- 1 名前:日本@名無史さん [2014/08/05(火) 22:00:32.53 .net]
- パート2立てました。
前スレ awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1384515586/
- 114 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/02(木) 01:09:16.32 .net]
- >>110
無教養まるだしw 却下w
- 115 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/04(土) 21:54:09.09 .net]
- 結局、逃走か。
- 116 名前:日本@名無史さん [2014/10/05(日) 13:30:18.15 .net]
- 当時は子供で死ななきゃ50歳ぐらいが平均寿命?
- 117 名前:日本@名無史さん [2014/10/05(日) 20:51:25.50 .net]
- 仲哀天皇は302年崩御
応神天皇は394年崩御 神功皇后の胎中にて即位したとされる応神天皇と 394年崩御の応神天皇とが同体であるということは 天皇位の継承が名跡継承方式であったことを物語る。 胎中天皇が仲哀天皇の実の子であれば、 却って天皇位継承権がなかったのではないか。 神功皇后が出産遅延の努力をしたのはこのためである。
- 118 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/09(木) 18:34:15.36 .net]
- >>117
景行朝から仁徳朝まで仕えた武内宿禰がいるのだから、応神天皇がそんな長生きだったとは考えられずむしろ短命だったのでは。 那珂道世博士は仲哀天皇崩御年を362年としていてこちらの方が正しいと思われる。 また血統を重んじていたことは顕宗天皇・継体天皇の例を見ても明らか
- 119 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/09(木) 19:01:26.76 .net]
- >>116
年代が比較的明らかな時代の安閑天皇以降でみると 安閑天皇70歳 宣化天皇73歳 欽明天皇63歳 敏達天皇48歳 用明天皇48歳 崇峻天皇40歳 推古天皇75歳 聖徳太子47歳 舒明天皇49歳 皇極天皇67歳 弑逆された崇峻天皇を除くと平均60歳
- 120 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/09(木) 21:08:02.45 .net]
- >>104
502年は中国側の王朝交代により進号で高句麗や百済にも同時に進号させているのでその時代に倭王武(もしくはそれの後継者)が朝貢したわけではないと思われ
- 121 名前:日本@名無史さん [2014/10/10(金) 17:57:26.66 ID:/Bgr/5sZt]
- 国家的策略だった東シナ海における倭寇
music.geocities.jp/jphope21/0203/34/225.html
日本は歴史が始まって以来、侵略を繰り返していた。
( sky.geocities.jp/datepedia/02/03/11/001.html )
( music.geocities.jp/jphope21/0103/37/256.html )
- 122 名前:日本@名無史さん [2014/10/12(日) 14:27:32.24 .net]
- 古墳の周濠、あれって、大阪人ならボートレースをしてたと思うよな。
10人漕ぎの大型軽野(カヌー)が一団となってコーナーを抜けるには、 仁徳天皇陵のような大型レース場が要る。 古墳時代の土豪というには、住民から税金を取っていたわけではない。 寺銭が主な収入源だし、大きなボートレース場を持つことが大王の条件。 江戸時代には、地外法権で規制の緩い寺の境内が賭博場として使われ、 寺に寄進した場所代が寺銭と呼ばれた。
- 123 名前:日本@名無史さん [2014/10/12(日) 14:40:13.63 .net]
- 今、地方に行って立派な建物と言えば、役所などの公共施設とパチンコ屋。
3〜7世紀に次々と造られた前方後円墳はあまりにも豪華すぎる。 なぜそんなものが必要だったのか?誰が金を出したのか? 日本人は昔から賭け事が大好きで、大王は賭博王だったと言うのは頷ける。 大型古墳は、ボートレース、競馬、相撲などの複合賭博場だったのだ。 賭博で負けて土地を失った農民を人夫として働かせ、大型古墳の賭博場を全国に展開した。 運だけで大王になれた時代、いや、運が悪いと奴卑、すごい時代だった。
- 124 名前:日本@名無史さん [2014/10/12(日) 16:04:33.49 .net]
- 古代住之江ボートの元締めが住吉大神様であった、ということですか?
