- 1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2012/11/19(月) 00:47:06.19 ID:jiThM76N0.net]
- 映画や小説のスレはあるが、「史実」を語る場がないので…
- 140 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/01/24(土) 21:23:28.81 ID:06inn5hb0.net]
- 幸畑を過ぎると登り坂となる
1個小隊−3個小隊−特別小隊−大隊本部−行李輸送隊 の順で行軍 先頭配置の1個小隊において 3名2名の連鎖配備のカンジキ隊が雪を踏み固め 踏破路を拓き進軍する戦術を展開 上記編成にて山道を6キロ程進み 田茂木野の集落に到達した時ある事件が起きたと 「萬朝報」:よろずちょうほう 明治35年 2月8日付けは伝えている 「幸畑を出て田茂木野に至りし時、農民出でてその到底前進すべからずを切言して之を 諫止せしも隊長等は之を叱り飛ばして進行したり」 案内料がほしくてそんな事を言っておるのだろう という映画のくだりはこの件
- 141 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/01/24(土) 21:29:58.97 ID:06inn5hb0.net]
- かくして 5連隊は予行行軍で到達していた小峠を目指したが
この頃から様々な問題や事件が始まっていたと云う 田茂木野東方より 傾斜漸く急にして、行李の運動大に歎み、 隊に跟隋するに能はず。 こんずい : 跟隋 = 追随 行軍隊はしばしば想外の休止を行ふて その来着を待つの止むを得ざるに至り、行軍は渋滞せり。 11時小峠丘陵に達するや、行李は到底四人を以って 運搬する能はざるをもって、 伊藤小隊をしてこれに助力せしめたり 遭難始末より
- 142 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/01/24(土) 21:39:35.48 ID:06inn5hb0.net]
- 雪中行軍演習における行李隊のソリは14台
その総重量は300貫(1.2トン) その内訳 米1斗6升 缶詰め肉35貫 漬物6貫 清酒2斗 炊事用の銅平釜と鉄釜 各2 薪60貫 木炭44貫600文目 円匙(えんぴ)= スコップ : 10 十字鍬(つるはし) : 5 ソリ重量 1台あたり 本行軍時 80キロ : 予行行軍時112キロ ソリ1台は予行行軍より32s軽く編成されていた にもかかわらず 青森5連隊のソリには雪上での横滑りを防ぐカジが無く 横滑りを制御出来ずに常に谷側の傾斜に流れ進行が妨げられる なお行李隊の指揮は炊事係 当時の炊事係りは隊内で屈強無比の精鋭群であり 部隊構成員の生命にかかわる戦闘糧秣を託すに足る人物が担当していた にもかかわらず本隊に遅れるという顛末は 本行軍が未知かつ試験的な演習だった事を 示しているのではないだろうか。
- 143 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/01/25(日) 07:11:39.63 ID:EABqFWXG0.net]
- 十一時三十分、小峠丘上に達し、叉銃休憩し行李の到着を待って午食す。
此時、風雪漸く強く、寒気従て加はり、携帯の米飯は半ば凍結して純白色を呈し、 兵卒は三々五々集団して、或るいは立ち、多くは手套着用の儘( まま )喫食せり 行程距離表 青森→幸畑田→田茂木野→小峠 → 大峠→ 大滝平→賽ノ河原→按ノ木森→中ノ森→馬立場→鳴沢 → 平沢 → 田代新湯 0km 3.4km 2.3km 3.9km 1.3km 2.0km 1.4km 0.7km 0.9km 1.1km 0.8km 0.9km 1.3km
- 144 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/01/25(日) 07:15:02.92 ID:EABqFWXG0.net]
- 予行行軍では 1里踏破に 2時間を要した
生還した小原・村松伍長の談 行軍隊が小峠付近に於いて永井軍医から 風雪も強く、気温も低下している。 これからは益々雪も深く、風も強くなるであろう。 現装備では、この風雪に耐えられない。 特に行李輸送対と行動を供にしていてはますます行動が鈍重になる。 一応帰隊しては・・・ との意見具申あり。 ( 氷点下11度 )
- 145 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/01/25(日) 11:34:10.34 ID:EABqFWXG0.net]
- しかし帰隊の判断は見送られた
約二十分休止の後、再び進軍を開始せしが積雪益深く、 加ふるに登降の傾斜急峻なるを以って 行李の行進愈困難を極め、 その速度一時間に二キロメートルから三キロメートルに過ぎざりき 遭難始末 より :もし途中、不慮の障害を受け田代に到達出来ない場合は :途中に露営を成すのみ :露営を成すの止むを得ざるに至る事あらんも保し難し :之が為薪炭をも携行する筈なり という上記の方針により帰隊は想定の外だった 一体、軍人は早く退却したという譏りを受くるより、 進み過ぎたといういう譏りの方を甘ずる 事件後 立見第8師団長の談話
- 146 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/01/26(月) 02:25:43.44 ID:VtzBXGOp0.net]
- せっぱ詰まった状況では、責任のない奴は
「勇ましい事」「カッコいい事」を言いがちで、 部隊の絶対的な責任者が、自己責任で最終決定しなければ、 部隊が迷走して全滅するのは当たり前 山岳ガイドと同じ事
- 147 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/01/27(火) 14:34:50.43 ID:OFg5swFH0.net]
- >>144
乙 読みやすくてわかりやすい
- 148 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/01/29(木) 14:09:59.70 ID:IDxY89YC0.net]
- 賽ノ河原のある事件について
明治22年2月22日に12名の若者が 賽ノ河原の仕事小屋で無惨の凍死を遂げる。 その後無念な幽魂が迷う小屋には人々が恐れ近付かないが 無鉄砲な若者8名が 幽魂などあるものか と賽ノ河原に露宿しようとした。 すると今まで晴朗だった空が夜半頃より掻き曇り吹雪となり 小屋はなぎ倒され8名供凍死を遂げた。 旧暦の12月12日が「山の神の日」とされ この日の前後は必ず天候が荒れと語り合い マタギや炭焼きは決して山には入らなかった 毎月の12日も同様で 仲間が12名だった場合はサンスケという木偶を作り13名仕立てとし 入山した。 青森5連隊の雪中行軍出発の1月23日は 旧暦の12月14日であった。
- 149 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/01/29(木) 14:17:24.84 ID:IDxY89YC0.net]
- 小峠 1.3km →大峠 2.0km → 大滝平 1.4km→賽ノ河原
倉石大尉談 この日午後1時頃、風雪烈しく頗る進行に困難せる 明治35年 1月23日 : 1902年 16:10 先頭の行軍隊は行路上の最高地である馬立場に到着 :標高732メートル 賽ノ河原 0.7km →按ノ木森 0.9km →中ノ森 1.1km →馬立場 この馬立場から3km先の 田代が眺望出来たと云うからには天候は一時的に 穏やかになったと考えられる 行軍隊は馬立場の高地に到達し、田代を眺望する事を得たり。 しかれども、後方行李の影響を顧みれば その離隔はなはだしく 近きものは中ノ森、遠きものは按ノ木森に達せず。 よって行軍隊は同地南方約二百メートルに於いて休憩を行い 鈴木・大橋 両小隊に命じ、 軽装にして行李運搬の援助を為さしむ。 同時に藤本曹長以下十五名(喇叭手一含む)設営隊を編成し 田代に向ひし出発せしめたり。
- 150 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/01/29(木) 18:42:35.89 ID:Aa6ercHo0.net]
- >>141
>薪60貫 木炭44貫600文目 雪の中でどうやって燃やして暖を取るんだろう??
