経済学及び課税の諸原理
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:リカードウデイヴィッド 

        訳序

 本書はデイヴィド・リカアドウ David Ricardo の主著『経済学及び課税の諸原理』"Principles of Political Economy and Taxation." の全訳である。
 リカアドウはユダヤ系の英国人である。彼は、一七七三年、富裕な株式仲買人エイブラハム・リカアドウの第三子として生まれ、幼少にして実際的教育をうけた後、勉学のためアムステルダムに送られ二年の後帰英し、ロンドンで一年間学校教育をうけて、齢(よわい)わずかに十四才にして父を援(たす)けて実業界に入った。二十一才の時クエイカア教徒の女と結婚し、自らもクリスト教徒に改宗したために、父との間は不和になり、ために彼は父から独立して、一時苦難の時を送ったが、まもなく彼も物質的成功を得ることが出来た。そしてこのことは彼に勉学の余裕を与えることとなった。勉学の対象は初めは自然科学に限られていたが、たまたま妻の病中、バアスにおいて巡囘文庫中のアダム・スミスの『諸国民の富』を見るに及んで、ここに経済学に対する興味を覚えることとなったのである。
 かくて彼れの富が次第に増加し、実業界における彼れの地位がますます重きをなすに至るとともに、また彼れの経済学研究が進むにつれ、彼はまず通貨及び銀行に関する諸論文をもって論壇に登場し、次いでナポレオン戦争にともなう穀物関税に関する論争には一八一五年に『低い穀物価格』を書いて参加し、穀物保護貿易論者たるマルサスの所見を痛烈に批判した。一八一七年の『経済学及び課税の諸原理』の第一版は、以上の諸論の総決算たるものである。
 一八一九年には彼はポオトアーリントンから代議士に選出された。それ以後彼れの諸論文は主として彼れの議会生活と関係あるものであるが、一八二二年の『農業保護について』だけは他と趣を異にし、彼に他の一切の著作なくともこれのみにても彼は一流の経済学者たり得るとマカロックが評したほどの、傑出した独立論文である。
 リカアドウは、一言もっていうならば、古典派経済学の完成者である。古典派経済学は、ブルジョア的埒内において最高の発展をとげた経済学であり、ウィリアム・ペティ及びボアギュイベールにはじまって、リカアドウ及びシスモンディをもって終るものである。この派の経済学は二つの段階を経て発展している。すなわちその前期はマニュファクチュア期のそれであり、その後期は機械工場制期のそれであって前者を代表するものがアダム・スミスであり、後者を代表するものがリカアドウである。かくの如くにリカアドウは、古典派経済学の最後の最高の総括的発展者であるため、この派経済学の根本的基礎理論たる労働価値論は、彼においてそのブルジョア的埒内において許される限りの発展をしたのであるが、同時にまたブルジョア的生産の矛盾はこの学派の固有の歴史的限界に制限されて、生産方法そのものの矛盾としてではなく、理論的構造内部における解決しがたい矛盾として顕現していることが、彼れの体系にとって特徴的となっている。このことは、例えば本書巻頭における労働価値論における平均利潤の問題――またはいわゆる価値と生産価格との矛盾の問題――に最もよく露呈している。しかもそれにかかわらず、彼がこの問題を黙殺して進まずこれが解決に正面から取組んだこと、更にまた本書の第三版に至って改めて『機械について』の諸問題を真剣に取りあげたことは、その歴史的限界性にもかかわらず、彼れの偉大さをよく物語るものといわなければならない。彼れの全理論が後にマルクスによって最も正しい意味において発展的に止揚されたことは、人のよく知るところである。
 本訳書は、底本をその第三版にとり、更にゴナア教授の傍註をもたぶんにとり入れ、その上にかなりの訳者註を加えて、出来上ったものである。私はかつて昭和七年に本書を同じく春秋社から出版したことがある。当時すでに本書については、堀經夫博士及び小泉信三博士による二種の訳本が行われていた。前者は正確、後者は流暢、いずれも好個の訳本である。それにもかかわらず私が当時本書を更に訳出したのは、それが『世界大思想全集』の一巻として包含されており、従って先覚二著の学者的訳書に比して学生用として普及の機会が多かろうと考えたからである。従って飜訳の態度は、どこまでも学生用参考書を作るということを第一義とした。今度再建春秋社が改めて古典経済書の一つとして本書の出版を企図されたについて、私はやはり学生用参考書としての本書の必要を感じ、同じく学生大衆用普及版を作る目的をもって、改めて全巻に亙って厳密に改訳の筆をとると共に、また戦後の傾向として用語の現代化をはかることとした。その結果意外の労を払わなければならなかったが、かくしてとにかく出来上ったのが本書である。
