「焚書時代」の出現
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著者名:中井正一 

 立法部門が自分で立法機関をもつということ、この当り前のことが、今までなかったということが、実は不思議だといえば不思議だったわけである。
 しかしこの当り前のことが行なわれるために、今まで、数千年の歴史が無駄というか、たいへんないばらの路を歩みつづけてきたことを思うとき、感慨無量たらざるをえない。
 中国の歴史『資治通鑑』を読んでいると、諌官なるものがいて、政治や法律を定めるとき、為政者に忠言をささげた。しかし、諌官が真に中国の民のことを思って発言すると、きまったように殺されてしまうのである。だから、諌官の方でも腹をすえて、発言するとき、冠を階の上に置いて死を覚悟の上で発言する。そして、常に果たせる哉、煮られるか、炙られるか、裂かれるか、斬られるか、獄されるか、毒を送られるかしてその生を終るのである。
 知識が政治に関与する仕方は三千年の間、多くこのような姿においてであった。思えば馬鹿げたことだが、全くそうだったのである。かかることを省みながら、民衆の自ら立法し、その立法の機関と、その知識的忠言を図書館組織において整理するということを眼前に見るとき深い感慨がある。三千年が間に破滅に臨み、悲しみつつかかる時代を夢みた知識人は幾十人あったであろうか、幾百人であっただろうか。いや、知識そのものが傷み悲しんでいたともいえよう。
 しかも、今、その形をもって、眼前に、人間が、人間の秩序を整えたのである。
 勿論、現実はそう甘くはない。第二第三の『資治通鑑』が、私達の歴史の中に、惨酷な醜悪を用意をしているであろう。しかし私達は今まさに一つの人間の夢にまで辿りついているのである。この一点を手離すことは、あの長い歴史に対して申訳けないことである。
 国立国会図書館は、かかる幾つかの夢としてここに現われ出でた。これは、日本の民主化の一つの表徴であり、現議員の果たした栄誉のバッジですらある。往古、アレクサンダーがその遠征の記念としてアレクサンドリア図書館ができたように、今、ここに戦いが文化建設の機縁となったということもできよう。
 ともあれ、この日本民族の危機にあたり、この図書館がその型態を正しく整えることの急務は、正に切実をきわめている。
 一歩退いて図書館界を省みると、この一隅の世界もまた、火炎の中にあるのである。いま、『群書類従』を古本として売れば、本としてよりも、紙として売る方が値がよいと専門家はいっている。本を読む、学を求めるものとしての日本民族のこころ根が、もはや良書をよむ力を失って、かかる良書を、硫酸でとかして、エロ本の材料としてしまうことを経済的構造をもってゆるすという段階に立至った。日本民族の教養の方向が、歴史以来初めての、大衆によって「焚書時代」の出現に向ったともいえるのである。始皇帝でもなく、ヒットラーでもなく、民族の教養低下が、大衆自らの文化遺産を硫酸で焼くという時代を生み出しているのである。立法的資料そのものが、法の運用のあやまりによって亡びようとする段階に、今、日本民族は立至っているのである。
 本館は、かかる民族的危機の中に、乏しい予算をなげ打って、これを支えようとしており、しかもそれを支えるべく、法そのものがわれらにその任務を課している。
 国立国会図書館は、そのへき頭に「真理がわれらを自由にするという確信に立って、……」と叫んでいる。その言葉を空しくしないことをわれわれは日夜希いつつ、その建設の苦しみを闘っているのである。




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