北条義時
[Uncyclopedia|▼Menu]
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「北条義時」の項目を執筆しています。

北条 義時(ほうじょう よしとき、長寛元年(1163年)?元仁元年6月13日(1224年7月1日))は、鎌倉時代の武士、政治家。鎌倉幕府2代執権。親父のコネだけで枢機に参与できた二代目のボンクラ息子と思われていたのに、気付いたら天下人になっていた不思議な人。水面下の根回しや謀では右に出るものがいない。妹婿人を殺す、親を追放する、皇族に弓を引くなど、背徳的行動を恐れ多くも次々やってのけた。

通称は江間小四郎。外人からは「小カトー」や「小ピット」のように「小北条」と呼ばれたり呼ばれなかったりする。また、「義」時と名乗ったのは周りの御家人(三浦さんとか和田さんとか足利さんとか…挙げてるとキリがないんで省略)たちにやたらにこの字を使っている人が多いので、「じゃあ自分も!」と思ったためらしい。幼少時は性格が良かったためとする説もあるんだとかないんだとか。
目次

1 出自

2 若年期

3 台頭

4 水面下の暗躍

5 時政追放

6 和田合戦

7 実朝暗殺

8 承久の乱

9 晩年

10 偏諱を与えた人物

11 関連項目

出自

相模の豪族北条時政の次男として誕生。次男だが通称は四郎、並びに小四郎(父時政も通称四郎であったため)、兄に北条宗時がいたが、彼も長男なのに通称は三郎である。おそらく宗時の上にもう二人夭折した男児がいたと思われる。なにせ北条氏の家系図は時政以前はグレーゾーンの為、今後の研究が待たれる。

父時政、兄宗時と共に源頼朝の旗揚げに助力する。義時の姉北条政子源頼朝に嫁いでいたことから、北条氏は外戚として緊密な関係にあり、三浦氏や千葉氏の足元にも及ばぬ下賤の蛮族の分際でありながら(上総介広常弁)、頼朝政権における北条氏の地位は極めて高かった。政子の発言力もとても強かったようで、源氏の挙兵の際には頼朝と同性愛関係にあった政子の「恋敵」山木兼隆が、政子の意向によって真っ先に血祭りに上げられた。

1180年、頼朝に随従して以仁王の綸旨に呼応し、先述の通り山木兼隆を攻め滅ぼす。が、続く石橋山の戦いでは大敗を喫する。頼朝達は散り散りになってほうほうのていで遁走し、父時政と行動を共にした義時は逃げおおせたが、北条一家全滅を避けるため別行動をしていた兄宗時は敗走の最中追っ手の手にかかり非業の死を遂げる。兄宗時が死んだ事で義時は北条氏の嫡男となった。策謀を巡らせ政敵を次々葬った後の世の義時を知る後世の人間は、夭折した兄二人も、この宗時も、ドサクサに紛れて義時が亡きものにしたと勘繰った。このような切迫した状況で後の権力強奪を展望して身内を殺すようなことは流石の義時でも出来るわけなかっただろう。
若年期

後に二代執権として辣腕を振るい磐石の北条氏政権を確立した義時も、若い頃は鳴かず飛ばずであった。正室政子の血族の恩典に浴し、頼朝の親衛隊に抜擢され、源平合戦では源範頼に従軍して各々の合戦に参加したが、顕著な武功は見られない。北条氏贔屓で書かれているともっぱらの評判である吾妻鏡でさえ、義時の戦功に関する記述が全くないことから、義時は1歳年上の梶原景季や1歳年下の 妹婿畠山重忠、生年不明だが歳は近いと思われる佐原義連のように華々しい武功は全くと言っていいほど挙げられなかったようだ。

源平合戦の後の奥州合戦にも従軍するが、妹婿畠山重忠がここでも抜群の武功を挙げ、由利維平にその廉直な人柄を称揚されたのとは対照的に、義時もそれなりに活躍したものの重忠のような鮮やかな武功は見られなかった。義時は堅実ではあったが、ライバル達に遅れを取っているのは明白だった。父時政は息子の愚鈍ぶりを歯軋りする思いで見ていたに違いない。この頃の義時は完全に空気と化していた。「俺の知り合いに江馬小四郎(義時の通称)なる者を知っているかたずねたら 「誰それ?」「外人?」「歌?」こんなもん」
? 北条義時 について、某御家人

これは愚管抄にある当時のある御家人による義時評である。義時の空気っぷりを端的に現しているといえよう。私生活の面でも気性の激しい姉政子に気圧され、浮気性の頼朝が「俺が浮気した時は義時を俺と思って存分に八つ当たりしてくれ」
? 北条義時 について、源頼朝