 かくて本書は普及を中心とする大衆版であるが、さればといって本書は過度の読み易さを追求すべき性質の内容のものではない。もともと内容は経済学の理論であるから読物的な軽さを欠いているのであるが、これに加えてリカアドウは決していわゆる名文家ではない。この意味では彼は論敵マルサスの闊達な文調にまさに百歩を譲るものである。時に彼は英語にそれほど練達ではなかったとさえ評されているくらいである。更に、こうした理由よりもよりいっそう、訳者の不敏にして、本書はなお大衆的普及版としては排除すべき生硬さが多々あることと思われる。これらの点は、読者諸賢の叱正を得て、適当な機会に訂正をしたいと思う。
 なお本書のなるについて春秋社の瀬藤及び鷲尾の両氏、ならびに高橋君の配慮と助力とを得たこと多大なるものがある。記して感謝の語としたい。
   一九四八年二月大久保にて訳者[#改ページ]

      原著者序言

 土地の生産物――すなわち地表から、労働、機械、及び資本の結合使用によって、得られるすべてのものは、社会の三階級の間に、すなわち土地の所有者、その耕作に必要な蓄財すなわち資本の所有者、及びその勤労によってこれを耕作する労働者の間に、分たれる。
 しかし、社会の異なる諸階級においては、地代、利潤、及び労賃の名の下に、これらの諸階級の各々に割当てられるであろう所の土地の全生産物の比例は、全く異るであろうが、それは主として、土壌の現実の肥沃度に、資本の蓄積や人口に、そして農業において用いられる熟練や創意や器具に、依存するのである。
 この分配を左右する諸法則を決定することが、経済学における主要問題である。この科学は、テュルゴオ、スチュワアト、スミス、セイ、シスモンディ、及び他の人々の著作によって、大いに進歩してはきているけれども、それらは、地代、利潤、及び労賃の自然的径路に関する満足なる叙述は、ほとんど与えていないのである。
 一八一五年に、マルサス氏は、その『地代の性質及び増進に関する研究』において、またオクスフォド・ユニヴァシティ・カレヂ一校友は、その『土地への資本投下に関する試論』において、ほとんど同時に、地代に関する真実の学説を世に提供したが、この知識なくしては、富の増進が利潤及び労賃に及ぼす結果を理解し、または租税が社会の種々なる階級に及ぼす影響を十分に追究することは、不可能である。それは、課税された貨物が、地表から直接に得られた生産物である場合には、特にそうである。アダム・スミス、その他前述の有能な学者は、地代に関する諸原理を正しく観察しなかったため、思うに、地代の問題が徹底的に理解された後においてのみ発見され得る所の、多くの重要な真理を、看過してしまったようである。
 この欠陥を補うには、本著者の有するよりも遥かに優れた諸能力が必要である。しかしながら、この問題に対しその全力を費した後に、――上記の優れた諸学者の著作から援助を得て後に、――そして、豊富な事実を有つ最近の数年が現代人に与えた価値多き経験を得て後に、利潤及び労賃の諸法則、並びに租税の作用に関する、著者の意見を述べることは、思うに彼において僣越であるとは考えられないであろう。もし著者が正しいと考える諸原理が、事実正しいものであることが見出されるならば、それを追究してあらゆるその重要な帰結を明かならしめることは、著者自身よりもより有能な他の人々のなすべきことであろう。
 著者は、一般に受容されている所見を反駁するに当って、著者がその理由あって所見を異にする所のアダム・スミスの著書中の章句により詳細に論及するの必要なることを、見出した。しかし著者は、その故をもって、経済学なる科学の重要なるを認めるすべての人と共通に、この有名な学者の深遠な著作が正当に喚起する賞讃に参与するものではない、と疑われないであろうことを、希望する。
