趙雲
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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「趙雲」の項目を執筆しています。

趙雲(ちょううん、157年? - 229年)は、蜀漢を代表する武将であり、明訓高校の4番キャッチャーの山田太郎によく似ていると言われる。

常山郡真定県(河北省南部)の人。字は子竜(子龍)(しりゅう・しりょう)。爵位は順平侯。『大徳元本』(著者未詳/モンゴル王朝の元代の大徳年間の野史)によると、戦国時代の趙の趙襄子(名は毋?)の長男・趙桓子(名は嘉)の末裔という。父兄の存在が明らかにされてるが、名は未詳である。また、南越王の趙佗と、桂陽郡太守の趙範は同族という。

劉備と関羽よりも年長だが、黄忠よりは年下である。
概要

本人は「え???と…そうそうあれだ、一番強いんだった。え???と、ん???と、多分…一番?あれよ、あれ。…そうそう蜀の中でね。」と豪語しており、ほかの五虎将軍からは抗議の声が上がっている。物忘れが大変激しいが、華佗という医者が診断したところ「IQ156だから、頭が悪いというわけではない。」と語る。余談だが、華佗の身長は156cmだったといわれている。

コーエーの三国志シリーズでの顔グラの影響か、日本では永遠の青年武将のイメージが付きまとっている。コーエーから出ているドラマCD三國志・三國志戦記・真三國無双シリーズでも青年である。ちなみにドラマCDより派生した三國志めくりではキャラが崩壊し、無双シリーズでは台詞が棒化が著しく進み棒子龍と一部で囁かれている。

また、ドカベンのようなエラが広い四角のゴッツイ顔つきの影響もある。
生い立ち

出身地は、馬小屋ともどこぞの村とも辺境とも言われている。言葉が「あああああああああ!」しか喋れなかったからどこの道場も受け入れて貰えなかった為、独学で武術を体得し、夏侯惇を山賊と勘違いして槍を強奪して自分のものにしたという逸話がある。

最初はエロティック大魔王に仕官。顔良、文醜を舎弟にしていたが、1週間に一度は二人に対して「新米の私にお気遣いいただき痛み入ります。」話したという。君主に対しては顔を合わせるごとに「お初におめにかかる。ご高名はかねがね伺っております。趙子竜と申しますお見知りおきを」とあいさつしていたと言う。

後に公孫?に仕えるようになるが、難しい任務を遂行中に5回ほど君主に「えっと、今週は兵士に槍術の訓練をするんでよかったんですよね?」とたずねたため、公孫?が「キサマ、ワシを誰だと思っている!?」と叱り飛ばしたところ「先輩っすよね?」と言い返してクビになった。

やがて、劉玄徳と知り合う。そのときにいずれは劉備のもとに仕えると約束したがすっかり忘れており、劉備が30回説得の手紙をよこしてようやく劉備の元にやってきた。この時に「お初にお目にかかります。仕官先を求めている矢先に求人の広告が貼ってあったのでそれを見てやってまいりました。」とあいさつしたと言う。

この時に劉備に対して無礼だと激怒した武将が20人ほど斬りかかったが全員その場に倒れ伏してしまった。どうやら強いと言うことだけはアピールできたため劉備も他の武将も、とりあえずはたえしのぐことにした。
戦功

一番の大舞台は長板の戦いとされている。そのほか蜀の劉璋征伐にも大きく戦功を立てた。また、彼は部下を与えても部下の名前ごと忘れてしまうため戦場ではつねに単騎駆けだった。しかしそれでも趙雲は大きな怪我もせずに国の重臣となっていった。

だが208年に長坂陂にて劉禅・劉永兄弟とその母の甘夫人を助けてしまい、それが55年後の蜀漢の崩壊につながった事については賛否両論ある。「あそこで助けていなければ、先主(劉備)がもっと有能な子作りに励んだだろうに…」という陳寿らをはじめとする嘆き節が今でもささやかれている。


……見ての通り、この記事「 趙雲 」は書きかけなわけだけど…、はぁ!?何言ってんの?勘違いしてるんじゃないわよ! べっ、別に加筆して欲しいわけじゃ無いんだから!まぁ、アンタがどうしても加筆したいって言うのなら、加筆させてあげてもいいんだけど…… (Portal:スタブ)


更新日時:2013年5月31日(金)19:47
取得日時:2019/09/09 23:56


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