吾妻鏡
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吾妻鏡(あづまかがみ、東鑑)とは、平安時代末期から鎌倉時代中期までの歴史の推移を叙述した歴史書の一つ。題名は、朝廷から「東夷(東国の蛮族)」と嘲笑、侮蔑されていた武士階級が、自虐の念を込めて名付けたという。成立年代は鎌倉時代後期、第9代執権北条貞時の治世の頃で、主な編纂者は北条一門や得宗被官と呼ばれる、執権に近侍して雑務や取次ぎを行う執事達であった。その為北条氏にとって都合の良いように潤色されていることは言うまでもない。が、潤色、歪曲を勘案しても、総合的に歴史書としての出来栄えは良質な方で、鎌倉幕府が朝敵として後醍醐天皇と新興武士達に滅ぼされた後も武士階級に愛読され、多くの写本が流布した。徳川家康もこの本を愛読し、勝者にとって都合の良いように歴史を塗り替える技法と、将軍から政権をなし崩しに強奪してゆく北条氏の狡猾さを吸収した。

武士の中でもインテリの階級が、大鏡今鏡、水鏡に続く、所謂「鏡物」と呼ばれる歴史物語の続編を作ろう、と立案したのが成立の経緯である。かくして編纂された吾妻鏡は四つ目の「鏡」に認定される…はずだったが、武士を忌避する朝廷の公家達は、野蛮な武士共、ましてや朝廷に弓を引いた「逆賊」たる北条氏が製作に深く関与した吾妻鏡を鏡物に指定する事を頑なに拒み、文才のある女官に「増鏡」を欠かせてそれを「四つ目の鏡」に認定してしまった。関東の自治体、就中鎌倉市は吾妻鏡こそ四つ目の鏡であると、今尚主張している。
概要

武家政権発足の口火を切った以仁王の挙兵から、宗尊親王が濡れ衣を着せられて将軍職を更迭され、京都に送還されるまでが叙述されている。成立したのが北条貞時の時代なので、書こうと思えば蒙古襲来辺りまで書けたはずだが、筆はここで途絶えている。何か書けない事情があったのだと思われる。

武士の興隆から源頼朝による武家政権の樹立、そしてその政権を北条氏が「正当な理由を以って」簒奪し、磐石にするまでを描いた、武士の歴史物語とでも言うべき文書だが、武家政権の父というべき源頼朝の事跡については、その偉大さに反してなんとも等閑にされている。おまけに、後世死去の前後の記述が落丁してしまったため、歴史家達に北条氏が頼朝を暗殺したと喧伝させる口実を与えてしまった。

2代将軍頼家については、罵詈雑言を並べ立ててそこ「悪行」を弾劾しており、死後100年近く経過しても、頼家は北条氏にとって敵、危険人物と看做されていた事が分かる。頼家を好意的に解釈してくれる史料や歴史家は殆ど存在しなかったため、吾妻鏡で描かれた「暴君」の評価が定着した。吾妻鏡の編纂者達としては、してやったりである。

北条氏が編纂に深く関っただけあって、北条一門は全体的に礼賛、正当化される傾向にある。特に北条泰時北条時頼辺りに至っては、贔屓の引き倒しといっても差支えないほど礼賛されており、かえって胡散臭さを感じさせる。一方で、4代執権北条経時については、弟時頼と比較すると凡庸な人物だったと描写しており、経時に子がいながら強引に執権の座を奪取した時頼の行為を正当化させたい筆者の意図がうかがわせる。
コピペ疑惑

『明月記』『玉葉』など、公家の日記から記述を丸々コピペしている箇所がある。著作権を侵害している事は明白であり、現代のコピーライター達はこの事実を援用して「良質な歴史書ですら著作権侵害してるんだから、俺達がちょっとくらいコピペしたっていいじゃないか」と屁理屈をこねている。

だが、吾妻鏡の成立年代も鑑みると、玉葉、明月記とも、成立年代より50年以上前に書かれた日記であるため、実はギリギリ著作権法に抵触していない。

そもそも中世に著作権法なんてあったのか?という指摘もあるだろうが、『古今著門集』の中に、他人の日記を勝手にコピペして出仕停止処分を食らった公家の説話が収録されており、検証に基き中世にも著作権法があったことは立証されている。
関連項目

植草一秀 - 鏡は鏡でも「歴史書」ではなく、実物として使用し、御用となった。おかげで「ミラーマン」の異名が定着した。


更新日時:2017年2月25日(土)10:55
取得日時:2019/09/20 12:58


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