が読めないバカな人のために、チャクウィキバカたちが「 ⇒阪神暗黒時代」の項目を執筆しています。
第1次暗黒期

1987年、あの日本一からわずか2年後とは思えないほど勝てなくなった。2度の8連敗に代表される、借金42(83敗6分)という散々たる負けっぷり。当時、ただ1人でチームの沈没を救おうとしておられたオクラホマから降臨された現人神の打率すら下回るのでは…と冷やかされた、チーム勝率.331は現在まで更新されることのない球団ワースト記録である。大暗黒時代の幕開けだった。この頃から球団は「負け犬ヘボ阪神」「ダメ虎」と揶揄されるようになった。

何しろ1987年から1991年までの5シーズン、130試合制で50勝すら出来ないシーズンが2度。60勝が1度も無いのである。

1988年にも純8連敗と、引き分けを含む8連敗を1度ずつ記録。もはや3・4連敗なんて当たり前になっていた。

開幕5連敗でスタートした1991年にも8連敗を記録したが、これだけじゃなかった。6月に入った途端、「ひとあし早い梅雨入り」と言われた1勝を挟んだだけの10連敗・7連敗を記録。シーズン終盤にも駆け込みの7連敗を記録した。

当然のように5シーズンで最下位が4度。1989年だけが、横浜大洋銀行との最下位争いを制して5位になった程度。見事に、ダメっぷりを見せ付けてくれました。
たった1年の輝きと、忍び寄る魔の時

あの藤村のオッちゃんが亡くなった1992年、ズタボロの投手陣整備に重点を置いた選手獲得が実を結んだのか、それともオッちゃんが影ながら力を与えてくれたのか、ダメなチームが勝ち続けた。1986年以来の60勝突破、優勝争いにまで絡む躍進である。9月には、春頃には誰もが夢にも思っていなかった優勝さえ見えてきた。

でもやっぱり、そこは阪神。お家芸ともいえる結末が待っていた。

その9月に入って引き分けを挟む7連勝で甲子園を離れた後の長期遠征、ビジター13連戦で4連敗・2連敗・4連敗の大炎上(内、1点差負けが7つ、つまり貧打)。ツバメ球団に復調の機会を与えてしまう。

優勝を賭けた10月10日の甲子園決戦でも、勝負弱さは変わらず。ツバメに2-5で負けて、目の前で胴上げされた。

だがたった1年程度で投手王国などという思い上がりも甚だしい当シーズンの善戦をマグレとは思わず、ホントに優勝できると思ってオフには戦力増強を企てた。それが当時のエース・野田浩司を手放してまで獲得した、最凶のスイッチ・ヒッターとの呼び声高い松永浩美の加入である。

翌1993年の開幕戦。5-12の大敗を喫するチームの中で、5打数5安打と1人で気を吐いて移籍デビューを飾った松永であった。後半戦からは背番号を02に変更する奇抜さ、85年の真弓ですら出来なかった「3戦連続の先頭打者本塁打」を記録するなど、話題に事欠かない存在価値を示している。ただ、最強の所以であった「長打力と並存する機動力」がサッパリなほど脚の状態が悪く、80試合程度の出場に止まった為に必ずしも獲得成功とは言えなかった。それでも「1年目なんだし、体調さえ整えば2年目からは挽回できる」と周囲に期待を持たせるような輝きを、断片的に見せていた。
なお、チーム全体を見渡すと、松永の獲得だけで得点力向上を目論んだ歪みが、外野へコンバートさせられた助っ人のパチョレックに最も影響した。前年、躍進の原動力となった中軸打者なのに打点が88→36まで激減したのである。その激減分を松永を始めとする他の選手でカバーできなかった訳だから、かえって得点力を低下させてしまったチームは前年とは全く逆の勝敗(67勝63敗→63勝67敗)という、4位でシーズンを終えたのだった。

ところが、チームの内外にはオフになって激震が走った。「FA権を取得した松永による、何のためらいも無い田舎もんへの移籍」である。結局「あれほどの出血をしといて、野田も松永も、何も手元に残っていない」という、誰もがキツネに摘まれた心境であった。その背番号02は現在でも黒歴史として、松永在籍の事実ともども厳重に封印されている。

