毛利元就
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これが毛利元就公・・・な、なんじゃ!胸にウンコがあるではないか!(本人談)

毛利 元就(もうり もとなり、明応6年3月14日(1497年4月16日) - 元亀2年6月14日(1571年7月15日))は、戦国時代のサムライ。

四国の長宗我部、九州の島津と並び、西国の田舎大名の中ではそこそこの認知度を持つが、NHKの大河ドラマで主役に抜擢された事、戦国BASARAに登場して腐女子の信者を大量に獲得した事で、2者に大きく差をつけている。。



目次

1 本人による自己紹介と解説

1.1 少年期

1.2 青年期・前半

1.3 青年期・後半

1.4 壮年期

1.5 晩年期


2 ちゃんとした概要

2.1 若い頃

2.2 中年サラリーマン時代

2.3 晩年


3 元就の死後の毛利家

4 三本の矢の逸話

5 元就の子達

6 元就の可愛い捨て駒達

7 毛利元就の名言

8 毛利元就に憑依された人物

9 関連項目

本人による自己紹介と解説
少年期

わしゃぁのぅ?たしか安芸吉田郡山…今で言う広島、かの?の…え?と田中さんだったかの?とにかくちっぽけなお家に生まれたんじゃ。5歳の時母上が、10歳の時父上が世を去りワシは孤独な少年時代を味わいながらも孤独感と必死に戦ってきたんじゃ、それに比べて今時の若い者は…(以下延々とボヤキが続く)

少年時代、稀代の小心者でリーマン豪族の名を欲しいままにした、父の、鬱憤ばらしのサンドバック要員として大活躍した。そんな父も元就10歳の時に、上司の大内義興と尼子経久との板挟みの心労が祟りこの世を去る。折檻から解放されたと喜んだのもつかの間、今度は父の同僚の井上元盛さんから「子供がこんな大金持ってちゃ駄目だよね?」と、父親からの遺産を横取りされた挙句、家を追い出されてしまう。肝心の兄興元も父に劣らず小心者だったから、この横暴を見てみぬフリを決め込む。元就を助けたのは、父行き付けのスナック「杉」のママさん杉子だった。

ここまで酷い目に逢ったら、そりゃ性格が曲がって当然ですな。
青年期・前半

我には兄と弟がおった。毛利興元と相合元綱。しかしどちらも余の足元にも及ばぬ愚物よ。兄は戦に疲れ果て酒浸りの果て昇天し弟は疑心暗鬼に捕われ余に謀反を起こし成敗された。兄弟など所詮踏み台よ!
青年期・後半 若かったころの元就。

西の周防の大内義興…あれは金持ちのクセに銭ゲバで抜け目がない(注・元就の偏見かと思われる)奴でのう…わしは常に大内にアゴで使われてきた……

北の出雲の尼子経久…あれはわしの生涯の宿敵でもありわしの決して及ばぬ男であった…わしは経久にさんざん痛い目にあわされて…大内と尼子に挟まれて…あの当時の中国地方は戦国一の激戦区だったじゃろうな…まったくそれに比べて今時の若い連中のひ弱そうな顔ときたら…

 
今時の若い連中は根性が足らんのじゃ!餅を食え!餅を!!

壮年期

我は陶晴賢を筆頭に多くの者を騙し討ちにかけて中国地方を毛利の旗で埋め尽くした。何?もっと詳しく説明しろ、吉川小早川乗っ取りとか井上元兼粛清の事も洗いざらい話せだと?そんな事は最早忘れたわ。



貴様は今まで食った餅の数を覚えているのか?

晩年期 晩年期の元就。今にも死にそうな顔をしている。

数十年間に及ぶ尼子との戦いもようやく決着がついてなんとか山陽山陰を統一したんじゃがのぅ、尼子攻めの最中わしの最愛の嫡子隆元がようせt…た…



隆元??????!!!わしの隆元ぉぉぉぉぉ????!!!


