水野忠邦
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水野 忠邦(みずの ただくに)とは、天保の改革と呼ばれる幕政改革を推進したことで知られる老中であり、徳川吉宗、松平定信と一緒に江戸時代改革三点セットで受験生に刷り込まされる存在である。

もっともその実情は、同僚、旗本、大奥、民衆、そして海外オタクと、あらゆる連中を敵に回してもなお改革を断行し、そして見事に失敗、幕府の屋台骨をゆるがせた頑迷な人物として紹介されている。実際、独断専行の傾向が強く、忠邦が音頭を取った天保の改革にも如実にそれが反映され、結果として幕府の人材不足と制度疲弊、何よりも旧態依然の価値観の象徴としてその後の歴史の教科書の俎上に上ることになる。

まぁ、間違ってはいない。

結局、他者の便益、心情を考慮しない、悪い意味で唯我独尊の男だという定評そのままに、時代を作ったひとかどの人物であることには変りはない。すなわち、ネタとして大変においしい存在である。
目次

1 前歴

2 唐津藩について

3 斜め上

4 天保の改革

4.1 大奥

4.2 商業

4.3 文化

4.4 学問

4.5 妖怪

4.6 破綻


5 復帰

6 業績

7 関連項目

前歴

忠邦は九州唐津藩3代藩主、水野忠光の次男として1794年に生まれた。幼少期より聡明で知られ、兄が夭折したため、次期藩主の座に駆け上がると、親父もこれで安心とばかりに1812年に隠居、若干16歳の忠邦に唐津藩の未来が託されることになる。

その結果、夢見がちで聡明で、さらには親からの信頼もたっぷりな17歳が藩主になると、きっとこうなるんだろうという道のりを忠邦は爆走することになる。そして、1814年というかなり早い段階で隠居した親父が死亡。もはや彼のブレーキはどこにも存在しなくなる。
唐津藩について

忠邦が生まれた唐津藩は、出島のある長崎警護を管轄し、外国船との折衝を担当する出先機関としての役目を備えていた。そのため、交易収入などで藩政は盤石、聡明な藩主である忠邦が改めて行うような改革は特になかった。また、唐津藩の石高はおよそ6万石。これは江戸幕府の役職として幕府内に入ることのできる小藩の位置に存在していたが、唐津藩は前述のとおり裕福だったため、慣例的に幕内へは入れないことになっていた。

どうする、聡明な17歳。
斜め上

聡明で改革の意欲に燃えていた忠邦が、そんな自らの現状に憂えていたのは当然である。長崎警護という役職である以上、海外からの情報がごちゃまんと入ってくる立場にあり、彼が藩主に就任したのは、遠く欧州で、英雄ナポレオン・ポナパルドが最後の光を放っていた時代である。そして、彼が壮年期に入るまでの間は大英帝国が続々とその植民地を増やしていた時代と重なる。

改革好きの若者が、これらの情報の摂取を誤まるとどうなるか。それは皆さんの目でお確かめください。

当時、幕府の将軍は子供の数55人こと徳川家斉で? 3701 ??家斉とその腰巾着共、そして数十人にも及ぶ彼の妾を中核とした大奥によって幕府は掌握され、発展もしなかったが退行もしていない時代、いわゆる化政文化の時代がだらだらと続いていた。一応、平和は平和だったため経済は発達、賄賂も横行して政治は腐敗。でも、まぁ、平和だし特に問題でもなかった。しかし、永遠の17歳、忠邦はそのような幕府の不甲斐ない現状を嘆き、自分が参画し改革することを強く望んだ。だが、唐津藩主のままでは、一生幕政に参加できない。

この問題に解決策を見つけ出すからこそ聡明であり、そして、解決策を見つけ出すからこそ永遠の17歳である。この傾向はいつまでも続くので、そのつもりで。

もはや17歳でもないが17歳の忠邦は、幕僚への出世軌道に乗るべく、当時、権力者であった老中水野忠成に渡りをつけることによって、交易で裕福だった唐津藩から、なーーーーーーーんもない浜松藩に国替えしてもらうことに成功、同時に幕閣にも寺社奉行として就任した。さすが17歳。しかし、唐津から浜松への国替えは、石高の面では大幅な減少、さらには税収においても著しい減少があり、渡りを付ける際に支出した費用も嵩んで水野家の懐を圧迫した。むろん、家臣団は大反対。しかし、17歳にそんな意見が通用することはなく、ただひたすら改革の意欲に従って爆走する忠邦だった。