- 151 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/01/29(木) 18:44:07.40 ID:Aa6ercHo0.net]
- ちなみにここは暖かい神戸だが、冬の燃料は1週間に木炭6Kgです。
七輪で調理と暖房に使います。
- 152 名前:142 [2015/01/29(木) 19:03:15.76 ID:IDxY89YC0.net]
- >>141
明治35年 1月23日 第一露営地では 円匙(えんぴ)と十字鍬(つるはし)これらを使い まず、小隊長及び将校の宿営の雪濠を掘りました 幅2m 長さ5m 深さ2m50cm 敷物のワラも無く天蓋(屋根)もない吹きさらしの雪の溝です 小隊長と将校、曹長らはここで暖をとります 加えて 各小隊は1小隊(40名)につき木炭6貫匁(23キログラム) 行李の餅三個・缶詰肉1個を各人に配布 しかし あまりの手の寒さで手の感覚がなくなり 火が点くまでに一時間余りもかかっている 着火にはマッチを使用 火種を持ち歩く工夫はこの時は無かったようです 小隊単位の雪濠は浅かったのではと想像出来ます。
- 153 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/01/29(木) 19:11:18.70 ID:IDxY89YC0.net]
- 明治35年 1月23日 : 1902年
田代までの踏破時間は下り坂の行路から想定すると約1時間 馬立場0.8km →鳴沢0.9km → 平沢1.3km → 田代新湯 結果設営隊の15名以外は 最後方のソリ隊到着まで馬立場で1時間近く待ち 時間を浪費する顛末となる。 17:00 過ぎ 馬立場を出発 鳴沢を目指す 行李この地点に到達する頃ひ、日概に黄昏に近かりしも、 あたかも旧暦十四日に相当し、月明を利用するの便あるを以て 再び行進を起し、設営隊の進路を辿り鳴沢の渓谷に下れり 遭難始末 より この段階でも月の出が確認出来ており 天候は安定していたと考えられる
- 154 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/01/29(木) 19:17:53.99 ID:IDxY89YC0.net]
- 別件資料
ソリ隊は一台につき四名づつだが ほかに二名づつの兵に応援させ無難に鳴沢まで到着したのである 長谷川曹長の談話 この付近は傾斜すこぶる急峻にして一分の二(50度)以上に及び 積雪胸に没し、一進一止、その困難名状すべからず。 特にソリは到底前進の見込み無きにより、 その多くは遂に人の背によって運搬するを止む終えざるに至れり。 この時、運搬手は複た防寒外套を着用せり。 遭難始末 より しかしソリを放棄する事は想定外だったため 人力よる運搬具である背負子(しょいこ)は 一切携行していなかった。 わずかに200尋の藁縄(わらなわ)があった事から 藁縄を使った運搬方法を選択した。 2斗焚きの銅平釜も藁縄で炊爨係りの背に背負わせ 人力により運搬されている。
- 155 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/01/29(木) 19:27:58.58 ID:IDxY89YC0.net]
- 雪の八甲田山で
ソリを放棄した青森5連隊は事実上行李輸送に失敗した しかし帰営の選択肢はない そして210名の部隊は、あくまで田代新湯を目指す しかも残念な事に 行軍隊が鳴沢に陥ったあたりから天候は急変する :夕方より大吹雪に変じ、到底進行の難きを認め・・・・ :天候俄かに変じて雪は頻りに降りつのり、風は烈しく吹き荒び・・・・・。 :寒気激烈、手套をとること能はず :風雪はいよいよ激しく、地吹雪の音は薄気味悪く、積雪は胸を没し、 人間は歩くというのではなく雪の中を泳いでいるという状態であった。 また吹雪きのため視界がきかず前列のものがようやく見える程度で息もつまりそうであった 生還した小原・村松伍長の談 藤本曹長以下15名( ラッパ手一含む )の任務は 本隊に先行して田代に到り、ラッパでその旨を本隊に知らせた後 同地で宿営の準備をする事であった。 が、いつまで待ってもラッパは鳴らない。 それどころか、本隊は思わぬ形でその藤本隊と遭遇している。 映画にみられる絶望的な夕暮れを描いたワンシーンが印象的 環状彷徨(リングワンデリング)状態であった。
- 156 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/01/29(木) 19:33:57.51 ID:IDxY89YC0.net]
- 鳴沢東方高地に達するや、
藤本設営隊は路を失し、困難を極め、 その高地を一週して再び鳴沢に来たり、行軍隊の後尾に合せり。 当時、中隊長・神成大尉、進路を求めて先行せしかば、 大隊長・山口少佐は 水野中尉、田中・今泉 両見習士官をして田代方面を偵察せしめに、 進路峻険にして通過すべかざるを復命す。 加ふるに風雪頻りに襲来し、 天地漸く冥暗となり、行李の随行又意の如くならず。 これに於いて大隊長は到底田代に到着する能はざるを知り、 ついにこの地に於いて露営するに決し 遭難始末 より 明治35年 1月23日 : 1902年 午後 8:15
- 157 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/01/29(木) 19:43:54.54 ID:IDxY89YC0.net]
- 平沢第一露営地
明治35年 1月23日 : 1902年 午後 21:00 午後九時に至り210名の雪中行軍隊は露営地に全員到達 小隊単位で雪濠を掘る 1小隊(40名)につき木炭6貫匁(23キログラム) 行李の餅三個・缶詰肉1個を各人に配布 最後に設営されたのは大隊本部の雪壕であった ( 大隊本部将校が8割設営 ) 下士卒から凍傷患者を出さないよう山口少佐が懸念したため という記事もある 152 にあるとは矛盾する記事です しかし最後に着手した雪濠が 幅2m 長さ5m 深さ2m50cm というデータを参照すれば、最後に着手は後付記事という印象。
- 158 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/01/29(木) 19:56:24.78 ID:IDxY89YC0.net]
- 平沢第一露営地
40名に6貫匁=23キログラムの木炭燃料ではどうにも不足 加えて 雪濠1単位に炉火が1単位という割り当てであった。 その上、あまりの手の寒さで手の感覚がなくなり 火が点くまでに一時間余りもかかっている。 各隊は交互に暖をとるしかなかったが それにも増して大変だったのは 行李隊を指揮して来た炊事係であった。 炊事場の設備に2斗炊き銅平釜一個を設営するも まず炭や薪への着火に時間を要し さらに米とぎに必要な水は雪を融かしを調達せねばならなかった 遭難始末より
- 159 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/01/29(木) 19:59:53.80 ID:IDxY89YC0.net]
- 平沢第一露営地
此夜風雪甚だ強からざりしも、寒気は峻酷にして 零下7〜8度より零下12〜13度に下れり 遭難始末より しかし計測の裏付けはない 当時衛生部員は、気温の測定をつとめたれど 凍える手、これを筆することあたはざりしもののごとく 櫻井看護長のごときは 寒暖計を手にしてたおれたり おしむらくは、気温に関する記録なし。 このため、気温の程度を詳らかにすること得ず。
- 160 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/01/29(木) 20:24:04.94 ID:JhJeP6KY0.net]
- >>158
>此夜風雪甚だ強からざりしも、寒気は峻酷にして >零下7〜8度より零下12〜13度に下れり 当時はたぶん風が吹いていただろうから体感温度はもっと低かったろう 確か風速が1メートル増すごとに体感温度が1度下がるとか聞いたことがある この時の兵士たちの体感温度は-20度くらいはあったんじゃないか?
- 161 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/01/29(木) 21:32:53.23 ID:UJ6A0NqM0.net]
- マタギやサンカは雪を踏んで固めてその上に薪を敷きその上で炭を焼くんだが、それをしなかったの??
- 162 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/01/29(木) 23:43:01.68 ID:/tkaooCx0.net]
- >>147
>明治22年2月22日 気味が悪いほどのゾロ目だな
- 163 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/01/30(金) 08:13:45.54 ID:H9rc139s0.net]
- >>160
本雪中行軍の炉火は 雪に直に薪と炭で暖をとる顛末となり 溶けた雪で燃料の半数は無駄になり火の勢いは減衰します また 米を炊く2斗炊き釜を設置する土台も雪の融解により傾斜した という記事もあります。 そして 平沢第一露営地 明治35年 1月24日 : 1902年 午前 1:00 半熟の飯が210名に配布された 酒もふるまわれたが炊爨を終えた炊釜にて温めたせいか 異臭を帯びてとても呑めるものではなかった 遭難始末によれば :猛烈なブリザードが発生し気温が−20度まで低下 :兵士に足踏みなどさせ凍傷を防がせた :4時間休憩の後朝五時という出発予定が告げられた しかし 大隊長は決断する。 中隊は、午前2時30分露営地を出発、帰営の途に就かんとす 遭難始末より 事由は仮眠に及ぶ兵士が出たため 2:30 行軍隊員は雪壕の外に集合・整列し、青森の屯営を目指す
- 164 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/01/30(金) 12:52:22.42 ID:H9rc139s0.net]
- 平沢第一露営地出発
明治35年 1月24日 : 1902年 午前 2:30 帰路は18km、食糧、薪炭も使い果たしていた状態だった 加えて、露営地から馬立場に戻るためには 昨日かなり難渋した鳴沢を越えなければならない しかもその道は 丸みを帯びた三角系の高地の頂点のみを行くという厳しい行程となる ひとたび高地を下り沢に下りれば 隊は両脇を断崖に挟まれ鳴沢高地に戻ることはいよいよ困難となる しかし残念ながら青森5連隊は軌道を逸脱し沢に降りてしまう・・・・・ 午前 2:30 青森5連隊が出発してから1時間後 一隊は路を西北に失し渓谷に陥り、かつ小流に出会いし 前進するにあたわざるに至り、初めてその方向を誤りたるを知り 再び露営地に帰還するをもって転回行進を始じむ 遭難始末より 路に迷ったことで 再び露営地に帰還 その後、日の出を待って確実な帰路を求め馬立場を目指す という方針に変更された しかし青森5連隊は露営地への路もまるで見当が付かず隊は迷走した そして迷走する隊の中で 平沢第一露営地への路を知っているという人物が現れる 佐藤特務曹長であった 映画・小説では 進藤特務曹長
- 165 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/01/30(金) 20:13:45.14 ID:H9rc139s0.net]
- 佐藤特務曹長は私は平沢第一露営地への路を知っていると発言
自身が先導し路を東に転じて急峻なる懸崖を下ってしまう そして駒込川の本流に遭遇し、遂に一歩も進む事が出来なくなった この時すでに午前8時30分 6時間にもわたり210名の青森5連隊は迷走し最悪の事態に陥った
- 166 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/01/30(金) 21:09:41.69 ID:H9rc139s0.net]
- 駒込川本流に遭遇:進退窮まれり