初めて知りました。納得です。ありがとうございます。
- 125 名前:日本@名無史さん [2014/10/12(日) 16:11:39.82 .net]
- お前らって例に出したものの起源が無茶苦茶だな
- 126 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/12(日) 19:19:39.98 .net]
- >>123
古墳を作るのは大変だから 仏教を取り入れて火葬になったと思う
- 127 名前:日本@名無史さん [2014/10/12(日) 19:24:21.49 .net]
- >>43
50年差で同じ名前の人物が登場するのに別人とはそちらの方が不自然 どちらかの記事が時代を誤って書かれているとみるべき
- 128 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/12(日) 19:50:44.49 .net]
- >>127
むしろ名前が同じだから同一人物に違いないという考えが不自然
- 129 名前:日本@名無史さん [2014/10/12(日) 23:07:39.37 .net]
- 古事記にしても日本書紀にしても編纂者は本当に愚かなことをしてくれたよな?
天皇制の権威づけのために系統や歴史を盛りすぎたせいで 実在したであろう君主や巫女の記述があいまいになり あげく「架空の人物」に近い扱いで教科書にすら取り上げられない 何やってるんだか全く
- 130 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/12(日) 23:50:23.08 .net]
- またキチガイが沸いたか
- 131 名前:日本@名無史さん [2014/10/13(月) 00:45:14.83 .net]
- 121から123までの自演臭がひどいな
- 132 名前:日本@名無史さん [2014/10/13(月) 12:48:28.44 .net]
- 古代住之江ボートでツケマイというテクニカルは
あったのでしょうか?
- 133 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/13(月) 14:39:13.83 .net]
- 蘇我氏渡来人説とか寝言は寝て言えって感じだな
百済と高句麗の区別もつかない奴が学者できるってのもすごいが
- 134 名前:日本@名無史さん [2014/10/13(月) 16:21:43.90 .net]
- >>128
仮に同一人物でないにしても 氏族名+官名 で両者が一致した、つまり親族の可能性が高いわけで
- 135 名前:日本@名無史さん [2014/10/14(火) 18:41:37.95 .net]
- どうしても渡来人にしたいやつがいるんだね。
心配しなくても渡来系といえば、みんなアフリカからの渡来人だよw 記紀の時代、どの氏族が渡来人かの記録があるのに、わざわざ詐称する必要は ないだろ。
- 136 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/16(木) 06:41:54.54 .net]
- >>134
色々ツッコミたいけど、 あなたのいう一致している「氏族名」と「官名」って何?
- 137 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/16(木) 21:22:59.89 .net]
- >>129
神武天皇や決死八代はともかくそれ以降は全員実在して 事績も誇張はあるにせよ記紀の通りだと考える学者は最近多いよ
- 138 名前:日本@名無史さん [2014/10/17(金) 18:44:50.80 .net]
- 欠史八代とか王朝交替説とか訳の分からん説よりも、記紀のほうが考古学と
整合性があるんだよな。なんという皮肉
- 139 名前:日本@名無史さん [2014/10/17(金) 19:04:44.49 .net]
- 箸墓、西殿塚古墳、西山古墳、メスリ山古墳、桜井茶臼山古墳、このあたり誰なんだろ。
開化陵ってどんな評価なんだろ。見たことないからなあ。 改修されて元の形が不明で発掘もしてないから評価の仕様がないのかなあ。
- 140 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/17(金) 21:16:40.02 .net]
- どっかのサイトの受け売りだが、
主神でアマテラスを祀ってるのが1200, 副で祀ってるのが5000だとか
- 141 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/17(金) 21:18:38.79 .net]
- 誤爆スマン
- 142 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/17(金) 21:52:55.89 .net]
- >>139
崇神天皇陵より古いとなると、それこそモモソヒメ命やいわゆる四道将軍のだれかくらいかなあ 吉備津彦兄弟や丹波道主王は地方に下ったみたいだけど彦坐王や大彦命は崇神天皇より年上だろうし、本人が地方に下ったわけでもないみたいだし可能性は大きいと思う
- 143 名前:日本@名無史さん [2014/10/18(土) 09:32:29.14 .net]
- >>142
初期の大きめの古墳がヤマトに多すぎるんだよな。 天皇だけだと余ってしまう。卑弥呼とトヨを入れても余る。 なんというか、有力者がヤマトに集住し、そこで古墳をつくったかのような。
- 144 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/18(土) 16:52:24.26 .net]
- 天皇陵だけじゃなくて皇后陵も考えればいいんじゃない?