ちなみに、家老の二本松大炊という人物は浜松への国替えを止めるよう諫言を繰り返し、最後は自らの命を絶つことによって忠邦を諌めたのだが、人の話を聞かない忠邦には暖簾に腕押しで、結果二本松は犬死してしまったことになる。カワイソス。なにはともあれ、斜め上ではあっても、沢山金をつぎ込んだこともあって、忠邦は順調に出世、1825年に大阪城代、1826年に京都所司代、1828年にはついに老中となって、江戸城に西の丸にて、家斉の庶子で後の12代将軍徳川家慶の補佐役にまで上り詰める。

17歳恐るべし。
天保の改革

1837年、50年間将軍であった家斉が隠居を表明、新たに12代将軍として家慶が就任すると、その補佐役であった忠邦もまた一気に将軍の懐刀として権力の座を駆け上がることになる。もっとも、隠居後も家斉は政治を裏から操っており、化政文化を支えた幕閣の人間もまだまだ健在であったため、12代将軍一番の側近にまでのし上がった忠邦も、その恐るべき改革への熱情がほとばしるのをぐっと我慢するのが現状であった。いつの間にか、永遠の17歳も40歳を越えていた。

この最後の最後の我慢は、しかし、4年後の1841年についに爆発することになる。

1841年、徳川家斉が68歳の生涯を閉じると、12代将軍の最も信頼する家臣と相成っていた忠邦は、まず前の将軍家斉の側近として政治を掌握していた連中を片っ端から罷免していく。しかし、後ろ盾を失っていた側近達には、4年間、父の言うとおりに従うしかなかった新将軍の、恨みつらみ入りの御威光と、永遠の17歳のご意向を跳ね除ける力は残っていなかった。

そして、新たな人材を積極的に抜擢。その中には、幕末まで活躍する多くの幕府の忠臣が含まれていた。が、とんでもない妖怪も含まれていた。
大奥

次に忠邦は、子供を55人も作っちゃった前の将軍の後始末を慣行。幕政にまで口を出すことが常識となっていた大奥の力をそぐために、まず、綱紀粛正を図り、奢侈を禁止した。そのため贅沢が大好きな大奥の女中達を敵に回すこととなったが、いかんせん、力を持ちすぎだったことも確かであり、後ろ盾となるはずの将軍も、基本的に前将軍から幕政に口を出す大奥に辟易していたことも確かだったため、この件に関してはすんなりといくことになる。

この件に関しては。

だが、しかし。ただでさえ奢侈禁止令で大奥の女中を敵に回したというのに、忠邦は更に大奥にガサ入れまで行った。結果として大奥の女中と癒着していた怪しげな僧侶達を一網打尽に出来たのだが、手段が苛烈だったことも災いして、前将軍の関係者は元より、家慶の関係者からも恨まれるなど、忠邦は大奥の不倶戴天の敵と認識されることになる。そして、家斉の息のかかった大奥を改めたと思ったら、今度は家慶の築いた大奥が彼の改革に口を出していくんだから、世の中はしょーもない。
商業

忠邦の目に次に映ったのは、前将軍がだらだらと野放しにしていた江戸の経済である。大商人が闊歩することで大いに発展を遂げていた江戸の商業だったが、忠邦の目にはワイロと金満主義、そして何よりも徳川幕府の中核をなす武家社会を揺るがす存在として映ることになる。

まぁ、世の中の汚さを許せない17歳ってもんだ。

忠邦は、商業の正常化、円滑化を促進させることを口上に、株仲間という豪商達によるカルテルを廃止。日本経済を混乱に陥れる。それは、有力商人達の力をそぐことで、武家社会に力を取り戻すことが目的だったが、もちろん商人どころか江戸の住民全般から反感を買い、流通は停滞、後に化政文化と呼ばれる世界的に見ても数々の傑作美術を残した文化爛熟期は、忠邦によって終焉を迎えることになる。もちろん、17歳は気にしなかったけれど。結局、実効した結果がどうなるかよりも、株仲間を廃止させること自体が重要だと、忠邦は考えていた。

自分のやったことで世の中がどうなるか、まったく思いもつかないのも17歳の特権である。
文化

さらに忠邦は、当時江戸の文化を席巻していたエロの弾圧に乗り出した。黄表紙と呼ばれる一大エロ本産業や大人向け浮世絵など、多くの庶民ご用達の低価格エロが弾圧の対象となり、浮世絵師の為永春水や黄表紙作者の柳亭種彦など、後の世に伝わる良質なエロ文化育成に貢献した人々を投獄、処罰する。また、忠邦は実物の摘発にも力を入れて、エロを取り扱った本屋を弾圧したり、果ては難癖をつけてまで、エロのようには見えない作品の中身にまで口出しするなど、日本の文化は潔癖気味な17歳によって冬の時代を向かえることになる。
学問