などと無責任なことを言ったものだから、義時はしばしば政子に理不尽な八つ当たりをされ、愚痴を聞かされ、時には半殺しにされた。
台頭

頼朝が死に嫡男源頼家が2代将軍となり、御家人達の間で軋轢が生じて紛擾を呈してくると、父時政は北条氏による権力独占を目論み、政敵を次々と陥れ粛清してゆく。そして義時というマムシも俄然鎌首をもたげ始める。

義時は父時政に随順して、梶原景時や比企能員一族など、政敵の粛清を迅速にこなしてゆく。比企一族粛清の際には、弟北条時房と共に比企邸に奇襲を仕掛ける電撃作戦を立案。不意を付かれた比企一党は為す術なく討ち取られていった。時政による2代将軍源頼家追放にも加担、後に頼家は北条氏が送り込んだ刺客に殺害された。

ようやく頭角を現してきた義時だが、一方で彼に廃嫡の危機が迫っていた。父時政に従順で、意のままに動き、命令を卒なくこなし扶翼していた義時が何故廃嫡されそうになっていたのか、その原因は時政の愛妾牧の方にある。時政は牧の方を大層気に入り厚遇した。牧の方は権威欲旺盛な相当の野心家で、時政との間に設けた我が子北条政範を嫡子とさせ、執権の座につけようと画策していた。時政は後継を政範に定めるらしいという風聞は日に日に伝播し、関東中の知るところとなったが、それでもなお義時自身は時政に従順であった。
水面下の暗躍

だが義時が時政に従順であったというのはあくまで表面上のことに過ぎない。水面下で義時は時政と牧の方を追い落とすべく策動していたのである。

クーデターの嚆矢として最初の生贄に捧げられたのは、義時から家督を簒奪しようとしていた弟北条政範である。政範は3代将軍源実朝が公家の娘を伴侶に迎える際、彼女を迎えに上京したが、突如病に罹り京都で死去した。この件に関して、義時は限りなく黒に近いグレーと言える。義時の悪辣さはこれに留まらない。彼は何と牧の方、ついでに彼女の一派の御家人で、政範と懇意の仲にあった平賀朝雅に政範が暗殺された事を示唆した。当然自分が黒幕であるとは言わない。義時は犯人として畠山重忠の次男、畠山重保の名前を示唆した。

重忠は「秩父党」と呼ばれる武蔵の諸豪族を率いる有力御家人で、北条氏の「政敵」の一人であった。彼は牧の方の縁者を葬り去る一方で彼女を教唆し、政敵畠山氏を陥穽に嵌めようと画策していた。若い頃気性の激しい姉北条政子に散々な目に会わされて来た経験がここで生きた。政子の機嫌を損ねないようおべっか使いをしている内に、義時は女性の扱いが(色々な意味で)得意になっていたのだ。「ほう、経験がいきたな」
? 北条義時 について、某御家人

義時は扇情的な巧言令色を用いて牧の方を煽動し、彼女に重保、ひいては畠山一族への憎しみを扶植し、粛清させるよう指嗾した。義時に乗せられた牧の方は時政に重保粛清を促す。彼女に骨抜きにされている時政は二つ返事で承諾、重保を呼び出して騙し討ちにし、これが畠山重忠の乱を誘引、重忠ら畠山一族は殆ど滅ぼされた。
時政追放

重忠の謀反が冤罪によるものであることは明らかであった。重忠は清廉、剛直な人柄で人望が厚く、皆から尊敬されていた。さらに重忠は時政の娘婿である(義時にとっては妹婿)。人望ある娘婿を粛清した事で、時政並びに牧の方への風当たりが強くなった。これに乗じて巷間に牧の方の悪しき風聞があることないこと流布された。流布したのは当然義時である。

重忠を葬った事で、時政も牧の方も義時にとって用済みの存在となっていた。そして義時は姉政子と策動して突如時政に牙を剥き、愛妾牧の方共々北条氏の実家伊豆に追いやってしまった。女狐をけしかけ、体よく武蔵の獅子を殺した策謀は最早芸術と言っても過言ではない。この追放劇に乗じて、さらに犠牲者が二人出た。一人は牧の方シンパの御家人平賀朝雅、もう一人は畠山一族でありながら、重忠謀反に呼応せず生き残っていた稲毛重成、二人とも、スケープゴートとして祭壇に捧げられ丸焼きにされた憐れな子羊である。

