みやこ鳥
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:佐藤垢石 

     一

 この正月の、西北の風が吹くある寒い朝、ちょっとした用事があって、両国橋を西から東へわたったことがあった。
 橋のたもとから十五、六歩足を運んだ時、ふと水の上へ眼をやった。すると、大川と神田川が合流する柳橋の龜清(かめせい)の石垣の下の静かな波の上に、白いものが浮いているのを見た。私は、欄干(らんかん)によりかかって、しばらくそれに眺め入った。白いものは、かもめであった。
 十数羽のかもめの群れは、思い思いの方へ向いて、眠ってでもいるように緩やかにうねる水にゆらゆらと揺られている。ところが、大きなかもめの群れのなかに形の小さいゆりかもめが、薄くれないの嘴をときどき私の方へ向けるのを、眼にとめた。
 ――みやこ鳥――
 私は、ほんとうに偶然、途上で昔の友に行きあったような思いがした。
 ――遠い日の、みやこ鳥――
 三十年近くも前の、私の若き頃の身の俤(おもかげ)が、ひとりで幻想となって眼の底に浮かんできた。改めて、私はゆりかもめをみつめた。

 眼がさめると、私は淀川堤の暁の若草の上に、横になっているのに気がついた。
 ――何だ、自殺も忘れていたのか!――
 私は、昨日の夕べのことを顧(かえり)みた。また、暗い気持ちになった。
 ――何たることだ――
 起こした半身を、[#「、」は底本では「,」]再び堤に倒して草の葉に顔を埋めた。土の匂いがする。一瞬、くにの耕土に親しんでいる老いた父と母の顔が、頭を掠(かす)め去った。
 ――キキ――
 頭の上で、鳥の声がした。いそしぎだろうか、川千鳥だろうか。
 幼い頃、父に伴われて故郷の川へ鮎釣りに行くたびに、河原で聞いたいそしぎの声に似ているのである。私は額(ひたい)をあげて、ぼうっとした視線を、淀の川瀬に向けた。
 私の寝ている堤の下に、しがらみ(柵)があって、その下手は瀬かげをつくり、水が緩やかに流れている。そこに、二羽のゆりかもめが浮いていた。淀川の水は澄んで、薄くれないの脚が透けて見えた。
 ――悩ましき、みやこ鳥――
 淀の川瀬にまで、ゆりかもめがいようとは思わなかった。
 ――とにかく、おれは生きのびた。もう何も考えまい、考えまい、また眠ろう――
 堤にすりつけた顔に、土の香がひとしお強かった。
 これは、私が二十三歳の四月の半ば過ぎの、できごとであったのである。