明治35年 1月24日 : 1902年 午前 8:30 青森5連隊210名は駒込川本流に遭遇身動きが取れなくなります この最悪なる状況において青森5連隊は駒込川をさかのぼるため方向転換しますが 雪は兵士たちの胸まで没する深さに加え 眼前に連なる断崖が隊の前進を阻みます :映画では断崖を登るというシーンを観ることが出来るが :これは映画の演出上の戦術で正史ではありません 隊は断崖に路を阻まれ 再び路を左側の山腹に転換し雪の斜面を登る事を試み 先頭の兵達が足で雪を踏み固め階段状の路を設営しながら進む 故に1時間に500m程度進むという状況であったと云う これらの困難を乗り越え青森5連隊は再び鳴沢の高地に到達した 高地到達は正午前:11:00頃 しかし高地はブリザードが吹きすさぶ状況に加え、気温−25度 木の枝が折れるほどの暴雨風という記事から 風速は20m〜30mと推定 兵達を襲う体感温度は−25度 + 風速にて−55度だったと想像できる ここで兵士達の装備を参考までに :兵卒 綿の夏服 + 綿の外套2枚 :上官・下士官 羅紗の軍服 + 羅紗の外套1枚 靴はかかとまでの短靴 中には地下足袋を油紙で巻き藁靴を履いた兵卒もいた また、斜面を登る際 :将校らの羅紗の外套が凍結し板状になり割れる :下士官が亡くなった兵卒の綿の外套で雪を踏み固め斜面を登った という興味深い記事もあります この斜面を登る際転落を繰り返し脱落、そのまま凍死した兵も多かったそうです 青森5連隊はブリザードを避け正午頃、丘を越え風の影響の少ない山腹を目指しています この日の天候は 「死の彷徨」中、最も厳しいもので 青森測候所の記録によると 最低気温 氷点下 12.3度 最大風速 14.3m 最高気温 氷点下 8度
- 167 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/01/30(金) 21:42:16.01 ID:H9rc139s0.net]
- 鳴沢高地行軍:兵卒の脱落
明治35年 1月24日 : 1902年 午後 ブリザードはますます激しくなり天と地も判らないほどの状況 手を懐に入れ温めたり工夫をしても皆凍傷になり まゆは凍りつきツララをなし顔色は暗黒色というありさま 指の自由を失った者は、人力を借りなければ放尿することも出来なかった 睡魔に襲われた者はことごとく倒れ脱落し 「しっかりしろ」などと怒号飛び交うが脱落者を救援することは困難であった ほしいいなどの携行戦闘糧秣を食べようとしても 凍傷の手が不自由でこれもあたわず 脱落者を血涙を呑んで見捨て、前進する 事件後の記事 軍医の勧めに従い兵は互いに抱き合い
- 168 名前: 軍歌を唱えながら行進し、
全身凍傷にかかり人事不省になったものは、一同その頭と足を持ち その名を呼びながら胴上げをなし、覚醒をつとめて行いましたが 午後3時頃はそれをなす気力もなく、 倒れた者を見棄てて行くというようになり・・・・・ ( 2月8日付け 時事新報 明治ニュース事典より ) 果たして青森5連隊はブリザードの影響の少ない窪地をめざし前進する そして午後5:00頃、隊の先頭は狭小なる凹地に遭遇して停止 収容可能な脱落者を収容す しかして、人員を点検せしに、実に総員の四分の一を失いたり この場所は鳴沢の南方にあたり 昨夜の露営地からは直線にして700メートル程しか離れてなかった また、窪地とはいえ、ここは風雪を避けられるという程ではなかった さらに雪壕を掘ろうにも、道具は概に棄てていたため、足で踏むしかなかった これがいわゆる第二露営地である [] - [ここ壊れてます]
- 169 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/01/30(金) 23:10:21.63 ID:sYmRxYrwO.net]
- いい加減やめな
- 170 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/01/31(土) 07:03:27.71 ID:KXZyyllV0.net]
- なんでだよ!めちゃ面白い。
- 171 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/01/31(土) 09:43:22.92 ID:AcOh2EA40.net]
- 第二露営地
明治35年 1月24日 : 1902年 午後 5:00 結論を先に申し上げると 大隊長は翌25日の夜明けを待って田茂木野方向に出発することを命じた しかし1月25日 午前 3:00 大隊長は倒れてしまい 青森5連隊は再び夜明け前の帰営を決断する 24日午後5:00から25日午前3:00までの第二露営地は以下の通り @ 夜のブリザードは昼間と変わらない 暖を取りたくても炭薪はなく食料もない わずかに各自携帯する2〜3個の餅と牛缶詰があるだけ しかれども餅は氷結し石のように固く缶詰切り開くに困難な状況 糒(ほしいい)などを食べたくとも凍傷にかかる手ではどうにもできず 人の助けがなくては口にすることもできない 喫食するものは稀であった A 大隊長は火に当たると凍傷がひどくなるであろうと火は一切焚く事を許さず 夜通し足踏みをして暖みを取るよう厳命する B 概に食尽き、空腹はますます迫り来たり いかんともすべからざれど翌朝の天候に望みを抱き、 各人団輪を作り最も凍傷にかかった者を取り囲み露営を為したり C 各小隊は、手指を摩擦したり軍歌を唄い睡魔を破り 指揮を鼓舞し体温を保ち以て凍傷を防がんことをつとめたり 昏睡して倒れた者は体をこすり蘇生を試み 睡気を催す者は高呼してその覚醒を図れり D 行軍部隊は夜間寒気との戦いに一睡もせず足踏みしたが 雪が靴の下の凍りつき高下駄のように氷柱が発生 それが折れて倒れた者は再起不能となり水中に没するが如く深雪の中に姿を没して 死んでいったという 午後9:00までに将校を含む20数名が死亡 午後1:00将校たちは集合し対策を論じた 結果、翌25日の夜明けを待って出発することを命じた しかし前述のとおり大隊長は倒れてしまう この鳴沢第二露営地付近では最も多くの遺体が発見されている
- 172 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/01/31(土) 10:38:10.42 ID:AcOh2EA40.net]
- 第二露営地出発
明治35年 1月25日 : 1902年 午前3:00頃 神成大尉は各小隊を呼集し人員の状況を確認 三分の一は既に倒れ 三分の一は凍傷にて運動の自由を失い、三分の一のみ比較的健全 との報告あり 行軍隊は一列縦隊をもって鳴沢渓谷を下る ブリザードの影響は少なくなるが昨日同様に寒さは厳しく 再び駒込川の本流と断崖に路を阻まれ進退困難な状況となり 先刻出発した第二露営地に引き返す事となる この状況下、神成大尉は悲嘆のあまり絶叫した :天はわれわれを見捨てたらしい :俺も死ぬから、全員昨夜の露営地に戻って枕を並べて死のう 行軍して二日目ごろから精神に異常をきたすものが出てい カンジキ隊が雪を固めて路を拓き進軍したのだが 周囲の何メートルもの深い積雪に向かい わけのわからない叫び声をはりあげて突進するものがいた とたんに身体がズボッとはまって見えなくなる 手をあげて助けを求めると、雪が頭に落ちて完全に埋まってしまった それでも助けようというものはなかった 一行は、錯乱状態の中、暗中模索に喘ぎ、堂々巡りに陥った 1月25日 午前 5:30 2時間30分という時間と30名の犠牲を払って行軍隊は第二露営地に到達する 大隊長が倒れるという件は正史では 山口少佐、倉石、神成両大尉は先頭にありて進路を定め・・・・・ 1月25日午前 5:30 第二露営地に行軍隊再び到達後 大隊長人事不省となる と、遭難始末に記録されています しかし なぜ朝を待たずに夜に第二露営地を出発したのか? 実は大隊長が倒れたからでは? と、この行軍の書物を読めば読むほど考えざるを得ない印象を受けます
- 173 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/01/31(土) 16:42:49.29 ID:AcOh2EA40.net]
- 興味深い記事があります
後藤伍長の弁によれば、大隊長が倒れたのは 第二露営地を出た後、駒込川の本流と断崖に路を阻まれ 再び第二露営地に着く前で、しかも着いた時には既に絶命していたという 第5連隊遭難始末より 後藤伍長の談話 行軍を率いる大隊長の死は大隊の全滅を意味する それゆえ後の青森5連隊本営での遭難に関する聞き取り調査の際に 大隊長は生きて救出されたという事を原則とし 聞き取り調書が調整された可能性もあるのではないでしょうか? しかし本行軍は正史では 大隊は3度人事不詳になり3度蘇生し青森本営に生還しています
- 174 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/02/01(日) 21:27:28.16 ID:fLSt16e80.net]
- でもこの演習による日本軍の耐寒能力把握がなかったら
満州に渡った日本軍将兵は、ソビエトに侵攻したナチスドイツ軍がモスクワ戦線で経験したのと同じ轍を踏んだ可能性が大なんだよな。 日露戦争で、冬季でもロシア軍に渡り合えたのは、この貴重な教訓があったからだとおもうな。
- 175 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/02/02(月) 13:44:37.96 ID:74tefAbz0.net]
- >>171
興味深い指摘だな 山口大隊長は救出後自決したと伝えられているが 現地で死亡していたとなると話はまるっきり違ってくる
- 176 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/02/02(月) 22:37:34.58 ID:INcnm4BK0.net]
- 第二露営地出発 → 迷走 → 再び第二露営地へ
明治35年 1月25日 : 1902年 再び前露営地に引戻ることとなってしまった この時、山口大隊長は人事不省となり軍帽すらも吹雪に吹き飛ばされてしまっていた 軍帽は見つからないので凍死せる兵士の軍帽を取りてこれを大隊長にかぶらせ しばらく介抱して前露営地に運び込んだのだが 大隊長はこの時既に絶命せり 第5連隊遭難始末より 後藤伍長の談話 1月25日 午前 7:00 時に午前七時なり、天は我々をしてますます悲運に陥らしめぬ この時、山口大隊長はまた人事不省となりければ 将校数名は相抱きて樹下に風雪を凌ぎ、生木を集めて火を点ぜしに じゅうじゅうと音するのみにて暖をとる能はず これにおいて万事の望を没し去られたり 我々の心中は今語らんとするも形容するに言葉なし わずかに背嚢の板片のあるを思い出し 死者の背嚢を集めて焚火をなし、大隊長を暖めたり されど大隊長は蘇生せず。 第5連隊遭難始末より 倉石大尉の談話 1月25日 旭川にて 零下41度を記録 :他文献より
- 177 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/02/02(月) 22:55:45.89 ID:INcnm4BK0.net]
- >>173
ロシアの雪はサラサラの軽い雪で 皮の短靴とゲートルでも支障がありませんでした 八甲田の雪は湿って重く短靴は役には立ちませんでした 後述の予定ですが 確か中野中尉の隊は短靴はみな脱げており 全員はだしで仰向けに雪上に整列し横たわり亡くなっており 凍死する直前目覚めた人は苦悶の表情のまま絶命されていた という記事があります 余談ですが日清戦争でも渡河作戦を行った四国の部隊が 濡れた軍靴のため凍傷にかかるという件 八甲田雪中行軍前に冬の北海道演習で部隊が遭難した件 これは最後の救出者は縦穴1人分の雪濠を掘り2週間後に発見され 脚を切断という顛末 日清戦争の件と北海道の件が 帝国陸軍内部で情報共有されていたかどうかは不明です
- 178 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/02/03(火) 02:05:04.08 ID:+zi1+b7l0.net]
- 北海道でも寒冷地演習で死傷者がいたのか?
