足利義昭
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これは余の実物じゃ。 これぞ余の肖像画だ。…なんか少し小さいな。

足利 義昭(あしかが よしあき、1537年12月5日 - )は、足利王朝のラストエンペラーである。目次

1 概説

2 ラストエンペラー

3 経歴

3.1 出生の秘密

3.2 邂逅、そして対決

3.3 信長の死後

3.4 義昭は死なず(異説)

3.4.1 君は牛を二頭持っている(足利バージョン)



4 銅閣寺建立

5 エクストリーム・信長包囲網

6 功績

7 各界からのコメント

8 関連項目

概説

 織田信長と争って京都を追放された後も、各国を流浪しつつも新生室町幕府と京都奪還を目指した足利王朝最後の将軍。打倒信長に凄まじい執念を燃やし、そのためには妖術や黒魔術の取得も厭わず、その人生の9割は信長を殺すことに費やされた。あまりのしつこさに、いつしか粘着将軍の名で呼ばれるようになった。

 喜怒哀楽豊かな道化師として足利将軍15代の内で最も知名度が高く、宿敵織田信長の生涯を鮮やかに彩った戦国のキーパーソンである。要するに咬ませ犬ブッダイエス・キリストですら及ばぬほどの高い徳とカリスマ性を備えており、国の垣根を越えて南蛮や唐土の人々からも畏敬された。比叡山を焼き払い浅井朝倉武田を悉く滅ぼした信長でさえ、遂に義昭をその手にかけることはできなかった。
ラストエンペラー

 曲芸から黒魔術にかけて精通しており、玉乗りやナイフ投げ、綱渡り、パントマイム、死ぬ死ぬ詐欺、洗脳などの腕前は神業の領域に近い。また速筆でも知られており、信長包囲網の際、打倒信長を促す書状を1億通以上も肉筆で書くと言う、ギネスブックに掲載される人でも到底真似できない所業をやってのけた。義昭の書いた書状は諸大名どころか全世界に送られ、結果織田信長の知名度を爆発的に上昇させた。

 打倒織田信長に燃える執念は並大抵のものではなく、全国の日本人が織田信長を嫌いになるように信長の悪評、ネガティヴキャンペーンを徹底的に流布している。信長の残虐性を伝えるエピソードの中には、義昭によって脚色、誇張、捏造されたものも数え切れないほどほんの少し存在する。信長の評判を落とすためなら身も心も惜しまず奔走する所に彼の執念が滲み出ている。信長をぎゃふんと言わせるためなら名家の誇りをかなぐり捨てて下郎に哀願? 7204 ??すれば、脅迫やテロなどの犯罪行為も辞さない。彼にとっては、自らの矜持よりも信長の不幸の方が優先されるのである。義昭の信長に対する妄執は、歪んだ愛情であったのかもしれない。

 近年でも、あの世から下界へ舞い降りた義昭が街宣車の屋根に跨り、信長に対する罵詈雑言を垂れ流している姿が頻繁に目撃されており、他にも民家一軒一軒に信長包囲網への勧誘電話をかけたり、打倒信長のピンクチラシを電信柱などに貼り付け、コンクリートの壁一面に「信長氏ね」と落書きして警察のお世話になったりしている。また2ちゃんねるをはじめインターネットの各所でも、信長への熱い思いをほとばしらせるあまりに「信長」というキーワードで5分ごとにネット検索して、信長を持ち上げる書き込みを見つければ即座に徹底的に反駁を加えるという伝説の荒らしとして勇名を轟かし、その厨房ぶりは語り草となった。
経歴
出生の秘密

 室町幕府13代将軍足利義輝の弟として宿敵、織田信長より3年後に生まれる。生まれた時東の方角を向いて「ふゆかいぢゃ!」と叫んだと言う。既に彼は信長の邪気を生まれながらに察知しており、義昭と信長は生まれながらに相反する存在で争う宿命にあったと言える。赤子の義昭が大声で泣くと、畑一面にトリカブトの花が咲き、鶏が金の卵を産み、ツチノコが大量に人里に現れる天変地異が起こった。人々は義昭こそがこの荒れ果てた乱世を救う英雄ではないかと噂した。

