にらみ鯛
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著者名:佐藤垢石 

の御宴には雉子酒を、参賀者に下し賜わった。雉子酒というは、雉子の笹肉を熱い酒に入れて、賞啖するのであった。けれど、当時宮中において雉子を求めるなど思いも寄らなかったのである。そこでやむを得ず、焼豆腐を雉子の肉の代わりに酒の中へ入れ、雉子酒と謂って賜わった。という話さえあったのだ。

     宮中の寄せ鍋

 また、主上ご日常の御膳には、鮮鯛を奉ることになっていた。けれど、当時交通不便な京都にあっては、あまりの高価で手もつけられなかった。殊に、例の『本途値段』で買い入れようとしたのでは、ろくなものが御膳所へ運ばれなかったのである。
 そんなありさまで、少々古い鯛でも主上に奉った。これは、普通の調理では膳に上らすことができない。そこで、高い熱の火にかけて長い時間煮つめた上、献ったので、そのために鯛は肉がばらばらになり、形が変わってまことに不格好な割烹ができあがるのであった。その上、吟味役が検査してから膳を運ぶのであるから、調理後時間がたち冷たくなって、冬など到底お口にされるに堪えられぬご様子を、恐れ多くも近侍の者は推察申しあげたそうである。
 そんな時には別に侍従から内膳司へ命じて雑魚と野菜の類を集めて一つ鍋で煮込みとした。つまり今日の寄せ鍋か、チリ鍋のようにして進め参らせたのであった。
 孝明天皇はお酒をお嗜みになられた。とは申せ、宮中供御のことは、いつも不足勝ちである。であるから、陶然としてご興を催さるることなど思いもより申さず、ご思案の末、酒に水を加え量を増して、お莚を楽しませられたというお話を聞いては、まことに恐懼の至りである。
 公卿達が、偶々(たまたま)縁者の諸侯から、田舎の産物を贈って貰うと必ずこれを献上した。天皇は、これを殊の外[#「殊の外」は底本では「殊に外」]ご賞美遊ばされたと言う。かつて久我家が縁家から海老を贈られたのでこれを内献申しあげたところ、天皇はいとも、ご満足に思召された。そして、間もなく、
『再びこれを得たらんには、割愛を望む』
 との、ご宸翰を賜わったほどであった。
 また、水戸家であったか、毛利侯であったか、ある時、塩鮭を伝献申しあげた。主上には、
『これは美味である』
 と、仰せられてご賞味遊ばされた。ご食事が済み、近侍の稚児が御膳を運び去ろうとした時、御膳の上に、残り鮭の一片があったのをご覧ぜられて、
『これを棄ててはならぬ。朕は晩酌の佳肴とするつもりである』
 と、お命じ遊ばされたそうである。嘉永二年十月のことである。
 また、御製(ぎょせい)を遊ばされた折り、料紙を召された事がある。ところが、宮中にはその時もう一枚の短冊すらなくなっていた。侍従岩倉具視は、このありさまを見て大いに悲しみ、その夜ひそかに時の所司代本多美濃守忠民の邸へ行って言うに、『こん日、主上が短冊を召されたが、その蓄えがない。それほど、宮中は窮乏に陥っているのだ。一天万乘の君が一片の短冊にも、こと欠き給うことは、一体誰の過失であろうか。勿論、幕府が朝廷に奉ずるところ薄きが故である。そこ許が果たして正義名分を知るならば、幕府にこのことを告げて皇室のご調度を増加するがよかろう』
 と、詰め寄った。ところが、本多は、
『お言葉の通りの道理と存じ、まことに、痛み入る次第である。しかしながら、公儀が拙者の報告を採用して、ご調度を増し奉るや否やは、ことあまり重大にしていまここでお約束は、でき兼ねる。よって、短冊は拙者から奉献することに致しましょう』と、答えた。