なお1994年までは前々年の余力だろうか、3シーズン連続で60勝突破。前年同様4位に踏みとどまる事が出来た。しかし、このオフには数少ない得点源であり、働きの見込める陽気な外人のトーマス・オマリーを放出。浮揚し始めたチーム成績に並び立たない、球団による無計画とも言える戦力整備の姿勢が、みんなの知らない内に再び厄災を招き入れていた…。
第2次暗黒期

阪神・淡路大震災の衝撃を受けた1995年には再び暗黒時代に突入、この年だけで5度の5連敗を成し遂げている。だが、それ以上に当シーズンを象徴していたのが、夏場に喫した1勝ずつを挟んだだけの5連敗・9連敗・5連敗という大盤振る舞い。しかもこれは甲子園14連戦で1つしか勝っていないというダメっぷりである。ちなみに放出したオマリーなんてツバメで大活躍と、踏んだり蹴ったりである。更には同じ兵庫県を本拠にするパ・リーグ球団のオリックス・ブルーウェーブが震災のダメージを特に受けた神戸市民を勇気づけるかのようにこの年リーグ優勝を果たしたため、タイガースに対する関西民の目は無残な成績と対照的チームの存在からいよいよ失望へ変わりはじめて行った。

しかもこの年、サンテレビが「チームが60勝するのはいつか?」という豪華商品をかけた大掛かりな懸賞キャンペーンをしていたが、この1995年には60勝どころか46勝しかできなかったため、とんでもない企画倒れに終わってしまった。そしてこの年途中から1996年シーズン終盤残り数試合というところまでの監督が誰も思い出せない。いや思いださないほうが幸せなので忘れたふりをしているのが賢明であろう。

1997年から、ムッシュには3度目の監督に就任してもらい、立て直しを図ろうとも無理なものは無理。この年を物語っているのが、「新害人マイク・グリーンウェルの、『神のお告げを受けた』なんてテキトーな理由による、たった7試合出場での自主退団」である。

大金を積んでまで主砲に据えようとした構想を、木っ端微塵に吹き飛ばされた球団。ここから、動揺に駆り立てられた迷走が始まった。

そこで切羽詰って、味噌カツ球団が使い古したダネル・コールズなんか拾ってきた、という慌てぶり。案の定、この年で即解雇。ココで懲りときゃいいのに、オフには使い古しの第2弾アロンゾ・パウエルまで拾ってくる始末。動けない・ヒザが悪い、との懸念で放出された外人を獲得してまで戦力整備に努めた。しかし数年後、この使い回しの仕返しをなぜか中日にされる。(イバン・クルーズ、マーク・バルデス)
まだ続く第2次暗黒期

この1997年オフには、阪神の運命を大きく変える事となった、久慈照嘉・関川浩一⇔大豊泰昭・矢野輝弘という大きめなトレードも断行している。これには、

関川浩一の捕手としての能力が、あまりにお粗末であったため、正捕手を矢野にすることで捕手問題に終止符を打ちたかったから

矢野輝弘の顔がお馬さん(中日の2番手捕手をやる中で狸から、お馬さんに進化したものと考えられ…)であったために中日の2番手から阪神の正捕手に進化できるという学説(お馬さん理論)に基づき、吉田監督が判断したから

などの理由を挙げられている。もっとも、このトレードに限っては大成功、阪神黄金時代への礎になった。

しかしそれは2000年代になってからの話。「あの人物」の監督就任が功を奏した、偶然の産物に過ぎない。この頃すでに正捕手を外され、外野手としての活路を模索していた関川から、同じく外野との2足のワラジであっても中途半端な境遇の矢野に替えて何が変わるのか?という、「松永トレード」で懲りてないような球団のやり方には当時のキチガイ集団の多くが激怒した。

1998年には案の定、いやキチガイ集団の想像さえも遥かに上回る怒涛の12連敗という球団記録を打ち立てた。

味噌カツ球団から廃棄された、脂身のような3人は どうだったのか?というと、パウエルなんて4番起用スタートから尻すぼみの代打要員への転落、やはりシーズン終了を待たずに解雇。矢野に至っても「あの人物」との出会いが無いのだから、覚醒の兆しすら無かった。せいぜい大豊の21本塁打(打率.231・三振94)で満足するくらいしか、救いが無かったのである。他にも、久慈を放出したのも密かに痛手。若手の今岡誠に替わった遊撃では、守備範囲が著しく狭小化した。
終わりの見えない第2次暗黒期

