飛沙魚
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著者名:佐藤垢石 

 この頃は、一盃のむと途方もなく高値な代金を請求されるので、私ら呑ん平にはまことに受難時代である。そのために月に一回、せいぜい二回も縄暖簾(のれん)を、くぐることができれば幸福の方であるが、五十年来のみ続けてきた私が、月に一回や二回のんだのでは、夜ねむれないで困りはしないかと心配した。
 しかし、ありがたいことに、のめないでも眠ることについては心配不要であった。眠り過ぎて困る。夕方、めしが済むと、すぐ眠くなるのである。八時になると、もう床のなかへ潜り込む。そして七、八時間はぶっ通しで眠るのである。朝、三時か四時頃に眼がさめると、そのまま床から離れてしまう。
 夏の朝であっても、三時ではまだ暗い。暗いけれど釣り竿を持って川へ行く。川では、魚類もはや眼をさまして、私を待っているのである。魚連中は、朝の三時か四時頃が、ちょうど朝飯の時間であると見えて、鈎に餌をつけて水へ投げ込むと、直ぐ食いつくのだ。
 私と同じように魚も素敵に朝早く眼をさますが、彼らは一体夜の何時頃に寝につくのであるかと考えて、さきごろ水産講習所教授殖田三郎さんと共に、相模川の支流の串川へ視察に行ったことがある。殖田先生の説明によると魚類は大体宵の八時には床に入るものであるという。そこで、二人はカンテラ提げて串川の中流の小さな淵へ、八時に到着するように見はからって出かけて行った。
 淵といっても、深さ三、四尺ほどで、カンテラを指しだすと底の石まで見える。二人は、カンテラの光りで、静かに淵の層を見た。いる、いる。鮎、□(うぐい)、鮠(はや)などが淵の中層で、ぐうぐうやっている。魚類のことであるから、鼾(いびき)声は聞こえないが、尾も鰭も微動だにさせないで、ゆるやかに流れる水に凝乎(じっ)としているのである。
 ゆるやかであっても、水は流れている。にも拘わらず、魚は鰭や尾を動かさないでも、流されることなく、凝乎としていられるのであるから、魚という動物は不思議であると感心しながら、なお眺めつづけていた。ところで、魚は眼を開いたまま眠っている。開いたままであるから、眠っていても魚の眼は視力がきくものかどうか試すため、携えて行った魚鋏で、眠っている魚を挾んでみた。眼が見えれば、鋏を見て逃げだすわけであるが、鮎も□も鮠もなにも知らず騒がず驚かず、静かに私らの魚鋏に挾まれてしまうのであった。
 これは、たしかに眼を開いたまま熟睡していたに違いない。さらに、殖田先生の説明によると、魚は約二時間熟睡すると眼をさます。それも試験してみよう、というのである。蚊の襲撃を受けながら、夜の河原に二時間待った。十時に、再びカンテラを淵の面へ差して魚の姿を眺めると、やはり水の中層に静止している。ところで、私らはまた魚鋏を水中に入れ、魚を挾もうとすると、こんどは駄目である。逸早く鋏を見つけて、鮎も□も鮠もいずれへか逃げてしまった。二時間後には、たしかに眼をさましていたのである。
 そこで考えたのであるが、人間が魚と同じように眼を開いたまま眠っているとすれば、随分薄気味悪いと思う。自分の寝姿は見えないけれど、私などこの頃あまりのめないために、酒精失調とでもいう病気にかかり、眼を開いたまま眠るか、どうか。
 鮎、鯰、鯛、鮪、秋刀魚など多くの魚が、眠っても眼を閉じないのは、□が動かぬためであると思う。しかし、全部の魚の□が動かぬわけでもない。私の知っているところでは、二、三の魚が□を閉じる。
 日本のどこでもの海岸の浅い砂浜や叢(くさむら)に棲んでいる飛沙魚(はぜ)と、九州有明湾や豊前豊後の海岸にいる睦五郎(むつごろう)と、誰にもおなじみの鰒(ふぐ)である。
 東京近くでは、千葉県の西端の浦安海岸に飛沙魚はいくらでもいる。退潮時に浜を覗くと干潟の泥のなかに群れをなして遊んでいるが、人間が近づくと、ぴょんぴょん跳ねながら逃げだす。そして、葭や葦などに這い上がり、ちょいと人間の方を振り向き、胸鰭をあげて額に翳(かざ)し、□をぱちぱちさせる顔は、ひどく愛嬌たっぷり。
 鰒は、食べては魔味に類するけれど、釣りに邪魔物である。あの、鋭い一枚歯で太い天狗素(てぐす)など手もなく噛み切ってしまう。それでも、時々は釣れる。私は、たびたび房州鋸山の下の竹岡沖へ鯛釣りにでかけるが、そのとき一貫五、六百匁もある大きな名古屋鰒を釣りあげると、船頭が「こいつ奴(め)っ」と掛け声をかけながら、出刃庖丁の峯で彼の頭を叩くと、鰒は□をぱちぱちさせて、まばたきをする。
 怖いようでもあるわい。




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