     二

 淀の流れに近い八幡の町までたどり着いたのは、[#「、」は底本では「,」]前の日のひる頃であった。
『夜逃げ』を決心した時、日本地図を広げて志す国を、ここかしこと捜した。そして、地図の上でみると、どこよりも交通不便な土佐の国を品定めした。夜の急行列車で一気に大阪まで落ちのびた。安治川口から汽船で美しい高知港の牛江へ入ったのは春の陽(ひ)が和やかに照った眞ひるであった。こし方の長い重荷をすべておろした気持ちで甲板に立った。
 高知で職を求めた。けれど保証人のない私は宿屋の帳付けにも、蕎麦屋(そばや)の出前持ちにもなれなかった。追っ手には、気がつくまいと思ってきた土佐の国では、とうとう私をいれてくれなかったのである。神戸へ引き返した。一週間ばかり桟橋に近い口入れ宿の二階に、ごろごろしていたが、戸籍謄本を要求されて、就職はものにならなかった。夜逃げの身では、故郷から戸籍謄本を取り寄せるなど、思いも寄らなかったのである。口入れ屋の二階では、豆腐の糟に、臭い沢庵(たくあん)を幾日も食わせられた。
 友人が大坂城の四師団に法務官をやっているのを思い出した。これを訪ねて、おずおずしながらほんの少しばかり金を借りた。その金で天満橋のそばの飯屋へ入って心ゆくばかり飯とお菜を食った。余った金で行けるところまで行こう、と思った。京阪電車の駅の賃金表を見ると、男山八幡まで切符が買えた。
 何とかして、生きていこうと考えた。八幡の駅の改札口を出て、小さい旅行鞄を左の手に、毛布を右の手に抱えて田圃(たんぼ)の方へ出た。このあたりには、広々と敗荷(はいか)の池が続いていた。これから、どこへ行こうという目あてもない。
『夜逃げ』の首途に、夜の新橋駅の石畳の上に立った時には、自己革命を心に誓ったのではなかったか。真面目になろう。人間らしくなろう。これからは、決して酒も飲むまい。女も買うまい。きょうを最後に、おれは生まれ代わるのだ。
 だのに、高知へ着くとけろりとして酒を飲んだ。新橋駅の心の誓いなどてんで思い出してもみなかった。神戸へ上陸してからは、なけなしの財布の底を叩いて福原遊廓へも走り込んだ。おれという人間はもう箸にも棒にもかからないのだ。
 野の道に腰をおろして、西の方を見ると、八幡の町から田圃を隔てた新緑の林を貫いたお寺らしい大きい甍(いらか)が眼に入った。もう財布に一銭もない。今夜から食うこともできなければ、また泊まるところもない。ふと、寺のお弟子になったらばと、思った。弟子になれたなら、食うことばかりではない、おれの性根もなおるだろう。
 私は、田圃の畦道(あぜみち)を歩いた。寺の庫裏(くり)の広い土間へ立って、
『ご免なさい、ご免なさい』
 と幾度も繰り返した。漸く聞きつけたと見え、奥の方から五十二、三歳の梵妻(ぼんさい)風の老女が出て来て、私の前へ立った。
『なんぞ、ご用どすか』
 と、けげんな顔をしたのである。
 私は、しばらくためらっていたのであるが、放蕩に身を持ち崩し、東京を夜逃げの姿で旅立ちし、土佐から神戸、大阪と職を捜してさまよってきた。けれど、どこでも職がみつからない。もう、身に一銭の蓄えもなく、この先どうして生きていこうかと、寺の前の田圃で思案に耽(ふけ)っていたが、とうとう決心してお寺様の弟子にして頂きたいと考え、だしぬけではありながら、お訪ねした次第です。と正直に言ってみた。すると老女は、これを聞き流したまま、何とも答えないで奥の方へ引き返して行った。
 しばらく待っていると、こんどは先ほどの老女と共に、黒い衣に白い足袋をはいた六十の坂を越したらしい、眼の細い物静かな老僧が出てきた。

     三

 お志のほどは、いま聞いた。だが立ち話ではどうにもならぬから、上がって頂いて篤(とく)と相談してあげたいのだけれど、京に用事があって今から出かけるところである。夕方には戻ってくるから正五時に来てくれ、と親切に言ってくれた。
 私は恭しく幾度も頭を下げた。
 夕方までの時間を、淀川堤の草の上で消すことにした。空に一片の雲もない日であった。西の方、愛宕山に続いた丹波の山々は低い空に、薄い遠霞を着ている。木津川の上流と思える伊賀の国の連山も遠い。淀の水は、白い底砂の上を、音もなく小波を寄せて私の眼の下を流れている。堤の若草にまじって黄色く咲いた蒲公英(たんぽぽ)の花の上へ、蜜蜂が飛んできてとまった。何と遅々たる春日だろう。
 うつらうつらと眠くなった。私は、老僧の親切な言葉に安心して、ほんとうにのんびりした気持ちになったのであった。
 眼がさめた。驚いて陽(ひ)を見るともう西の山の端に沈んでいる。日が暮れるのに間もあるまい。残映が、山の上を帯のように長い雲をぼんやりと紅く染めている。
 ――五時と言われたのに――しまった――
 私は、転ぶように寺の土間へ駆け込んだ。声を聞いて出てきたさきほどの梵妻は、私の顔を見るなり、
『おっさんは、いつも来るようなひやかしだとは思ったけれど、それでもと思って約束の正五時に京から戻ってきた。ところが、案の定、お前さんが見えない。仏をだます者は、碌(ろく)な者になれぬと言いながら、もう余ほど前に檀家の法事へ出て行った』
 と、いったような意味のことを突っけんどんに言い払って、ぶっきら棒に奥へ引き込んでしまった。私は呆気(あっけ)にとられた。
 私は、私の身はもう生甲斐がないと思った。生きて行けないと思った。寺の門を、しょんぼりと出ながら、淀川の鉄橋の上を物凄い軋(きし)みを立てて走る電車の突進するさまを眼に描いた。死ぬには、電車がひと思いでいい。
 今夜が、この世との別れだ。それにつけて、一期の思い出に酒を飲もう、と考えた。八幡の町へ出て、古着屋の前へ立った。鞄の中には、母が故郷から送ってきた手織の袷(あわせ)と兵子帯(へこおび)が入っていた。毛布もある。持物すべてを買って貰った。[#「。」は底本では「。、」]古着屋の主人は、母の心尽くしの袷を、汚らしそうに、指先で抓(つま)みあげた。それが、私に悲しかった。
 酒を一升買った。ひる間ひる寝をした堤の上へ一升壜を下げて行った。これも飲み終わったなら、静かにこの世に暇を告げよう。私は酒屋で貰った味噌をなめながら、茶碗酒をあおった。
 眼が覚めたら、私は暁の堤の草の上にまだ生きていた。みやこ鳥が、ゆるゆると淀の川瀬に泳いでいる。

