北条義時
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北条 義時(ほうじょう よしとき、長寛元年(1163年)?元仁元年6月13日(1224年7月1日))は、鎌倉時代の武士、政治家。鎌倉幕府2代執権。親父のコネだけで枢機に参与できた二代目のボンクラ息子と思われていたのに、気付いたら天下人になっていた不思議な人。水面下の根回しや謀では右に出るものがいない。妹婿人を殺す、親を追放する、皇族に弓を引くなど、背徳的行動を恐れ多くも次々やってのけた。

通称は江間小四郎。外人からは「小カトー」や「小ピット」のように「小北条」と呼ばれたり呼ばれなかったりする。また、「義」時と名乗ったのは周りの御家人(三浦さんとか和田さんとか足利さんとか…挙げてるとキリがないんで省略)たちにやたらにこの字を使っている人が多いので、「じゃあ自分も!」と思ったためらしい。幼少時は性格が良かったためとする説もあるんだとかないんだとか。
目次

1 出自

2 若年期

3 台頭

4 水面下の暗躍

5 時政追放

6 和田合戦

7 実朝暗殺

8 承久の乱

9 晩年

10 偏諱を与えた人物

11 関連項目

出自

相模の豪族北条時政の次男として誕生。次男だが通称は四郎、並びに小四郎(父時政も通称四郎であったため)、兄に北条宗時がいたが、彼も長男なのに通称は三郎である。おそらく宗時の上にもう二人夭折した男児がいたと思われる。なにせ北条氏の家系図は時政以前はグレーゾーンの為、今後の研究が待たれる。

父時政、兄宗時と共に源頼朝の旗揚げに助力する。義時の姉北条政子源頼朝に嫁いでいたことから、北条氏は外戚として緊密な関係にあり、三浦氏や千葉氏の足元にも及ばぬ下賤の蛮族の分際でありながら(上総介広常弁)、頼朝政権における北条氏の地位は極めて高かった。政子の発言力もとても強かったようで、源氏の挙兵の際には頼朝と同性愛関係にあった政子の「恋敵」山木兼隆が、政子の意向によって真っ先に血祭りに上げられた。

1180年、頼朝に随従して以仁王の綸旨に呼応し、先述の通り山木兼隆を攻め滅ぼす。が、続く石橋山の戦いでは大敗を喫する。頼朝達は散り散りになってほうほうのていで遁走し、父時政と行動を共にした義時は逃げおおせたが、北条一家全滅を避けるため別行動をしていた兄宗時は敗走の最中追っ手の手にかかり非業の死を遂げる。兄宗時が死んだ事で義時は北条氏の嫡男となった。策謀を巡らせ政敵を次々葬った後の世の義時を知る後世の人間は、夭折した兄二人も、この宗時も、ドサクサに紛れて義時が亡きものにしたと勘繰った。このような切迫した状況で後の権力強奪を展望して身内を殺すようなことは流石の義時でも出来るわけなかっただろう。
若年期

後に二代執権として辣腕を振るい磐石の北条氏政権を確立した義時も、若い頃は鳴かず飛ばずであった。正室政子の血族の恩典に浴し、頼朝の親衛隊に抜擢され、源平合戦では源範頼に従軍して各々の合戦に参加したが、顕著な武功は見られない。北条氏贔屓で書かれているともっぱらの評判である吾妻鏡でさえ、義時の戦功に関する記述が全くないことから、義時は1歳年上の梶原景季や1歳年下の 妹婿畠山重忠、生年不明だが歳は近いと思われる佐原義連のように華々しい武功は全くと言っていいほど挙げられなかったようだ。

源平合戦の後の奥州合戦にも従軍するが、妹婿畠山重忠がここでも抜群の武功を挙げ、由利維平にその廉直な人柄を称揚されたのとは対照的に、義時もそれなりに活躍したものの重忠のような鮮やかな武功は見られなかった。義時は堅実ではあったが、ライバル達に遅れを取っているのは明 3ff0 白だった。父時政は息子の愚鈍ぶりを歯軋りする思いで見ていたに違いない。この頃の義時は完全に空気と化していた。「俺の知り合いに江馬小四郎(義時の通称)なる者を知っているかたずねたら 「誰それ?」「外人?」「歌?」こんなもん」
? 北条義時 について、某御家人

これは愚管抄にある当時のある御家人による義時評である。義時の空気っぷりを端的に現しているといえよう。私生活の面でも気性の激しい姉政子に気圧され、浮気性の頼朝が「俺が浮気した時は義時を俺と思って存分に八つ当たりしてくれ」
? 北条義時 について、源頼朝

などと無責任なことを言ったものだから、義時はしばしば政子に理不尽な八つ当たりをされ、愚痴を聞かされ、時には半殺しにされた。
台頭

頼朝が死に嫡男源頼家が2代将軍となり、御家人達の間で軋轢が生じて紛擾を呈してくると、父時政は北条氏による権力独占を目論み、政敵を次々と陥れ粛清してゆく。そして義時というマムシも俄然鎌首をもたげ始める。

義時は父時政に随順して、梶原景時や比企能員一族など、政敵の粛清を迅速にこなしてゆく。比企一族粛清の際には、弟北条時房と共に比企邸に奇襲を仕掛ける電撃作戦を立案。不意を付かれた比企一党は為す術なく討ち取られていった。時政による2代将軍源頼家追放にも加担、後に頼家は北条氏が送り込んだ刺客に殺害された。

ようやく頭角を現してきた義時だが、一方で彼に廃嫡の危機が迫っていた。父時政に従順で、意のままに動き、命令を卒なくこなし扶翼していた義時が何故廃嫡されそうになっていたのか、その原因は時政の愛妾牧の方にある。時政は牧の方を大層気に入り厚遇した。牧の方は権威欲旺盛な相当の野心家で、時政との間に設けた我が子北条政範を嫡子とさせ、執権の座につけようと画策していた。時政は後継を政範に定めるらしいという風聞は日に日に伝播し、関東中の知るところとなったが、それでもなお義時自身は時政に従順であった。
水面下の暗躍

だが義時が時政に従順であったというのはあくまで表面上のことに過ぎない。水面下で義時は時政と牧の方を追い落とすべく策動していたのである。

クーデターの嚆矢として最初の生贄に捧げられたのは、義時から家督を簒奪しようとしていた弟北条政範である。政範は3代将軍源実朝が公家の娘を伴侶に迎える際、彼女を迎えに上京したが、突如病に罹り京都で死去した。この件に関して、義時は限りなく黒に近いグレーと言える。義時の悪辣さはこれに留まらない。彼は何と牧の方、ついでに彼女の一派の御家人で、政範と懇意の仲にあった平賀朝雅に政範が暗殺された事を示唆した。当然自分が黒幕であるとは言わない。義時は犯人として畠山重忠の次男、畠山重保の名前を示唆した。

重忠は「秩父党」と呼ばれる武蔵の諸豪族を率いる有力御家人で、北条氏の「政敵」の一人であった。彼は牧の方の縁者を葬り去る一方で彼女を教唆し、政敵畠山氏を陥穽に嵌めようと画策していた。若い頃気性の激しい姉北条政子に散々な目に会わされて来た経験がここで生きた。政子の機嫌を損ねないようおべっか使いをしている内に、義時は女性の扱いが(色々な意味で)得意になっていたのだ。「ほう、経験がいきたな」
? 北条義時 について、某御家人


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