清浦奎吾(きようら けいご、嘉永3年2月14日(1850年3月27日)生 - 昭和17年(1942年)11月5日没)とは、大日本帝国のウナギ大臣である。 肥後国鹿本郡来民村(現:山鹿市 その後、咸宜園の先輩であった野村盛秀(のむら もりひで)が埼玉県令に就任したので、そのコネを頼りに上京 当時長州閥 こうして山縣の七光り いくら出世しても所詮は田舎の山猿(容姿的にも)でしかなかったことにコンプレックスを抱き続けていた奎吾は明治24年(1891年)、長年の気配りと根回し
目次
1 生涯
1.1 幼少期
1.2 青年期
1.3 大躍進
1.4 政界へ
1.5 貴族に
1.6 鰻丼内閣
1.7 捲土凋落
1.8 余生
2 人物像
3 総評
4 外部リンク
5 関連項目
生涯
幼少期
青年期
大躍進
政界へ
貴族に
鰻丼内閣ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディアの専門家気取りたちが「鰻香内閣」の項目を執筆しています。
大正3年(1914年)、シーメンス事件のドサクサに乗じて第一次山本政権から政権をふんだくった奎吾(実はシーメンス事件そのものが彼の陰謀であるとも言われている)は組閣の大命を受けたものの、海軍との折り合いがつかないまま時間切れとなってしまい、海軍大臣を得られず組閣は失敗、そのショックから立ち直る前に目の前の鰻丼からウナギが野良猫に奪われてしまった(その報せを受けたのが、どうやら食事時だったらしい)事から、世の人はこれを「鰻丼内閣」と呼んで嘲り笑った。特権階級の失敗は、いつの世でも笑いのネタなのである。 その後大正12年(1923年)に虎ノ門事件
捲土凋落
余生 人生、ぬらりと生きてひょんと死ぬ。そんなものじゃあないのかね。
その後も重臣として列せられることで辛うじて貴族としての体面を保つことだけは許された奎吾は、新聞協会会長などの有名無実な肩書きの収拾に没頭し、昭和16年(1941年)の重臣会議に出席して東條英機に対して訓示を垂れたのを最後に、ようやく政治活動から足を洗った途端に痴呆が始まり、昭和17年(1942年)11月5日に92歳の天寿を全うしたのであった。
貴族、貴族とこだわるばかりに「奇賊」とまで言われた。後年、ファーザー福田
人物像
なお、子孫が歌手をやっているが、誰も気にしない
うなぎのようにぬらりくらりと政界を泳ぎ渡り、指の間からぬるりと滑り落ちるような人生であった。
総評
外部リンク
⇒清浦記念館
関連項目
うなぎ
ぬらりひょん
山縣有朋
表・話・編
帝国時代 1 伊藤博文 | 2 黒田清隆 | 3 山縣有朋 | 4 松方正義 | 5 伊藤博文 |
48d0
6 松方正義 | 7 伊藤博文 | 8 大隈重信 | 9 山縣有朋 | 10 伊藤博文 | 11 桂太郎 | 12 西園寺公望 | 13 桂太郎 | 14 西園寺公望 | 15 桂太郎 | 16 山本権兵衛 | 17 大隈重信 | 18 寺内正毅 | 19 原敬 | 20 高橋是清 | 21 加藤友三郎 | 22 山本権兵衛 | 23 清浦奎吾 | 24 加藤高明 | 25 若槻禮次郎 | 26 田中義一 | 27 濱口雄幸 | 28 若槻禮次郎 | 29 犬養毅 | 30 齋藤實 | 31 岡田啓介 | 32 廣田弘毅 | 33 林銑十郎 | 34 近衛文麿 | 35 平沼騏一郎 | 36 阿部信行 | 37 米内光政 | 38-39 近衛文麿 | 40 東條英機 | 41 小磯國昭 | 42 鈴木貫太郎
GHQ?統治下時代 43 東久邇宮稔彦王 | 44 幣原喜重郎 | 45 吉田茂 | 46 片山哲 | 47 芦田均 | 48-51 吉田茂
日米安保時代 52-54 鳩山一郎 | 55 石橋湛山 | 56-57 岸信介 | 58-60 池田勇人 | 61-63 佐藤榮作 | 64-65 田中角栄 | 66 三木武夫 | 67 福田赳夫 | 68-69 大平正芳 | 70 鈴木善幸 | 71-73 中曽根康弘 | 74 竹下登 | 75 宇野宗佑 | 76-77 海部俊樹 | 78 宮澤喜一 | 79 細川護熙 | 80 羽田孜 | 81 村山富市 | 82-83 橋本龍太郎 | 84 小渕恵三 | 85-86 森喜朗 | 87-89 小泉純一郎 | 90 安倍晋三 | 91 福田康夫 | 92 麻生太郎 | 93 鳩山由紀夫 | 94 菅直人 | 95 野田佳彦 | 現在 安倍晋三
臨時代理 三条実美 | 内田康哉 | 後藤文夫 | 伊東正義 | 青木幹雄
更新日時:2017年2月15日(水)23:39
取得日時:2019/12/06 08:15