知識と政治との遊離
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著者名:中井正一 

る。民衆がむしろ実験台となったのである。使役さるる知識人は、奴隷であり、禄を喰むものであり、給料をもらうものである。かくて、非民主主義時代の知識人は隷属的地位であるとともに、支配者によって、客観的真実及び大衆的幸福が拒否さるる可能性があるのである。この拒否に面して、前に見る四つの遊離の様相をもたらしているといえるであろう。
 第二には知識の問題それ自身に横たわっている条件がある。これまでの哲学的態度が一つの方法論になっていた。すなわち知識が観察の上に成立し、その観察している態度を更に観察することを要するという構造をもっている。これは行動そのものから、自己を除外して、意識面の中に対象をうつしかえる可能性をもっているのである。これは知識を個人的主観の意識中にとじこめる方法である。プラトン型、ディオゲネス型の何れもこれを足場に政治行動から遊離する基盤をもっているのである。アリストテレス型もその行動的矛盾を誤魔化すことができるし、またソクラテス型では、知識の孤独化への契機ともなってくるのである。
 この世界観的方法論においては、プラトン、アリストテレスに共通な現実から遊離したアイドスがあるという考え方である。身近にいえば「理論的にはこうだが、実際はこうなのだ」という時の理論と実際は分離しているという考え方、それをうずめるのが政治であるという方法論的立場である。この「観察と行動」「理論と実際」が分離しているという考え方自体の中に、知識自体が政治婢であり、そこでもって、遊離した支配を受けてもしかたがない。あたかも妾的取扱いをうけるゼスチュアがそれみずからの態度の中にあったともいえるのである。
 哲学そのものが、知識そのものが、今や、新しくその態度そのものを、方法そのものを革めるべき時に面している。その事を、哲学では哲学の危機と叫んでいるのである。
 以上、知識を政治から遊離する二つの基礎、すなわち第一の文化機構とその誤謬、第二の知識問題としての誤謬から解き放たれる事が、今や民主主義の課題にほかならない。真の民主主義とは何であるか、人類は、それを課題として、今、正に、自分自らを試みている。
 トルーマン大統領の選挙にあたって、アメリカのギャラップ調査局をはじめ、研究所、ジャーナリズム等知識調査力をつくして理論的可能を想定した。しかし現実はそれをくつがえした。知識が政治に敗れた一つの現象である。しかも、その敗退は、アメリカの大衆の組織的主体的条件を、すなわち「主体性」の要素を論理的計算の中から欠如していたことから起った謬りではなかったかを教えるものがある。
 世界の現段階の文化は、もはや知識は大きな組織で集団的共同研究の形で政治に役立つものとならなければならないことを示しつつある。米国の国会図書館の機構は、正に知識が組織機構の形で政治に奉仕する実験をしている。全アメリカの図書館の総合カタログをあつめ、蔵書七〇〇万冊、一、五〇〇万点にのぼる自筆文書・地図・楽譜その他の資料、館員一、五〇〇名の機構をもって、政治に奉仕しようとしている。それは民主主義が何であるかをたしかめようとしている巨大な実験である。この機構を貫いてアメリカ全知識機構が政治に奉仕しようとしているともいえるのである。
 省みれば、幾世紀かにわたって政治よりの遊離に嘆いた知識人達は、いつの日にか、かかる組織的政治機構ができるかと夢みたことであろう。民衆が民衆自身でつくる法律を、議会の組織の中で自分達知識人の助けによって作りあげる日をいかに夢みたであろうか。美事に整理された調査資料が個人的記憶にかわり、熱心な委員会が個人的思惟にかわり、協力精神に充ちた組織が個人的健康にかわって、巨大なる組織的知識人として、政治そのものに密着する日を私達もまた思わずにはいられないのである。




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