寒さを想像もできないな…恐ろしい… 山口少佐は山中で絶命か…45歳死亡だが、写真見るに還暦を過ぎた爺さんに見えるよな。 いくら将兵に丁重に扱われていたとはいえ、こんな爺さんが若い兵士より過酷な山中で生存できたとは思えない。 福山雅治と同じ年齢なんだがな、その父親世代に見える。当時の45歳っていうのはそんな年齢なんだろうな
- 179 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/02/03(火) 02:05:34.44 ID:+zi1+b7l0.net]
- 北海道でも寒冷地演習で死傷者がいたのか?
寒さを想像もできないな…恐ろしい… 山口少佐は山中で絶命か…45歳死亡だが、写真見るに還暦を過ぎた爺さんに見えるよな。 いくら将兵に丁重に扱われていたとはいえ、こんな爺さんが若い兵士より過酷な山中で生存できたとは思えない。 福山雅治と同じ年齢なんだがな、その父親世代に見える。当時の45歳っていうのはそんな年齢なんだろうな
- 180 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/02/03(火) 02:13:14.18 ID:+zi1+b7l0.net]
- すまん、2度押してしまった。
山口少佐の遺体を山中に遺棄していくことも出来ず、駒込川付近にて救助される。 陸軍は、蘇生により回復したが、責任を負って自害したと言うことにして師団は責任を逃れたのだろうか…
- 181 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/02/03(火) 18:59:46.97 ID:tvryDbmS0.net]
- 山口少佐ってのは幕臣の子弟で、徳川が駿府へ移って作った沼津の兵学校かなんかの出身なんだよな。
- 182 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/02/03(火) 22:42:35.59 ID:jpsSMNRg0.net]
- >>175
北海道の冬季演習事故や5連隊の遭難により陸軍の防寒対策が 急に改善した訳ではなくて、5連隊を救助しようとした救援部隊の 8師団の兵士に凍傷者が続出した上に吹雪の中を前に進む事もできず、 救助活動が大幅に遅れて死者を増やした為、軍はマスコミや国民や帝国議会の 糾弾を浴び、衣服や装備の改善の急務が認識された、というのが現実です。 日清戦争でも満州の冬の寒さに陸軍兵士は大きなダメージを受けていますが 当時のマスコミは「勝った、勝った」しか書かなかった為、陸軍首脳には 寒さに対する危機意識はありませんでした。
- 183 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/02/04(水) 00:15:08.44 ID:g139EkHLO.net]
- 事故・犠牲→検証・反省→改善
という流れを生んだ訳だ。 日露戦争では少なからずこの犠牲を無駄にせず、寒冷地対策を行った事は意義深い。 或意味で「実験」だった訳だからな。
- 184 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/02/04(水) 01:16:22.53 ID:R+Kr63Vf0.net]
- >事故・犠牲→検証・反省→改善
いや、遭難発生で大規模な救助活動が行われ、 その救助活動でも凍傷者続出で、救助活動すら満足にできない体たらくが 大々的に報道され、死者遺族を始め各所から非難を浴びまくって、 ようやく寒冷地の恐ろしさを認識した。典型的なバカ役人体質 よく似ているのが脚気。海軍は脚気を克服していたのに、陸軍は克服できず 日露戦で数万の死者を出したからな。自軍の兵士を数万人殺して、 日本を存亡の淵に追いやりながら、森鴎外を始めとする陸軍衛生課で 責任を取った者は1人もいない 基本的に帝国陸軍は学習能力が非常に低く、責任を取りたがらない保身だけの バカ役人体質で、自らを滅ぼした
- 185 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/02/04(水) 18:22:22.68 ID:VBsJH0AN0.net]
- 第二露営地出発 → 迷走 → 再び第二露営地へ 2
明治35年 1月25日 : 1902年 本スレでは大隊長は死んでしまったという共感を得ました しかし 行軍を率いる大隊長の死は大隊の全滅を意味する 大隊長の死を秘匿したまま行軍は進んだのではないでしょうか 青森5連隊大隊長のプロフィール 山口ユ やまぐちしん 少佐 東京出身 士族 安政3年( 1856年 )12月27日生まれ 明治4年 東京で外国語学校で語学を学ぶ :15歳 明治13年1月士官学校に入り :24歳 明治14年12月士官学校を卒業陸軍歩兵少尉となる :25歳 明治15年1月歩兵第18連隊に着任 正8位受勲 名古屋鎮台 歩兵第18連隊( 豊橋 ) 明治21年に第3師団に改称 明治18年5月 陸軍歩兵中尉となる 従7位受勲 :28歳 明治19年5月 歩兵第19連隊に着任 従7位 名古屋鎮台 歩兵第19連隊 ( 敦賀 ) 明治21年に第3師団に改称 :29歳 第3師団 歩兵第19連隊 (敦賀) 連隊大隊副官を任ぜられる 明治25年12月 山口姓となる :34歳 明治26年3月1日想定 陸軍歩兵大尉となる 歩兵第19連隊中隊長に任ぜられる :36歳 明治27年9月 日清戦争着任 遼東半島に戦う :37歳 明治28年6月 大連湾を出発し7月宇品に凱旋 :38歳 同11月受勲 従6位勲5等功5級 軍功旭日章 瑞宝章 功5級金鵄勲章 (日清戦争従軍軍人 2000名が受勲 ) 明治29年12月 仙台第2師団17連隊 中隊長に任ぜられる :39歳 明治30年5月 京城守備隊長をして渡韓 8月従6位受勲 :40歳 明治32年3月1日 : 想定 戸山学校入校( 戦術科 )着任:東京 同年 12月 陸軍歩兵少佐となり山形32連隊着任、中隊長だったと想定 :43歳 弘前第8師団歩兵第32連隊 明治34年2月 弘前第八師団青森歩兵第五連隊第二大隊長となる :45歳 明治35年1月 八甲田雪中行軍にて亡くなる :46歳 正史の記録では 2月2日死去 倉石大尉 後藤伍長 の弁では 1月25日死去
- 186 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/02/04(水) 23:36:37.79 ID:7jUMK16EO.net]
- >>182
海軍が責任を取る体制であったかのような物言いだが、そうなのか?
- 187 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/02/05(木) 16:44:22.68 ID:oFg4WhyG0.net]
- >>184
本来、遠洋航海などで陸軍より脚気になりやすい海軍が 完全に脚気を克服していたんだから、海軍に習ってパン食にしたり、 麦飯にすれば良かったんだよ 森鴎外のように「陸軍衛生部のメンツ」に拘って、数万の兵を殺して 日本国を危うくするのが、帝国陸軍の本質だな。 インパールなんか牟田口や辻のメンツの為に数万の兵士を殺して 日本敗戦の原因を作りながら牟田口も辻も何の罰も受けていない。
- 188 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/02/05(木) 18:35:40.49 ID:pP76mcfNO.net]
- >>185
海軍が失敗に対して責任をキチンと取らせる組織かどうかを問うているのに、それはズレた答だ。 ひょっとして、海軍には責任を問われるような失敗を犯した幹部などいないとでも言うのか?
