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著者:楠山 正雄
著者概要東京銀座生まれ。家は印刷業を営んでいたが、父が急逝し、また母の再婚がうまく行かず、家業は没落してしまう。そのため親戚を転々とし、多難な少年時代を送った。だが芝居好きの祖母や、学問熱心な伯父、また早稲田大学時代に師事した坪内逍遙や島村抱月など、周囲の人に恵まれ、彼の基礎がはぐくまれていった。大学卒業後の1907(明治40)年早稲田文学社に入り、編集者としてのキャリアを始める。そして読売新聞社を経て、1910(明治43)年冨山房に入社、そこで「新日本」の編集主任として励むかたわら、一方で逍遙の「文芸協会」に参加し、評論あるいは翻訳劇脚本家として活躍する。文芸協会解散後も抱月の芸術座に続いて参加し、しばらく編集者と演劇人の二足のわらじを履いていたが、1915(大正4)年冨山房社長の命を受け、「模範家庭文庫」の担当となる。親交のあった岡本帰一にヴィジュアル面を託し、他人の原稿を編集するうち、児童文芸への意識が高まっていく。やがて自らも文庫の執筆に手を出し、また児童向けの創作や翻訳も意欲的に行った。ちょうどその頃、抱月の死によって芸術座は崩壊し、その騒動に巻き込まれ、事態の収拾に奔走するうち、しぜん演劇界から足が遠のいていったこともそれに拍車をかけることになったのだろう。語ること・魅せること・まとめることを意識した正雄の仕事は一種の創造的編集ともいえ、この時期に成した「世界童話宝玉集」(1919
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