藪の中
[Uncyclopedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

…ンサイクロペディアンの証言「藪の中」?ああ、よく知っている。ウィキペディアにひどい記事がある、あの「藪の中」のことだろう?

あのページを見たか?ウィキペディアンたちは草木の定義を延々と書いているが、奴らは何一つ分かっちゃいない。いいか、これは「藪の中」というタイトルの作品で、藪という言葉の定義だとか、カントだとかヘーゲルだとかの境界論の考察は何の意味もない。

ウィキペディアンたちいつもこうなんだ。彼らは自分たちの知識をひけらかすために、どんな些細で単純なこと扱っている記事でもわざと話をこじらせる。そして誰も求めていない専門知識を書き連ね、無駄に記事を長くすることに悦びすら覚えているらしい。その加筆した誇らしい記事の内容が他のウィキペディアンの思っているものと違った時は、どうすると思う?今度はノートページで自分の意見を他人に押し付けることを始める。これがまた醜い。まさに声がデカイ奴が勝つ世界だ。そして自己研究などと批判されれば、後から探しだした適当な出典を上げて誤魔化す。ウィキペディアの大半はこれで成り立っている。

そうして出来上がった長大かつ難解に見えて実際の内容は殆ど無い記事は、読んだ者を「ああ、俺って頭いいんだ」とか「藪の中について詳しい素敵な私」と錯覚させるんだ。そして勘違いしてしまった可哀想な彼らは、次の日に「俺、藪の中に詳しいから。植生上の分類だろ?」「私、藪の中には哲学上の重大な問題があると思うの」とかって鼻高々に語る。ウィキペディアを読んだだけの「立派な」専門家が出来上がりだ。Wikipediaの戦国時代の項目を読んだだけで歴女を自称する女子高生や、Wikipediaの韓国起源説の項目を読んだだけのネット右翼がどれだけいるか、想像できるか?あのウィキペディアは「Wikiで読みました」とか抜かす薄っぺらな自称専門家どもを量産し、それ以上は調べようともしないウィキペディア信者を日々生み出している。そして当の編集に加担したウィキペディアンたちはそれを知りながら「ウィキペディアは自己責任で利用してください、内容は保証されたものではありません」などとのたまって、あくまで自分たちは関係ないという責任逃れに終始しているんだ。こんなアホなサイトが他にどこにある?

よかろう、ウィキペディアは自己責任で利用するサイトだとしよう。ならせめて「ウィキペディアは自己責任で利用してください」「内容は保証できません、この記事は間違っている可能性があります」と記事タイトルの上に書くべきなんだ。そうすればウィキペディアを読んだだけの専門家気取りも少しは減るだろう。だが実際は「ウィキペディア創設者ジミー・ウェールズからのメッセージをお読みください」などと自らへの募金を呼びかける我欲丸出しのオヤジの顔を表示させるのが関の山だ。いかにウィキペディアが無責任で欲にまみれているか、よく理解できるだろう。ウィキペディアは自称世界で五番目に人気があるサイトだそうだが、その無責任さ、欲深さでいえば世界で一番のサイトなのは間違いないだろうね。ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「藪の中」の項目を執筆しています。

…と、うっかり話が逸れてしまった。何の話をしていたのやら…ああそうだ、「藪の中」だったね。下に詳しく書くから、まずはウィキペディアを参照してくれ。



藪の中についてあなたに問われた借民の証言

木などの近くにある

ウィキペディアに長い説明がある。

真相は?などと使われる

藪の中についてあなたに問われた、ある映画マニアの証言

藪の中、ですか。ああ、それは黒澤明監督の作品『羅生門』の中に出てきたストーリーの名前ですね。これは彼の処女作で、昭和二十五年の…確か、8月の終わり頃に公開されたんだと思います。

この映画は「対立する複数の意見を観客の前で述べさせ、混乱させる」という手法を取っていました。これはかなり斬新だったんです。ストーリーの見せ方もいろいろあって、グランドホテル方式とか幌馬車方式とか、それぞれの映画のタイトルやシチュエーションから名前が取られているんですが、これも羅生門方式とも言えるようなものだと思います。わたしは詳しくは知らないのですが、英語にもthe rasyomon effectという言葉があるようです。