どうにもならない状態に、とうとう1999年になって嫌々だったけど、「あの人物」に監督を要請するほど追い込まれた。そう、ツンデレのジジイである。

この想像を絶する弱さにはジジイでも混乱したのか「一試合に2人のピッチャーを2度ずつ使う」などの奇行に走るほどであった。一時は応急処置になっただろうが、長年染み付いた体質なんて1年だけで改まる訳が無い。さらに嫁のババアが変なチャンバラババアに因縁を付けられて世にも低レベルな醜い大喧嘩をマスゴミを巻き込んで繰り広げ、みるみるジジイのやる気を奪っていった。

我慢して戦い続けたたものの、7月に喫した2度の4連敗が微震となっただけでもうチームは動揺。直後にキングボンビーに取り憑かれた9連敗である。序盤に積み立てた、僅かばかりの貯金を散財し始めた。しかもそれだけでは終わらない。9月にも直下型12連敗が直撃。阪神だけが未だに大震災に見舞われていたのであった。対象的に、あのトレードで放出された関川なんて、味噌カツ球団リーグ優勝の立役者とまで持ち上げられており、「あのトレードは何だったんだ!!」と、トラキチの中で再び怒りのバクハツを誘発させている。

結局、2001年まで4年連続最下位を記録するなど、ジジイでさえも手に負えぬ瀕死状態にまで陥っていた。トラキチ達もそんなチームを半ば見放していたため、甲子園の空席だらけのスタンドは夏でも寒々しい有様であった。

でもジジイは、矢野輝弘をコツコツと正捕手に育て、F1マシンややっと芽が出てきた大砲候補、まだ荒削りだが才能の片鱗を見せた左腕などチームに希望を残して去っていった。ただこの時点ではまさかの黄金期が訪れるほど、とは誰も思うわけがなかった…。
暗黒阪神 トホホ伝説

吉田第2期監督時代の終わりである1987年から野村監督時代が終焉する2001年までの15年間で、最下位10回に対しAクラス入りは僅か1回。これでもチーム順位とは別に球団のヒーローにでも注目できるのだったら、まだ救いもあった。昨今におけるあの球団のように。

しかしこの15年に及ぶ阪神暗黒時代は、藤村のオッちゃんは おろか江夏や田淵がいた頃のような楽しみすら全く無い、空虚な時代であった。下に記したのは大暗黒時代(1・2期両方を含めて)における諸種エピソード、そのほんの一部である。