- 189 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/02/06(金) 01:33:45.42 ID:G61UEzb00.net]
- >>186
>海軍が失敗に対して責任をキチンと取らせる組織かどうかを問うているのに 完全にスレ違いだ、どこまでバカなんだ? バカな教えて君は、海軍スレで聞いてこい
- 190 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/02/06(金) 03:00:50.91 ID:O94stOABO.net]
- >>187
>>182が陸軍に限定しているのが変だな、と思ったから聞いたんだよ。 八甲田に絞った話なら陸軍限定でいいが、もっと枠を拡げたことを言ってるでしょ。
- 191 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/02/06(金) 07:45:22.12 ID:PZahEPMf0.net]
- 第二露営地出発 → 迷走 → 再び第二露営地へ 3
第二露営地は第一露営地より北東に550m 鳴沢より南東方向1000mの谷底を超えた南方山腹の狭小なる凹地 地図はコチラ↓ yuebing.exblog.jp/iv/detail/index.asp?s=8010506&i=200902/28/96/a0118696_14554518.jpg 明治35年 1月25日 : 1902年 午前 7:00 雪少なしく晴れ、四方を展望するの機を得たり 倉石大尉は田茂木野方面を確かめん為斥候を出さんとす 希望の者は予の許に集まれ 渡邊幸之助軍曹、高橋他一伍長以下12名がこれに応じ 倉石大尉は彼らに次のような任務を与えた。 @渡邊軍曹は5名を率い鳴沢西南方高地の左方より A高橋伍長は残余の5名を指揮し駒込川方向より 共に田茂木野方面を確め村人を雇ふて救援に来るべき処置をなし 且つ連隊に現況を報告せよ。 嗚呼、諸子よ、諸子は今日すべからく谷村計介たれ 第二露営地から田茂木野に至る道のりは以下のとおり @鳴沢西南方高地を越えてゆくルート A駒込川方向より斜面を登るルート @A→中の森→ヤスノ木森→賽の河原→大滝平→田茂木野 第二露営地から大滝平までは約5q 谷村計介とは 西南戦争(明治10年)の際 熊本城から西郷軍の包囲を果敢に突破した伝令 1月25日 旭川 零下41度を記録 この日は未だに破られていない日本最低気温(気象官所)が観測されている 北海道に於いては概ね二十度以下にして、上川の如きは四十一度となり 石油凍結するに至れり 遭難始末より
- 192 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/02/06(金) 08:28:31.63 ID:PZahEPMf0.net]
- 第二露営地出発 → 迷走 → 再び第二露営地へ 4
明治35年 1月25日 : 1902年 午前10:00 救援隊が来ると呼称する者があり 一同驚喜し前方の高地を瞥見( べっけん )すれば 数多の兵員達が雪を分け通路を開設しつつ我らに向かい前進していた これにおいて感極まり感涙するものあり隊の士気は昂ぶった 倉石大尉はまずラッパ手をして号音を吹奏せしめんとしたるも ラッパは唇頭に凍着し、ラッパ手は疲労こんぱい腹に力なく わずかに断絶せる一、二声を発したるのみ それに困って来る救援隊を熱視すれば その救援隊と見えしは、あまたの樹木が1列となり2列となりにして 風雪にさらされた現象であったと判明 本件で一同は茫然、昂ぶった士気は平常に戻った :いわゆる集団幻覚であった 兵士は寒気に襲はれ身体の自由を失いし為め、あらゆるものを集めて暖を取りし 暖を取る煙を救援隊が見出してくれるのではないか と希望をつなぐ者もいた 午前 11:30 高橋斥候長自ら第二露営地へ来り 報じて曰く、確かに帰路を発見せり 斥候は通路を踏開し田茂木野に向いて前進中なりと このころから雪は止まないが風が和らぎ始める 山口少佐は火辺にありて暖気を得て元気になった・・・・・ という記録が残っている その真偽はともかく、多くの人員が山口少佐の蘇生・摩擦に 割り当てられたと想像できます
- 193 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/02/06(金) 09:05:57.14 ID:PZahEPMf0.net]
- 第二露営地出発 →第三露営地へ
明治35年 1月25日 : 1902年 正午 12:00時 武器を携行しての行動の困難を懸念した倉石大尉は 自らの責任とし重症者の銃を叉銃と決定している 同 12:00時 青森5連隊の一行は高橋伍長を先導にして出発している ここで云う一行とは第二露営地で動ける者、かろうじて動ける者 加えて大隊長が人事不省、死亡している場合は大隊長を運搬する者も 倉石大尉により編成されていたと考えねばなりません 午後 1:00頃 鳴沢谷底より馬立場に通ずる進路を発見 午後 3:00 馬立場に達す 午後3:00以降 中ノ森の東方山腹に達するや、日既に薄暮 進路は不明となり、風雪また猛烈にして再び悲境に沈淪するに至れり 午後5:00 カヤヰド沢東方鞍部に達せんとする頃 大橋中尉・永井軍医等行方不明となりしを知る 倉石大尉は、今泉見習い士官以下10余名を率い 露営地偵察の目的をもってカヤヰド沢に降り、一地を選定し 伝令を以て大隊長一行を迎えしもついに至らず このころ神成大尉はカヤヰド峡谷を偵察していた その先は賽の河原である、翌朝の出発に向けての偵察だったのであろう と想像できます また遭難始末によれば 大隊長山口少佐は三たび人事不詳になり部下これを救護して 三たび蘇生しついに第三露営地に達する そののち全く人事不省となれり と、記録されています
- 194 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/02/06(金) 09:28:56.41 ID:PZahEPMf0.net]
- ここで小休止と再検証
第三露営地は 中の森 ⇔ ヤスノ木森 間にある沢であり 大隊長と倉石大尉他、士官、見習士官、下士官らが最後に発見された場所です 第三露営地に大隊長が到着する前 1月25日午後5:00以降 大橋中尉・永井軍医等行方不明 今泉見習い士官以下10余名がカヤヰド沢に第三露営地を設営 神成大尉はカヤヰド峡谷を偵察賽の河原方面に進出 1月25日午後 11:00 倉石大尉の一群はいまだ到着しない大隊長一行のために胸まで雪に沈みながら 1時間をかけ、かすかな声を頼りに合流し、第三露営地に案内する という勇敢な記録が遭難の後の聞き取りにより残されています そして大隊長は第三露営地に無事到着の後 三たびの人事不詳そののち全く人事不省となれりとは前述のとおり しかし興味深いことに 大隊長山口少佐は人事不省となったという記録が残っているにも関わらず カヤヰド沢の川面に責任を負うかのように座して 従卒らの亡骸にその身を護られるかのような形で なぜか生存して発見救護されています
- 195 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/02/06(金) 12:42:08.10 ID:PZahEPMf0.net]
- 第三露営地 検証 任意解散の件
明治35年 1月25日 : 1902年 午後 夜 死者 139名 生存者 71名 かくして 25日の夜は再び露営するに決したが、この時、多くは凍死して その数139名に達したるるにもかかわらず、生存せる71名は なお隊列を乱さず整然として露営の態度を取り、しばらくは苦寒に堪えたるも ただただ、これ死を待つのみにて、いかんともするあたわず @青森聯隊遭難 「 雪中行軍 」 後藤伍長談 これにおいて、ある者は田代に引き返そうといい また、あるものは田茂木野に向かおうとの意見があるが むしろ各自任意もと進退を決定しようという事となり 倉石大尉の如きは独り奮然身を挺し田代の方向に進みしまま たちどころにその影さえも見へず 水野中尉(子爵)においては、再びの道案内として真先に進みしが 間もなくして生きながら雪中に葬られし有様にて 見る間に続々凍死者を生ず A青森聯隊遭難 「 雪中行軍 」 後藤伍長談 @の件は25日の夜は再び露営した事を伝え Aの件は25日の夜任意解散が発生したと伝えている @A、共に後藤伍長の談です 極寒の地より生還された後、記憶に混乱が生じたのでしょうか? 事故調査の際この任意解散談は国内の注目を集める事となり 生存者に聞き取りが行われています 伊藤中尉の言 山口大隊長が各兵士に自由行動を命じたと世間では言っているが 決してそういう命令は出していなかった 「陸奥の吹雪」より 小原・村松伍長の言 1月24日夜「 明払暁帰営の途に就く 」事を命じた時 「各人はおのおの道を求めて連隊本部に至り、この状況を報告せよ、」 と言われたという :解釈的には一部兵卒が本隊とはぐれた場合の安全弁とも取れる訓示の可能性もある 補足として、田代に向かったという倉石大尉は第三露営地にて露営
- 196 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/02/06(金) 13:11:56.84 ID:PZahEPMf0.net]
- 第三露営地 最後の露営地
