西東三鬼
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西東三鬼(さいとう スリーデーモン、1900年 - 1962年)は、岡山県津山市出身の俳人。グーグルで画像検索するとベレー帽をかぶったスケベそうなおじさんが出てくる。事実そうだった。しかしその性欲が、俳句をマンネリ化から救ったかもしれないのである。

江戸時代の暇人が趣味で始めた俳句は、花鳥風月を5・7・5のリズムで詠んで愛でるという大変ジジ臭いもので、やがて松尾「芭蕉」(バナナ)が水たまりにカエルが飛び込む水音とそのあとの静寂を詠むなどして、この時点で完全に枯れ切った感があった。その後明治に入って正岡「子規」(ホトトギス)が、結核による脊椎カリエス(背骨が腐る病気)で苦しみ悶え、看病してくれる妹を罵倒しながら、歩けないので寝たまま庭から見えるしょうもない景色をそのまま詠んで、病んだ視点と「見たままを読む」姿勢を俳句に取り入れ、それが残念ながら流行って、大勢が真似するようになってしまった。素朴で瑣末な写生句がはびこるようになった。

こうして俳句は、根暗な病人がぽつぽつと漏らすぼやきや、暇な老人が筆ペンで描くつたないカボチャの絵つきの手紙と同レベルになりかけていたが、昭和初期に水原「秋桜子」(コスモス)や山口「誓子」(ザーメン)らインテリの若い俳人たちがそんな現状に対し反旗を翻した。花鳥風月だけが俳句じゃない、我々が今生きているこの時代を、青春をこそ詠むべきだ、くたばれホトトギス、というわけだが、実際にできた句は万葉集ですでに見たような世界観だったり、そうでなければ歌謡曲の真似か、青臭い反戦歌だったりした。

そんな俳壇に突如登場した30過ぎのインチキおじさん、それが西東三鬼である。そんな齢になるまで何をしていたのか?シンガポールで遊び呆けていたのである。
33まで

病弱に生まれ、父と母を早くに失くし、二人の実業家の兄の手厚い庇護を受けて育った。小学生の時に二度サナダムシのせいで休学し、同級生が上の学年にいるのがイヤで勉強への情熱を失ったというが、それなりに成績は良く、津山中学に二番で合格、上の兄に引き取られて上京してからは青山学院高等部に進み、そのまま青学に行けたのに、日本歯科医専に進学している。これも自分では「友人に頼まれて一緒に受験し、せっかく通ったので入学した」と言うが、兄の敷いたレールの上をただ歩くのがイヤだったのではないか。大学入学後は乗馬とダンスに明け暮れ、卒業し歯医者になってすぐ結婚すると、その頃日本郵船のシンガポール支店長だった上の兄が、シンガポールの中心街オーチャード・アヴェニューで開業させてやる、生活費も出す、と言うのでホイホイ呼ばれていった。行って一年ほどすると兄貴は上海に転勤し、途端に夫婦揃って放蕩のかぎりを尽くした。昼はゴルフ、そのあと徹夜でマージャン、そしてダンス、ダンス、ダンス。本業をおろそかに、というか全く無視して診療所2階をダンスホールにして人妻と秘密のレッスンをしていた。結果、当然ながら患者は離れ、借金は増え、挙句チフスにかかって帰国。借金の始末も日本での開業の準備も二人の兄に任せ、また怠けてすぐ廃業。自営をやめて兄や友人のコネであちこちの病院に勤め、看護婦に手を出しまくっている。放蕩は止まず、兄からの送金だけでは足りずに金歯を売ってまでクラブやバーやキャバレーに通い、ホステスと看護婦と同時に手をつけることも珍しくなかった。とんだヤクザ医師である。三鬼ともっとも長く連れ添った女性が覚えているだけでも、30年の同棲期間中じつに35人の女性と関係があったというが、三鬼本人が言うには初体験は14歳、シンガポールではダンスの腕を駆使して大勢に迫っていたし、35人というのはほんの一部に過ぎないだろう。
33以後

33歳の時、仲の良かった泌尿器科医のすすめで俳句を知る。泌尿器科医となぜ特別仲良しだったのか。よくお世話になっていたのだろう。「またかよお前、気をつけろよ、ほらこれ塗っとけ」みたいなことが頻繁にあったと思われる。「三鬼」の号は初めて病院内の回覧誌に句が載る時に即興で考えたもので「サンキュー」のもじりだと本人は言っているが、カッコつけなのか照れ隠しなのかはさておき、苦しい。最初に兄が二人いると書いたが、三鬼は厳密には三人目の子ではなく、彼が生まれる前に早死にした姉がいる。美しかったその姉の話を幼い頃に母に聞かされ、彼女の代わりに生まれたのだという思いがあったらしい。丈夫な体をもち堅実な道を歩むかなり年上の兄二人と、美しく愛されたのに生きられなかった姉と、病弱でたびたび道を外れつつも生き残っている三人目の自分。「鬼」の字を使ったのはやはり劣等感からではないか。それとも、これはあまり考えたくないのだが、まさか桃太郎

