ミミズ酒と美女
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著者名:佐藤垢石 

 梅雨の、わが庭に蚯蚓(みみず)が這いだしてきた。一匹は南に向かい、一匹は西に行く。一体、蚯蚓はどこを目当てに這って行くのであろう。
 それはともかく、蚯蚓は釣りにはなくてはならぬ餌である。私は若い頃から釣りを好み、就中(なかんづく)鮒釣りやなまず釣りに熱中するから、多年蚯蚓にはご厄介になっている私である。梅雨のころの蚯蚓に幸あれ。
 ところで先日、山口栄次と呼ぶお医者の先生が、蚯蚓について、ラジオ放送を行なったのを想いだした。この先生の説によると、蚯蚓を煎じて、その汁をのむと、たしかに風邪に特効がある。如何なる精分があって薬となるのであるか分からないが、たしかに風邪に効目があるという。
 日本には、いろいろの蚯蚓がいるけれど加賀国で産する蚯蚓は薬分が豊富である。また蚯蚓は食用にもなって、甚だおいしい。世界中でもっとも蚯蚓を珍重してご馳走とする国はニュージランドの土人で、ここにも多種類が棲んでいて、そのうちでクリクレドと称する蚯蚓は随分おいしく、これは酋長以外は食べていることになっていると放送した。
 蚯蚓が下熱剤として特効のあるのは、この山口という医学博士が発見したわけではない。往年、理学博士の三宅恒方が「天使の翅」と題する書物を著わしてそのなかに研究の結果、蚯蚓は下熱剤として効があることを発見したと書いてあり、なおわが国ではあちこちで昔から下熱剤として蚯蚓を煎じてのむ習慣がある。
 また支那の医書に蚯蚓は諸熱を解し、小便を利し、足疾を治すと書いてあるが、私の故郷上州では、蚯蚓に小便をかけると、オチンコが腫れるという言い伝えがある。また寝小便の薬であるとも言い伝えている。本草綱目では蚯蚓を歌女と命名した。
 日本でも支那でも、蚯蚓の腹のなかから泥土を絞りだして、これを酒に入れて飲む習慣がある。これを飲めば、声をよくするからであるといわれているが、私は声をよくする必要がないから未だ蚯蚓酒を飲んだことがなく、従ってどんな味であるか分からない。
 本草綱目に、蚯蚓は一名歌女といい、地中に長吟して鳴くとあるところから、これを飲めば音声をよくするという口碑によって、ミミズ酒という奇想が生まれたのであろう。しかし、近ごろの研究によれば、蚯蚓の体中には発音器がないから、長吟する理由がないということになった。
 夏の夕、地中や石垣の穴で鳴くのはケラの雄で雌を呼ぶ声であるという。ところが、これを蚯蚓の鳴き声と誤られて、酒のなかに入れ人間に飲まれてしまうのは、甚だもって蚯蚓は迷惑を感じていると思う。
 南米にはびっくりするほど大きな蚯蚓が棲んでいる。ブラジルに産するグロソとスコレックス、ケープに棲むミクロケーツスと称する蚯蚓は、共に長さ三尺五寸以上はある。日本にも素晴らしく大きいのがいた。倭漢三才図絵には、丹波国遠坂村に大風雨の後山崩れあり大蚯蚓を出す。一つは一丈五尺、一は九尺五寸と書いてある。支那にも大きなのがいて西陽雑俎に唐の大和三年ろ州の某官庭前に忽然として大蚯蚓出ず、その長さ二、三丈とあるが、こんなのに出られたらミミズ酒どころではない。あべこべに、人間がのまれてしまうであろう。
 またこれを餌にして、大海へ釣りに行けば巨鯨が釣れるかも知れぬ。




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