明治35年 1月26日 : 1902年 午前0:00 過ぎ 日付が変わった頃であろうか、本隊ではある動きが始まったとされている。 倉石・神成 両大尉、 伊藤中尉、鈴木少尉、今泉見習士官、佐藤特務曹長等以下十数名やや活気あり 倉石・神成 両大尉は 切々苦慮しきりに方向を考察し確認した結果答案を得るに至る おそらく田茂木野は、この高地の右前方向にあり遠くても二里ほどの位置であろう よりて、明け方を待って行進するに決せり 遭難始末より 1月26日 午前 1:00 頃 午前 1:00頃、人員を呼集して検ぜしに、約30名を得たり 山口少佐は昏倒たままであり止むお得ず兵卒若干を付して カヤヰド沢を出発せり 生存者 71名のうち、やや元気な30名が深夜に第三露営地のカヤヰド沢を出発 大隊長山口少佐は強壮なる兵数名をして守らせている 他の生存した兵卒は疲労困憊の状況でカヤヰド沢で露営し 行軍開始より丸3日間を経て 4日目の朝を迎えようとしていた
- 197 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/02/06(金) 19:17:26.47 ID:PZahEPMf0.net]
- 第三露営地 後藤房之助伍長出発
明治35年 1月26日 : 1902年 午前 明け方 後藤房之助伍長は 連日の疲労に加えて食糧の十分ならざりしため昏睡状態に至り 翌朝夜明けて目覚めれば、自分と共に眠りたるものは一人も見当らない いかににせしやとまよいおりしが その日はすなわち26日の朝であり 幸い天気も晴たる事なれば、立ちて四方を観望するに、 此処に二人、彼方に二人、或は十人一組となり、又は五人一団となり、 四方を眺めて方向を極めんとするもののごとくなりしなり かくて、青森に向かう背進の途上 神成大尉・鈴木少尉・及川伍長と遭遇したり 検証 後藤房之助伍長は26日の夜明けにカヤイド沢を出発したとみられる そして26日の深夜午前0:00過ぎにカヤイド沢を出発した神成大尉らと 奇跡的に出会っている 映画では後藤伍長と出会った神成大尉が 伍長に帰営を試み遭難を伝えるように下令するシーンがあるが 後藤伍長発見は翌日の 1月27日 午前 10:00である さて史実では 後藤伍長と神成大尉一行は出会って後1日さまよう事となる その内容は以下のとおり この日、降雪はなはなだしいいが風力・寒気は共に和やかになる 露営地に凹谷を降り進むこと1時間 神成大尉・鈴木少尉以下10数名は地形偵察のため 歩を伸ばして右折し高地に上る 倉石大尉は今泉見習士官と共に中野中尉以下の患者を救護し 一進一止、僅かに前進を続行せり 幸運なことに日も照り、雪も小休みとなるが 飢えと寒気の為め痛く痛く疲労せしをもって進退自由ならず 丈余の雪を掻き分け行くはこれも雪中を泳ぐに異ならず そのうち、中ノ森という地に到達する 再びこの地にわれら露営することとなり 各幹部は厳然、寒気と戦いしも、夜に至りて疲労と寒さに血凍え 昏睡するに至たりしもの数名あり。 この日、後進せる( 青森の営舎 )への路は普通であれば 2時間あまりにて踏破できるのだが 一食もせずただ雪を噛りつつ進むだけで一日費やせり 第5連隊遭難始末より 本記事は神成大尉一行よりの聞き取りと推察する
- 198 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/02/06(金) 19:56:07.16 ID:PZahEPMf0.net]
- 中ノ森露営地
神成大尉・鈴木少尉・及川伍長 + 後藤房之助伍長 露営をし翌朝1月27日を待つ 大隊長山口少佐は過去の検証より 第一露営地ですでに絶命・蘇生しその後行軍に参加し 計3回昏倒あるいは絶命しついにカヤイド沢に至る ( 23日・24日・25日 ) カヤイド沢到着の後、大隊長再び昏倒 生き残りの強壮なる兵に護られているであろう大隊長は 田茂木野方面( 青森 )へは進出していないというのが正しい検証 であるはず つまり大隊長は 神成大尉・鈴木少尉・及川伍長 + 後藤房之助伍長が到達した 中ノ森露営地には同行していないと云うのが常識的な見解ではあるのですが なぜか遭難始末の記述では 大隊長は縦横無尽の行動力を示しています これは 青森5連隊の本行軍での成果をたたえる意味と 当時の新聞社の激しい陸軍批判を牽制するため 陸軍聞き取りの遭難始末等の記録に多少の調整が加えられたと想像します 以下の記事がその調整された一件と想像できます :27日時間不明、一名の伍長来たり :告げていわく、田茂木野道は分明せりと :即ち各兵を励まして行けども行けども田茂木野の路に達せず、 :ただ右に小山の見ゆるより、その地に至りしに :ここにて先に別れし神成大尉・鈴木少尉以・今泉見習士官等ありければ :互に談合の上 :二隊に分離し道を求めんとせるに際し :大隊長の来るに逢ひければ各々蘇生したるを喜びて :互に勇気百倍、二隊に別れ進行せり :時は慥かならねど、午前六時より七時の間なるべしと思ふ この聞き取り記事は正史で云うところの 「 二隊分離 」 神成大尉一行と倉石大尉一行 カヤイド沢に大隊長を残し27日の朝を待って 田茂木野方面( 青森 )への二隊分離の行軍を試みる 映画の別れのシーンはこの部分を描いています
- 199 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/02/06(金) 20:33:03.79 ID:PZahEPMf0.net]
- 二隊分離 青森へ
明治35年 1月27日 : 1902年 午前 10:00 青森5連隊雪中行軍隊210名の遭難が確定します 最初の生存者後藤房之助伍長発見救助に至るという 当時としては稀にみる偉業は この二隊分離という戦術にて担保されたと考えます 1月27日明朝の最終的な二隊分離に至るまで 神成大尉と倉石大尉はカヤイド沢より青森方面への帰路を考察 斥候等を派遣しながら帰路の裏付けを担保していたと想像できます その内容は以下のとおり 1月27日午前7時30分頃、倉石大尉等は兵を集合させた 青森への帰営を確かなものとするため山腹をほふくし 賽の河原の南東部に達せんとするや 神成大尉の一団に会す これにより相互協力し、共に青森への方向を偵察すれば 断崖は千じんの谷のようで踏破は不可能であった 事ここに至り打つ手は見いだせず事態は差し迫っていた その時であった 空はいくらか晴れ渡り、洋々たる青森湾、皆の一望の下にあり 皆これをみて喜び帰路への疑念は払しょくされた 午前11時30頃 天候は曇り 吹雪と化しこれに於いて神成大尉は進路を左に進め 倉石大尉は右に進め ついに再び合せず 遭難始末より 青森湾を一望した場面に 大隊長山口少佐が卒一名とともにおり皆が歓喜した という記事があるのですが本スレでは除外します 史実では大隊長はカヤイド沢の川面に座し発見されているのですから
- 200 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/02/06(金) 21:31:14.96 ID:PZahEPMf0.net]
- >179
:山口少佐の遺体を山中に遺棄していくことも出来ず、駒込川付近にて救助される。 :陸軍は、蘇生により回復したが、責任を負って自害したと言うことにして :師団は責任を逃れたのだろうか… 丁寧なる返信をありがとうございます 八甲田雪中行軍のスレ参加は映画板を中心に7年目になりますが 以下は私の推論です 1月24日に絶命したであろう大隊長山口少佐の遺体は 動ける兵卒により交代で摩擦・蘇生・運搬され 1月25日カヤイド沢に運搬された 大隊長は死後もカヤイド沢の風雪を避けうる岩陰にて摩擦・蘇生を受けていた この岩陰には大隊長を最後まで御守りする壮健な兵士と 青森への帰営を果たす兵士が露営し 帰営部隊は1月26日早朝より帰営を試みるが中ノ森に露営 1月27日早朝を待ち青森に二隊分離で進行 後に 二隊分離ののち青森方面に進出できなかった倉石大尉一行が 再度帰還カヤイド沢に露営しています 映画では大隊長は 1月27日に救援隊に救助され 「 全ての責任は私にあります 」と報告 しかし史実では後日 カヤイド沢の川面に座して生還 座した羅紗の外套は河原に凍りつき、救助者のナタにより切分けられ カヤイド沢の斜面を布を利用したソリ様の担架で運搬され帰営しています さて、沢の川面に座すという事は 摩擦・蘇生を続けた硬直していない山口少佐を救援隊の到着を待って 川面に運び出した あるいはそういう記事を調整して後の陸軍史に残したと考えられます 山口少佐の周囲には少佐を温め護るべく数人の兵卒の亡骸があった とも伝えられています、これは兵卒最後の職責でしょうか? 美談の創作でしょうか? 自害の件は映画のとおり 映画では自動拳銃が使用されていましたが 史実では山口少佐はリボルバーを所持 しかし凍傷で腫れ上がった指がトリーガガードに入るとは考えにくのが真実でしょう
- 201 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/02/07(土) 12:00:15.94 ID:LCH9yZZrO.net]
- www.youtube.com/watch?v=iZd_Mf4YhFY&sns=em
- 202 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/02/07(土) 14:02:40.36 ID:oOhKMQp80.net]
- 二隊分離 青森へ そして後藤房之助伍長救助