     水七分酒三分

 岩倉具視は、常に宮中のご不自由を心痛して、それから後も禁裡御取締内藤豊後守正継や、所司代酒井若狭守忠義などに、さまざまと宮中の実状を説いて聞かせて、苦い慣わしを改めることに努めたが。そのたびに豊後守も若狭守も、
『それは、ほんとうでござろうかの』
 と言って、具視の言葉を信用せぬのであった。
 そこで、具視は千種有文と相談して、宮中のご不自由のほどを、幕府からきている権力者に見せるがために、富小路敬直に伝えて主上の御膳を運び去る時、お肴一盤とお酒一瓶を拝領させて置いて、これを千種有文から酒井所司代の用人三浦七兵衛の手を経て若狭守忠義に送った。
 そのお肴一盤のうちに、塩漬けの鯛が一尾あった。
 これは、京都の人々が正月に用いる『にらみ鯛』と同じものであった。
『にらみ鯛』というのは、膳の上へ鯛を一尾置いて、これを睨みながら、正月の酒を飲むからであった。山城国は、山国で海へは遠かった。瀬戸内海を控え浪速からも、日本海の方の若狭からも、丹後からも、鮮魚を取り寄せるのは困難であったのである。であるから、漁場から塩漬けの鯛がきた。それも、半ば味が変わっていたのである。とはいえ、それさえ貴重品であった。
 正月は、家内一同この少しいかれている鯛を睨みくらべながら、杯を手にしたのである。そして、年賀の客にもこの鯛を、にらめさせた。
 若狭守は、用人七兵衛から、お肴を受けとった。見ると下々の『にらみ鯛』と同じなのに恐懼したのであったが、余りの事に半信半疑の体であった。
 それから七兵衛は鯛と一緒に頂戴した御酒一瓶を、内藤豊後守に贈ったのである。豊後は恭々しく[#「恭々しく」は底本では「忝々しく」]その酒を拝味したが、これは御酒とは名ばかりのものであった。
 豊後守は、京都町奉行の職にあったから、御酒の味について何事か思い当たるのであった。内藤豊後守は直ぐ家来の者を集め、禁裡御用の商人について、その奸曲を内偵させたのであった。
 当時、若狭守用人三浦七兵衛から、豊後守に送った書翰に、
『恐れ乍ら、書取を以て奉申上候。益々御機嫌よく御座遊ばさるべく、恐悦至極に奉存候。然らば、過日一寸奉申上置候御膳酒味として、極内々にて申し候に付恐れ乍ら持たせ奉指上候。私共にも下され兼ね候位之御風味にて、実に恐入候御事に奉存候。其余すべて御膳辺右に准じ候。御模様哉に相伺ひ申候。尚、恐れ乍ら御賢慮あらせられ候やう奉申上候事』
 と、記したのがあった。
 これに対して、豊後守の返事は、
『昨日は御膳酒御差越し、辱なく早速拝味致し候ところ、以ての外なる味、七分水、三分酒と申位の事に候。総じての儀、右に准じ候旨承知いたし候。この節取調中に候。その中否や申し入れべく候。且つ、器返却に付、有り合ひ麁酒差入申候。早々不備』
 というのであった。けれど間もなく豊後守は俄に江戸へ召されたので、御用商人検挙のことは中止となった。
         ※
 さて、近衛内閣は四月十九日の閣議において賀屋蔵相の立案した貯金奨励局新設のことを承認し、これを現政府の政策の一つに加えることに決定した。
 賀屋蔵相の考えるところによると、国民が協力して貯蓄精神を発揮すれば八十億円位ためるのはさほど困難ではない、というのである。そこで、我々国民もその覚悟をせねばなるまい。
 申すも畏き極みながら、以上に述べたように、ご時世とあってみれば、幕末の頃においては一天万乗の大君にましましても、あらゆるご不自由に堪え、ご質素を忍ばれたのである。我々赤子が、何で物を節して国力の涵養に尽くし得ぬことがあろう。大いに物を節約しようではないか。
(一一・六・五)



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