御間城姫命は父が大彦命、兄が武渟川別命だし全員皇族だからみんなあのあたりに埋葬されててもおかしくないし
- 145 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/18(土) 18:28:33.36 .net]
- 箸墓:モモソヒメ命
西殿塚:孝元天皇 西山:伊香色謎命か欝色謎命 櫻井茶臼山:大彦命 スメリ山:彦坐王 まあこんなところか? でも延喜式に見える孝元天皇陵が小さい古墳だというのはむしろ誇張等をしておらず正確な気がするから分からんなあ…
- 146 名前:日本@名無史さん [2014/10/19(日) 00:54:29.21 .net]
- >>15応神(〜394年)…「禰(でい)」
>>16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年) 仁徳の弟らが、倭珍、倭済であり 後期九州王朝へ分岐している。 軍事指導専従の統合参謀本部として かつての「倭国」の名義を再興したわけだ。
- 147 名前:日本@名無史さん [2014/10/19(日) 11:58:54.42 .net]
- >>142
大彦は中央の安倍氏の祖先だから中央にいた可能性あるが 彦坐王は但馬に下ってんじゃないの?
- 148 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/20(月) 08:21:18.13 .net]
- >>147
そこに住む一族の初代が磐余彦・吉備津彦みたいな称号を名乗るケースが多いみたいだから 丹波道主王こそ初代で彦坐王は下ってないと思ったんだけどどうだろう と思っていろいろ調べてみたら彦坐王墓って岐阜なのか…
- 149 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/22(水) 14:31:01.43 .net]
- 彦坐王ってなんか岐阜と関係あるっけ?
なんで岐阜ってのを宮内省も認めたんだ?
- 150 名前:日本@名無史さん [2014/10/24(金) 17:38:44.96 .net]
- 彦坐王は近江・山城・春日じゃないのか。
椿井大塚山古墳あたりはどうだろ
- 151 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/24(金) 21:05:52.81 .net]
- 確かに椿井大塚山古墳の方が大きさ的にもいいとは思うんだけどね…
たしか群馬のある古墳が毛野氏の祖先の皇族の陵墓にしてはどうかと働きかけがあったとき 「それなりの証拠がないと比定出来ない」と言われたという話を聞いたことがあるんだが あんな小さな古墳のどこを見て皇族の陵墓と認めたんだろうか
- 152 名前:日本@名無史さん [2014/10/25(土) 19:35:12.67 .net]
- >>147
但馬は当時は丹波だし、古墳から見ても丹波一族がいたんじゃないかなあ。
- 153 名前:日本@名無史さん [2014/10/25(土) 21:57:58.70 .net]
- トヨと崇神の関係が気になるなあ。
トヨは248年頃に13歳で、266年に朝貢しているっぽい。 崇神の一世代上くらいじゃないかと思うけど、記紀に出てくる誰かであっても おかしくないね。
- 154 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/25(土) 23:13:53.39 .net]
- 応神天皇の崩年が甲午で394年で、
仲哀天皇の崩年が壬戌で363年 成務天皇の崩年が乙卯で355年 崇神天皇の崩年が戌寅で318年か258年とされるが、 垂仁・景行・成務三天皇は直系で相続しているので崇神崩318年は無理があるから むしろトヨは崇神の一世代後で豊城入姫命こそ正しいと思う その場合卑弥呼はモモソヒメ命だろう
- 155 名前:日本@名無史さん [2014/10/26(日) 10:11:17.72 .net]
- 応神天皇の崩年が甲午で394年 → 正解
仲哀天皇の崩年が壬戌で363年 → 303年 成務天皇の崩年が乙卯で355年 → 295年 ですっきりするでしょう。 303年〜394年が、半島から実力者が次々にやって来た時代で、 万世一系の建前が成立しないので、記紀が書けなかった。
- 156 名前:日本@名無史さん [2014/10/26(日) 10:20:56.57 .net]
- おいおいw
またチョンコロが喜びそうな説に持っていってるなw
- 157 名前:日本@名無史さん [2014/10/26(日) 12:06:37.62 .net]
- 154
それだと崇神天皇の崩御年は198年になるんだが つーか当時の朝鮮人自身が朝鮮人に渡海侵攻能力はないって言ってるから
- 158 名前:日本@名無史さん [2014/10/26(日) 12:25:45.67 .net]
- 分かってるよwww
