わびさび(しばしば侘寂)とは、人間の特殊な感情の一つである。 霧は視界を制限し、孤独感をあたえる目次 一般的に、「茶の湯
1 概要
2 松尾芭蕉について
3 わびさびと環境
4 桜の楽しみ方
5 わびさびの例
6 最期
7 関連項目
概要
だが、日本において、これらのような感情をもつ者はマイノリティである。
「わびさび」とは、その意味合い上、「孤独」な状態と相性が良い。したがって、わびさびをしみじみと味わうためには一人でいる必要がある。ところがこのような者は、はたから見ると「友人や恋人のいない人」「かわいそうな人」「つれない人」などとネガティブに評価される傾向がある。さらにこの者が子供であった場合、「うまく仲間に入れないんだ」として集団に溶け込ませようと社会的に「矯正」が働くことがある。「わびさび」を嗜好する者は自発的に「孤独」の状態になったはずが、なぜか集団から「孤立」したように扱われ、集団心理の影響を受けてしまうことが多いようである。結果、必然的にマイノリティと評価される。「わびさび」は孤独を嫌うものには理解されないのである。 「この道や 行く人なしに 秋の暮れ」 この俳句を現代においては「『私と同じ俳諧の道をたどる者はいない』という孤独を悲しんでいる」と解釈する者が多く見られる。しかし松尾芭蕉の俳句に「わびさび」が見られるというのなら、「孤独を悲しんでいる」とするのではなく「孤独を楽しんでいる」と考えるべきである。わざわざ「この道」を「俳諧の道」などと解釈しておきながら、「孤独=悲しい」などというマジョリティな感情で理解しようとするな。そう、芭蕉は「この道」を「わぁー誰もいない!こんな肌寒くて夕日に輝いた美しい枯れ木の道を他人に邪魔されずに見渡せるなんて!」とニヤニヤしながらスキップしていたのである。現に、辞世の句とされる「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」では、重複になるが、夢の中でかけ廻っている。もし芭蕉が「この道」を「俳諧の道」のつもりで詠んだのなら、芭蕉はナルシスト わびさびは古来より、夏の終わり、秋、夕暮れ、曇り空、雪などの環境条件と相性が良い。古今和歌集においてもこれらを題材にした歌があり、通説では色ボケしたような解釈のなされるものも、実際はわびさびを味わっているだけの歌という場合もみられる。[要出典]ところが近年、地球温暖化によって季節のリズムが狂い始めている。猛暑のつづく夏から、夏の終わりや秋をすっ飛ばしていきなり冬がやってきたり、秋の最中に蝉が鳴きだしたり、体温調節ができずに体調を?
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?したりするような、わびさびの阻害要因が増えてしまった。地球温暖化に関する議論をざっと見通す限り、日本の優雅な季節感と伝統をうらやむ国連(米国)のテロリズムが原因と思われる。経済と犯罪がウリの合理主義国アメリカでは、わびさびのような曖昧でマイノリティーな感情は排除される。 さて、わびさびとは孤独な状態で楽しむものであるが、この性質を鑑みると「『一人でいる』という環境ならばどこでもわびさびを味わえる」とも言うことができそうである。これはまた、日常的に賑わっているイメージの強い場所が静けさに包まれている、というシチュエーションも関係しているようである。たとえば人であふれた花火大会会場では難しいが、全てのプログラムが終了し、次第に閑散としてくる様は美しく感じられる。片付けの終わった運営委員の話し声を遠くに聞きながら、いつもより暗く感じる夜景を一人、土手で眺めるのも良い。もしこれが今後二度と開かれない催しであったならば、その物寂しさは格別である。 しかし例外はある。人がいないからといって、動物でごった返しているような場所や鏡張りの部屋、殺人現場、墓場などにはわびさびは見出しづらい。緊張感はわびさびを遠ざける傾向がある。 