内容ですか?有名な話です。下人が降りしきる雨の中、羅生門の下に佇んでいるところから物語が始まります。そう、もうこのシーンからしてすごいんですよ。破壊されてもう半分しか残っていないような羅生門の姿は見応えがあります。なにせこの当時は全てフィルムの、モノクロですから。暗いんですよね。でもそれがまた人間の本質というか、欲望の薄暗さとかを表してもいるんです。フィルム・ノワールみたいな、ああいう暗さも確かにあるんですが、別物ですね。羅生門という映画に映しだされている闇はもっと深くて暗い気がします。ノワールの暗さは化け物とか犯罪者とかそういう明らかな敵が出てくるような暗さですが、こっちはもっとこう、内面的なものですね。あの暗さは普通の人間の中にある悪です。アドルフ・アイヒマンを思い出してください。荒廃した世の中にあって、たまたま通りかかっただけの平凡な男が、見ず知らずの男の胸に刺さった見事な作りの短刀を見た瞬間、ふっと魔が差して、それを抜いてしまう。そんなふうな……あれ?おかしいな、その場面が映像になった時点で、藪の中からは出ちゃっている、のか?

おっと、あやうくネタバレするところでしたよ。これは申し訳ない。わたしの悪い癖です。あなたがとても聞き上手なものですから。はい?脚本の元ネタ…ですか。いや…ちょっとそっち方面は詳しくないので。ええ、他の方に聞けば分かるかもしれませんが、わたしではお力添えできませんね。
藪の中についてあなたに問われた、ある社会学者の証言

「藪の中」か。いや、面白い質問をしますね、あなた。あれは関係者の証言が食い違っていて真相がわからないことを意味する慣用句です。語源については…まあそんな野暮なことはいいじゃないですか。ここではその話はしません。それはともかくとしてねあなたさん、僕はこの言葉に対してちょっと面白い見方をしているんです。

最近、「藪の中」という言葉をよく見かけませんか。見かけない?まあまあ、そんなことを仰られると僕の話が進まないので、ここは一つ「よく見かける」ということにしてください。でね、なんで見かけるかというと、そこには現代社会特有の問題があるからです。

どういうことかと言うと、昔の社会というのはもっと狭かった。つまり人口も当然少なかったですし、一生のうちになれる職業は身分で限られていて、引っ越しも滅多に出来るものではなかったんです。そうなるとどうなるか。職業別、土地別の価値観というものが強く形成されて、社会は単純になります。つまり昔の社会はモノの価値観が今よりも少なかったんです。

じゃ、現代社会はどうか。これはねー、もうすごいですよ。みんな価値観バラバラです。職業選択は自由、引っ越しも自由になって今までの価値観は崩壊します。職業別、土地別だったものの価値観とか立場は、今ではもはや個人レベルまで解体されてるんです。いまの社会は昔とは比べられないくらいに異なる価値観の人、異なる立場の人で溢れかえっている。

そこで「藪の中」の登場するわけですよ。今は人によってものの見方が違うのは当たり前な時代です。つまり、一つの事実に対して個人がそれぞれ全く異なる描写をする。同じものを見ていてもみんなバラバラなことを言うわけですね。場合によっては個々の描写が食い違うこともあるでしょう。これはまさに「藪の中」なわけです。

僕は個人的にこういった社会を「藪の中」社会と呼んでるんですが、どうです?…え、ダサい?
巫女の口を借りた、芥川龍之介の白状

私が言えるのはこれだけだ。

誰も私の作品に言及していないのはどういうことだ?

更新日時:2016年1月5日(火)16:59
取得日時:2018/10/15 23:33


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション
Wikipediaで表示
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしUncyclopedia

Size:14 KB
出典: バ科事典『アンサイクロペディア(Uncyclopedia)
担当:FIRTREE