(以下元就が発狂したため強制終了)
ちゃんとした概要
若い頃

尼子と大内に挟まれた弱小豪族の出身。しかも嫡男ではない。ちなみに、元就が滅亡寸前の毛利家を救ったなどと言われるが全くのウソである。こんな弱小豪族、わざわざ滅ぼすまでもない。普通、日本の戦争においては、身分の高い一部の侍が殺されるなり追放されるなり、あるいは出家させられるなりして終わりというのが慣習である。どう考えても毛利家はそこまでのレベルに達していない。結局、元就の欲得ずくだったというわけである。

兵など所詮捨て駒よ!』が口癖だったという逸話が示す通り、彼は血も涙も無い策略家だったのである。
中年サラリーマン時代

厳島で村上水軍が陶晴賢を討ち取ってくれた。これを自分の功績だと捏造し、評判を挙げている。

この頃から歴史の捏造を思いつき、大内家の供養をしたり、悪い事が書かれた書状を処分したりし始める。
晩年

晩年は愛嬌のあるボケ老人と化した(演技または照れ隠しだとも言われている)。

厄介なことに「これ以上版図を拡大せず、毛利家を維持することに心血を注ぐように」という遺言を残してしまった。日本の場合、いわゆる「偉大な創業者」がそういう言葉を残してしまえば、その言葉の影響力は計り知れないものとなり、時代ごとの情勢の移り変わりに応じた柔軟な対応など不可能になってしまうのだが、元就にはそこんところが良く分かっていなかったようだ。

結果、息子・隆景や孫・輝元はこれを忠実に遵守し、消極的な行動に終始。織田信長に押されまくった挙句、サルの犬に成り下がった。

ここまではまだ良かったのだが、関ヶ原の戦いにおいては家中で意見が分裂したまま戦いに突入し(しかも表ではなく裏で対立というのが酷い)、三国一の名城・大坂城と豊臣秀吉の遺児・豊臣秀頼を擁していながら、三河のタヌキにうまいこと欺かれ、なにもせずに大坂城を退去。その後、領土を大幅に減らされてしまう。天下さえ望めたというのに、いったいどうしてこうなったのか。

これについて、「(毛利家は)もともと弱小豪族で?、内部がガタガタだしぃ?」などと言い訳する毛利厨がいるが、これはおかしい。徳川家だって元豪族だ。秀吉にいたっては農民である。両者とも元就よりずっと若年なのに、なぜ毛利家より強固な政権を作れたのか。それは両者が優秀だったからというだけでなく、元就が無能だったからに他ならない。
元就の死後の毛利家

元就が死ぬと、元就によって酷い目に合わされてきた大内、尼子の遺臣達が捲土重来を期すべき策動を開始した。その旗頭となったのが常軌を逸したマゾヒストぶりに定評のある山中鹿介である。鹿介は上洛し、覇権を握りつつあった織田信長と折衝を行い、中国地方攻略を任された、信長股肱の臣の一人である羽柴秀吉の後ろ盾を得る事に成功した。尼子家の生き残りである尼子勝久を擁立した鹿介によって統率された大内、尼子残存兵は頗るつきに精強ではあったものの、後ろ盾の秀吉はどうせ烏合の衆だし役に立たんだろうと、捨て石も同然にぞんざいに扱った。そのため鹿介は最終的には数で圧倒され壊滅、鹿介は捕虜にされるが数度にわたって脱走を試み一矢を報いようとするも殺害された。

その後、小早川隆景の尽力により豊臣政権下で優遇されたが、あまりに豊臣政権と癒着しすぎてしまったため関ヶ原の合戦で西軍に属してしまい、領土を大幅に減らされたのは周知の事実である。輝元の無能さばかりが強調されているが、隆景が「過ぎたるは尚及ばざるが如し」を逸してしまったために招いた失態だ、というひねくれた指摘もある。少なくとも、輝元はじめ長州藩士達はそう思い込み、一種の逆恨みとも言える怨嗟を隆景に抱いた。おかげで隆景の霊廟はあまり立派に創建されることはなかった。
三本の矢の逸話

