16世紀のポルトガルにおいて中国人奴隷の数は「わずかなもの」であり、東インド人、改宗イスラム教徒、アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった[30]。1562年10月23日に記録された 遺書には、エヴォラに住んでいたドナ・マリア・デ・ビリェナ (Dona Maria de Vilhena) という上流階級の婦人が保有するアントニオという名前の中国人奴隷について記載がある[31][32][33][34][35][36][37][38][39][40][41][42][43][44]。 アントニオという名前はエヴォラにおいて男性奴隷に付けられた3つのありふれた名前の1つだった[45]。D. マリアは奴隷の中で特に アントニオを重用していたが、それは彼が中国人だったからである[46]。D. マリアが保有していた15人の奴隷 のなかで中国人が1人、インド人が3人、改宗イスラム教徒が3人であったことは彼女の社会的地位の高さを 表している。 なぜなら中国人奴隷、改宗イスラム教徒奴隷、インド人奴隷は評価が高く黒人奴隷より高価であったからである[47]。D. マリアが死んだ時、その意思と遺言により12人の奴隷を自由の 身分とし、さらに合計1万〜2万ポルトガルレアルのお金を彼らに遺している[48]。マリア・デ・ビリェナの父親は上流階級出身の探検家のサンチョ・デ・トバル(Sancho de Tovar) でありソファラの提督であった。D. マリアは二回結婚し、一回目の結婚相手は探検家のクリストバン・デ・メンドンサ (Cristvo de Mendona)であり、二回目はディーウの提督のシマン・ダ・シルベイラ(Simo da Silveira)であった[49][50][51]。