この視点から見た場合、「それ以上でもそれ以下でもない」という言葉がしばしば、上下(多少)の比較自体が不可能な概念に対して使われることに気づく(例えば「彼は男であり、それ以上でもそれ以下でもない」のように)。このことは最初から「以上」「以下」という表現自体を否定する愚かしい行為である。 上記のように、この単語はしばしば、対象自身だけでなく、それと比較可能なあらゆる概念を排除しているように見えるが、その手法は非常に愚かしいものである。 だが、一見するとナンセンスとも見えるこの表現には深い意味がある。つまり、「それ以上でもそれ以下でもない」が指し示すものは、「それ」とは全く次元の異なった存在である、という意味となる。比較不能であれば「以上」でも「以下」でもない状況を満足することができるのである。 ここで生まれるさらなる疑問がある。それは、?
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?の表現の手前でまず、「XはYであり」と、X=Yとなることを規定している。そうであるのに、続く表現でX≠Yであると宣言しているのである。こうなれば、検証は再び振り出しに戻り、解決の糸口は無いように見える。だが本当にそうであろうか? ここでよく考えて欲しい。「それ以上でもそれ以下でもない」の表現である。この「それ」とは何であろうか? 単純に考えればYを指すように見えるが、ここが大きな誤解の元である。この「それ」はつまり、YではなくXを指すのである。つまりこの表現は、後半でもってXの存在自体を否定している。そして前半でもって、Xを単なるYに貶めているのである。 これは非常に残酷な表現に見える。つまりXは、その存在を(Xと比較可能なあらゆる概念も含めて)否定されているのである。だが、別の観点から見れば必ずしもそうとは言えない。つまり、Xに付随するあらゆる要素を全て否定し、より単純なYへと変化させることで、Xをより純化し、場合によっては崇高な存在へと引き上げることもあり得るのだ。 しばしば言?
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??れる「オッカムの剃刀」に例を待つまでもなく、無駄の多い、別の表現をするなら「汚れた」存在は、それ自体が害悪である。「XはYであり、それ以上でもそれ以下でもない」と宣言することでそれらの「汚れ」全てを払い落とすのである。 上記のように、この表現は非常に崇高な概念を表現している。いつどのように「それ以上でもそれ以下でもない」とする表現が生まれたかは不明であるが、そこには深い宗教観が見て取れる。 日本語の中にこうした概念が定着した背景についても不明な点は多く、今後の研究が待たれる分野でもある。まあ早い話が「ごちゃごちゃ言うなや」である。
正しい解釈
発展
与論
関連項目ウィキペディアの専門家気取りたちも「それ以上でもそれ以下でもない
日本語
エビデタイ
雛祭り
妄想
ジャスタウェイ
3ad
更新日時:2012年12月17日(月)19:58
取得日時:2021/04/11 13:12