マッチョイズムとは、ゴリラ(及び人間社会に潜伏するヒトに擬態したゴリラ)が自らのグループのボスに求める要素のことである。 理想とされる姿(右)目次 マッチョイズムとは要するに「とにかく強ければいい」という考えであり、ゴリラやライオンなどの野生動物では最も大事なボスの条件である。すなわち、誰よりも強くあればほかの要素は要らんということだ。いいとこ選択肢ボードで言えば知能とカッコよさを最低にした状態と言えるだろう。 マッチョイズムは人間の皮をかぶったゴリラ社会でもたまにと言いたいんだけど実際は結構重要視されることがある。幼稚園などが典型例と言えるだろう。 政治的マッチョイズムとは、簡潔に言えば「俺たちは強いもんねー!!! 他はみんなカスだもんねー、あ、俺たちに協力する奴は子分にしてやるからな」ということである。傍から見ればどんぐり
1 概要
2 分類
2.1 政治的マッチョイズム
2.2 宗教的マッチョイズム
2.3 文化的マッチョイズム
3 マッチョイズム礼賛者の一例
4 逆マッチョイズム
5 結論
6 関連項目
概要
分類
政治的マッチョイズム
猿たちが不安を抱えていれば、それこそボスはその不安を更に大袈裟に伝えておくのも手である。ゴリラにとっては、敵が強くて悪くて汚ければその分だけ自らのパワーをアピールすることが正当化されるからだ。不安はダモクレスの剣どころか、ダモクレスのクラスター爆弾くらいに誇張して表現し、自らの強さを全能の神であるかのごとく振る舞い、戦うことの素晴らしさとおおらかに歌い上げること。それこそが現代社会におけるゴリラのドラミングに他ならないのである。
宗教的マッチョイズムが保護するといった内容であり、どちらかと言えば慈母的な代物である。しかし、他に別の宗教があればゴリラは人間の皮を脱ぎ捨ててその姿を現す。自らの神がとにかく強いことをアピールしなければ、他の宗教に大事な金づる同胞を奪われてしまうからだ。
宗教者は自身の神こそが絶対善であり、他の神は「邪鬼」「悪魔」「魑魅魍魎」であるとし、その「邪鬼」「悪魔」「魑魅魍魎」を自らの神が調伏(ボコボコに叩きのめすか、刃を胸元に突き付けて従わせること)させ、そいつを殺すなり封印するなり靴磨き係にさせるなり飼い慣らして裸にひん剥いて首輪をつけて母乳を絞るなりしたということを伝承として残すことにより、信徒の確保を行うわけである。勿論、実際に見たヤツはいないわけだから像も絵も作り放題である。
「俺らの神はこーんなに強いんだもんねー!!」
そう主張し続けていればさぞ楽しいだろう。その神が信徒に何をしてくれるのかを考えずに済むのだから。
文化的マッチョイズム 文化的マッチョイズムにおける理想の女性像。もっとも、その女性すら排除されることもザラにある。
お待たせしました。文化的マッチョイズムはマッチョイズムの中で最も短絡的かつ低俗な代物であり、そこにあるイデオロギーは「俺が嫌いだと言っているんだ! オレの好きなモノ以外はみんな消えろ!」というただ一点に集約される。
文化におけるマッチョイズムとは、女子供を排した徹底した筋肉至上主義、並びに中年男性至上主義のことを表す。ファイナルファンタジーの主人公のような優男など最初から門前払いであり、必要とされているのはゴリラと亀仙人ばかりである。女はただピーチ姫のように攫われていればいいのだ。BLEACHの一護やらBASARA筆頭やら禁書の上条のような「それなりマッチョ」などアウト・オブ・眼中なのだ。
そこにあるのは彼らが蛇蝎の如く嫌う夢女子・チビジャリどもと同じ自己投影願望ただ一つであり、ステロイドを風呂桶一杯注入したような、近づいただけで雌犬が産気づくレベルの男性ホルモンを常時垂れ流しているようなヒーローの活躍を通して、現実のさえない人生もといゴリラ生から目をそらしているのである。
マッチョイズム礼賛者の一例
スパルタの皆様
ローマ帝国の皆様
義和団
アドルフ・ヒトラー
戸塚宏
三島由紀夫
ジョージ・W・ブッシュ
石原慎太郎
田母神俊雄
韓国人
北朝鮮人
ドナルド・トランプ
この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。
後は適当に頑張って下さい。(Portal:スタブ)
逆マッチョイズム 逆マッチョイズムにより猿を従えようとするゴリラの一例。猫に擬態している。
このように自らの強さを表すことはあらゆる動物が行っている常套手段である。カマキリはとにかく自らのからだを大きく見せるためにどんな強大な敵にも羽を広げて立ちはだかり、エリマキトカゲはバカみたいにデカい襟巻を広げる。アフリカオオコノハズクに至っては敵が強ければ羽毛を風船のようにふくらませ、敵わぬとみるや体を木の枝のように細く見せるほどだ。しかし、人間にはこれらとは逆の手法で強さをアピールする手段がある。
それは、自分が強くないことをアピールすることである。わ、呆れてNRVを貼るな! 頼むから真面目に読んでくれ。
政治のとこで述べた通り、マッチョイズムとは敵の存在があって成立するものである。主人公しかいないヒーロー映画があるとすれば、それは単なるギャグでしかない。すなわち、マッチョイズムが発現する際には何らかの危害を催す存在がいるということである。その場合、「敵は悪い! 敵は強い! 敵は汚い!」ということは客観的に見て明らかに判断できる。その後、「だから私はこの鋼の肉体で戦うのだ!」と続けるのが通常のマッチョイズムであるが、逆マッチョイズムは「お願い! みんなの力を貸してほしいの!」と泣き落としにかかる戦法なのである。いわば判官びいきを利用する戦術なのだ。この場に求められるのは、ボス猿ではなく下っ端猿どものマッチョイズムに他ならない。「弱い奴を守る!」「危害を加えられてる奴を守る!」→「だから俺はカッコいい!!」ということを、下っ端猿を煽動して行うのが逆マッチョイズムなのだ。
逆マッチョイズムは弱肉強食を主体とする従来のマッチョイズムに比べれば格段に穏健(に見えないことも)な(い)思想であり、革命は逆マッチョイズムの観点から行われることも多々あった。しかし皮を剥いでみれば従来のマッチョイズムも「賛美されているヤツと同じ行動をとっている俺カッコいい」という点においてはなんら逆マッチョイズムと変わることはなく、むしろ正義の皮をかぶった分、逆マッチョイズムの方がよりタチが悪い。
このような逆マッチョイズムについて、古くから権威主義・没個性主義の塊である日本では、このような素晴らしい言葉を用いて表現していた。
乞食根性と。
結論「タフでなければ生きていけない、優しくなければ生きる資格がない」
? マッチョイズム について、フィリップ・マーロウ
関連項目
厨房の一覧
脳筋
DQN
マキャベリズム
ファシズム
アメリカ
独裁者
弱肉強食
新自由主義
この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。
後は適当に頑張って下さい。(Portal:スタブ)
更新日時:2018年3月9日(金)17:34
取得日時:2021/01/11 15:09