明治35年 1月27日 : 1902年 午前 10:00 二隊分離の理由は青森に続く尾根が二つ存在している件で 選択に迷い全滅を避けるための知恵だった 神成大尉の進路を左は実は田茂木野に通じる道だった 最後の命令 鈴木少尉は高所に登りて地形を見んと別れしまま帰り来たらず 間もなく、及川伍長も凍傷と空腹と 寒気のため倒れたるをもって、十分に介抱せるもその甲斐なく いかんともする事あたわざりし 残念ながら戦友を捨てて行進を続ける事となる その前夜、神成大尉は後藤伍長の身にしみじみと応へければ 今はとて大尉を捨てて一歩先へ雪中を 泳ぎ進むうち、捜索隊のために救ひ出されたり 第5連隊遭難始末より 明治44年6月8日の東奥日報では 大尉は最早起き上がる力もない 伍長が助け起こして同行しようとすると、大尉は声も微かに 「 もう自分は到底いかんから伍長は急ぎ田茂木野へ行き此状況を報告してくれ 」 といわれる 伍長は大尉を捨つるに忍びず、死なば諸共、是非にと同行を勧めた所、大尉は声を励まして 「 今両人共死んだなら誰が報告の任にあたると思ふか。区々たる私情に駆られずに一刻も早く行け 」 と一身の瀕死、眼中に存せざる大尉の意気に余儀なくされ 涙を呑んで前進を初めたが さて、雪は腰を没し、両脚は凍互して棒の如く関節の役目をなさないながら 心ばかりあせっても少しもはかどらぬ 殆んど昏睡状態で立ちすくんでいる内に 三神救援隊に収容されたのである
- 203 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/02/09(月) 21:49:53.27 ID:JJOTRxEB0.net]
- p?^_^
- 204 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/02/10(火) 07:09:59.29 ID:egEPggNU0.net]
- 【青森】 八甲田山演習前に 陸自が犠牲者慰霊 [読売新聞] [転載禁止]c2ch.net
daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1423518583/-100 2015年02月10日 八甲田山系での雪中演習を10、11日に行う陸上自衛隊第5普通科連隊は9日、演習を前に1902年(明治35年)に起きた「八甲田山雪中行軍遭難」の慰霊碑(青森市幸畑)を訪れ、犠牲者の冥福を祈った。 演習は65年に第1回が行われた後、71年から毎年行われており、今年が46回目。今年は710人が参加予定で、この日は隊員220人が慰霊に訪れた。 式典では、たたきつけるような降雪の中、友伸治連隊長らが慰霊碑に献花し、参加者全員で演習の無事成功を誓った。 雪中行軍では、旧陸軍青森歩兵第5連隊210人が遭難し、199人が死亡。昨年11月に他界した俳優・高倉健さんの代表作の一つ「八甲田山」(77年)など、多くの小説や映画の題材になっている。 (記事の続きや関連情報はリンク先で) 引用元:YOMIURI ONLINE(読売新聞) www.yomiuri.co.jp/local/aomori/news/20150209-OYTNT50293.html
- 205 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/02/13(金) 22:38:05.21 ID:NJoebEXU0.net]
- 八甲田山は腐女子大量釣りだな
- 206 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/02/15(日) 13:01:34.91 ID:f
]
- [ここ壊れてます]
- 207 名前:/M+42+K0.net mailto: 八甲田山萌えなんて聞いた事ない []
- [ここ壊れてます]
- 208 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/02/16(月) 03:06:50.15 ID:/1gI27Xs0.net]
- 公開当時の腐女子が通いつめたらしいね
ケツ掘ってアッー!!とかじゃなく、男同士の悲恋みたいな感じのロマンチックホモ萌えだったらしい 八甲田サイトや掲示板は女だらけだし、モロに腐臭がする あいつらわかるよ、ホモホモ言わなくても あの妙にはしゃいだコミケみたいな内輪ノリ 聞いたことないなんて、腐女子の言い訳としか
- 209 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/02/16(月) 13:08:05.47 ID:ujvda5c80.net]
- 生協のwebサイト eフレンズ 暮らしの雑貨CD屋さんで
八甲田山特別愛蔵版DVD2枚組 税込 5054円が販売されていたので 注文しました 「 高倉健さんを偲ぶ壮大なスケールで描かれた感動作 」とのキャッチ 主婦層にはどうなんだろう?
- 210 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/02/16(月) 17:16:59.37 ID:/1gI27Xs0.net]
- もともと八甲田は女が泣きながらパンツ塗らしてた映画
リピート客も若いOLや主婦だった 男はヒット作につられてきたミーハーかウヨ 八甲田は女性向の萌え映画 ちなみに現代の萌えトレンドではないんで 歴女や軍萌えじゃないOLや主婦にはピンとこないだろう BL漫画やジャニ好きやフリルのブラウスの羽生クン萌え〜(はぁと)には むさくるしい映画でしかない
- 211 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/02/16(月) 20:42:56.95 ID:ujvda5c80.net]
- なるほど、
イケメン俳優が暴風雪の中で苦しみ悶え かつ潔く壮絶な死を遂げるというのは 女性にとってはキャッチな要素なんですね
- 212 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/02/18(水) 19:15:53.00 ID:VMmsapZJ0.net]
- 配給側は男性向きの映画のつもりだったけど、映画館につめかけた6割は女性だったらしい。
若き日の高倉健とお父さん犬との逢瀬はロミオとジュリエットの悲恋に見えたらしい。
- 213 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/02/19(木) 15:04:11.58 ID:uu6r7Neq0.net]
- >>209
すごいですね、現代にも通用するヒット作のロジックだ 美しい人達が或る不幸によって亡くなってゆく 思い当たる作品は多々ありますね アラビアのロレンス 203地 ベルサイユのバラ 史実を描くより女性へのアピール度は高い 実に勉強になりました 亡くなられた勇敢かつ偉大な 199名の先人の方々には申し訳ないが 日本の女史は古来より美男の死に恍惚を禁じ得ず 果して1945年に参政権を取得し現在に至るも変節せず 映画にそれを投影したのですね
- 214 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/02/22(日) 19:26:42.43 ID:dHEN4UfJ0.net]
- 中間管理職の課長さん二人(別の支店勤務)が難しいプロジェクトをつつがなく終えて
いやーどうもどうもと居酒屋で酒を酌み交わし、ではまた出張の折にでも、とタクシーで帰宅 それじゃロマンないですからね 女性向きにするならこうですね 社の合同勉強会で一緒になって、ちょっと意気投合して居酒屋で飲んだことがあった二人 「機会があればそのうちゴルフ」と約束してたのに その後、欣也が上司の汚職の巻き添えになって、責任をおっかぶされ鬱病になって自殺 ゴルフ場に亡霊となって出てくる欣也、「確かにゴルフ場で・・・会いました!」と涙する健さん
- 215 名前:212訂正 mailto:sage [2015/02/22(日) 19:28:18.29 ID:dHEN4UfJ0.net]
- 「機会があればそのうちゴルフ」と約束してたのに ×
「機会があればそのうちゴルフでも」と約束してたのに ○ こんなどうでもいい書き込みで誤字すいませんww
- 216 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2015/10/03(土) 13:02:05.06 ID:tha/zAEp0.net]
- 実験行軍だから早く引きかえせば良かった。距離が進むとゴール目指す気持ちの方が強くなる。上官は冷静だったが部下は熱くなったな。
- 217 名前:sage [2015/10/06(火) 18:16:32.26 ID:k3WgsxjD0.net]
- 来年1月より、可能ならば八甲田雪中行軍の実況を行います
私にとっての驚きは 筒井駅付近に実家を持つ同僚( 転勤者 )が登場したという点 当人はカヤヰド沢も知らぬ人物ですが 父上は幼少の彼を幸畑の墓地に同伴したという・・・・・・ 十和田市が三本木だとか 筒井の青森5連隊が現在は進学校になっているとか 八甲田雪中行軍を深く知らない彼の情報は新鮮で面白い
- 218 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/10/06(火) 18:18:10.21 ID:k3WgsxjD0.net]
- テスト
明治35年 青森5連隊 八甲田雪中行軍予定行程まとめ 1月23日:青森〜田代 1月24日:田代〜増沢 1月25日:増沢〜三本木 ( 古間木駅から汽車で青森に帰営の予定だった ) 上記は神成大尉の計画書による 古間木駅 現 三沢駅
- 219 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/10/06(火) 21:50:07.65 ID:q0KkqaUu0.net]
- i.imgur.com/A8DwwSd.jpg
- 220 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/11/08(日) 15:28:40.75 ID:gS4w8yp00.net]
- 今、Gyaoで無料配信やってるぞ!
