沖縄戦
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「日本人は戦争を知らない、いや少なくとも自国が戦場になった経験はない。[1]
? 沖縄戦 について、元陸軍少尉山本七平

沖縄戦(うちなーいくさ)は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島で行われた戦いである。
目次

1 概要

2 準備

2.1 兵力

2.2 学徒隊

2.3 住民の避難


3 戦闘経過

3.1 アメリカ軍の上陸

3.2 首里めざして

3.3 首里撤退

3.4 戦闘の終焉

3.4.1 アメリカ軍

3.4.2 日本側

3.4.2.1 住民

3.4.2.2 海軍



3.5 その後


4 戦後

5 影響

5.1 過労自殺

5.2 連合国による収容

5.3 厭戦


6 最後に

7 脚注

8 関連項目

概要

沖縄戦は1945年4月から始まり6月末に終了した。詳しくは6月23日に日本側の司令官が自決。連合国軍は7月2日に沖縄戦終了を宣言し、9月7日に終結した。連合国軍の目的は日本本土進攻のための補給基地の確保であった。日本軍は、大本営が海上での短期決戦、現地軍は陸上での持久戦を意図していた。

使用された銃弾・砲弾の数は、連合国軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾6万発と手榴弾40万発、ロケット弾2万発、機関銃弾3,000万発弱が発射された。沖縄での両軍及び民間人を合わせた地上戦中の戦没者は25万人程度とされる。
準備
兵力

沖縄本島の日本側の陸上兵力は三分の一が沖縄県民であり、県民の17歳以上45歳未満の男子を兵力に編入したが、沖縄からは既に30,000名が召集されており、沖縄に青年男子はほぼいなくなった。また天然の洞穴や、沖縄独特の墓である亀甲墓がトーチカに使われ陣地の一部となった。
学徒隊

旧制中学校の生徒から成る鉄血勤皇隊や、女子生徒を衛生要員としたゆりひめ学徒隊・白梅学徒隊などが組織され、その数は2,000名以上にも達する。1945年3月に14-17歳の旧制中学生ら1780人の男子生徒による鉄血勤皇隊が編成され、少年兵として防衛召集されて半数が戦死した。なお、17歳未満の少年を召集し戦闘に動員できると定めた義勇兵役法の施行は同年6月22日である。女子についても14歳以上の女子生徒を従軍看護婦の代用としたゆりひめ学徒隊・白梅学徒隊などが組織され、陸軍病院などで活動した。なお「ゆりひめ」は師範学校女子部の「白百合」と第一高等女学校の「乙姫」を併せたものが由来である。
住民の避難

県外疎開の第1船は1944年7月21日に出港した。以後7月末、8月初め、8月10日と順調に出航したが、8月22日の学童疎開船「対馬丸」は撃沈され、1500人が死亡した。さらに軍が戦いに勝つと宣伝したため疎開は進まなかったが、10月10日にアメリカ軍が大空襲を行ったので一挙に促進された。この空襲で那覇の市街地の90%が焼失したほか、県民の食糧1か月分も焼失した。
戦闘経過
アメリカ軍の上陸

エイプリルフールの朝、アメリカ軍は上陸を開始した。攻撃初日に投入された陸戦兵力は182,000名であり、ノルマンディー上陸作戦のD-デイに投入された兵力を75,000名上回る。砲弾4万発・ロケット弾3万発・迫撃砲2万発が撃ち込まれたが、日本軍は既に退却していたため無駄であった。日本軍の作った北飛行場と中飛行場は直ちに占領された。4月3日の戦況上奏の際、昭和天皇が参謀総長に対し「(沖縄の)現地軍は何故攻勢に出ぬか」と言ったため、大本営は北・中飛行場を奪回する命令を発した。現地軍は北・中飛行場へ出撃、戦果は上がらなかったが2個大隊が全滅した。4月6日、日本の現地軍司令官は連合艦隊に「出撃は取り止められたし」と打電したが、戦艦「大和」以下が出撃した。結果、「大和」は撃沈、雪風は無傷で帰還した。
首里めざして M4中戦車は沖縄戦で272両撃破された。ただしこれはイスラエルのメルカバMk1である