 義昭は2歳にして「東方より悪鬼羅刹来たる」と、第六天魔王織田信長の来襲を予言し、尾張遠征をしつこく主張したが、父足利義晴や幕臣達には受け入れられず、というか京都すら維持できずに都落ちを繰り返す当時の幕府に尾張遠征の余裕も兵力・財力もあるわけがなく、義昭は気違いと見做され奈良のお寺に預けて修行という名分で、精神病院に入れられる。5歳の頃から既に反抗期であり、自分を精神病棟に入れた父に対しての怒りや、やがて尾張より来る魔王に対して何ら無関心な幕府に対する失望から、義昭は僧侶としての修行よりも黒魔術や妖術の修行に密かに邁進した。

 やがて義晴の後を継いで将軍になったのは兄の足利義輝で、義昭は自分が将軍になれなかった嫉妬に狂い、黒魔術で義輝を討ち、自分が将軍に取って変わることを思い付く。歴史上では義輝が三好三人衆らによって暗殺されたため、義昭は越前国の朝倉義景を頼って逃れ…と言うのは彼の仕立てた巧妙な茶番であり、実際は義昭こそが義輝暗殺事件の黒幕であり、三好三人衆を洗脳して実行させたのである。ところが義昭の魔力不足で義輝の死後に三好三人衆への洗脳が解けてしまい、激怒した三好三人衆に命を狙われた義昭は奈良を脱して越前国の朝倉のもとへ逃れ、図々しくも全国の諸大名に「兄である将軍義輝の仇を討て、将軍を斬った謀反人の三好三人衆を討て」と号令をかけた。
邂逅、そして対決

 その後、因縁の相手である織田信長と宿命の邂逅を果たす。その頃、三好三人衆は義輝・義昭のいとこの足利義栄を将軍として擁立して、義昭は焦っていた。焦燥感は敵対意識をも圧倒し、上洛を目指す信長と一時的に手を組んだ。しかしこの時義昭も信長も、薄々自分達の宿命に気付いていたかもしれない。

 信長の協力を得て上洛した義昭は、従兄弟の足利義栄と三好三人衆を追い払って15代将軍になったが、バナナはおやつに入るのか入らないのかと言う価値観の違いから信長と仲違いを起こし決裂。義昭は信長を洗脳で従わせようとしたが、信長も魔王という異名を持つだけあって義昭の魔力は通用しなかった。そこで義昭は武田信玄朝倉義景浅井長政本願寺顕如、かつての因縁がある三好三人衆らと「お手手つないで友達の輪」という黒魔術の陣を作って信長を包囲したが、即席で作った黒魔術の陣などまともに機能する筈も無く、リーダー格であった武田信玄が病死したことにより瓦解する。武田信玄の突然の訃報を耳にした際、義昭は「将棋において、飛車や角が突然の病と言う原因で盤面上から忽然と消滅することは有り得ない」と錯乱状態で叫んだとされる。室町幕府一の策士が創案した壮大な包囲網が音を立てて崩れ落ちる瞬間であった。

 やがて浅井、朝倉らも信長に各個撃破され義昭も窮地に追いやられる。しかし室町御所に押しかけてきた信長に対して全く動じもせず「余の首取れるものなら取ってみろ」と啖呵を切ったと言われる。義昭の威容に信長も竦んだのか、結果、義昭は京都からの追放のみで、将軍職を取り上げられることもなかった。義昭はその後お人よしの毛利輝元の庇護を受け、彼の元で打倒信長の作戦を練り、忌まわしき信長を誅殺するための新兵器開発や新黒魔術開発も行っていたと言う。信長は義昭の京都帰洛を伝えたこともあったが、義昭は「京都へ帰る時は、信長の首を携えて帰る時よ」と拒んだ。
信長の死後

 1582年、信長が本能寺にて横死し、義昭の悲願が達成される。汚名返上をモットーとする義昭が何の行動も起こしていなかったとは考えられず、本能寺の変には義昭が関与していた、黒幕であったと言う説は多くの歴史家(及び歴史学者気取りの暇人)が唱えており、義昭が「あー早く信長死なねーかなー」言いながら蹴飛ばした小石に魔力が宿り、京都まで飛び信長の顔面を直撃した、義昭が流れ星に「信長が死にますように」と願ったところ、その流れ星が本能寺を直撃して信長もろとも灰燼となった、義昭が明智光秀を洗脳したなど諸説ある。

