北条時頼
ご協力下さい!!
★暇つぶし何某★

[Uncyclopedia|▼Menu]
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「北条時頼」の項目を執筆しています。

北条 時頼(ほうじょう ときより、安貞元年5月14日(1227年6月29日) - 弘長3年11月22日(1263年12月24日))は鎌倉幕府5代執権
目次

1 人物

2 日蓮と時頼

3 兄貴殺害の疑惑

4 息子達

5 人物評

6 偏諱を与えた人物

7 関連項目

人物

仏の如く広い心を持っていると言われる聖人君主だが、仏の顔も三度までと言う言葉があるとおり、キレると容赦なく誰彼構わず粛清する独裁者としての恐るべき一面も持っていた。質素を好み、無駄な出費をするものにはその首をもって浪費に報いさせた。つまり打ち首にしてその首をネクロマンサーに売り飛ばしていたと言う事である、

時頼は兄の死後に執権になったが、すぐさま同じ北条氏庶流の北条光時を伊豆へ配流し、時頼に反抗的な態度をとっていたとして幕府重臣の千葉秀胤を罷免し、後に他の千葉一門に秀胤を討たせた。また外祖父安達景盛と結託・策動して、お人よしの三浦泰村はじめ三浦一族を騙し討ちにして滅ぼすというとんでもない所行をやらかした他、時頼自身が熱心に養育していた年若き将軍九条頼嗣に対しても、京都から天皇の血を引く親王を新将軍として迎えるために、掌をあっさり返して頼嗣の将軍職を更迭して、京都へ強制送還するなどしたことで、時頼の専制体制を確立した。1256年に麻疹を患って一時重篤へ陥った事を機に隠居すると、一介の僧侶の姿を装って、全国を旅して各地の御家人の家を訪れ、叛意を抱いていないか直に確認していったというおっかない逸話がある。この話が後の世に変容して水戸黄門が日本列島行脚したという作り話の雛形となった。水戸黄門は実際は行脚などしていないことが分析により明白となったが、時頼に関しては、創作の疑いが強いものの各地を遍歴して御家人を監視したという話は実話の可能性もまだ充分に帯びており、時頼ならやりかねないという印象も、信憑性に拍車を掛けている。

時頼の全国御家人訪問を分かりやすく例えれば、ヨシフ・スターリンアドルフ・ヒトラーが国民一人一人の家を訪ねて回るようなものである。玄関を開けた瞬間に「インターホン押してから出るまでの時間が遅い」と不敬罪扱いで銃殺されるかもしれないし、この上ない恐怖である。何故全国各地の御家人の元を訪れたかと言うと、前述の通り反乱分子を粛清する為だとも、御家人達の教養、学力低下を危惧して抜き打ちテストを出していたとも、「突撃!となりの晩ごはん」を行っていたとも言われる。しかも時頼はあくまでも一介の僧侶を装って旅しているので、御家人たちは一目で時頼だと気づいても(だいたい気づくが)、一切気づかなかった振りをしなくてはいけないという迷惑千万なミッションまで課されていた。そして、時頼の抜き打ちテストに合格するために、さる貧乏御家人は、貧しい生活の中でようやく手に入れた鉢植えを、泣く泣く囲炉裏の焚き物にする事を余儀なくされた。ただしその甲斐あってその貧乏御家人は、時頼から多大な恩賞をもらう事になるのだが、その巻き添えを食って他の御家人まで何の用もないのに鎌倉に呼びつけられ、甚だ迷惑だったと言われる。さらに、この逸話を聞いた御家人達が何を勘違いしたのか大量の鉢植を時頼に献上し、執権の館が鉢植で埋め尽くされてしまった。大量に余った鉢植を時頼は流鏑馬の的にして処分した。
日蓮と時頼

時頼は格闘技を好んでいたことでも知られ、出家後は最明寺にて蘭渓道隆とアマチュアレスリングを愉しんでいたと言う。一方自作の新曲?? 7a98 ?正安国論を披露しに来たフリーのミュージシャン日蓮に対し半分面白気味にその詩を聞いていたが、あまりに音痴だったため時頼は途中から耳栓をつけていた。それでも日蓮の粘着質、常軌を逸した行動を面白がった時頼は「俺とお笑いコンビを組まないか」と日蓮を勧誘したほどであったが、日蓮が売名行為が目的の伴狂だと悟ると、やる気をなくしたのか、彼を強制退去させた。
兄貴殺害の疑惑