義時は「牧の方は将軍実朝を殺して平賀朝雅を将軍にしようとしていた」という罪をでっち上げ、時政を追放した余勢を駆って急襲、朝雅は何が何だか分からないまま殺され、墓標に謀反人の烙印を押されてしまった。稲毛重成に関しては、これに先んじる事2ヶ月に殺された。義時は、「重忠を陥れその違領を掠め取る事を目論み、牧の方と共に重忠、重保親子を讒訴した」という罪を朝雅同様でっち上げ、さらに周到な彼は、稲毛重成がかけた橋を源頼朝が渡っている最中落馬し、これが元で死去したという昔の出来事を引っ張り出してきて「あの橋には仕掛けがあった! 頼朝公は重成に暗殺されたも同然!」
? 稲毛重成 について、北条義時

と、重成を頼朝暗殺の真犯人にまで仕立て上げてしまった。重成も朝雅同様、弁解する余地もなく殺された。この稲毛重成、重忠同様時政の娘婿である。義時は腹違いとはいえ弟と、娘婿を二人も陥れて殺した事になる。織田信長武田信玄ら戦国大名もビックリの鬼畜としか言いようがない。

もっとも、義時が煽るまでもなく、朝雅は牧の方シンパとして幅を利かせて反感を買い、重成には重忠を讒訴し陥れたという風聞が前からあって猜疑と嫌悪を抱かれていた。そして義時自身、いや北条一族そのものも、時政の走狗として幅を利かせ重忠を陥れたとして忌避されていた。義時は自らの手でスケープゴートの重成、朝雅を殺すことで、御家人達の溜飲を下げた。恐ろしい漢だ…
和田合戦

梶原、比企、畠山、北条氏と鎬を削った有力御家人は殆ど粛清され、残るは安達景盛三浦義村のように北条氏に追従するばかりのか、大江広元、三善康信、二階堂氏、中原氏などの文官のみとなっていた。そんな中、ただ一人義時と伯仲する男がいた。侍所別当和田義盛である。直情的な武人肌の人物と評されることの多い彼は、ともすれば真っ先に粛清されていたかもしれない。それがここまで生き残ってこられたということは、武人肌と言われるこの男にもそれなりの処世の才があったということだろう。しかしその和田義盛も最後は粛清された。義盛は義時から度々挑発され、ついに我慢に据えかねて1213年に挙兵、北条軍と干戈を交えるも敗れて戦死した。世に言う和田合戦である。

この合戦、現在出回っている通俗本や歴史の教科書ではさも和田義盛が無謀な挙兵をしてあえなく戦死したように描かれているが、実際はかなり危うい勝利であった。脳筋のイメージが強い和田義盛だが、ただの力馬鹿なら頼朝の信用など得られない。従兄弟の三浦義村への根回しなど、十全の準備を整えて挙兵に踏切ったのだ。義盛率いる和田の侍たちは頗る付きに精強で、さらに三浦義村が義時と義盛どちらに付くか品定めしていたため、和田合戦の趨勢は途中までどちらに転ぶか分からなかった。もしここで義村が義盛に与していたりしたら、下手をすれば義時は「赤いマントで煽った牛の角に串刺しに」されて惨めな最期を遂げ、後世に「策士策に溺れた馬鹿」という悪評を残していたかもしれない。
実朝暗殺

和田合戦の後、暫くは大事なく平穏に時は流れていた。しかし1219年、思わぬ椿事が発生する。将軍実朝の暗殺である。下手人は北条氏に将軍職を剥奪されて暗殺された2代将軍頼家の忘れ形見公暁。公暁は三浦義村の屋敷に助けを求めに行ったが三浦の郎党に殺された。下手人を討ち取った事で一応この事件は決着した。

この事件は、公暁を指嗾した黒幕がいるとよく言われる。その黒幕の候補の一人に義時の名が挙げられる。傀儡であった実朝も成長し、意のままにならず邪魔になっていた義時は公暁を教唆して実朝を殺させたというのだ。戦前、義時は後述の承久の乱後鳥羽上皇に弓を引いた「朝敵」として唾棄され、マイナスのイメージ一色であったため実朝暗殺は義時が裏で策動していたに違いないという見解で一致していた。

戦後になると、実は公暁は殺害の第一ターゲットに義時を定めており、実朝は「ついで」に過ぎなかったという旨の記述が「吾妻鏡」に記載されていること、公暁が暗殺後三浦義村を頼ったことが注目され、義時に表面上追従しながら水面下で寝首を掻く機会を伺っていたと言われている三浦義村を黒幕とする説が台頭してきた。さらに後鳥羽上皇ら朝廷を黒幕とする説まで浮上し、現在は義時黒幕説、義村黒幕説、後鳥羽上皇黒幕説の三説が鼎立している。