3連戦のうち1試合は勝つと思って3試合のチケットを取ったら、3試合とも完封負けだった。

9回表を終えて5-0でリードしていながら、9回裏だけで6点を奪われてサヨナラ負けを喫した。

バースの再来・バース2世と評され、全く活躍せずすぐ帰国してしまう外国人選手が毎年きた。

ファン感謝デーで、2軍選手がたけし軍団と試合をやって負けた。

ファンは完全に悟り、負けることを前提として試合を楽しみに来ていた。そして勝った時は猿の如く馬鹿騒ぎし、球場周辺は無法地帯と化した。

負け試合を見に行ったことを「芝生鑑賞」「高校野球の下見」「西宮小・中連体の下見」と呼んでいた。

「二度と来るか」と暴言を吐いて球場を去った観客が、翌日も変わらず球場へ試合観戦に来ていた。

試合途中からテレビ中継が始まったとき、既に阪神の先発投手は降板していた。

シーズン中、3日に1回はファンを辞めようと思っていた。

1回の攻撃、1番和田豊の応援歌を歌い始めた時が、試合で一番楽しい時だった。

甲子園に来たときの一番の楽しみは、トラッキーのパフォーマンスだった。

周囲がまだ半袖の時から始まるストーブリーグ。それもまだ着始めた頃。

高校野球常勝で知られるPL学園より弱いと、毎年のように騒がれていた。

そのおかげで、「最下位はサッカーリーグのようにPL学園とリーグ入れ替え試合を行え」という冗談が冗談に聞こえなかった。

G党アナウンサーは1985年、「阪神の好調はハレー彗星(の到来)と同じくらいの珍事」と言ったが、それが真実に思えた。

毎日のように負けていたので、デイリースポーツは大本営発表もどきの報道をした。2連勝でも「破竹」扱いされた。

前日に3回持たずに降板させられた先発投手が、翌日には6回から敗戦処理として登板していた。

ヒーローインタビューで新庄剛志が「明日も勝つ!!」と発言すると、次の試合から怒涛の12連敗。

絵馬や短冊に「阪神優勝」を書き願う人がいた。「優勝はしなくてもいいから5位になってくれ」というものもあった。

父親に阪神が弱い理由を尋ねたら、「阪神だから」と一蹴された。

読売巨人戦で3タテすると、半年間はその話だけでファンが盛り上がることができた。

東京スポーツに「評論家によるセリーグ最下位予想で阪神1位」と書かれた。

1992年の2位を「準優勝」、最下位脱出を「セリーグの5本の指に入った」、最下位を「6位入賞」ないし「定位置」と呼んだ。

序盤で一時的に首位となった時、それに最下位を抜ける度ごとにファンが道頓堀へ飛び込んだ。

やけくそで1998年4月1日に監督が「阪神優勝!」というエイプリルフール記者会見をしたが、その年も最下位だった。

ファンが球団に抗議するため、応援を一時やめてしまった。スタンドはほぼ無人状態となった。

黄金時代の到来

2002年監督が 14a4 故メイショウニシモトすらなれなかった日本一を仙台の球団で一番目になった人に替わり、落ち目のお荷物の乳酸菌に逃げた正捕手にタックルで山田を追い出した正捕手が壊されるも、最下位は脱出できた。

2003年、前任のツンデレのジジイによってチームに加えられた選手(赤星憲広藤本敦士)たちと、覚醒のきっかけを与えられた既存の選手(今岡誠・矢野輝弘・井川慶)たちがようやく本領を発揮する。さらに赤いとこから拉致してきた鉄人僕らのジェフ、ジェロッド・リガンら新たに加わった戦力と、歯車がガッチリ噛み合う。シーズンの序盤からラストスパートのような勢いで飛び出したチームは、あれよあれよと言う間に18年ぶりの優勝を決めたのであった。長い間ファンが待ち焦がれたあの優勝は前任者によってもたらされたものであり、決して星野の手腕だけで導かれたものではない。ええ、星野による長嶋巨人的な金満補強をファンは無視します[1]

2004年からはどんでんに率いられ、再び脅威となったに挑むことになった。どんでんを始め、藤川大和、今岡など面白フェイスが多い球団となった。

2003年に続き2005年にもJFKの大活躍や今岡の超ビッグバン大確変などによりリーグ優勝を果たした。この頃は1990年代まで栄華を誇っていた大男集団がガタガタ状態(2001年からの5年間で監督が3回交代し、球団初の4年連続V逸を記録する)に陥り、「虎と大男が入れ替わった」・「虎の時代の到来」と呼ばれもした。しかし、2003年の日本シリーズでは「野球をするタコ」こと王貞治率いるアホークスに惜敗。特に第6戦はサニックスの宗政社長(当時のホークスのヘルメット広告主)が始球式を行い、そこで阪神が勝っていれば「御前試合で阪神優勝」という瀬戸際だったため、サニックス社員は本気でgkbrだった。2005年のそれについては後述する? 1163 ?

2007年は大男や竜との混戦の中で、両者から引き離されたところを連勝で追いつく快進撃を見せたが、その後同じペースで今度は連敗を重ねて3位で終わり、プレーオフでもそれと変わらない試合を見せ、あっけなく終戦に至った。

その反省か、2008年は序盤から一気に飛ばした2003年と同様に、一時は他球団ファンを沈黙させたかに見えたが…これについても詳しくは後述しよう
2005年 秋の悪夢 岡田阪神の惨敗に、ファンから吹き上がる「怨嗟の気」。球場の外からもハッキリと見てとれる

2005年、リーグ優勝を果たした阪神。ファンのみなさんが「お口の恋人しばいたれ」を合言葉として千葉の黒船との日本シリーズに臨むべく、ペナントレース終盤戦での競り合いを勝ち抜いたチーム状態そのままに、意気揚々と千葉へ乗り込んだ、はずだった…。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション
Wikipediaで表示
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしUncyclopedia

Size:98 KB
出典: 八百科事典『アンサイクロペディア(Uncyclopedia)
担当:undef