     四

 友人に誘われて、一度吉原の情緒を覚えてから、私の心は飴のように蕩(とろ)けた。
 しまいには、小塚っ原で流連(りゅうれん)するようになった。朝、廓(くるわ)を出て千住の大橋のたもとから、一銭蒸気に乗って吾妻橋へ出るのが、私の慣わしであった。蒸気船が隅田川と綾瀬川の合流点を下流の方へ曲がる時、左舷から眺めると、鐘ヶ淵の波の上に『みやこ鳥』が浮いていた。楽しそうに水面に群れていたみやこ鳥は、行く蒸気船に驚いて二つの翅(はね)で水を搏(う)った。そして、乗客の眼の上高く舞いめぐる白い腹の下を、薄くれないの二つの脚が紋様に彩(いろど)って、美しかった。
 船は今戸の寮の前を通った。間もなく、船が花川戸へ着くと、私はそこから、仲見世の東裏の大黒屋の縄暖簾(なわのれん)をくぐり、泥鰌(どじょう)の熱い味噌汁で燗を一本つけさせた。
 その頃、堀が隅田川へ注ぐ今戸の前にも、数多いみやこ鳥が群れていた。今戸にはいくつもの寮が邸をならべていて、みやこ鳥の浮かぶ雪景色に酒を酌んだのであった。今戸の寮は幕末から明治初期までが一番全盛を極めたのであって、この頃の物持ちや政治家が熱海や箱根へ別荘を設けるように、当時銀座の役人や御用(ごよう)商人、芸人、大名、囲われ者などがここへ別荘を作った。これを寮と唱えて、建築から庭園、塀の構えまで豪奢、風流のありたけを尽くしていた。それが、大正十二年の震災までは俤(おもかげ)を残していたのである。
 数多い寮のうち陸軍の御用商人三谷三九郎の邸が、明治初年に人から羨望の的となった。山県陸軍卿が御用商人の三谷のこの寮へ行って、堀の小さんと泊まりがけで逢曳(あいびき)したのも当時人の噂に上った。最近まで、報知新聞に伊沢の婆さんという、矢野龍渓、小栗貞夫、三木善八の三代にわたってその俥(くるま)をひいた爺さんの女房が飼い殺しになっていて、山県公の遊び振りや三谷の贅沢振り、今戸の寮に住む人々の風流振りを話したものである。伊沢の婆さんというのは日本橋の小網町の魚仙の娘で、明治五年に十五の年から二十二、三まで、三九郎の妹婿で三谷家総支配人をしていた三谷斧三郎の今戸の寮に奉公していた。
 その頃の寮の人々は、舟に乗って浜町河岸(かし)まで下(くだ)って行き、人形町で買物をしては帰った。今戸から、浜町あたりへ行くのを江戸へ下ると言った。堀の芸者も、浅草で物を買わないで、人形町まで行った。
 寮の人々は食いものの贅(ぜい)にも飽きた。明治の中年頃までは大川から隅田川では寒中に白魚(しらうお)が漁(と)れた。小さい伝馬舟に絹糸ですいた四つ手網を乗せて行って白魚を掬ったのである。
 この白魚を鰻の筏焼きの串にさして、かげ干しをこしらえ酒の肴に珍重した。流れの面に、落ちては輪を描く霙(みぞれ)の白妙(しろたえ)に、見紛う色のみやこ鳥をながめながら、透きとおるほどの白魚を箸につまんだ趣は、どんなに風流なことであったろう。
 わたしは今戸の寮の、昔の豪華譚に憧れて、吉原や小塚っ原へ遊んでは、翌朝千住から船で下って、今戸のみやこ鳥のいる風景を眺めた。
 こうして、私は救うことのできない遊蕩に身を持ち崩した。故郷の父から送ってくる金など、もちろん足りようはずがない。友達から先輩にいたるまで、手の及ぶかぎり迷惑をかけた。果ては誰も顧みるものがなくなった。
 悲しい『夜逃げ』となったのである。

