- 1 名前:朝一から閉店までφ ★ [2018/11/19(月) 11:56:41.80 ID:CAP_USER9.net]
- 記事投稿日:2018/11/19 06:00 最終更新日:2018/11/19 06:00
https://jisin.jp/domestic/1685374/ エネルギッシュに報道の現場を飛び回っていたある日、右胸にしこりを見つけた。社会人2年目の春だった。絶望に打ちひしがれながらも、家族や医師、同僚に支えられて、日本テレビ報道局社会部記者の鈴木美穂さん(35)は、徐々に前を向けるように。闘病を経験している記者として、がんとともにありながらも、希望の持てる生き方を伝えたいと模索してきた――。 「いちばん最初は3月でした。シャワーを浴びていて、ふと右胸のしこりに気付くんです」 ’06年4月、鈴木さんは日本テレビに入社。面接時からドキュメンタリー志望と伝えていた彼女だったが、希望どおり、報道局へと配属された。 入社1年目のAD時代から、自らネタを見つけては企画書を提出して、ニュース番組内での放送を実現。さらに1年後には、若手の皇室担当としてベテラン記者に交じり夜討ち朝駆けで、ハードながら充実した日々を送っていた。右胸のしこりに気づいたのは、そんな24歳の春だった。 「残念ながら、悪いものが写っていました。乳がんの可能性が高い。仕事をしている場合じゃないです」 ’08年5月2日。検査結果を告げられると、母親が駆けつけるまで病院前で、体育座りで泣き続けた。 「結婚も、出産もしないまま、私は死ぬのか。健康優良児で、親族にも一人もがんはいませんでしたから、『なんで私なの?』と、かつてないほどひどく混乱しました」 女性の11人に1人がかかるといわれる乳がん。鈴木さんのがんは進行が早く、当時は再発リスクも高いといわれていた。“HER2陽性”タイプだった。「死にたくない」という一心で、最良と思える治療を求めて、病院をまわった。 「セカンドオピニオンならぬセブンスオピニオンで、私は7人の医師の意見を聞きました。なかには『2年後(の生存)は難しいだろう』と言う先生もいました。テレビでよく見かけるベテラン医師は、私が持参した画像を見た途端、『後輩の医師に担当させるから』と。その先生を私に紹介した先輩は、『治る見込みのある患者しか診ないということか』と憤慨していましたね」 24歳の彼女は、子どもを持ちたいと願っていたが、ほとんどの医師が「そんなことを言ってる場合じゃない。治療優先」と取り合ってくれなかった。そんななか出会ったのが、取材で懇意になった医師が紹介してくれた国際医療福祉大学三田病院・乳腺センター長の吉本賢隆先生(70・現よしもとブレストクリニック院長)だった。 「どこの病院に行っても、将来の出産を考えて、抗がん剤による生殖機能のダメージなどを軽減するホルモン治療だけは続けて」 吉本先生はこう言って、赤ちゃんを抱っこした母親の写真がびっしりと貼られた、1枚のパネルを見せてくれた。 「お母さんになった患者さんの写真を集めるのが、僕の趣味(笑)。いずれ、あなたの写真ももらうから。しっかり治療して、仕事も、結婚も、出産もしてください」 最後にはまっすぐ目を見て――。 「鈴木さん。がんだからって、幸せになることを諦めないで」 先生のこの言葉を聞いて、告知以来、初めて人前で号泣した。 「がんになって最もつらかったのは、未来が見えないことでした。私の未来の可能性を一緒に考えてくれた吉本先生に主治医になってもらおうと決めました」 ↓
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