大坂の陣(おほさかのぢん)とは、1614年?1615年にかけて、真田幸村を筆頭とするテロリスト達が大阪城を占領し、豊臣秀頼、淀殿らを人質に立て篭ったテロ事件。交渉や小規模の戦闘が1年近く行われた末に交渉決裂し、幕府の威信低下を恐れた徳川家康の命により最終的に徳川軍による総攻撃が行われ、大阪城は炎上、秀頼や淀殿を含む人質の大多数が死亡した。日本の歴史上の中でも最大規模のテロ事件とされている。目次 1600年
1 発端
2 決行
3 膠着
4 冬の陣
5 和睦
6 夏の陣
7 戦後処理
8 後世への影響
9 関連項目
発端
新たに発足した新政権、徳川幕府もこれらの浪人達に救済の手を差し伸べることなく、やがて暴徒化した浪人による乱行狼藉が多発する。特に商業の中心、堺のある大坂にこれらの浪人が集うようになり、万引き、強姦、強盗、密貿易などの犯罪が横行。大坂の治安が極度に悪化した。家康は近隣の大名に命じて幾度か鎮圧させた。
この状況を冷静に眺めていた男がいる。ゲリラ戦を得意とし、日本のチェ・ゲバラと呼ばれた真田幸村である。彼は父真田昌幸から心理戦と情報操作、撹乱を学び、盟友直江兼続から人身掌握、挑発、洗脳を学び、さらにその主君上杉景勝から、時が来るまで断固として動かない忍耐力を吸収していた。幸村は配下の忍者猿飛佐助、霧隠才蔵に書状を遣わし、全国で自らと同じ鬱屈したその日暮らしを送っている毛利勝永、明石全登、後藤又兵衛、塙団右衛門、大谷吉治、長宗我部盛親ら同志に蜂起を呼びかける。なお豊臣恩顧の大名である福島正則らは、既に家康の犬に成り下がり、外様ながらもそれなりの知行を得てそれに甘んじているため幸村はハナから当てにしておらず、むしろ家康に密告される恐れさえあったため書状は送らなかった。また八丈島の宇喜多秀家にも書状が使わされたが、八丈島の安穏に慣れきってしまった秀家は「今更何時代遅れなこと言ってんの」と書状を破り捨ててしまった。しかし後に秀家は心変わりしたのか八丈島から大阪城まで凄まじい距離の海峡横断をすることになる。書状に記された決行の日は1614年。刻一刻と運命の時が迫りつつあった。 1614年、幸村らは一斉に大阪城を襲撃、占拠した。綿密に練られた数年越しの計画だったが、実行は鮮やか過ぎるほどの一瞬?
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??出来事であった。堅牢な城郭も幸村の鮮やかな采配の前では何の妨げにもならなかった上、木村重成 幸村ら大阪側は次なる要求を突きつけ、交渉役として、たまたま大阪城に秀頼のヘルパーとして来訪してこのテロに巻き込まれた片桐且元
決行
膠着
俺らを一生扶養しろ
俺ら武辺者が活躍できるように外国に攻め込むなどしてとにかくテロを起こしてそれを維持しろ
俺らを追い出した馬鹿君主を改易しろ(後藤又兵衛、塙団右衛門談)
俺たちの前で頭を地表に擦りつけて一時間土下座しろ
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信仰の自由を認めろ
等と言う、到底受け入れられない無理難題を押し付けるものばかりであった。無論幸村もそれは承知であり、受け入れられないことを存分に理解した上であえて上記の要求を挑発するような形で突きつけたのである。彼は一種の愉快犯であり、此度の行動を起こしたのも自分ひとりの力どれほど天下をひっくり返せるかと言う興味本位の好奇心と戦争屋の野望に触発されて起こしたものであった。筋金入りのテロリストである上に、改易され父真田昌幸も他界し、最早何も失うものが無くなったこの頃の幸村はただ自らの軍才と智謀を全国に見せびらかす事と世間を引っ掻き回す事だけが愉しみと言う危険人物に成り果てていた。しかしもはや後が無い塙団右衛門や後藤又兵衛は、幸村が誠に自分達浪人のことを思い今回の「義挙」に踏切ってくれたのだと思い込んでいた。愚直な彼らに同情の念を禁じえない。
