織田長益
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織田 長益(おだ ながます、1547年?1621年)、別名「織田 有楽斎」(おだ うらくさい)は戦国時代の茶人。織田信長の弟。現在ある東京有楽町の名前の元となったことでも有名。

副業として武将もやっていた。
目次

1 生涯

1.1 誕生

1.2 ぼちぼち姿が見え始める

1.3 歴史の表舞台へ

1.4 小牧・長久手の戦い

1.5 茶人として

1.6 秀吉配下として

1.7 関が原の戦い

1.8 江戸幕府成立

1.9 大坂の陣

1.10 その死

1.11 結論


2 関連事項

生涯
誕生

1547年、尾張の大名織田信秀の11番目の子供として生を受ける。幼名を源五(郎)。

1551年に父が死亡、直後に織田信長、織田信行の兄弟間でお家騒動が勃発。いったん収束するも1557年に再燃し、信長が信行を暗殺。

当時はまだ若年だったという事もあり、源五郎は反信長派に担ぎ出されるようなことはなかった・・・まぁ担がれたところで方々に茶をお出しするくらいしか能がなかろうが。
ぼちぼち姿が見え始める

信長の上洛後、織田家が急速に覇者へと駆け上がっていく中、長益はまったくと言っていいほど目立つ存在ではなかった。これは織田家(というか信長)が完璧に実力主義を行っていたためである。・・・長益の軍事・政治的能力がなんとなくうかがいしれよう。それもそのはず、長益の血は茶でできているといっても過言では無い。赤血球の代わりをタンニンが、白血球の代わりをカテキンが担っている、そんな男に何の能があろうはずもない。
歴史の表舞台へ

1582年6月2日に起こった本能寺の変において明智光秀の軍勢は信長のいる本能寺と、後継者である信忠のいる二条御所を襲撃。両人を敗死せしめる。その際、信忠直属でさら信長の弟だった長益は、戦死しようとした信忠を説得、腹を切らせたと言われている。そのくせ、本人は気が変わって二条御所を脱出。岐阜へ逃亡する。この行為について、多くの人間は「織田の源五は人ではないよ」と彼を攻撃。しかし、茶ばかりの男であるから、ただ茶化されている程度に感じたことだろう(要審議)。

そして皮肉な事に、本人はむしろこの変をきっかけに急速に存在感を増していく。
小牧・長久手の戦い

生涯における最も危ない一瞬を切り抜けた長益は、逃亡した岐阜から今度は、伊勢を治めていた信長の次男である織田信雄の下に仕えることになる。信雄と源五郎、「能を舞うしか能の無い男」と「茶を点てるしか能の無い男」・・・どっちの力量が上かは微妙なところである・・・ていうか比べる以前の問題である。

その直後に秀吉が織田家内で内乱を起こす。信雄は秀吉側につき、柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破る。しかし秀吉は信雄を立てるつもりなど毛頭なかった。

激怒した信雄は海道一の弓取りと言われた徳川家康と反秀吉連合を結成し、秀吉と相対することになる。結果、1584年に秀吉の大軍団は小牧長久手の戦いで敗北。しかし、その後の戦闘で織田信雄の支配する伊勢が占領されると織田・徳川連合もまた講和を考えざるをえなくなってしまう。

この時、両者の間を取り持ったのが武将として無能かつ無害な長益である。

戦闘で痛手を被っていた秀吉はこの講和を受けた 7ab9 ため、間を取り持つことになった長益の名が高まることになった。人生初の功績といっても断じて、過言ではあるまい。
茶人として

小牧長久手の戦いの後、四国・九州征伐、そして小田原征伐を受けて戦国時代は終わりを迎えようとしていた。

そんな中、わび茶が武士の心を見事にキャッチ。一気に日本全国を巻き込みながら武家社会に浸透していくことになる。名前と血筋と茶以外に何の能も無いので有名だった長益は、茶の湯の文化に深く傾倒していくことになる。

戦国末期、茶の湯の文化は様々な人に様々な形で伝えられ、分かりやすく言うならてんでばらばら。各人各様で自分の好みを追求していった時代であった。

が、百姓あがりで権威が何にも無い秀吉が流行を利用しようとしたため、茶の湯に詳しい長益の名前も知れ渡ることに。
秀吉配下として

1590年、秀吉によって織田信雄が改易されると、その配下であった長益はそのまま秀吉の御伽集(領地のほとんどない遊び相手のようなもの・・・というのは建前で、ぶっちゃけ反乱を起こされないために監視しておきたい人々)として召抱えられることになる。そんな気骨など微塵も有る筈は無いし、実際はアレなのだが、名目上は秀吉の側近ということで、長益の茶人としての名前は高いものになっていく。

この頃剃髪し、長益から「有楽斎」へと名を変えているが、当初は――

「信長の弟として戦国時代を駆け抜け、オレの人生、楽じゃないよなぁ・・・」(´・ω・`)

との理由で「無楽斎」と名乗ろうとしたのであるが、

「いやいや・・・他のヤツらに比べて アンタの人生、めっちゃ楽だから!」Σ(゚Д゚;)

――と秀吉がツッコミ、「有楽斎」と名乗らせたものである。

ちなみに、剃髪前にはキリスト教の洗礼も受けていたりもする。なお、長益改め有楽斎の為した流派「有楽流」はウィキペディアにおいて、武野紹鴎を師として仰いだとの記述があるが、武野紹鴎が死んだのは1555年、有楽斎がまだ幼児の時分であることから、これはつまり、有楽斎の師である千利休のそのまた師であった紹鴎が為した茶の湯の形式を復活させたということである。その教えは、何よりも客の饗応を重んじたとある。

まぁぶっちゃけ、甥っ子を見捨てて逃げ出すようなヤツだから、人様がどう思ってるか気になってしょうがなかったのであろう。饗応しながら自らの評判を聞き出し、また茶の湯をもって自らの評価を上げようとの魂胆であり、そんなクソ野郎には打って付けの流派と言えた。秀吉の茶の湯が最終的に黄金の茶室まで行き着いたのとは、結果的に別路線を歩んだわけである。
関が原の戦い

1600年に起こった関が原の戦いにおいて、有楽斎は息子とともに家康側に属する。

彼の真骨頂である。

武人としては大した力量もないのに今更ながら功を焦ったのか、蒲生頼郷だか横山喜内だか言う石田三成方の猛将相手に一騎打ちを申し込み、斬り付けられて落馬するという醜態をさらす。・・・ていうか人生そのものが醜態だから全然問題なかろう。
しかし、頼郷だか喜内だか言う正式な名前の判然としないその猛将は直後有楽斎配下の将兵に討ち取られたため、有楽斎自身の武功と言う棚ボタ状態になり、珍しく武功を挙げた事になる。

戦後、有楽斎は猛将蒲生頼郷だか横山喜内だかを見事討ち取ってやったぞと嬉々として吹聴していたが、周りの東軍諸将には嘲笑され、白眼視されていたのは言うまでもない。なお、彼が見捨てた甥、信忠の息子、織田秀信は西軍に所属。


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出典: バ科事典『アンサイクロペディア(Uncyclopedia)
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