アメリカ軍は日本軍の首里司令部を目指して南進、4月7日に日本軍の陣地に到達し、多数の死者を出しつつも日本軍陣地を丁寧に丁寧に撃破していった。洞窟の通気口からガソリンやナパームジェルを流し込み、壕入口から火炎放射器で攻撃、仕上げに大量の爆薬で陣地ごと吹き飛ばすのが一般的な方法であった。このため、沖縄の山の三割以上(南部に限れば八割近く)が消失し、沖縄島の平均標高は400メートル近く下がったという[要出典]。

ゴールデンウイークも終盤の5月3、4日に日本軍は反転攻勢に転じた。ようとして大失敗した。大規模砲撃を敢行し、また大量の特攻機を出撃させたが共にアメリカ軍火器の集中攻撃で撃退された。日本側逆上陸部隊は、東西2手に分れ逆上陸を目指したが、主力部隊が那覇を出港し、牧港と嘉手納に向け海上を進行中アメリカ軍に発見され壊滅した。この反転攻勢による日本軍の戦死者は6000名を超えた。アメリカ軍は1000人の死傷者を出した。

バックナー米司令官は日本軍が予備隊を使い果たしたと勘違いし、総攻撃を開始した。アメリカ軍の死傷者は2600名、さらに1200名の神経症患者を出した。大隊長、中隊長もよく死んだ。日本軍の狙撃兵が階級を示す微章で将校と認識し、優先して狙撃したからという。特に中尉は次々と死んで交代したので、兵士からは『トイレットペーパー』と言われ、中には15分でトイレットペーパーを使い切った部隊もあったという。

首里戦線の2ヵ月弱の戦闘で、戦闘ストレス反応によるアメリカ軍の傷病兵は10000名を超えた。運動麻痩や無言無表情が軽度の症状であったが、精神錯乱を起こし、大小便でズボンを汚したり、機関銃を乱射? 3cef ?る兵士もいたという。
首里撤退

日本軍は5月29日に首里からの後退を開始した。

アメリカ軍は撤退中の日本軍45,000名に艦砲・空爆・砲撃で徹底攻撃を加えたが、雨が激しくなったなどといって日本軍第32軍の撤退を阻止しなかったため、第32軍の30,000名が南部に新たな防衛線を構築した。30日未明には新しい司令部となる摩文仁に移動した。

日本軍は、菊水七号作戦時にコマンド部隊をアメリカ軍制圧下の飛行場に強行着陸させ、破壊活動を行わせる作戦を発動した。12機が出撃し強行着陸できたのは1機だったが、搭乗員が地上の航空機や燃料集積所を襲撃し、合計33機の戦闘機・爆撃機・輸送機が完全撃破など被害を受け、アメリカ兵20名が死傷し、70,000ガロンの航空燃料が焼失した。発生した二酸化炭素は約110トン[2]
戦闘の終焉
アメリカ軍

アメリカ軍が日本兵や住民に対して撒いたビラは800万枚に上り、B5サイズとして40haに及ぶ。6月17日、バックナー米司令官自ら牛島日本軍司令官宛に降伏勧告を送ったが牛島は拒絶した。バックナーは翌日前線視察に出向いた。途中で海兵連隊長のロバーツ大佐より「これより前線へはいかれぬよう」との忠告を受けたが、バックナーは無視して進んだ。ロバーツは忠告の1時間後に戦死した。バックナーも戦死した。
日本側

6月18日には、第32軍司令部と各部隊との通信が途絶して組織的戦闘が不可能となっている。また9日に県庁と警察を解散した島田知事も18日に殉職している。日本軍は崩壊が進み、野戦病院も狂乱状態に陥って傷病兵に毒薬を注射したり青酸カリを服用させたりした。戦えない程度に動ける兵は手榴弾で自決して、一日4,000名の兵士が亡くなっていた。ゆりひめ部隊は6月19日に陸軍野戦病院の地下壕でアメリカ兵から投げ込まれた手榴弾と火炎放射器で多数が死亡、生き残った生徒も22日に崖から身を投げた。教師・学徒240人のうち136人が死亡。最終的に226名が死亡した。6月23日午前4時ごろに日本の沖縄守備軍最高指揮官牛島と参謀長の長が、摩文仁の軍司令部で自殺した。
住民