神田大尉は自決したんだよなぁ・・
- 221 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2015/12/26(土) 14:43:04.07 ID:5MeexJRk0.net]
- 今年の冬は暖冬だぞ・・・・・・・・・
- 222 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2016/01/18(月) 08:23:23.82 ID:gaOsVnWQ0.net]
- 1月18日
青森5連隊は小峠まで予行行軍を実施 小峠の標高390メートル ソリ1台は小隊編成(40名) カンジキ隊20名が踏破路を踏み固め1台のソリ隊が続く ソリ牽引には交替制で兵卒4名を配置した ソリ重量は112s( 30貫 ) 小峠到達まで4時間、帰路は2時間 この日天気晴朗にして積雪三尺ないし五尺、表面やや堅硬にして良好の景情なりき 遭難始末 より この報告を受け山口少佐は 予行軍の経験によれば屯営 田代間の行軍を1日に要するは出来なき事にあらず もし途中、不慮の障害を受け田代に到達出来ない場合は、途中に露営を成すのみ 遭難始末 より
- 223 名前:220 mailto:sage [2016/01/18(月) 11:21:49.37 ID:gaOsVnWQ0.net]
- 山口少佐
>屯営〜田代間の行軍を1日で踏破するは不可能ではない これが青森5連隊の雪中行軍の主眼とすれば田代という地が非常に重要になってきます では田代とはいずれの田代を指すのか? という事について今年の実況の前に考えてみました 過去スレから今に至るまで検証をおろそかにして来ましたが 書き起こした書物等を再検証し 田代=田代新湯という結論に到達しました
- 224 名前:220 mailto:sage [2016/01/18(月) 11:35:39.02 ID:gaOsVnWQ0.net]
- 田代には元湯と新湯の2つの温泉がありますが
青森5連隊が目指したのは田代新湯です 田代新湯は冬には小山文次郎という住民一家が山篭りをして 湯治場を守っていた 当時は冬場の交通は途絶えてしまうため 3ヶ月分の食料が蓄えられていたという記録があります 田代元湯の建
- 225 名前:物は4〜5軒との記録あり
しかしこちらは冬季も住人が住んでいたかどうかは記録がありません 青森5連隊では >田代には番人の家族3人と炭焼き職人15人住居してありて米5〜6俵と >濁酒5樽と酒 1本を貯えてある と聞き取りによる調査済みで 210人の仮泊する施設の能力も備えていたと都合よく上申していますが 聞き取りした人物が現地を実際に調査したという記録はありません 特に 番人の家族3人+炭焼き職人15人住居との情報が 210名が宿泊出来るかのような錯覚を生んでいるように思えます しかし上記の炭焼き職人15人住居とは 夏季期の田代元湯の住居者であり青森5連隊の勘違いではないかと私は考えます その理由は @ 2月2日、田代元湯で村松伍長1名生存・死者1名が発見救出されるが この2名は村人の救護を一切うけていない件 A 同日、平沢の炭小屋で長谷川貞三特務曹長を含む4名が救助されていますが 無人の炭小屋で救助を待つ間、村人には一切出会っていない件 つまり、山深い多くの炭小屋は冬季は常に無人ではないかと想像するのです いずれにせよ青森5連隊は明治23年1月23日 田代新湯を豊かな宿泊地と勘違いしたまま筒井の営舎を出発するのです・・・・・ [] - [ここ壊れてます]
- 226 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2016/05/23(月) 01:28:49.81 ID:0rfohHAy0.net]
- なにげない炭小屋でさえ発見できるのとできないのとでは
かなりのちがいだったんだろうな
- 227 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2016/08/10(水) 16:56:03.47 ID:QW9HMTvz0.net]
- やはり最初から、行軍計画そのものが
デタラメだった、という事かな? 酷え話だ。
- 228 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2016/09/03(土) 22:00:39.17 ID:o32qngpK0.net]
- >>84 本州のアイヌも
高い狩猟技能で、藩からは、人喰いオオカミ駆除の依頼など特別待遇だったし > 津軽アイヌの狩猟 江戸時代の藩日記から www.frpac.or.jp/application/files/28seminar_yamagata.pdf > 江戸時代の津軽半島にはアイヌが住み、人喰い熊や人喰い狼が現れると > 津軽藩(弘前藩)の. 依頼を受けて駆除をしていました。 アイヌ・マタギの語彙に共通が多くて、マタギの祖先だとの説まであるね
- 229 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2016/09/04(日) 08:35:49.28 ID:6CQIMVKY0.net]
- 山口少佐が馬鹿だった、でFA?
- 230 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2016/09/08(木) 16:18:37.81 ID:977DYzyt0.net]
- この事件のあと、どのよう装備が変化したのか気になる。
毛皮の導入と乾パンと金平糖かな? また薪炭からガソリンコンロ・ガスコンロとか、、、
- 231 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2016/09/15(木) 21:22:15.92 ID:HRg5llFB0.net]
- エセ左翼の目的は、わざと突っ込みどころが多い主張をすることで自分たちへ注意を向けさせ、
カルトへ向かう非難の矛先を逸らすこと。 国益に反することを言ったり、主張が食い違うもの同士の対立を煽ろうとするので放置し難いが、 主義思想についての洗脳を受けているわけではなく、フリをしているだけなので、 言い負かされてもダメージを負った様子もなく、論点をすり替えられるかスルーされる。 まともに相手をしてはならない。
- 232 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:age [2016/09/19(月) 16:34:18.16 ID:aKYkVeZZ0.net]
- このあたりに居た
津軽アイヌ・下北アイヌという能力高い狩猟民をもっと活用しておけばね 本州アイヌと蝦夷錦にみる海峡往来 www.frpac.or.jp/about/files/sem1905.pdf > クマやオオカミ、特にオオカミは和人が獲るのは難しか. ったようです。 > そこで、クマ退治、オオカミ退治をする. 時には、 > アイヌの人たちを動員してクマ狩り、オオカミ. 狩りをしました。
- 233 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2016/12/11(日) 23:58:35.40 ID:an/Dw1uk0.net]
- 北の黒船事件→津軽藩士殉難事件、という悲劇を踏まえての訓練がまた悲劇に
- 234 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2017/01/19(木) 01:14:57.32 ID:qwDl1Viq0.net]
- 高倉健が何喋ってるんだが全然わからない
- 235 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2017/01/21(土) 03:29:09.90 ID:4iwwTKtO0.net]
- >>226
日露戦争の沙河での長い冬の対陣で、日本軍は一人の凍死者も出していないから この遭難事件が酷寒への備えの必要性を陸軍上層部に認識させたのは間違いない。 で、具体的な防寒対策だが、各人が日本古来のわら靴をブーツの上に履き、 蓑を軍服の上から被っただけ。毛皮なんて兵士に支給されない。 しかし、わら靴と蓑があると暖かく、雨雪を弾くので、日本兵の生命を守ったのは 間違いない。燃料はもちろん木炭。
- 236 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:age [2017/02/12(日) 16:20:51.41 ID:r3uVngcy0.net]
- >>172 日本ははるか昔から寒冷適応が弱点で、ロシアには苦戦してきたよ。
帝政ロシア(毛皮輸出が重要財源)は、毛皮商人の支援で装備充実のコサック兵が 領土拡張して、アイヌも制圧し毛皮・女などを取立てた。 1711〜13年 ロシア囚人兵が北千島に侵攻し、アイヌに圧勝 www.k3.dion.ne.jp/~karafuto/karafutosi1.html コサック百人長:イワン・チョールヌイ www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Hoppounenpyou.htm > 1766〜69年 イワン・チョールヌイ、ウルップ島・択捉島に到達。 > 周辺のアイヌから毛皮を取り立て、さらに、過酷な労働を強いた。 > さらに、ウルップ島で多数の女性を集めてハーレムを作った。 1806-1807 「露寇事件」 毛皮商人と癒着したレザノフが択捉島・樺太など襲撃して焼き討ち・略奪し、 幕府側の警備兵を火力で圧倒。 〔津軽藩士殉難事件〕 1807 北方防備で斜里に配置した津軽藩兵100名のうち72名が極寒で大量死。 ※ただしロシアは、ナポレオン戦争による兵力引上げやレザノフ病死で侵攻せず。 日本は戦わずして寒さで大損害。北海道はナポレオンに救われたようなもの。
- 237 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2017/02/12(日) 17:39:39.14 ID:+zVCfWg20.net]
- >〔津軽藩士殉難事件〕
>1807 北方防備で斜里に配置した津軽藩兵100名のうち72名が極寒で大量死。 こいつの最大の死因は「脚気」だ。 米ばかり食べるからこの病気にかかる。 そして、日露戦争でも脚気は猛威をふるった!
- 238 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2017/02/16(木) 18:05:08.64 ID:bcJkpGyF0.net]
- この当時、陸軍少尉として極地探検に執念を燃やしていた白瀬であれば
どのような装備で挑んだだろうか 千島越冬の経験から、寒地装備はずっと重要視しただろうし 同探検には、犬を連れて行ったそうだから犬を活用したかもしれない 当時の日本軍に軍用犬がいたかはわからないが、犬を随伴させていれば 危急の際に手紙を付けて駐屯地に救援を求めることもできるだろうし 帰巣本能を利用し帰路を見つけることもできたかもしれん
- 239 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2017/02/21(火) 09:34:05.99 ID:HP1yIm900.net]
- よく見かけるこの画像って
映画のスナップショットですか? リアルですか? i.imgur.com/pbNB00H.png
- 240 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2017/03/04(土) 20:16:10.87 ID:H8PNj4SX0.net]
- >>234
>千島越冬の経験から 占守島でブリザード吹きすさぶ間は小屋にいるだけだから、 食料(特にビタミン)や燃料が問題で、装備は大して問題ではない。 >犬を活用したかもしれない イヌぞりは平坦地では非常に役に立つが 山岳部ではほとんど役に立たない 山岳走破なら、各人が荷物を背負って走破する31連隊のやり方が正解 31連隊も5連隊も遭難する事は想定外だから イヌで遭難を知らせるという発想はない >>235 もちろん映画
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