 同じことが、セイ氏の優秀な著作に当てはめ得ようが、彼は啻(ただ)に、大陸の諸学者中で、スミスの諸原理を正当に評価しかつこれを適用した最初の人、または最初の人々の一人であり、かつその啓蒙的にして有益な体系の諸原理を、ヨオロッパ諸国民に推奨するに、他の大陸の諸学者を全部合せたよりもなす所多かったのみならず、更にまたこの学問をより論理的なかつより教導的な順序に置くことに成功し、そして、独創的な正確なかつ深遠な二三の討論によって、斯学を富ましめたのである(註)。しかしながら、著者がこの紳士の著作に対して懐く尊敬は、著者が学問の利益のために必要であると考える自由をもって、著者自身の見解と異る所の『経済学』中の諸章句に対し批評を加えることを妨げなかったのである。
(註)第十五章、第一部、『市場論』は、特に、この優れた学者によってはじめて説明されたものと信ずる所の、二三の極めて重要な諸原理を含んでいる。
      第三版に対する原著者の注意

 本版においては、私は前版におけるよりも、価値に関する困難な題目についての私の所見を、いっそう十分に説明せんと努力し、そしてその目的のために、第一章に二三の附加をなした。私はまた、機械の問題につき、またその改良が国家の各種の階級の利害に及ぼす諸結果についての、新しい一章を挿入した。価値と富との特性に関する章においては、私はこの重大な問題に関するセイ氏の学説――その著書の最終第四版において修正されたもの――を検討した。最終の章において私は、その農法の改良により、国内においてその穀物を生産するに必要な労働量が減少するか、または、その製造貨物の輸出により、外国からより低廉な価格でその穀物の一部分を取得するかの結果として、たとえその貨物総量の全貨幣価値は下落するとしても、一国は附加的貨幣租税を支払う能力があるという学説をいっそう有力なる見地からして、打ち立てようと努力した。この考察は極めて重要であるが、それはけだしこの考察は、特に、莫大な国債の結果たる、重い固定貨幣租税を負担している国において、外国穀物の輸入を無制限のままに放置する政策の問題に、関係するからである。私は、租税支払能力は、大量の貨物の総貨幣価値にも、また資本家及び地主の収入の総貨幣価値にも、依存するものではなくして、各人が通常消費する貨物の貨幣価値と比較しての彼れの収入の貨幣価値に依存するものであることを、示さんと努めたのである。
     一八二一年三月二十六日
[#改ページ]

        目次

 訳序
 原著者序言
 第三版に対する原著者の注意
第一章 価値について
第一節(一)価値なる語の曖昧さ。使用上の価値と交換上の価値(二)価値を有する物品における効用の必然的存在(三)分量上の価値の原因。稀少性従って大抵の場合において労働(四)稀少性(五)(六)生産費及び交換価値の根拠としての労働。このことはスミスによって裏書きさる(七)しかしながら彼は後に、穀物及びそれ自身交換される物品たる労働その他の価値標準を樹立している(八)穀物に関しての誤謬。それはそれ自身多くの原因よりして可変的である(九)労働もまた可変的である(一〇)それに関するスミスの誤謬(一一)このことを更に例証す(一二)あらゆる物の真実価値は、その生産に、または労働それ自身の場合にはその維持に、必要な労働量によって評価さるべきである第二節(一三)労働は疑いもなく種類を異にするけれども、かかる種類の相違はまもなく調整され引続き永久的なものとなるから、前掲の法則は覆(くつが)えされない第三節(一四)更にすべての企業においては資本が必要であり、従って貨物に直接に適用される労働がその価値に影響を及ぼすのみならず、更に最終工程を便ならしめるための為めの器具を準備するために用いられる労働もまた然(し)かする(一五)このことは、貨物はその生産に投ぜられた各々の労働量によって交換されるという法則に、影響を及ぼさない。労働とは直接的なものと間接的なものとであると考えなければならない(一六)このことは、不変的価値標準があるならばそれによって証明されるであろう第四節(一七)貨物はその生産に費された各々の労働量によって交換されるという法則は、次によって修正される(一八)イ、かかる労働が直接でありまたは間接である相対的程度、すなわち機械その他の耐久的資本の比例的分量の相違、若干の貨物はそれによって、労働の価値の騰落により、他のもの以上に影響を蒙るから第五節(一九)ロ、資本の耐久力の不等    ハ、生産に用いられる時間の比較的不等(二〇)以上の要約第六節(二一)不変的価値尺度。その存在とその使用に必要な条件第七節(二二)貨幣はかかる不変的標準ではない(二三)その価値の変動より起る相違第二章 地代について