     五

 明治四十五年夏、夜逃げの旅から東京へ帰ってきて以来、このみやこ鳥のことは忘れていた。
 ところが、はからずもこの正月に、両国橋の上から、みやこ鳥に再会した。いまのみやこ鳥は荒川、隅田川、大川尻かけて柳橋の龜清の石垣にいるだけであるそうだ。私は、ここでみやこ鳥と再会してからというもの、二、三日おきには両国橋の上へ佇(たたず)んだ。
 みやこ鳥の群れは、大川と神田川の合流点のまわりを離れない。東岸の向こう両国の方へ群れを離れて行く鳥は、随分まれであった。
 浜町河岸の方へ、時々一、二羽ずつ遊びに行く姿を見たが、それも直ぐ龜清の石垣の下へ戻ってくるのである。
 私は、四月の中旬まで、続けてみやこ鳥を見に行った。そして、遠い若き日の思い出に耽ったのである。桜が散って、東風が両国の橋へほこりを巻く頃になると、みやこ鳥の群れは、どこへ行ったのか、両国橋のあたりに白い洒麗(しゃれい)な姿を見せぬようになった。
 けれど、みやこ鳥は龜清の石垣の下の波の上にばかりいるのではないそうだ。それを知らなかったのは、私が寡聞であったからだ。このほど、農林省鳥獣調査の葛精一氏から話を聞くと、東京では大川のほかに、半蔵門のお堀の上に、毎年数羽のみやこ鳥が、のんびりと泳ぐ姿を見せるという。
『みやこ鳥』のゆりかもめは、前にも書いた通り標準和名のかもめから見ると、形も小さく色も少し違う。普通のかもめは翼羽の長さが三百四十ミリから三百九十ミリあるというのに、ゆりかもめは二百八十三ミリから三百二十五ミリくらいしかない。
 蕃殖の地は西伯利亜(シベリア)北部の寒いところで、冬になると樺太、千島、北海道、本州、九州、台湾の方まで渡ってくる。支那の空へも飛んで行く。夏羽は頭が珈琲褐色で、眼のまわりには白い輪がある。冬羽は、耳羽だけに暗褐色の斑点があって美しい。翕(きゅう)の下両覆に灰色の羽が生えていて、冬は嘴と脚が深紅の色を現わし、白い羽に対して目ざむるばかり鮮やかである。夏になると次第に紅が暗くなる。千鳥やシギと異なって指の間に膜(まく)のあるのが特徴であるそうだ。
 しかし、学術上の『みやこ鳥』は他にある。ほんとうは、ゆりかもめのみやこ鳥は俗名なのだ。そして学術上のみやこ鳥の方が一段と美しい。これは千鳥科に属していて、西伯利亜の東部からカムチャツカの方にわたって分布し、日本ではかつて千島、北海道、本州、四国、九州、台湾の方まで飛んできたが、近年では朝鮮の一部に見るだけとなったそうである。翼の長さは二百二十五ミリで[#「二百二十五ミリで」は底本では「二百二十五センチで」]嘴峯(しほう)は九十五ミリに突き出し、頭から背部と上胸部にかけ、また翼と尾の末端は黒く、そのほかは真っ白である。眼の下に白い色の小さい点が浮き出し、嘴と脚が赤く、脚の長さは五十ミリほどあって、見るからにスマートな姿をしている。そして脚の指に膜がない。
 在原の業平(なりひら)が東へ下ってきた時に、隅田川の言問(こととい)の渡船場あたりで、嘴と脚の紅い水鳥を見て、いかにもみやびているところから『みやこ鳥』と呼んだという伝説があるが、京の鴨川にも昔からこのゆりかもめが、海の方から遊びにきていたのであるから、東西いずれの地で、『みやこ鳥』の名が起こったか分からないのである。
 言問団子は、いま西洋料理屋になってしまった。団子は、申し訳ばかりに店の片隅にならべられて昔を偲ぶよすがもない。
 明治二十年頃、言問の水上に、みやこ鳥の灯篭流しをして満都の人気を集めた団子屋の主人もいま地下に感慨無量であろう。