邪馬台国だの魏志倭人伝だの突然、話が湧き上がってきたのは 日本国内からだからな チョンコロが後世になって日本国内に住み着いて威張りだしたか あるいは当時の宗教関係などから利用するように生まれたのか? どっちにしろロクなもんじゃあないんだよ 遡及方を適用するなら朝廷関連やら徳川だの過去の日本国内の 戦犯には償ってもらわなきゃな
- 159 名前:日本@名無史さん [2014/10/26(日) 12:30:33.10 .net]
- 歴史では美化されてるけど実際の性格なども違うようにも描かれてもいるんだよなw
これはマスゴミの犯罪な、小説家やら思い入れで評価は変わるからなw どうやって手段絡みに持っていったんだ?お前らな
- 160 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/26(日) 14:46:18.40 .net]
- 日本語でしゃべれ
- 161 名前:日本@名無史さん [2014/10/26(日) 19:15:17.08 .net]
- >>68
俺の妄想説では宿祢の「スク」は 佐、介、助 つまり次官のことだと思う たとえば信長の称した上総介は上総守が上総国長官で、その次官になる。 大国主命の国造りを助けた神が「スクナヒコナ」。少彦名と書かれるが 助ける彦 と云うのが元の意味だったのではないか 武内宿禰、蘇我稲目宿祢と書かれるのは彼らが大王を助けて政務を執る立場 大臣だったから。そういえば武内宿禰の後継氏族から大臣でている
- 162 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/26(日) 22:17:16.62 .net]
- >>153
卑弥呼 垂仁の異母兄姉弟の豊鍬入姫 台与 景行の同母兄妹の倭姫命 21 :日本@名無史さん:2014/09/09(火) 17:42:31.06 神武天皇を1世とした時の世代数 25世. (38代) 天智天皇. 626-672 42世. (77代)後白河天皇 1127-1192 72世(125代) 今上天皇 1933- 古代〜中世 1世代平均29.47年 25世 天智天皇(生年. 626)から42世 後白河天皇(生年1127)まで 中世〜現代 1世代平均26.87年 42世 後白河天皇(生年1127)から72世 今上天皇(生年1933)まで 古代〜現代 1世代平均27.81年 25世 天智天皇(生年. 626)から72世 今上天皇(生年1933)まで 時代が古くなるほど1世代あたりの年数は長くなる 生年が確定している天智を起点に父の父の父の・・・と1世代29.47年で遡ると・・・ 626 25天智 626-672 596 24舒明 593-641 567 23押坂彦人大兄皇子 537 22敏達 538.?-585.? 508 21欽明 509.?-571.? 478 20継体 (武烈) 449 19彦主人王 (清寧)(仁賢) 419 18乎非王 (雄略)(市辺押磐皇子) 390 17意富富等王 (允恭)(履中) 360 16若野毛二俣王 (仁徳) 331 15応神 301 14仲哀 272 13日本武尊 242 12景行 213 11垂仁 田道間守(たぢまもり)=難升米(タヂマ) 183 10崇神 四道将軍=倭国大乱
- 163 名前:日本@名無史さん [2014/10/26(日) 23:04:23.69 .net]
- なるほど
一応崩御年も妥当な範囲にあるな
- 164 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/27(月) 19:26:32.30 .net]
- 磯城県主って三輪氏と同族で、磯城県主家が絶えて大物主神の祀り方がわからなくなったから大田田根子が呼ばれたんじゃね?
って思ってたら太田亮の姓氏家系大辞典に俺の説がそのまま乗っててわ 戦前の学者ってすごいな
- 165 名前:日本@名無史さん [2014/10/27(月) 21:03:10.80 .net]
- >>162
天智天皇〜孝明天皇までにした方がいいと思う。明治以降は条件が違いすぎるから だいたい1世代27年だった。 古代史は史料が少なすぎて所詮、水掛け論になってしまうのだが、継体以前の 大王位は血縁による世襲ではなかったと云う説も有力になってる。
- 166 名前:日本@名無史さん [2014/10/27(月) 21:07:49.96 .net]
- 164
だが系図を見れば血縁で結んであるけどな つうか系図の見方を変えた方がいいって話なのかな
- 167 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/27(月) 21:50:09.66 .net]
- >>165
学者の言う「世襲王権が確立した」を曲解した奴が言ってるだけだ。 それ以前は即位には豪族による推挙の過程があったのが欽明朝以後なくなったってだけだろJK 第一倭の五王は中国側に姓が倭だと名乗り出てるんだぞ、血統の概念はあったに決まっている