(二四)地代の性質及び定義。それに対し地代が支払われるもの(二五)歴史的起源。存在原因、それは種々なる耕地によって産出される収穫の相違から生ずる(二六)またはむしろ種々なる資本投下分に対しなされる収穫の相違から生ずる(二七)交換価値は、存在する事情の内最も有利なそれの下において費された労働量によってではなく、最も不利なそれの下において費された労働量によって、決定される(二八)地代の存在は農業の有利なことを証明するものではない(二九)地代は富の増加の結果であって原因ではない(三〇)地代全額は生産物に対する需要の減少によって減少する(三一)同じことは、土壌の肥沃度の増加、またはその耕作様式の改良、によって齎(もたら)される第三章 鉱山の地代について
(三二)鉱山の経済的地代は、土地の地代を支配すると同一の法則によって決定される。従って貴金属の価値は地代の存在によって影響を蒙らない第四章 自然価格及び市場価格について
(三三)市場価格はしばしば貨物の自然価格から変動する。かかる変動は資本の投資を左右する(三四)異る職業における率のある相違はこれらの各々の職業における真実のまたは想像上の便益の存在によって説明される第五章 労賃について
(三五)労働の自然(名目)価格は必要貨物の価格に依存する(三六)労働の市場価格(三七)市場価格は資本の蓄積によって自然価格以上に騰貴し、自然価格自身は必要貨物の価格騰貴または愉楽の標準の変動によって騰貴する(三八)資本の増加と労働の増加との関係(三九)資本の増加率の減少は、貨物によって現わされる労賃の市場率の下落を惹起(ひきおこ)さないであろう、もっとも貨幣労賃は、耕作の進行につれて必要貨物の価格が騰貴しなければならぬから、騰貴しなければならないが(四〇)このことは金が外国から輸入されるという事実によって影響を蒙らない。労賃の騰貴は価格の騰貴を惹起さない(四一)救貧法の悪影響第六章 利潤について
(四二)必要品の価格の変動は製造業者の利潤に影響を及ぼすが、製造品の価格には影響を及ぼさないであろう(四三)その結果をかくの如く考えれば、その永久的結果は(四四)利潤下落の傾向。ある最低限が蓄積を奨励するに必要である(四五)より以上の考察第七章 外国貿易について
(四六)外国貿易による市場の拡張は、価値を増加せしめず、「利潤率」に影響を及ぼさない(四七)しかしながら異る国において生産された貨物は、一国から他国へ生産要素を移動せしめ得ないために、生産費によっては交換されない。各国は最大の便益を有つ貨物を生産している(四八)このことは貨幣の介入によって変更を受けない。外国貿易によって貨幣は種々なる国の間にその必要に応じて分配される(四九)手形の使用(五〇)交換に参加する二国中の一国における産業の進歩の結果(五一)種々なる国における貨幣価値の変動を惹起している他の原因(五二)貨幣の価格及び価値のかかる変化は利潤には何らの影響をも及ぼさないであろう    価格の地方的変化の二つの主たる原因――鉱山からの距離及び産業上の地位(五三)為替相場の変化第八章 租税について
(五四)租税は資本か収入かから支払われねばならぬ(五五)後者からのその徴収を奨励するのが正しい政策である。このことは、一、死亡に関する税において、二、財産の移転に対する租税において、無視されている。しかのみならず、この後者は最も有利な産業の分配を害する第九章 粗生生産物に対する租税
(五六)粗生生産物に対する租税は消費者の負担する所となる、けだしそれは土地の場合において耕作の限界に影響を及ぼすから(五七)それに加うるにまたその結果として、問題の粗生生産物は労働者の消費に入り込むものと仮定されているから、それは労働の労賃を騰貴せしめかつ利潤を下落せしめる傾向がある。このことの結果として四つの反対論がかかる租税に対して主張されている(五八)イ、固定的所得を享受している者は影響を受けない。これを反駁す(五九)ロ、労賃は必要品の価格騰貴に単に徐々として随伴するに過ぎない。その結果として貧窮。このことを、価格騰貴が、一、供給の不足、二、需要の増加、三、貨幣価値の下落、四、必要品に対する租税、によって惹起されるものとして考察す(六〇)ハ、蓄積が阻害される(六一)ニ、外国の競争の場合における不利益第十章 地代に対する租税