時頼は得宗家の嫡男ではなく、兄に4代執権経時がいたが、20台の若さで経時が没したため、時頼が跡目を継承して5代執権となったのだが、経時には実は2人息子がいた。本来であれば彼ら二人のうちいずれかが継承すべきなのだが、どういうわけかこの二人は僧籍にぶち込まれ、時頼が執権になった。しかも、経時死去から時頼が執権に就任するまでの経緯、各々の事務や行事が驚くほど円滑に進捗している、時頼が執権に就任した直後から、それまでまあそれなりに円満な関係にあった宮将軍九条頼経との関係が急速に悪化したなど、諸々の事情から勘案して、時頼が経時を謀殺したのではないかという疑惑が浮上している。
息子達

息子には蒙古の大軍を追っ払った(本人は鎌倉で指示してるだけだったが)北条時宗、その弟で何となく名前が伊達政宗と似ているからという理由で大河ドラマで隻眼にさせられた挙句史実では病死だったのに戦死させられ挙句の果ては中の人が聞くに堪えない棒読みだったなど散々な原型レイプをされた可哀想な北条宗政、存在感がとても希薄で大河では存在そのものをスルーされた北条宗頼、そして我らが赤マフラーこと北条時輔がいる。このほかにも、妾や、その辺の町娘を一時の性欲に駆られて孕ませてしまい産ませた庶子がいたかもしれないが、史料では言及されていないので誰も気にしない

時宗はそれなりに利発な人物であったが、時輔はそれに環をかけて聡明な切れ者であり、オマケに長男であったため年功序列に従えば時輔が家督を継承してもおかしくなかった。しかし、妾の子であったこと、時宗、宗政の母が北条重時の娘で、時宗達をないがしろに扱うことは祖父である重時、ひいては彼を頂点とする極楽寺流北条氏一門の心証を悪くしてややもすれば敵に廻しかねない危険な行為であったため時頼がビビッてしり込みした事、そして何より、時頼自身が時輔に尋常ならぬ嫌悪と恐怖を抱いていたことが災いして、時宗が跡取りとなったばかりか、時輔は宗政よりも格下に置かれる事となった。時頼の嫌悪と恐怖はそれだけに留まらず、臨終の際、時宗に対して、顔全体に金箔を塗った尋常ならざらぬ表情で、「時輔を殺せぇ?」と遺言を残した。この遺言を遵守したのかは知らないが、時宗によって時輔は粛清される(二月騒動)こととなるが、ご存知の通り時輔は運よく脱出し、蒙古に渡来して赤マフラーとして生まれ変わり、時宗、宗政、宗頼ら弟達より長寿を誇った。近親相姦で生まれてきた時宗達より健全な婚姻の元生まれた時輔の方が頑健なのは明白であり、秩序と家格を重んじるあまりそのような合理的判断が下せなかったところに、時頼のみならず、中世の国家の限界が感じられる。
人物評

三浦一族を悉皆滅ぼしたり、兄経時のほかにも流行病に見せかけて九条頼経親子を暗殺した疑惑があったり、都育ちの柔弱な宗尊親王を監禁して衰弱させ親王が早世する元凶を作ったり、色々おっかない事をやらかしている独裁者なのだが、どういうわけか後世には名執権として伝わっている。時頼が政治家、経世家としては傑出していたこと、彼の治世の頃が鎌倉幕府が最も安定していた事が時頼のプラスイメージの土壌を作ったと思われる。だが一方で、夢の中でスキンヘッドの神様から「名裁きで有名な青砥藤綱を次のの執権にすべきだ。もし青砥が執権になれなかったら、その時はもはや政府転覆しかぬわぁぁぁい!」と託宣と告げられたからという理由で、青砥藤綱に執権職を譲渡しようとするなどマヌケな行状も明らかとなっている。


是非お友達にも!
◇暇つぶし何某◇

[次ページ]
[記事の検索]
[おまかせリスト]
[ブックマーク登録]
[mixiチェック!]
[Twitterに投稿]
[オプション]
[Wikipediaで表示]
[話題のニュース]
[列車運行情報]
[暇つぶしUncyclopedia]

Size:11 KB
出典: 八百科事典『アンサイクロペディア(Uncyclopedia)
担当:FIRTREE