- 168 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/27(月) 21:55:27.71 .net]
- あと、古代は職掌は伴造、国造、県主みたいな一般官吏だけでなく大臣や大連のような要職に至るまで世襲だったからな
だったら大王も世襲と考えるのが当たり前だろ なのに王朝が一つでなかったなどというのは万世一系を否定したいだけのただの妄言と言わざるを得ない
- 169 名前:日本@名無史さん [2014/10/27(月) 22:09:40.66 .net]
- >>165
天智天皇〜孝明天皇は1世代平均28.02年 だいたい28年
- 170 名前:日本@名無史さん [2014/10/27(月) 22:16:13.63 .net]
- >>166
記紀以前の聖徳太子関係だったと思うが、継体天皇から後は、大王位はその血統より外に出た ことがない書かれている史料があった。それ以前は一系で世襲されていなかったということだろう。 倭の5王の讃、珍、が兄弟で後、済=允恭、興=安康、武=雄略と世襲されるのだが 珍と済=允恭の続柄が中国側史料に書かれていない。允恭は雄朝津間稚子宿禰尊と書紀に 書かれているのだが、宿禰という姓は王族らしくない。 記紀は天皇家が日本を統治する正統性を述べるものであるから、本来一系でなかった王統を 一系に作り変えたのだと思う。
- 171 名前:日本@名無史さん [2014/10/27(月) 22:22:34.95 .net]
- >>169
>古代〜現代 1世代平均27.81年 25世 天智天皇(生年. 626)から72世 今上天皇(生年1933)まで >天智天皇〜孝明天皇は1世代平均28.02年 矛盾してないか
- 172 名前:日本@名無史さん [2014/10/27(月) 22:28:47.54 .net]
- 矛盾してない
- 173 名前:日本@名無史さん [2014/10/27(月) 22:46:00.15 .net]
- >>168
大王にふさわしい人物が倭国を構成する有力氏族によって大王に推戴されていたのだと思う 遥か後の時代である飛鳥時代でも、即位儀礼として形式的になってはいたが 臣(まえつぎみ)が新大王を推戴する形をとっていた。
- 174 名前:日本@名無史さん [2014/10/27(月) 23:03:30.73 .net]
- >>170
以前読んだ本にあったのがソースかよ それこそ左翼学者の脳内妄想だろ それに天武天皇は諡に真人が入るから血統が変わったてか? 幾つも王等があったってじゃあ残りの王統は何処に消えてなんでわざわざ越前から継体天皇が来たんだか説明ができない。 記紀通りの系譜であったほうが自然
- 175 名前:日本@名無史さん [2014/10/27(月) 23:06:06.01 .net]
- あと允恭天皇の宿禰は履中天皇の大兄に対応すると思われ
- 176 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/28(火) 00:42:33.12 .net]
- >>170
宿禰が允恭天皇の姓? 名前の後ろについてるのに?w あと五王の倭王済は「倭済」って書いてあるの知らんの? 姓が倭氏なら倭讃と同姓だから男系で同族だっていう表現だろ。通説だがねw
- 177 名前:日本@名無史さん [2014/10/28(火) 08:55:16.78 .net]
- その時代、姓はまだ無かった
俺の妄想説では宿祢は大王を助ける地位にあった人物 だから、珍の死後、珍の大臣にあたる地位から大王位に就いた
- 178 名前:日本@名無史さん [2014/10/28(火) 08:59:15.12 .net]
- 妄想乙
- 179 名前:日本@名無史さん [2014/10/28(火) 09:37:42.43 .net]
- 妄想だ、ええ妄想なんだよ
撮り鉄、乗り鉄、車両鉄 皆、鉄道会社の社員でもない素人が鉄道で楽しんでいる 古代史なんて史料が少なすぎて最後は水掛け論に終わるんだから 歴史の探求はプロであるその道の専門家に任せて、素人は自説を妄想することを楽しんだらいい
- 180 名前:日本@名無史さん [2014/10/28(火) 09:51:05.37 .net]
- 最高にアホだな、コイツ
- 181 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/28(火) 11:23:54.84 .net]
- 「僕は専門家じゃないから妄想を垂れ流してもいいんだ」って考え方、最低だな
チラシの裏にでも書いてろ 人としての礼儀を考えろよ
- 182 名前:日本@名無史さん [2014/10/28(火) 18:01:20.50 .net]
- 基本となるのが、崇神の崩年干支を318年と定めるかどうか。
ほぼ文献的、考古学的にほぼそれが定説になっていて、 他の説だと牽強付会の感をまぬがれない。 318年から考察していくと、流れがだいたい見えてくる。 初代、神武からはじまじって、十代崇神でヤマトの王から、 日本(大八洲)の統治者になっていく流れが。