(六二)地代に対する租税は地代と同様に価格に影響を及ぼさない(六三)しかし地代として支払われているものは二つの部分、すなわち地代そのものと支出に対する利潤とからなる。従って地代として支払われているものは価格に影響を及ぼし得よう第十一章 十分一税
(六四)十分一税は消費者の負担する所となる(六五)しかしそれは、外国からの輸入に対する奨励金の性質を有っているから、地主にとって不利である第十二章 地租
(六六)地代と共に変動する地租は地代に対する租税であり、従って価格に影響を及ぼさない(六七)しかし固定的地租は価格に影響を及ぼし、かつ最悪の土地を耕作している者にとり不公平であり、そして結局消費者の負担する所となる。従ってそれは労賃利潤間の関係に影響を及ぼし得よう。(六八)しかしながら土地及び生産物に対するすべての租税は、供給需要間の関係を変更するから、生産を阻害する。アダム・スミス及びジー・ベー・セイの意見第十三章 金に対する租税
(六九)金はそれに租税が課せられたからといって価格において急速に騰貴する傾きはない、けだし第一に、金の存在量は単に徐々として減少され得るに過ぎぬから(七〇)第二に、金に対する需要は、ある確定量に対するというよりはむしろある交換能力に対するのであるから(七一)従ってある事情の下においては租税が金に課せられてしかも何人によっても支払われないことがあり得よう。スペインの場合第十四章 家屋に対する租税
(七二)同様に家屋に対する租税は、家屋数が急速に減少され得ないために、地主の負担する傾向となる(七三)建築物家賃と敷地地代としての地代の分別第十五章 利潤に対する租税
(七四)利潤に対する租税は、価格に影響を及ぼして、消費者の負担する所となるであろう。従って利潤に対する一般的租税は、貨幣価値が変動しない限り、価格の一般的騰貴を意味するであろう(七五)しかしながらこの騰貴は、固定資本または流動資本への資本の分割され方の相違によって、すべての場合においては同一ででないであろう。英蘭(イングランド)銀行兌換停止条例に関する、このことからしての結論(七六)利潤に対する租税が地主階級に与える格別の影響(七七)消費者としての株主に対するそれ(七八)利潤に対する租税による物価の影響され方第十六章 労賃に対する租税
(七九)労賃に対する租税は、労賃の「名目」率の存在する故に、利潤の負担する所となるであろう。この率はアダム・スミスによって主張されたが、ビウキャナンによって反対された、後者は次のことを否定する(八〇)第一、貨幣労賃は食物の価格によって左右されるということ(八一)第二、租税は労働の価格を騰貴せしめるであろうということ(八二)かかる租税は結局、アダム・スミスの考えるが如くに消費者の負担する所とはならず、利潤の負担する所とならなければならぬ(八三)彼れの結論が正確であるとしても、それは彼れの想像している如くに外国貿易におけるその国の力を破壊しはしないであろう(八四)必要品及び労賃の課税に関する彼れの見解を更に検討す(八五)課税の一般的影響第十七章 粗生生産物以外の貨物に対する租税
(八六)貨物に対する租税はかかる貨物の価格を騰貴せしめる。もしすべての貨物が課税されるなら、貨幣が依然課税されずかつその供給が変動しないというだけの条件で、すべての価格は騰貴するであろう(八七)生産的企業に対する課税の影響に関する枝話。債務の利子に対し課せられた課税は、一人から他のもう一人へのある富の移転に過ぎない(八八)貨物が独占価格にある時には、それに課せられた課税は、価格に影響を及ぼさず地代に影響を及ぼすであろう(八九)しかしながら粗生生産物に関しては事情はこれと異る。スミス、ビウキャナン、及びセイのこの点に関する理論を、特に麦芽に対する租税の問題に関聯して考察す第十八章 救貧税
(九〇)救貧税の負担は異るであろう。すべての利潤に対する租税の場合には労働の雇傭者によって負担される。特別に農業利潤に対する租税である場合には消費者によって負担される。地代に対する場合には地主によって負担される(九一)かかる救貧税は通常製造業よりも農業のより重く負担する所となるという事実によって、それは全部労働の雇傭者によって支払われることなく、一部分価格騰貴を通じて消費者によって支払われるであろう第十九章 貿易路の急変について
(九二)急変が特定産業に及ぼす影響(九三)国民の繁栄について。二つの結果の相違。国民は常に結局利得する。産業は永久的にすら害されるかもしれぬ(九四)戦争終結時の英国におけるが如き、農業の特殊の場合第二十章 価値及び富、両者の特性