 しかし、信長の死によって人生の意義を失ってしまった義昭は、まるで枯れ木のように精力を失ってしまい、世捨て人も同然となる。信長が死ねば、室町幕府再興の動きが全国から沸き起こると信じていた義昭だが、そんな動きは全くないことも義昭の世捨て人化に拍車をかけた。やがて信長の後をついで天下人となった豊臣秀吉は、征夷大将軍の座に治まるべく義昭に自らを養子にしてくれるよう願い出るが、「神聖なる征夷大将軍の位を猿が受け賜るなど言語道断」と一蹴して将軍の意地をみせた。秀吉も義昭から将軍職を取り上げることはできずに、関白に就任することになる。やがて義昭は人生2度目の、最後の出家をして、自主的に将軍を辞職した。秀吉から1万石の領地を宛がわれ、京都で深閑と余生を送って亡くなった。足利将軍15名で最も長生きし、享年61歳。
義昭は死なず(異説)

 出家して楽隠居していた義昭はある日、ダンテの「神曲」に触れて地獄の存在に興味を抱き、信長が地獄に落ちてサタンの責め苦を受けているのを見届けたいとの願望が再び義昭を活気付けさせる。また宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノから外国も日本と同様に大航海時代と言う戦国乱世のようなカオス状態にあると聞いた義昭は、海外に室町幕府を再興する野望を抱くようになる。義昭は渡航の術として舟などと言う途方もない時間を要する方法を選ばず、野性のヒトデマンを捕まえ波乗りでギリシャ、オスマントルコまで渡った。途中、ヒトデマンは珊瑚礁の間に挟まっていた水の石に接触してスターミーに進化、結果半日で義昭はギリシャまで辿り着いた。波乗りの最中義昭は魔道の力に目覚め、魔法の試し撃ちで大陸一つを沈没させる。おそらくこれがムー大陸であろう。どうやら義昭はなみのり中にスターミーと交尾したことによりエスパータイプになっていたらしく、義昭は童貞であったがゆえ魔法使いになれる可能性を秘めていたと思われる。

 その後義昭公は当時一大勢力を築いていたオスマントルコ帝国に拾われる。一流の文化人である義昭は笛の奏者として皇帝に近づいた。その旋律で皇帝を魅了して信頼を得、遂に本性を現して帝国皇帝を暗殺、帝国を乗っ取って新生室町幕府を築き上げた。皇帝を暗殺する時、義昭は皇帝の耳元で渾身の力を込めて笛を吹くことで生じた金切り声のような狂音で皇帝をショック死させたと伝わる。美しい音色を醸し出す楽器さえも殺人兵器として流用する義昭は、暗殺者としてデューク東郷をも超越したと言える。その後義昭公は狡猾な知恵と魔法を駆使してはアジアの国々を次々と我が手に収めてゆき、超大国新生室町幕府を揺るぎ無いものにした。現在ではオダ・ノブナガとして蘇った信長と再び雌雄を決する時を伺っている。

 ウィキペディアに日本を追放された後の義昭公の経歴を書こうとすると十中八九削除される。これは室町幕府の圧力が掛かっているからとも、室町幕府と日本の関係を遮断しようとするワンチンロシア辺りの陰謀ではないかとも言われている。だが詳細は検閲により削除されている。
君は牛を二頭持っている(足利バージョン)

君は牛を二頭持っている。織田信長は君の牛を二頭とも取り上げて京から追放する。

君は牛を二頭持っている。君は有力武士にせがまれ、ミルクを均等に分ける。次第に取り分が地方の有力な守護大名が多くなり、君の取り分が少なくなる。

君は牛を二頭持っている。地方で自立した戦国大名は君の牛を強奪していく。

銅閣寺建立

 義昭は金閣寺を建立した足利義満銀閣寺を建立した足利義政にならい、銅閣寺を建立したことでも有名である。新生足利王朝の樹立を記念し、パプアニューギニアに現在の価格にして1980円で建立された。

 その様相は名の通り全体を銅で組み、その上に予算の都合で黄色に塗った画用紙金箔を貼りつけたという、金閣寺以上の金ピカぶりであった。この件に関し義昭は「銅は金と同じと書いて銅と読む。」と発言し、物議を醸している。信長に散々負けたくせに勝利宣言ばかり行う負けず嫌いがここにも現れているという批判も多い。また近年の調査によれば段ボールが主な建築材料であることが判明し、銅を使ったという主張さえ怪しいとされている。