- 183 名前:日本@名無史さん [2014/10/28(火) 18:13:19.98 .net]
- 鉄器を作り始めたのが7世紀ころってのはハッキリしてんだろ
伊賀甲賀は忍びの里、近江商人は武器商人 まあ畿内で始まってるわな
- 184 名前:日本@名無史さん [2014/10/28(火) 18:13:24.79 .net]
- 鉄器を作り始めたのが7世紀ころってのはハッキリしてんだろ
伊賀甲賀は忍びの里、近江商人は武器商人 まあ畿内で始まってるわな
- 185 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/29(水) 12:13:23.22 .net]
- >>173
そうだよ、だから別々の氏族に押される皇族同士で皇位争いがあったんだろ そこまでは記紀の伝承と矛盾しないじゃん。 万世一系を否定する根拠にならんよ。 モンゴルのクリルタイも父系血統の範囲内でしか候補は選ばれない。 群臣が推戴する形があったからといって 血筋まったく無関係に王が選ばれた証拠にはならない。
- 186 名前:日本@名無史さん [2014/10/29(水) 14:44:31.07 .net]
- >>185
なぜ群臣が推戴するのか。大王が後継者を指名すればそれで済むことだ そうでないのは昔は倭国を構成する有力氏族が自分たちの中から大王を選んでいたからだと思う モンゴルの例も、もっと昔は選挙王政だったのでは 中国でも夏王朝から血統による世襲は始まった。それ以前の三皇五帝時代は世襲ではなかった しかも、夏王朝1代目禹、2代目啓が即位するにあたって別の候補者がいたが諸侯が彼らを支持した ことにより即位している
- 187 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/29(水) 18:32:27.25 .net]
- >>162
卑弥呼が豊鍬入姫だったら 卑弥呼の墓=ホケノ山古墳となるから 箸墓古墳みたいな年代の矛盾はなくなるな
- 188 名前:日本@名無史さん [2014/10/29(水) 19:31:21.56 .net]
- >>154
応神天皇の崩年が甲午で394年で、 仲哀天皇の崩年が壬戌で363年 成務天皇の崩年が乙卯で355年 崇神天皇の崩年が戌寅で318年か258年とされるが、 崇神の没年は318年でも矛盾はないよ。 事績等から、崇神は平均より長命、成務は後継者も残さず早死していると思われる。 仲哀も長命ではなかろう。神功皇后は応神の成人までは生きていたはずだが。 崇神没年が258年ならば、まさに魏志倭人伝に書かれた最中の人になる。 同時代にもかかわらず、何も記されていないのは矛盾する。
- 189 名前:日本@名無史さん [2014/10/29(水) 19:57:56.98 .net]
- 桓武天皇の祖父志貴皇子の生年が不明。
天智天皇生年626年、志貴皇子、光仁天皇(709年)、桓武天皇(737年)、嵯峨天皇(786年) 嵯峨天皇は桓武の49歳の子。桓武は父の光仁天皇も当初は皇位を継ぐ予定ではなかった。 当然桓武も末端の王族でしかない。天武系の生きている子孫の多くが臣籍降下し、 王族がほとんど残っていなかったからか、高齢で生まれた皇孫である父が急遽 皇位を継ぎ、桓武が皇太子になり、后を取り高齢で子をなした。 そのため、天智天皇から4世代後の嵯峨天皇まで160年にもなる。 他の10世代が平均26年で260年、この4世代が160年、合わせると14世代で420年で 平均すれば30年になる。 だからといって、天智天皇から遡る場合、平均を30年にするのが正しいとは 思えない。
- 190 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/29(水) 22:15:38.34 .net]
- >>189
欽明は安閑宣化が継体と同じ仁賢天皇の皇女を皇后にしたことから 継体が50歳以上の時の子だろうし 応神も神功が麛坂皇子忍熊皇子らと戦ったことを考えれば 仲哀は少なくとも40歳、50歳や60歳の時の子の可能性もある
- 191 名前:日本@名無史さん [2014/10/30(木) 06:43:07.50 .net]
- 代数より世代で考える方が数値は安定してる。27年〜30年だな。安本なんて天皇の代数で1代10年だから
卑弥呼が天照大神になってしまう。 だだし、古い時代は末子相続の可能性や、兄弟なのに親子として 記録に残されているかもしれない。兄弟相続が履中以降なのはおかしい
- 192 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/30(木) 11:06:42.87 .net]
- 前スレで諸豪族との系譜比較で崇神天皇が神武天皇の5世孫あたり、
垂仁・景行と成務・仲哀が同世代とした方がよいって表があったな それなら崇神崩年が318年でもおかしくない範囲になるし巻向遺跡との整合性も取れるしいいんじゃないかと思うんだが