     六

 ケースの中から、長唄『都鳥』の音譜を取り出して、蓄音機にかけた。松永和風が、美音を張りあげて『たよりくる船の中こそ床(ゆか)しけれ、君なつかしと都鳥……』と唄い出した。この唄は安政二年六月の作詩で、清玄の狂言に独吟されたのが、世に紹介されたはじめであった。
 伊勢物語の『名にしおば、いざ言問はん都鳥、わが思ふ人ありやなしや』の話が偲ばれる。
 二、三日前の夕、みやこ鳥がくる龜清の石垣の上の風雅な室で友人と二人で酒を酌んだ。そして、この老女将を座敷へ招じた。老妓、おきよもきた。
 二人が、口を揃えて言う。
 そうですか、あれがみやこ鳥だったんですか。存ぜぬこととは言いながら――そうでしたか。私ら子供の時から、この辺ではただ、かもめとばかり呼んでいました。それが、みやこ鳥とは、ほんとうに嬉しい話を聞くものでした。私らが知らないくらいですから、神田川の岸の船宿の船頭や、柳橋の芸妓など誰も、わが土地にみやこ鳥がいようとは、思っていないでしょう。
 と、嘘ではないかとばかり、驚いた風であった。老女将は、さらに、
 この鳥は、幾十年となく秋の終わりの寒い頃になると、私方の石垣の下へきて遊んでいる。江戸前の海が荒れてでもいるかと思えるような風の強い日には、殊に群れの数が多い。そして終日どこへも行かないで、水上署の交番とこの石垣がはさんだ水の上に遊んでいる。夜は沖へ帰って行くこともあるけれど、大抵は私のところの母屋の屋根の甍(いらか)に幾つか頭を並べて眠るのである。
 私らは吾妻橋から上手の隅田川にばかりみやこ鳥がいて、大川にはいないものと思ってきた。それに、近年言問あたりにも、みやこ鳥の姿が見えなくなったという話を聞いて、淋しく思っていたのであるが、我が家の前にもみやこ鳥がいるとは、懐かしい。
 このほど、この屋根に一羽のかもめが死んでいた。では、改めて前の石垣の傍らに『みやこ鳥の塚』でも建ててやりましょうか――。
 あら、昔とった杵柄(きねづか)に、都鳥の一曲ですって、冗談じゃありませんよ。こんなお婆ちゃんの声、面白くもない。
 老女将と老妓とは、朗らかに笑うのであった。
 もう、ゆりかもめの季節が去った晩春の夜の大川は、上げ潮どきの小波をひたひたと石垣に寄せ、なごやかに更けてゆくのであった。(十三・五・六)



ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:15 KB

担当:undef