泌尿器科の患者たちの小便臭い集まりを離れ、そのうち『走馬灯』『馬酔木』などの本格的な俳誌に投句するようになる。『走馬灯』で始まるのかよ。俳句の文法を気にしない三鬼の風変りな作品はこれらの俳誌においてもそれなりに人目を引いたが、『京大俳句』の連中にものすごくウケた。

『京大俳句』が当時マンネリ化に悩み、学外から変人を招きいれようとしていたところに、三鬼は「機関銃」で始まる季語のない句を大量に投じた。「機関銃熱キ蛇腹ヲ震ハスル」「機関銃眉間ニ赤キ花ガ咲ク」「機関銃機関銃ヲ射チ闇黙ル」「機関銃一分間六百晴レ極ミ」……。下手な鉄砲数撃ちゃ当たる、を地で行ったのである。今読むとひとつも当たっていない気がしないでもないが、「自由な表現」がモットーの『京大俳句』で反戦の句が流行っていたちょうどその時に、彼らの思惑以上に奇怪な、なんの実績もない謎の中年男性がマシンガン持って乱入してきたので、若い俳人たちは興奮に沸いた。そしてあっという間に三鬼は「新興俳句運動の旗手」になってしまった。

新しくできた仲間におだてられて書きまくり、自分でも同人誌を起したり潰したり、弟子もついてそいつらを連れて講演旅行に出たり夜の街に繰り出したりと忙しくなったので、40歳を前にして本業の歯医者を完全にやめてしまい、またもコネで貿易会社に入り給料泥棒として夢のような数年間を過ごしていた。そこへ弾圧の波が押し寄せ、何人もの仲間が逮捕されて『京大俳句』はあえなく廃刊、自分もヤバいかも、と思いつつ東京にとどまっていたが、ちょっと乱暴に捨てたかつての愛人に通報され、昭和15年8月31日、ついに特高警察に逮捕される。長い夏休みの終わりであった。

京都に連行されて取り調べを受け、11月まで留め置かれた。やっと帰ると家は荒らされ、漱石全集とポルノのコレクションが特高にパクられており、あまりのショックに妻子を捨てて出奔、以後数年間句作を断ち、神戸の怪しげな洋館に住んで夜毎に処女の生き血を吸う生活に入った。

戦後に復活してからは、現代俳句協会の設立に関わったり賞の審査員になったりと重鎮らしい活動をしつつ落ち着いて自分の句集を編むことができた。東京の妻子に送金しながら神戸で愛人と同棲し、外でも女を作って何股もかける生活を死ぬまで続け、死後には弟子たちによって全句集が編まれた。兄貴に金の無心をする時にパシリに使った弟子たちによってである。
アンサイクロペディアが選ぶ三鬼の21句
聖燭祭工人ヨセフわが愛す
聖燭祭は
キリスト教の祝日で2月2日。三鬼はキリスト教徒ではないが、青学はメソジスト教会の宣教師が作った学校なので、思春期にそういう教育を受けたことは確かだ。初期の作品にはキリスト教を扱ったものが多く、クリスマスの句を度々詠んでいる。放蕩者の意外なルーツ。しかしあまりにも教科書的ではないか。
東方の聖き星凍て魚ひかる
と降誕祭」と題した連作のひとつ。ベツレヘムの星が凍るほどに寒い聖夜、魚が光り輝く。魚もキリスト教のシンボルである。きれいにまとまっている。
白馬を少女「?」(けが)れて下りにけむ
だいぶ詠み慣れて、本性が出てきた。「けがれて」を漢字にするかひらがなにするかで推敲を重ねている。ある弟子による観賞文に「少女が山に登り、強姦されて帰ってくる様子の比喩か」などとあるが、そこまで難しく考えなくていい。ゴダイヴァ夫人の話が長く好まれる理由のひとつでもあるが、「の背にこすれて痛いわ」という最低の下ネタだ。
水枕ガバリと寒い海がある
肺炎で寝込んでいる。寝返りを打つと水枕がガバリと音を立てる。寒い海だ!いや、汗ビッショリなんだよ、早く着替えておとなしく寝てろ、死ぬぞ、と思うが、本人はこの瞬間に開眼し、ようやく俳句というものが分かったと言っている。熱が出ている時にそういう気分になることはよくあることで責められない。自他共に認める代表作であり、津山にある三鬼の墓にしっかりと刻まれている。瀕死の際の作品を墓に彫るなんてどうかしている。
算術の少年しのび泣けり夏
早く遊びに行きたいのに夏休みの宿題算数がどうしても解けなくて泣く少年。


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出典: 嘘八百科事典『アンサイクロペディア(Uncyclopedia)
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