なお、形而上学と対を成す考えが実存主義である。ようは、ワケガワカラヌナニカという段階で情報や感覚を小脳に止めおくのではなく、実存、すなわち存在を小脳をすっ飛ばして大脳皮質でしっかりと認識するシステムをくみ上げることも可能であるという学問で、「実存は本質に先立つ」という言葉が存在するとおり、天才どもが数学の途中の式をすっ飛ばして答え、すなわち本質だけ書くよりも、しっかりとどういった思考をもってその答えを導いたかを書かないと、世の中しっちゃかめっちゃかになるだろうが、というこれまた大変によく知られた考えではない。絶対にない。しかし、形而上学の正反対の思考としては正解である。
実際、歴史問題や医療の分野で感覚もしくは小脳だけ、いわゆる天才に分類されるバカどもが分野をリードすると大変ろくでもないことになることが多く、一つ一つの事実を積み上げて検証して、その上でまた別の意見を戦わせることで発展する、小脳の天才より大脳の思考のほうが必須の学問もあることは確かである。むしろ、そっちのほうが多い。そこをあれだ。形而上だか哲学なんだかしらねえが、いきなり小脳全開システマ? 2ad1 ?ィックに天才ならぬ天災的に最先端分野をひっかきまわされると、どこぞのルイセンコやファン・ウソクのごとく学問全体が迷惑するため、大脳皮質が判断してわけがわからぬ愛国心やらなにやらという要素を取っ払うこともまた学問にとって重要である。ある意味、人々を熱狂に乗せずにしっかりと判断できるようにするという点において、天才大好き宣伝万歳であるファシズムや共産主義の大敵のような考えである。
もっとも、この考えを世に広めたジャン・ポール・サルトルという斜視のオッサンの精神がネジくれ曲がっていたことは確実であり、普通に「地獄、それは他人だ」と人嫌いにもほどがある名言を残している人間が、若い時分は共産党を支持。その後に大喧嘩して分かれた上で復縁と別離を繰り返す時点で、存在そのものが皮肉としか言いようがない。事実、歴史に残る皮肉屋である。このように、大脳皮質全開で思考する結果、信条や思考、宗教に支持政党といった関与が繰り返されると、人間の精神はどこまでもどこまでもねじくれるという話は20世紀にいくらでも存在する。そのため、そういった外部的な影響を受けない個人的な思考の粋である形而上学がいつまでもどこまでも生き残るのもまたしょうがない。きっと。
言葉にしないという正解
関連項目
哲学
アリストテレス
実存主義
松鶴家千とせ・・・「わかるかなぁ?わかんねぇだろうなぁ?」
コンセプト
なぜ何もないのではなく、何かがあるのか
更新日時:2018年7月3日(火)21:05
取得日時:2021/01/08 02:42