第32軍の南部撤退により、南部に避難していた大量の住民が犠牲となった。住民の戦没者全体の6割が6月以降に南部地域において亡くなっている。首里近辺の非戦闘員は南部島尻地区へ撤収するよう指示されたため、南部地区は後退してくる軍と避難民で混雑した。軍が喜屋武に撤退すれば知念半島は戦場外になるので、憲兵隊は南下する避難民に知念半島へ避難するよう誘導していたが、すでに知念半島は米軍の占領下にあった。
海軍

海軍の部隊である沖縄方面根拠地隊は飛行場設営隊などを陸戦隊に編成したもので、本来の戦闘部隊は少なく装備も劣悪であった。司令官の太田は6月6日に決別の打電をしており、中でも海軍次官あての「…沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という打電は今日でも有名である。
その後

6月23日から、アメリカ軍は沖縄南部の残存日本兵の掃討作戦を開始した。日本軍の陣地を、例によってひとつずつ爆薬で日本兵ごと生き埋めにするか、例によって火炎放射器で焼き払った。またサトウキビ畑や水田に隠れている日本兵も1名ずつ燻り出した。掃討作戦で日本兵9000名が戦死し、3000名が捕虜となった。アメリカ軍は7月2日に沖縄作戦終了を宣告したが、この後も散発的な戦闘は続いた。

9月7日に南西諸島の軍を代表して日本軍第28師団司令部が沖縄戦降伏文書に調印し、沖縄戦が公式に終結した。
戦後

沖縄方面根拠地隊司令官太田の「…沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という打電にいたく感動した昭和天皇は二度と沖縄を戦場にはしないと決心され、軍が解体されてしまった日本から世界最強[当時]の軍隊を擁するアメリカ合衆国へ沖縄の施政権を移管なされた。沖縄の悲劇の始まりである。

米軍による軍政は1950年12月まで続いた。この間もこの後も沖縄に次々と米軍基地ができ、誰も侵略しようとは思わなくなった。沖縄が日本に復帰するのは1972年5月15日である。民心の動揺を防ぐため、復帰後も基地は維持された。復帰後皇太子が沖縄を訪れた際には、感極まった県民により「ゆりひめの塔」の近くでモロトフカクテルが贈呈されるなど椿事もあった。ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「ゆりひめの塔事件」の項目を執筆しています。
影響
過労自殺

沖縄戦においては一般住民に対して非常に多量の労働を課したため、過労等による集団自殺が発生した。読谷村のチビチリガマの事例(83人)などが知られ、自殺者の総数は1,000人に上る。また割り当てをこなせない住民が日本兵に殺害されることもままあり、久米島などの事件が挙げられる。殺害された住民の総数は明らかではないが、これも1,000人程度と推定されている。さらに、琉球語を理解できない日本兵によって住民はスパイ容疑を掛けられ、殺された。
連合国による収容

収容所は集落単位で管理され、憲兵が監視していた。収容所間の移動は禁じられ、違反者は有刺鉄線で囲んだ仮拘置所に留置された。また連合軍兵士による性的暴行が続発し、憲兵(MP)の数が足りなくなるほどだったという。さらに、日本語と琉球語の違いも分からない連合国軍によって住民はスパイ容疑を掛けられ、殺された。
厭戦

日本側は可能な限りの資源を投入して特攻、切り込みとあらゆる手段で抵抗したが、全力を尽くしても連合国軍に勝てないことが判明し関係者を大いに落胆させた。連合国側は莫大な人員と兵器を投入して強固な要塞を撃破していったものの、この小島の攻略に想定外に手間取ったことで、関係者は大いに落胆した。
最後に

昭和天皇は戦後に回想している。「全く馬鹿馬鹿しい戦闘であった。」
? 沖縄戦 について、昭和天皇 独白録より
脚注^ 『日本人とユダヤ人』四章より。
^ 1L当たり2.4kgの二酸化炭素を出すとして計算。

関連項目

戦争

戦術的撤退

捨て石

帝国兵

ひめゆり学徒隊…沖縄戦で動員された部隊。
10af

更新日時:2019年5月19日(日)17:52
取得日時:2019/08/21 04:01


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