 さらに調子に乗って十円玉銅貨の絵を銅閣寺にしろと造幣局に押しかけたがあえなく却下され、平等院にその座を奪われた。この件に関しても「信長の陰謀であることは間違いない」と義昭は主張している。
エクストリーム・信長包囲網

 戦国時代は日本史上でも特にエクストリームスポーツが盛んだった時代であるが、中でも最大規模のものが義昭の開催したエクストリーム信長包囲網である。その競技内容は魔王と恐れられる織田信長に色々いけないいたずらをして反応を楽しむものであり、より怒らせた者が勝ちである。義昭による強引な勧誘もあって参加者は多く、非常に賑わった。その結果、茶釜を抱えて爆死した者鉄砲隊でフルボッコされた者鉄甲船でフルボッコされた者信徒を皆殺しにされた者一族郎党磔にされた者、凋落の一途を辿った者、ノコギリでスライスされた者、よく分からん雑兵に殺された者、便所で死んだ者家臣に裏切られて自害した者結局噛ませ犬で終わった者たち薄濃にされたり薄濃にされたり、薄濃にされたりする者、などハイスコアを叩き出す参加者が続出。さらには上記の一向宗以外からも宗教関連者からの参加があり、豪快に炎上して盛り上げ、非常にレベルの高い競技となった。

 ただし、やり過ぎて殺してしまうと失格になり、その場合三日以内に抹殺される。
功績

で、結局コイツ何したんだっけ?

そういえば、戦国時代はコイツが生まれてから始まってコイツが死んで終わったんだっけ?

「そうじゃ!つまり信長などではなく余こそが戦国の風雲児なのじゃ!余がいなければ戦国時代も無かったと言う事じゃ!もし余がいなければ
コーエーも今頃ネオロマンスで細々と食い繋いどったじゃろうな」
? 自らの功績 について、足利義昭

え?違う?何だ勘違いか。

というわけで、残念ながらコイツの功績はありません。

「ええい!お前はもう一度歴史を勉強し直さんかい!ついでに言うと、三島由紀夫は天皇陛下万歳と言って切腹したのではなく、「我が首を足利義昭公への供物とせん」と言って切腹したのじゃ。これ、まめちしきな。」
? 自らの功績 について、足利義昭
各界からのコメント「義昭いいいいい!貴様だけは絶対に許さああああんんんん!!!」
? 足利義昭 について、
足利義輝「こやつはクソじゃ!!俺の力を借りて京都に上り詰めたと言うのに、京都に着いた途端、俺に刃を向けるとは全くのクソじゃ!!」
? 足利義昭 について、織田信長「この人の世話するのホント疲れた…。」
? 足利義昭 について、細川藤孝「将軍にしては風格なさすぎってレベルじゃねーぞ!!」
? 足利義昭 について、モノウ・ルッテレ・ベルジャネーゾ 「始皇帝に孔明よ。そもそも主君がアホなのは、親父や宰相に問題があるのだ。たわけどもが!!」
? 足利義昭 について、朱元璋「この者のように独り身で流浪の晩年を生きるほど虚しい事はあるまいて。多くの一族同胞が末路を共にしてくれただけわしは幸せじゃのう。」
? 足利義昭 について、北条高時「こやつの見苦しい抵抗に比べたら、俺の 5c95 敵前逃亡の方がまだ空気読めてる行為だよね。」
? 足利義昭 について、徳川慶喜「いや、それはない。」
? 慶喜の発言 について、小栗上野介
関連項目ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「足利義昭」の項目を執筆しています。足利義昭が放った発言は、後世の物好きのために、有志たちによって「Unquotable/武将」へ収録されています。
足利義昭関連


戦国時代

織田信長

ラストエンペラー


北条守時源北条王朝

足利義昭(足利王朝

徳川慶喜徳川王朝

天皇裕仁大日本帝国

愛新覚羅溥儀(清朝)

バオダイ(阮朝)

ニコライ2世(ロシア帝国)

ヴィルヘルム2世(ドイツ帝国)

ウンベルト2世(イタリア王国)

ハイレ・セラシエ(エチオピア革命の廃帝)

先代
足利義栄
1568年足利幕府将軍
足利義昭
1568年-1573年次代
(王朝崩壊)



更新日時:2020年11月1日(日)18:46
取得日時:2021/04/07 21:53


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