- 193 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/30(木) 16:15:41.31 .net]
- 諸豪族は第1夫人の子が跡を継ぐけど
拡大期の大王家は政略結婚によって第2夫人(30の時の妻)第3夫人(40の時の妻)が皇后になることが多い だから諸豪族より1世代が長くなる
- 194 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/31(金) 06:52:21.09 .net]
- >>191
古い時代にあったのは兄弟相続じゃなくて末子相続。 履中以降に現れる兄弟相続は末子相続から長子相続への移行期だと思えば ぜんぜんおかしくない。 それと兄弟相続でも最後は末弟にいくんだから一世代あたりの平均年数は 兄弟相続と末子相続では同じ年数になると思われ。 >>193 そうともいえない 諸豪族の系譜でも兄弟が記されてる例では末子相続が多いことから 系図上で一子しか記されてない場合でも その子は末子が少なくとも長子でない可能性が高い
- 195 名前:日本@名無史さん [2014/10/31(金) 07:37:53.74 .net]
- 崇神の時代の逸話は、記紀で内容が違うんだよな。
四道将軍とかモモソヒメとか、古い伝承で何時のことかはっきりしないのを 全部崇神の代にまとめたって感じがするね。 古事記では、吉備との関わりはもっと古いんだよな。 崇神のころにヤマト王権を支えていた有力者を、「崇神が支配下においた」 という形で書いてるというか。 系譜は捏造してるとは思えんな。そのように伝わっていたのを書いた。 他の氏族との関わりがあるから、A家から嫁に来た妃を消すわけにいかんし、 そんなことしたら自分の先祖を消すことになるし、作ったとすれば先祖でない 人を先祖にすることになる。そんなことをする必然性もないし。 捏造ではなくて、後の天皇家につながる系統だけを取り出して書いていると いうことだね。崇神以前は、特出した権力は持っていなかったんだろう。 崇神以降も王位継承の争いが頻繁に起きている。 そのような時代に、40歳の時の子供をわざわざ後継者に選ぶ必然性はない。 早ければ早いほうが良い。少なくとも20代のうちの子供だ。
- 196 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/31(金) 11:22:29.69 .net]
- >40歳の時の子供をわざわざ後継者に選ぶ必然性はない。
>早ければ早いほうが良い。少なくとも20代のうちの子供だ。 史料を重視する限りそれはなさそうだな 思い込みを優先して史料の所伝を歪曲するのは賛成できない むろん史料のかたる伝承がそのまま事実とは限らないが 伝承に訂正を入れる場合は確たる証拠がないとね
- 197 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/31(金) 12:01:34.19 .net]
- 資料を読んでも「わざわざ40歳以降の子を後継者に選んだ」って見つからんけどな
130歳を信じるならそうかもしれんが
- 198 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/31(金) 15:21:15.72 .net]
- >>150
西求女塚古墳も気になるね。
- 199 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/31(金) 15:51:17.27 .net]
- 諸豪族とは違って崇神、垂仁、応神、継体などは第2夫人第3夫人以降の嫁が皇后になっている
- 200 名前:日本@名無史さん [2014/10/31(金) 18:36:38.01 .net]
- 崇神の皇后は大彦の娘で第1夫人。垂仁が生まれる。
垂仁の第1夫人はサホ姫だが、皇子は口がきけずないから、 皇后に地位にはつけない。さらに、兄サホ彦とともに反乱で焼け死ぬ。 継体の皇后は欽明を生んだ正式な第1夫人の手白河皇女。
- 201 名前:日本@名無史さん [2014/10/31(金) 19:17:03.18 .net]
- 継体の場合、入り婿だから手白香皇女を皇后にするしかないな
サホ姫は皇后だよ。兄が反乱を起こしたとき兄とともに焼け死んだから ヒバス媛を2代目の皇后にした
- 202 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/31(金) 19:56:05.89 .net]
- 皇后という身分がその頃あればだけどね。
- 203 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/31(金) 20:57:59.05 .net]
- 家康も正室→継室と晩年に正室を新しく置いているね