ある時元就は三人の息子隆元、元春、隆景を呼び出し矢を一本与えてこれを折ってみよと命じた。息子達が難なく? 3bfa ?れを折ると元就は今度は3本の矢を与えて折ってみよと命じた。一本の矢は脆くとも三本合わさればそう簡単には折れない、という教訓を息子達に与えようと思っていたのだが、猛将である次男吉川元春は力ずくで3本の矢を纏めて折ってしまい、知将である三男小早川隆景は『一本ずつ折れば例え3本でも造作も無い事』と言って一本ずつ矢を折ってしまった。

一気に場の空気は白けてしまったが空気の読める人だった長男隆元はその気まずい雰囲気を察すると渾身の力を振り絞っても三本の矢を折ることが出来ない演技を見せ、元就を感心させた。元春も隆景もこれを境に、例え武勇の誉れ高く知恵者であっても、空気が読めなければ生き残れないという事を学んだ。

だが隆景は「失礼ながら父上、今気づいたのですが、もしかして元ネタチンギス・ハーンですか?あれは矢が7本だったからうまくいったのであって、たった3本ではこうなりますって」と忠告した。何を勘違いしたのか、これを聞いた元就は71歳になるまで子作りにも励み、さらに7人の息子をもうけたのであった。

しかし、改めて妾腹の息子七人を集めて行った際は、第九子が未だ乳幼児だったせいで七本の矢以前に一本の矢の時点で挫折を味わい、絶望のあまり天寿を全うしている。
元就の子達

小早川秀秋

毛利隆元

毛利てる


五龍の方宍戸隆家妻)

吉川元春

吉川きく


小早川隆景

小早川ちぬ


穂井田元清

毛利ふたなり

毛利敬親

その他あれとかこれとか

元就の可愛い捨て駒達「可愛い捨て駒…何と矛盾した言葉か!」
? 毛利家臣団 について、毛利元就

元就に馬車馬のようにこき使われつつも彼に忠誠を誓ったマゾヒスト達。渡辺通
に至っては父を元就に殺されておきながら、彼のために命を散らした。


宍戸隆家(「娘に惚れた馬鹿は使い易い」と、一族ごとこき使われる)

志道広良(80近くになるまで元就にこき使われた)

井上元兼(発言力が大きめだったため邪魔になり元就に粛清された)

赤川元保(井上と仲がいいというだけで粛清される)

児玉就忠(頭はいいが馬鹿正直で使い易いと、新規開拓営業要員としてこき使われる。後年、ストレスが祟って若死に)

桂元澄(馬鹿正直で使い易いと、明治維新までこき使われている)

渡辺通(馬鹿正直で使い易いと、子々孫々まで人柱要員の栄誉を賜る)

国司元相

福原貞俊

吉見正頼

天野隆重

熊谷信直

毛利元就の名言

 「私は、歴史家になりたかったんだ。」
毛利元就に憑依された人物

毛利敬親

幕末の長州藩藩主。長州藩の霊媒師村田清風などが彼に元就を憑依させた。通称そうせい候。


毛利小五郎、毛利蘭

毛利元就の子孫らしい。ちゃっかりアニメでもネタにしていた。


中村橋之助(通称ハッシー)

中原茂

石川英郎

毛利名人

毛利衛

関連項目ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「毛利元就」の項目を執筆しています。ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「毛利元就 (NHK大河ドラマ)」の項目を執筆しています。

織田信長

豊臣秀吉

大江広元

厳島

長州藩

山口県

長門

周防

1558年ワールドカップ日本代表

ヤン・ウェンリー

クソ記事に注意!!
この記事はクソです。筆者自身がそれを認めます。

d6a 隆太「ラわーん! あんちゃん、この毛利元就はまだ書きかけじゃあー! シゴウしたるぞ!」
元「なんじゃと! くやしいのう、くやしいのう。お、おどりゃなんとかせんかい! 誰でもいいけえ、加筆してつかあさい。」 (Portal:スタブ)


更新日時:2017年2月1日(水)11:01
取得日時:2019/11/23 09:16


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出典: へっぽこ実験ウィキ『アンサイクロペディア(Uncyclopedia)
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