曹操(そうそう Cao C?o、154年または155年 - 220年)は、中国の魏の太祖武帝。字は知る人ぞ知る孟徳(もとの字は「?利」、幼名は阿瞞)。その一方、『三国志演義』という「作り話」では、(つかさ みさお:So-So、英語で「まあまあ」の意)と言った明初期の羅貫中(羅本)の電波によって、まるで悪人のようにまつりあげられてしまった大変かわいそうな人物である。ついでに言うなら独裁者とか思われてるらしいが、決してそんなこともなく結構議論好きとして知られる。同時に午年生まれの詩人でもある。 宦官の曹騰 様々な文学作品において残虐超人に分類されている曹操であるが、それらの記述のほとんどは過剰な誇張表現が含まれている。
目次
1 略要
2 曹操の実情
2.1 作品中の曹操描写
2.2 曹操の功績
2.3 曹操の功罪
2.4 曹操批判に関する反論
3 三国志ウヨ(曹操信者)
4 その他有名な台詞
5 猫ひろしとの激闘
6 VSヘラクレスオオカブト
7 だからネタだって言ってんだろ!
8 関連項目
8.1 おまけ
略要
曹操の実情
作品中の曹操描写 攻めの戦いには滅法強いが、奇襲には弱かったりする曹操孟徳。関羽が一番苦手なんだけど、実は関羽大好き。
『三国志』「魏書」武帝紀(正史・曹操の伝記
『曹瞞伝』(著者不明)においては、「治世においては能臣、乱世においては奸雄」と評されたとしている。
『後漢書』「許劭伝」(著者は范曄)においては、 「清平の世においては奸臣、乱世においては英雄」と評されたとしている。
『華陽国志』(蜀漢の郷土史、著者は常據)においては、曹操の築いた魏の勢力は三国のいずれの中でも抜き出でており、蜀や呉は常に脅えている状態となった。
『続漢書』(著者は司馬仲達の従孫の司馬彪)では袁術の姉婿である太尉楊彪を警戒し、その子の楊脩(袁術の甥)に対しても「勝手にわが子の子建(五男・曹植の字)を煽りおった!」としてこれを処刑している。
『漢末英雄記』(著者は王粲)では、洛陽の北都尉時代に、師の廬植に伴われて遊学した14歳の劉備と出会い、意気投合した。
『三国志裴註述』(廬弼が嫌いな林国賛の著作)執拗に漢の簒奪を勧めた功労者の荀ケを「四百年の歴史ある漢を反転させた大罪を犯した」と称して、これを楊州寿春県で自害させている。
『三国志?疑序』(銭大マの自著)では、曹操の元の字は「?利」(欺瞞の意味)で、兄の曹喬(玄徳/元徳)が早世したので、長兄を指す「孟徳」に改名したという。
『三国志集解』(検証厨の盧弼の作品)では、「曹操孟徳」と呼ばれると激怒する。それはアントニオ猪木寛至やジャイアント馬場正平、ジャンボ鶴田友美と言っているようなものだからである(あくまでも「曹孟徳」である)!!
『魏略』(著者は魚豢)では、かつていとこの曹邵(曹真の父)が190年に豫州牧黄?に殺害されたため、黄?に恨みがあった。
『元本』(『大徳元本』、著者不詳、モンゴル王朝の元代の大徳年間に刊本した野史)では、212年夏に黄門侍郎黄奎(黄?の子)は、息子の馬超の反乱で追い詰められた馬騰と組んで、曹操暗殺を企む。しかし、黄奎の妻の弟・何某の密告で、馬騰、黄奎一族らは5月に処刑された(曹操は亡きいとこ曹邵の仇を討ったのである)。
『蒼天航路』においては、黄巾党の乱の残党を引き入れ、それを軍事力として活用している。
『横山光輝三国志』においては、赤壁の戦いで劉備・孫権の指導者二人が曹操の野望を挫いたこととしている。
『三国志演義』においては、まるで世界征服を目指した大変欲深い人物のように描かれている。
『真・三国無双』においては、張遼に策を授けて合肥を守りきらせたとされている。また、織田信長と共に遠呂智と戦った人物である。
『爆笑三国志』では、人材コレクターマニアである。彼は他の群雄に仕える武将を欲しがる人物にされてる。
(これらは全て自虐史観に基づく捏造で、実際の曹操像を大きく歪めてきたとされている)
曹操の功績
実際の人物像は、「わしは周の文王となると」称して、後漢王朝の皇帝をよく助けた忠義の臣であった。
魏王朝による漢簒奪は、曹操の死後、嫡子曹丕(三男)が亡父に代わって行ったことであった。
黄巾の残党を兵役と農業の両者に従事される「屯田兵」の制度を取り入れて、同地域や蝦夷地(現在の北海道)の農業の復興を図った。