ダグラス・マッカーサー
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ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880年1月26日 - 1964年4月5日・死亡認定)は、美国の将軍(元帥)、美国日本植民地総督、中二病患者、マザコン、シリアルキラー、俳優である。ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「ダグラス・マッカーサー」の項目を執筆しています。
目次

1 父から受け継がれた中二病遺伝子

2 シリアルキラーとしての歩み

3 父に次ぐフィリピン・ドリーム

4 アジア太平洋戦争と俳優業の成功

5 日本植民地総督

6 朝鮮戦争と失踪

7 各界からの語録

8 関連項目

父から受け継がれた中二病遺伝子

1880年、軍人である父の任地であったアーカンソー州リトルロックの兵営内の宿舎で生まれた。父のアーサー・マッカーサー・ジュニアも軍人であり、重度の中二病患者である。父の「戦争やりてえ」「人刺してえ」といった中二病発言や酋長怪獣ジェロニモとの一騎打ちの話を聞かされて育ったダグラスは、ほかの同胞たちが、程度の差はあれ、父を反面教師にしたのに対して、それらの話を真に受け、自分も軍人になろうと決意する。

「親父だってすぐに名誉大佐だったろうが」と言い放ち、インディアン戦争に従軍する父親に随行しようとするが、母親の必死の説得で、1899年にウェストポイント陸軍士官学校 (今の日本で言うなら、防衛大学校みたいなもん)に入学。渋々ながら1903年に陸軍少尉で卒業した。この時期、マッカーサーの母は学校の近くのホテルに移り住み、何とか父の轍を踏ませまいと生活に介入しまくった。お陰で、ダグラスはマザコンまで発症させる。因みに、軍人となった後のダグラスは、戦功を挙げるたびに「ママ?ン、ボク頑張ったよ」と報告し、それを受けて、母は上司や大統領へ「ウチの息子をよろしく」と手紙を送り付け、それが息子の出世にも大きく影響したと言われる。
シリアルキラーとしての歩み

士官学校の成績は抜群で、特に恵まれた体格を生かした格闘技術に秀でており、性格と合わせて美陸軍史上最強のシリアルキラーになるだろうと早くから言われていた。卒業後、フィリピン総督の父の引きで、工兵隊少尉としてフィリピンに配属された。そこで、爆薬、火炎放射器、ブービートラップなどの特殊な技術を学び、シリアルキラーとしての資質に磨きがかかった。

1905年に父が駐日美国大使館付き武官となったため、ダグラスも副官として大日本帝国で勤務。父親とともに、日露戦争に観戦武官として赴く。その際に、戦場の混乱に紛れて、実際にロシア兵を何人も殺害。「日本軍はオレが勝たせた」と豪語する。父も自分の運の良さをホラ混じりにそう表現したが、息子のそれは明らかに殺人者としての迫力に満ちた言葉だったという。

その後に陸軍省に復り、第一次世界大戦においては、大佐として第42歩兵師団を指揮した。戦場において2回負傷し、15個の勲章を受章。もっとも、これらの勲章は、指揮官としてというよりも、多数のドイツ兵を手にかけたことによって得たものである。この大戦はシリアルキラーとしての才能を花開かせたといってよいだろう。母親の手紙攻撃の甲斐もあり、戦後、最年少で少将となる栄進を果たした。

こうして士官学校の校長に就いたダグラスは生徒たちに罵声を浴びせかけ、徹底的にしごきまくり、ハートマン軍曹のルーツ的な存在となった。さらに、1928年のアムステルダムオリンピックでアメリカ選手団長となり、新聞記者に囲まれた彼は「我々は勝つためにやって来た」と答えた挙げ句、「参加することに意義があるなんて、ヌルイことぬかしてるんじゃねえ。死ぬ気でかかってこい」と記者団を追い散らした。

1930年、美陸軍最年少の参謀総長に就任。母の手紙に辟易していたフーヴァー大統領は、正直、この人事には反対だったが、ダグラスの圧倒的な殺人者としてのオーラに圧倒され、泣く泣く辞令にサインした(というよりさせられた)。その場に居合わせた副官ドワイト・D・アイゼンハワー(後の大統領)は、ダグラスを一生、反面教師にしようと? 3ff0 ??意したと言われる。

1932年に、退役軍人の団体が恩給前払いを求めてワシントンD.C.に居座り、ダグラスの指揮による武力排除が行われた。「退役軍人たちは、アメリカ共産党の支援を受けてデモを起こしたのではないか?」と疑念を抱いたホワイトハウスが許可したのだが、ダグラスに深い考えはなかった。ダグラスはマスゴミマスコミに対して「むしゃくしゃしていた。人死にが出てもいいと思った。今は反省している」と記者会見で答えた。以後、マスコミからの糾弾はなりを潜めたが、もちろん、ダグラスが恐ろしかったせいである。
父に次ぐフィリピン・ドリーム

1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻り、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。これは、フィリピンが1946年に独立することが決まり、フィリピン国民による軍が必要であった……という口実で行われた厄介払いである。初代大統領に予定されていたマヌエル・ケソンはマッカーサーの友人であり、アメリカ政府のたっての頼みを引き受けて、軍事顧問を依頼したのである。

ダグラスは「フィリピン軍元帥」の称号を与えられ、1937年12月にアメリカ陸軍を退役。マニラ・ホテルのスイート・ルームを住居として要求し、高等弁務官を兼任して高額の報酬を得ると共に、フィリピン財界を制圧した。高額の報酬は、美国資本の在フィリピン企業への投資に使われ、更に多額の利益を手にした。すなわち、現在の発展途上国にありがちな、腐敗した軍高官の先駆けとなったわけである。

父が総督を務めたフィリピンで、濡れ手に粟の利益をゲットし、贅沢三昧の生活…。周囲はダグラスを持ち上げる側近ばかり。夢のような生活がそこにはあり、ダグラスは美国本土へ帰ろうなどとは露ほどにも思わなかった。
アジア太平洋戦争と俳優業の成功

1941年12月7日に、真珠湾攻撃によってアジア太平洋戦争が勃発。在フィリピンのアメリカ軍司令官も兼任し、ルソン島に上陸した日本軍と戦う。ダグラスは日本兵を殺しまくるが、戦況は全体的に思わしくなかった。


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出典: フリー誤報百科事典『アンサイクロペディア(Uncyclopedia)
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