しかし、誰が黒幕か追及しても本能寺の変並に不毛でグダグダな議論にしかならないので、歴史学者達は誰も気にしなくなり、今ではこの黒幕論争に参加しているのは玄人気取りの歴オタと小説家のみである。
承久の乱

実朝は和歌などの宮廷文学に造詣が深く、後鳥羽上皇や朝廷の公家達とも親交が深かった。朝廷と幕府を繋ぎ止める連結環である実朝の死は、幕府、朝廷両者の関係を急激に冷却化させた。実朝の死から程なく、後鳥羽上皇は幕府に摂津国の二つの荘園の地頭の免職を要求してきた。武家棟梁の義時としては承諾できる話ではなく、これを拒絶したことが端緒となり承久の乱が勃発する。

後鳥羽上皇は板東武士達は皆北条氏の専横に不満を抱いていると確信、いや妄信し、三浦義村などの御家人に院宣を飛ばし、幕府と離間工作を盛んに行った。幕府は揺れ動いたが、頼朝夫人の北条政子が御家人達を説得して檄を飛ばした事により御家人達は一致団結、これを纏め上げた義時は息子泰時と弟時房に軍を率いさせて西上、上皇軍は為すすべなく破れ敗北した…これが俗間に良く伝わる承久の乱の顛末だが、実際のところは上皇が工作を行うに先んじて義時は根回しを行っており、上皇の挙兵も和田合戦の時と同様義時の挑発に煽動された形で上皇が立った感が強い。異説として、上皇は実朝と秘密の関係にあり、実朝は義時に殺されたと妄信した上皇が敵討ちの戦を義時に仕掛けたという話もある。

この承久の乱と言えば、姉政子による演説が有名だが、義時が裏で糸を引く腹話術で政子を操っていたのは明白である。用心深い義時は念には念を入れ、既に隠遁していた幕府の宿老大江広元、三善康信の両名の老体に文字通り鞭打って前線に立たせ、政子の言葉を後押しする言質をとらせた。この時の両者のイエスマンに徹する演技は迫真で、御家人達を大いに奮い立たせた。が、無理をしすぎたせいで三善康信の方は間もなく死んでしまった。ついでに言うと、義時はこれに前後して、甥に当たる阿野時元、公暁の弟禅暁らを亡き者にし、源氏の血筋を撲滅している。鬼畜すぎる。

承久の乱鎮撫後、西上した泰時、時房はそのまま京都に駐屯し、治安維持に当たった。これが六波羅探題の嚆矢となる。戦後処理では後鳥羽を含む三人の上皇が流刑となり、上皇方に与した多くの公家が処刑され、地頭制度も刷新されて新たな地頭が配置され、幕府の支配は西国にまで行き渡り、北条氏による執権政治は磐石のものとなった。
晩年

北条氏の政治基盤を安定化させた義時だが、晩年は側室である伊賀局に現を抜かし、腑抜けになっていた。人々はそんな義時の姿に、牧の方に誑かされていた父時政の姿を重ねた。蛙の子は蛙、義時は父と同じ轍を踏んでいた。義時は伊賀局との間に四男、北条政村を設けており、義時は酒に酔うと、「よーしパパ政村を次の執権にしちゃうぞー」などと無責任な事を良く言っていたらしい。そして1224年、酩酊状態で廊下を歩いていたところ足を踏み外して縁側に転落、後頭部を強打して昏睡状態となり一週間後に死去した。権謀術数を尽くした策謀家としてはあまりにみっともない最期であった。

義時の死の情報は、すぐさま伝播し、京の泰時、時房の下にまで届いた。伝播する途中で尾鰭が付き、京都に情報が伝わる頃には、義時は側室伊賀局に毒を盛られて死んだと歪曲されていた。朝廷のお膝元である京都では、未だに後鳥羽上皇を敬慕するものも多く、彼らとしては義時が側室に毒を盛られてみっともない最期を遂げたという話を信じたかったに違いない。今でも京都人は、義時は伊賀局に毒を盛られて死んだ、或いは朝廷に弓引いた天罰が当たって死んだと信じている。ちなみに泰時と政子はこの風聞を奇貨として伊賀一族が政村を擁立してクーデターを起こそうとしているという罪をでっち上げ、伊賀一族を追放した。



偏諱を与えた人物

北条実義
(実子、のちの実泰)

足利義氏

安達義景

三浦義村(母方の従兄弟)



関連項目

鎌倉時代

北条家

先代
北条時政執権
第2代次代
北条泰時


更新日時:2017年6月24日(土)17:23
取得日時:2018/08/18 21:03


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション
Wikipediaで表示
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしUncyclopedia

Size:18 KB
出典: へっぽこ実験ウィキ『アンサイクロペディア(Uncyclopedia)
担当:FIRTREE