古代諸豪族と同じく家康側近の四天王は正室だけ 長子優先が確立していたから秀忠が継いだけど 崇神の時代なら秀忠でなく尾張徳川義直、紀伊徳川頼宣、水戸徳川頼房の 誰かが跡を継いでいたかもしれない 兄の豊城入彦は弟の活目入彦より20歳以上年上の可能性もあるな
- 204 名前:日本@名無史さん [2014/10/31(金) 20:58:25.94 .net]
- 狭穂姫の残された皇子は誉津別命というのだが命がついている割に白鳥をみて
初めて言葉を発したとかショボイ伝承があるだけで、皇統には何の影響も与えていない この人が応神天皇ではないかという人もいる 私は天智天皇の皇子である建皇子がモデルだと思っている
- 205 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/31(金) 21:04:34.04 .net]
- 崇神 遠津年魚眼眼妙媛→御間城姫 晩年の皇后の子が継いでいる
垂仁 狭穂姫→日葉酢媛 晩年の皇后の子が継いでいる 仲哀 大中姫→気長足姫 晩年の皇后の子が継いでいる
- 206 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/31(金) 21:09:22.04 .net]
- 継体も2代目皇后やね
目子媛→手白香皇女
- 207 名前:日本@名無史さん [2014/10/31(金) 21:43:42.45 .net]
- 目子媛は継体の地方豪族時代の夫人だから皇后じゃあないだろ
手白香皇女と婚姻して、即位できたと考えるべきだ
- 208 名前:日本@名無史さん [2014/10/31(金) 21:59:43.40 .net]
- 晩年に婚姻した2代目皇后(正室)の子が跡を継いだ天皇
崇神 遠津年魚眼眼妙媛→御間城姫 垂仁 狭穂姫→日葉酢媛 景行 播磨稲日大郎姫→八坂入媛 仲哀 大中姫→気長足姫 継体 目子媛→手白香皇女
- 209 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/31(金) 22:04:55.61 .net]
- 不毛な議論しとるのぉ
- 210 名前:日本@名無史さん [2014/10/31(金) 22:08:44.65 .net]
- >>208
長じて即位してから有力者の姫を娶ったのかな
- 211 名前:日本@名無史さん [2014/10/31(金) 22:29:52.06 .net]
- 崇神〜応神は晩年の皇后の子が継いでいたが
応神の晩年の皇后の子の菟道稚郎子が仁徳に皇位を譲って自殺(仁徳に殺されて?)から 晩年の皇后の子は継がなくなる 崇神〜応神と応神〜天智の1世代の長さはかなり違う 応神〜天智が30年で崇神〜応神は40年ってこともあると思う
- 212 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/31(金) 22:33:19.77 .net]
- 大仙陵古墳ほどの国家の大事業が記紀に載ってない
当時全長800m超の墳墓を造るのは大したことじゃなかったのかな
- 213 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/10/31(金) 22:42:05.11 .net]
- 大したことじゃなかったんだろうね
- 214 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2014/11/01(土) 00:49:51.54 .net]
- >>98
事代主直系の向家・富家に伝わる話がベースの擦り合わせ神代系譜で 大国主より以前の神代系譜は・・ ・御中主命=国常立命(クナト大神) クナト大神−八島篠−布葉之文字巧為(ふはのもじくぬす)−八束水臣津野−赤衾伊努意保須美比古佐倭気−大国主・・八千矛(大穴持)┬伊佐我(伊佐波) ├阿遅須枳高日子 └高照光姫 ・出雲・大国主神・・八代:八千矛神−九代:阿遅須枳高日子神−十代:鹽冶毘古能神=長髄彦−十一代:古事記の速甕之多気佐波夜遅奴美神=神門 速甕之建沢谷地乃身神(初代:旧出雲大社(杵築大社)司祭:神門氏) ・・十代神門 阿多神−十一代:出雲(神門)振根命=(倭健命)日本武命−十二代:神門鹽手命=神門伊賀曽熊命の子 建部氏(武部)、武内宿禰・葛城襲津彦・・蘇我馬子=島大臣。※@百済国、第二十五代:武寧(武内)王=斯摩王 出雲(神門)笠夜命、斯摩宿祢、島津(志摩)国造家の斯摩、志摩、島(直)氏の島族・・※A百済渡来島族の武蔵・千葉国造家 ※@は、三韓討伐以降の在地官人が王族化し、その末代が倭史・和史と名乗り、白村江の敗退で、日本へ渡来。 し、日本国内でも、朝廷や出雲族と争い、神門神社を頼った記録が九州の神門神社周辺に残っている。 ※Aは、同じく百済から渡来し、島族として帰化に成功した百済人が、武蔵・千葉国造家として関東平野へ移住した事を示している。 大宮・氷川神社などの祭神がそのようですね。
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