桜を鑑賞するもっとも一般的な方法は、「花見」と称する宴会を行うことであると思われる。ところが誰がみても明らかなように、鑑賞者はすぐに「花より団子」状態に変化してしまうため、桜を鑑賞するのはホンの数秒ということがほとんどであると考えられる。集団で楽しむ形態はもとより、カラオケ、いつもより豪華な食事、泥酔、桜の損傷、裸踊りといったわびさびとは相容れない騒乱が起こる。あまつさえ、元鑑賞者らが去った後には大量に投棄された残留思念が二次会を行う始末。もはや「鑑賞」とさえ呼べない。なぜこんなことになってしまうのだろうか。 まともに鑑賞する方法として考えれば、一人で没頭して見るのが良いだろう。授業中、校庭の桜をボーっと眺めて教師に茶化されるのも良し。丘の上に一本だけある桜の根元に寄りかかり、花びらが舞っていくのを見ながらウトウトするのも良し。自宅の庭の池に散った桜を軽く踏んでキャッチュー、キャッチミーなどと歌うのも良し。このように、ゆったりとした風情のある楽しみ方ができる。しかし、これらは「風流」と呼び、わびさびとは区別しなければならない。わびさびには寂しさや哀しさといったものがあるが、風流には安らぎ・楽しさといった一般的な喜びの要素しかない。 ならば、わびさびを味わうのに適する方法は何か。宴会のあった桜並木の外れにある場所で、誰も見ようとしないヨボヨボの桜木を晩秋の月明かりの下、または夜明けに残った小さく白い月と並べて朝靄の中で賛美せよ。 わびさびは過去の感情であるように思われるが、現代日本においてもわびさびを感じうる風景を見ることができる。また風景のような視覚情報だけでなく、音楽や食事によっても感じることができる。解釈しだいで五感を全て使って味わうことができる可能性がみられる。もちろん、一人でしみじみ味わうこと。「誰かと楽しまなきゃ!」なんていう考えは欺瞞である。また、誰もいないからといって服を全て脱ぎ捨てたり、アレをまさぐったりするのは良くない。ほとんどの人間がもつ本能だが、エロスとわびさびは相容れないものである。
松尾芭蕉について
わびさびと環境
桜の楽しみ方
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わびさびの例
廃工場近くの道古くても新しくても良い。人のいない晩秋の曇った昼下がりに歩いてみる。錆びた機械、黒い液状の汚れがついた壁など殺風景なものが、一層さびしさを増す。工場のみならず、廃墟の風情に惹かれる者は案外存在するようである。しかしこういったロケーションを用いて、ありえないものをモチーフにした作品は日本人に慣れ親しんでおり、わびさびの阻害要因となる場合が多いのが悔やまれる。
霧霧は風景を分断する。管理の行き届いた遠くの街並みが一斉にぼやけたシルエットに変わり、人がいなくなったような静謐さを作り出す。朝方であれば、霧によってやや薄暗く感じられるために街灯をともす民家もあり、これが蛍のように点々と遠景に浮かぶこともある。
遠雷時折、遠くの山々からこだます雷鳴に耳を傾けよ。あとは風わたる草原、曇り空、東屋があればいうことはない。
矢野顕子
新居昭乃
植松伸夫
フェデリコ・モンポウ
「わびさびと環境」において少し触れたが、わびさびは「最後」という状態に極めて強い親和性を示す。したがってわびさびを愛する者にとっては、最たる最後である「最期」は至高のわびさびではないかと思われる。こうして曇り空の下、風になびく草原にポツンとたたずむ東屋において、時折遠くの山々からこだます雷鳴に耳を傾けながら一人、死を迎える。
ところが死を迎えた後のことを考えてしまうと、最早わびさびどころではなくなってしまう。じわじわと身体が腐ってゆく。また世間では「孤独死?
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??と呼ばれ、勝手にネガティヴな類型に数えられてしまうのだからいたたまれない。
関連項目
美しい国
山葵
わびしい