かくして片桐且元が大阪側の全権として赴き、徳川家康は本多正純と金地院崇伝を遣わせた。受動的でネガティブな一面のある且元と、針のように鋭利で畳み掛けるような舌鋒の正純と崇伝、交渉が噛み合わずに決裂するのは目に見えており、人選ミスとしか言いようが無かった。しかし幸村は交渉が決裂する事を見越した上であえて彼らを交渉に使わせた。前述の通り幸村は愉快犯であり、大阪城の浪人達も開戦上等一色であったため出来る限り家康を挑発しようと試みたのである。対する徳川方としても人質の秀頼や淀殿に対して価値が無かったので(むしろ豊臣家は徳川家に邪魔な存在だった)、別に人質ごと浪人共殺っちゃってもいいよね、などと冗談半分に考えていた。
果たせるかな交渉は進展しないまま決裂に近い形で終焉を迎え、片桐且元は何ら実りも得られぬまま大阪城に帰還する。その間ガマンできなくなった短気な浪人衆が且元の弱気に激怒して帰還した且元を城門で待ち構えて集団暴行を加わせる騒ぎが起こった。この一件で身の危険を感じた且元は弟貞隆を連れて大阪城から密に逃亡した。これは幸村には珍しい失策であった。彼を初め、テロリストの浪人達は皆実直で朴訥な(ついでに存在感も薄い根暗の)且元が大恩ある太閤の妻子が人質になっているのを見捨てることなどしない、というかそんな度胸あるはずがないとタカをくくっていたのである。
さらにこのドサクサに紛れて織田有楽斎や織田信雄が何気なく大阪城を脱走し、且元や彼らの口から大坂城内の詳細が漏れることとなった。有楽斎が伝えたものには多少有益な情報もあったが、信雄の口から伝えられたのは又兵衛や塙団右衛門は体臭が凄かったとか隣の塀に囲いが出来たってねなど「へぇー」としか返答の仕様が無いどうでもいい情報ばかりであった。同時に秀頼に嫁いだ千姫の安否についての情報も家康に伝えられたが、家康達はこの瞬間まで千姫が秀頼の妃として大坂城内にいることをすっかり忘れていた。
千姫の父徳川秀忠は娘の身を案じて狼狽するあまりバナナの皮に滑って三日巻寝込んでしまったが、家康は「どうせお千はとっくに殺されてるから安心しろwwwwww」と秀忠を慰めた。秀忠はショックでさらに一ヶ月寝込んでしまった。 1614年の冬、家康は諸大名を統率して大阪城を取り囲んだが、暫時沈黙が保たれた。幸村は豊臣秀頼を人質の意味合いを込めて総大将として仰ぎ、先頭に立たせて一気に近江の辺りまでこちらから攻め込む作戦も立ててはいたものの、当の秀頼があまりに肥満児すぎて身動き一つ満足に取れず、100人がかりでも到底運べそうに無かったため断念した。 しかし戦闘開始の契機となったのはその秀頼であった。秀頼は蒲鉾が何よりの好物だったが、大阪城が浪人達に占拠されたことにより外部との物資流通も完全に途絶えたため蒲鉾が入ってこなくなってしまった。蒲鉾の貯蓄も切れると秀頼はいよいよ禁断症状に陥り、冬のとある日、「蒲鉾食べたい」と絶叫しながら大阪城を飛び出して東軍の陣営に突撃、無数の東軍兵士を虐殺した。この時の奮戦振りは後に「秀頼無双」として語り継がれている。 予想外の事態にさすがの幸村も仰天した。秀頼は人質の中でも最も大事な一人であるため、徳川軍に奪取、殺害される前に秀頼を連れ戻さなければ成らなかった。かくして幸村は精鋭を率いて出撃。ここに大坂冬の陣が開戦した。 しかし開戦直後、幸村は脱走してトランス状態の秀頼を十勇士と十一人がかりで押さえ込むとそのままとんぼ返りで大坂城内に帰還、以降は篭城の構えを見せる。二重の堀に囲まれた堅城の中と外で、テロリスト達と徳川軍のにらみ合いが続いた。 しかし、淀川
冬の陣
和睦
夏の陣 度重なる特攻に加え、
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藤堂高虎が建造したコロニーレーザー?による遠距離射撃攻撃で炎上、倒壊する大阪城 秀頼以外の男によって千姫が汚された瞬間。後に秀忠はマリオを全国に指名手配したが、結局捕らえる事は出来なかった。祖国のイタリアに逃亡されちゃあ無理もない。
食料に飢えた大坂軍の塙団右衛門らが城から出撃し堺を荒らしまわったことで夏の陣が開戦する。この戦闘で堺は壊滅的な被害を受けるが、一説にはドサクサに紛れて鎮撫に当たった徳川軍も略奪を行っていたと言う。まあ戦なんていつの時代もそんなものである。この前哨戦で団右衛門らは討死する。