また、自分こそは日本の英知を自負する17歳は、新しく発見される、もしくは海外から導入される知識、学問などにも牙を向ける。17歳のときに信じた思想ほど、後の人生に影響するものはない。その結果、渡辺崋山、高野長英といった、日本を代表する知識人と書いて海外オタクと読む連中が、えてしてどうでもいい理由で弾圧されていく。

別名、「蛮社の獄」

その結果、日本の学問は10年にわたって停滞。20年後の幕末において、幕府内の知識不足、情勢の読み間違いに決定的な禍根を残すことになる。

最も、忠邦自身、江川英龍や川路聖謨といった海外通を幕内の要職に就けており、この弾圧においても、自分の手ごまである彼らに弾圧が及ばないように守っていたりもする。つまり、単に、自分の行っている対外政策にいちゃもんをつける連中が気に食わないから廃除したというのが、この弾圧の真相みたいなもんである。

17歳に整合性の取れた行いを求めるほうがおかしい。
妖怪

そんな永遠の17歳に上手く取り入ることで、急速に権力を掌握した人物がいる。鳥居甲斐守忠耀(とりいかいのもりただてる)、別名、「鳥居耀蔵(とりいようぞう)」。改革の最中から、耀の「よう」と甲斐守の「かい」で? 3174 ??妖怪」と忌み嫌われた人物はしかし、永遠の17歳の望むとおりに政治を実行する人物として、いつの間にか忠邦には欠かせない人物となる。

しかし実はこいつには、大変現代でも良く見られる、あまり組織内にいてほしくない人物の際立った特徴を持っていた。

それは、自分より有能な同僚を蹴落とす。この人物が幕閣を駆け上がっていったことはすなわち、17歳が苦心して集めて登用した人材が、あらかた蹴落とされていったことを意味していた。しかも、最終的にこいつは忠邦を裏切る。

ただしこの妖怪、仕事はとんでもなくできる人だった。自分に厳しく他人に厳しく、とにかくバリバリと仕事をしまくり、一時期は南町奉行と勘定奉行(警視総監と財務大臣)を兼任してたので仕事量はドンと増えて、風呂場にも硯を持ち込んで仕事していたほど。過労死が心配である。

保守的で蘭学嫌いなのは忠邦と同じだが「でも南蛮の医術書とか超便利ですし、採用しましょう!」と素直に認めて弾圧を反対したり、永遠の17歳よりは遥かに現実をちゃんと見ていた。そして蘭学者を懐柔しておとり捜査に使った。なんて奴だ。

同期の要人からは嫌われつつも才覚は認められていたらしく「残忍なのは間違いないが、正しいと思うことを自らを顧みずに実行し、周囲に恨まれ何十年も罰せられたのに全く後悔する素振りがない。あんな凄い奴を他に知らない」とは勝海舟の話。

永遠の17歳とは違うのだよ、永遠の17歳とは。
破綻

庶民から大奥、果ては知識人まで、全てに恨まれる存在となった忠邦だが、まったく臆することなくまだまだ改革にまい進していく。しかし、そんな忠邦だったが、江戸幕府を作り上げている武家社会にまで改革の手を伸ばしたとき、ついに、その爆走は頓挫することになる。

きっかけは、幕府の収入増加と権力基盤の整備を目論み上知令と呼ばれる法令を1843年に発布したことに始まる。アヘン戦争などで混乱する海外情勢を鑑みて、江戸と大阪から半径40kmを幕府の直轄領にすることで、より幕府の力を強固なものにするというのがこの法令の趣旨であったが、実際に江戸の半径40kmに土地を持っていた旗本、大名は、それを返上しなければならないとなると、そう簡単に行くわけが無かった。一応、忠邦としては収公した分だけ代わりの土地を支給する旨を通達したが、政治経済の中心地から遠く離れた場所に移転するなどという話は、各大名、旗本にとっても甘受できる法令ではなく、しかも、忠邦の同僚である老中土井利位もまた、この上知令の関係する場所に領地を持っていた。この段階で、江戸幕府全てを敵に回した17歳だった。

この上知令は、忠邦がたまたま登城しなかったある日、土井を初めとする老中達の協議によって忠邦の意向など全く顧みず取り下げという方針が固まった。自らの一番の懐刀といえども、そのほかの幕閣全ての人間から反対意見が出ては家慶もそれを認可せざるをえず、さらには、忠邦の一番の家臣であった鳥居耀蔵も反対側に回ったことも大きかった。そして、取り下げと同時に、忠邦の罷免が決定し、即座に忠邦は失脚した。もちろん、忠邦に奢侈を禁止され不満が鬱積していた大奥の女達は、喜んで忠邦失脚を支援していた。そして、エロが禁止された市井の人々も忠邦の失脚に歓喜し、江戸にある忠邦の屋敷目掛けて石を大量に投げたという。