交渉が完全に決裂し人質の安否もほぼ絶望的と判断した家康は形振り構わず総攻撃に出る。家康は大阪城目掛けてTMTや対艦ミサイルや排泄物などを手当たり次第に打ち込み、戦闘機の操縦技術が巧みな選りすぐりの旗本達に大阪城目掛けてF-2やらF-15やらF-22やらF-35やらハリーポッターやら殺せんせーやら初音ミクやらを手当たり次第に出動させ、ついには発狂して、神風特攻までさせた。もはやどっちがテロリストなのか分かったもんじゃない。さらに正面の浪人軍に対しては藤堂高虎、井伊直孝らを正面からぶつけ、掃討作戦に当たらせた。テロリスト軍はよく持ちこたえたが、後藤又兵衛が伊達政宗とのイタチゴッコの末に騙し討ちにされたりハリーポッターがアバタケタブラと叫んだり思わぬアクシデントが相次ぎ劣勢となる。
最後を悟った幸村達は家康と刺し違えんと全軍具足を脱いで全裸となってトランザムモードを発動し突撃、家康の秀忠の旗本達はこの死に物狂いの露出狂集団に恐れを抱いて蜘蛛の子を散らすが如く逃げ惑い、幸村らは文字通り家康の本陣にまで肉迫した。しかし、美味しいところを掻っ攫おうとしていた伊達政宗らがこの時を見計らって突撃し、徳川軍が勢いを巻き返す。日本のチェ・ゲバラと呼ばれた幸村らも討死し、翌日ついに大阪城は陥落、炎上。勿論秀頼、淀殿を初め人質の大半が死亡した。この最悪の結末に、家康は「大変遺憾に思っております」と発言。その時三河訛りが入ってしまったため、遺憾なのか如何なのかそれともイカ臭いと言うつもりで言ったのかという論争が盛んになり、それは現在まで続いている。ちなみに秀頼の妃となっていた千姫は、たまたま大阪城に潜入していたマリオが救出したが、性欲を持て余したマリオは千姫とぴーしてしまい、千姫を心身ともに酷く傷つけた(この件は幕府によって隠蔽され、坂崎出羽守が頼みもしないのに千姫を救い恩着せがましく千姫を嫁にしようとしたという話にすり替えられた)。後に千姫が淫乱な女になってしまった(その為、千姫の再婚相手の本多忠刻は搾り取られた果てに干からびて死亡した)のはこの時のマリオの鬼畜な行動が原因である。なお、心身ともにボロボロの千姫の姿を見た秀忠は「秀頼と一緒に死んだほうが彼女にとって幸せだったのかもしれない」とコメントした(しかし娘の心情を思ってしたこの発言は後日、娘の無事を喜ぶどころか迷惑に思う冷酷な父親の発言として誤って伝えられた)。
戦後処理 豊臣家を殲滅させ欣喜雀躍する家康。
戦後、徳川軍による徹底した残党狩りが行われ、千姫と秀頼の息子豊臣国松丸が辛うじて脱出していたものの、残党と間違われて殺された。わざと殺したんじゃないのと言う追及に対し、金地院崇伝は「よくあること」ととぼけている。
秀頼の娘の奈阿姫は誤殺(?)を免れ、犠牲者の供養という名目で鎌倉の東慶寺に入れられ天秀尼と名付けられた(これは徳川軍が国松丸をわざと殺したと彼女が訴えるのを封じるためであった)。しかし国松丸は意図的に殺されたと確信した天秀尼は、替え玉を使って東慶寺を抜け出し九州の天草に潜伏。男装して天草四郎と名乗り幕府への復讐を誓うのであった。そして島原の乱を起こすのであった(それを証明するかのように幕府公認の縁切寺であるはずの東慶寺には隠れキリシタンゆかりの品が残されている)。結局、乱で敗れるが今度は複数の替え玉を用意し脱出。海外に逃亡した。
生き残った残党の内、明石全登は主宇喜多秀家を頼って自らも八丈島まで泳いでいった。一方、あくまで自家再興に固執し再起を図らんと潜伏していた長宗我部盛親は結局捕縛され斬首されたと言い伝えられているが、本人はすでに関ヶ原の戦いで死んでいる。 この一連のテロ事件は、ジョージ・ウォーカー・ブッシュとオサマ・ビン・ラディンのテロ戦争の縮図だ、などと評論家気取りに言われる事がある。なおその際、ブッシュは何故か家康ではなく秀忠に置き換えられる。2世、ボンクラ息子と呼ばれるなど共通点が多いからであろうが、秀忠もブッシュの馬鹿息子なんかとは一緒にされたくねえと草葉の陰で思っているに違いない。 また世間を震撼させたテロリストであるにも拘らず、幸村は江戸時代から英雄と持て囃され御供のごろつきである真田十勇士
後世への影響
関連項目
グラウンド・ゼロ
豊臣秀頼
淀君
真田幸村
大阪城
徳川家康
566
更新日時:2017年12月30日(土)14:53
取得日時:2021/01/12 14:43