でも、こんなことで負けるようでは永遠の17歳とはいえないのである。
復帰

そんなこんなで失脚した忠邦だったが、しかし、彼を追い落とした連中には、彼のその後を用意するだけの実力が無かった。上知令撤廃の翌1844年、江戸城本丸が失火で消失する。その際、彼を追い落としていた土井利位が再建費用を集めることが出来ずに失脚、さらに、アヘン戦争後の変転する東アジア情勢についていけそうな人材がまったくいなかったため、人材抜擢に評価の高かった忠邦が、なんと老中の地位に復帰することになる。しかし、積年の面影は無く、永遠の17歳は、いつのまにかくたびれた50歳になっており、結局、まともな政策を行うことはなかった。

もっとも、自分を裏切った鳥居耀蔵にはしっかり復讐している。全財産を没収の上、讃岐丸亀藩にお預けの名の下に追放しくさることで恨みを晴らしていたりもする。

しかし、忠邦のいない間に幕府の中枢は様変わりしており、忠邦がその海外の知識を見込んで登用した阿部正弘などは、まだ20代の若年であるにも関わらず忠邦が老中に返り咲くことに反対。他の老中達と一緒に病気と称して欠勤するなど、家慶に対して抗議の意思を明確に表している。最も、そんなことで再任が許されなくなるほど、幕府に人材がいるわけではなく、結局、忠邦は再び老中首座の地位に納まることになる。もっとも、彼の恩寵を被って立身出世した阿部までもが抵抗する辺り、よほど忠邦は嫌われていたことが伺える。

永遠の17歳の実情なんて、こんなもんである。

結局忠邦は老中に返り咲いてからわずか1年足らずで辞職、やったことは、妖怪の追放と、実力のある若手が幕政のトップに上り詰めるまでの神輿となるぐらいだった。さらに、前回の老中在任中の不正(その大半は鳥居耀蔵がやったものだったようだが)を指摘されると、謹慎処分として僻地の山形に飛ばされ、永遠の17歳だった51歳はすっかり意気消沈して淋しい余生を過ごすことになる。そして、1851年、58歳で死亡。なお忠邦に登用され、忠邦の後を受け老中となり、幕末の難局の舵取りをした阿部は、忠邦の頑迷さを反面教師に柔軟な政策を推進、後の世に「安政の改革」と呼ばれる多くの業績を残すことになる。

しかし、そんな阿部正弘が39歳の若さで過労死する原因は、ほとんど忠邦が捲いた種によりものである。バカな政治をやると、その後が迷惑をこうむるのはどこの国、どこの時代でも全く同じである。

一方の妖怪は、幽閉先で永遠の17歳の根回しを受けた陰湿なシカトやいじめを受けつつ、若いころから酷使しまくった体を労って薬学の勉強をはじめた。作った薬草やなんかを領民に気前よく分けたりして面倒を見たので人気者になった。明治元年に幽閉を解かれると「上様の命令で追放されたんだから、上様からお許しの書類がなきゃ出てくわけにはいかない」と頑固に駄々をこねて皆を困らせる微笑ましい一面もあった。

最期は明治政府の有様を見て「幕府も自分の言うとおりにしときゃあ良かったのに。50年もしたら日本は野蛮人の国になるぞ」と愚痴をこぼしつつ、友人や家族と孫に看取られて亡くなった。結局、なんだかんだこの妖怪は真面目で優秀な善人だったのである。頑固で手段選ばなかったけど。

そんなわけで遠山の金さんの好敵手という美味しいポジションを得た鳥居耀蔵は、有能なラスボスやライバルキャラとして時代劇でしょっちゅう出てくる人気者になった。仕事人に必殺もされた。時々主人公にもなる。

永遠の17歳? ウィキペディアの登場作品には『大奥』しか載ってないよ!
業績

日本史において、水野忠邦の業績は一言で言うならば、巨大な反面教師である。実際、後の幕政、そして、明治以降の各政権においても、彼のような永遠の17歳が政治を行うとどうなるかという模範を示したことこそが、忠邦の最大の功績だと言われている。
関連項目ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「水野忠邦」の項目を執筆しています。

398d 天保の改革

老中

徳川家慶

鳥居耀蔵

遠山の金さん・・・忠邦が抜擢した人物

阿部正弘


更新日時:2017年5月29日(月)14:28
取得日時:2019/06/10 17:46


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