(九五) 価値と富との本質的相違、前者は生産の困難な点に依存し、後者はその便宜に依存す(九六) 従って価値の標準は富の標準ではない。かくて富は価値に依存しない(九七) 一国の富は二つの方法で増加され得よう、一、国の労働能力の増加により、従って生産された貨物の量と共にその全価値の増加によって、二、新しい生産の便宜によって、従ってこれは必ずしも価値の増加を伴わない(九八) 不幸にして価値と富との区別は余りにもしばしば無視されている。特にセイによって第二十一章 利潤及び利子に及ぼす蓄積の影響
(九九)労賃騰貴のある永久的原因がない限り、いかなる資本蓄積も永久的に利潤を下落せしめないであろう(一〇〇)生産とは需要の物質的表現である(一〇一)外国貿易への資本の利用は、国内で用いられて利潤を齎し得る資本額に絶対的限界のあることを示すものではない。しかしながらかかる使用は利潤がより大であると期待されるから起るのである(一〇二)利潤と利子との関係(一〇三)利子率は、他の原因による一時的変動を蒙るとはいえ、終局的かつ永久的には、利潤の作用によって支配される第二十二章 輸出奨励金及び輸入禁止
(一〇四)輸出奨励金は国内市場において必ずしも価格を(永久的に)変動せしめるものではない。生産の増加の結果より不利な条件の下に耕作をなすに至る時を除けば、穀物に対する奨励金についてはこれは事実である(一〇五)アダム・スミスの第一の誤謬、穀物の貨幣価格の騰貴は生産の増加に導くものと信じている(一〇六)第二の誤謬、穀物の貨幣価格がすべての他の貨物の価格を左右するという命題(一〇七)第三の誤謬、奨励金の結果は貨幣価値の永久的低落を惹起すとす(一〇八)第四の誤謬、農業者及び地方紳士は穀物の輸出奨励金によって利益は受けず他方製造業者はその生産品の輸出奨励金によって利益を受けるとす。さて製造業者及び農業者は同一の地位にありかつ利益を受けない。地方紳士は地代が存在するために利益を受けるであろう(一〇九)問題全部をビウキャナン及びセイの意見に関聯して更に論ず第二十三章 生産奨励金について
(一一〇)孤立国における穀物の生産奨励金を支払うべき基金が製造貨物に対し課せられた課税によって徴収される時における、その奨励金の影響。かかる事情の下においては資本の分配には何らの直接的変動も起らないであろう(一一一)労働の労賃及び雇傭資本家に対する影響(一一二)その生産に必要な労働量の変化を通じての穀物の価値の変動によって資本家の地位に齎される影響と、課税または奨励金の理由によるその価値の変動によるそれとの相違(一一三)穀物等に対する租税によって賄われた基金より支払われる所の製造業に対する奨励金の影響――第一の場合の反対第二十四章 土地の地代に関するアダム・スミスの学説
(一一四)穀物を生産している土地は常に地代を産出しなければならぬというアダム・スミスの見解を批判し否定す(一一五)これと反対に穀物を生産している土地の地代はスミスが鉱山地代が決定されるとなしている仕方で決定されることが主張されている、もっとも双方の場合においてリカアドウは、価格は用いられている最も肥沃ならざる資源よりの生産によって左右されるという事実に注意を惹いているが(一一六)従って地主の利益は、スミスの見解とは反対に、土地の生産力の増加によって害され得よう(一一七)地主の利益は常に消費者のそれと対立す。スミスは低い貨幣価値と高い穀物価値とを弁別していない第二十五章 植民地貿易について
(一一八)アダム・スミスのなしたる如くに自由貿易の不変的利益を主張するのは正しい(一一九)しかし植民地に課せられた禁止は母国を大いに利するであろう(一二〇)相互に貿易しているある二国の貿易に課せられた禁止というより一般的な場合によってこのことを例証す(一二一)高い利潤は価格に影響を及ぼさないということ第二十六章 総収入及び純収入について
(一二二)一国の力は、その力が富またはそれから租税が支払われる基金に依存する限り、純所得に依存し総所得には依存しない。アダム・スミスはこのことを理解しない(一二三)内国商業及び外国貿易の各々の利益についてスミスに更に誤れる点。一方が他方より有利であるということはない第二十七章 通貨及び銀行について
(一二四)貨幣鋳造を左右すべき諸原則。量に依存する価値(一二五)紙幣(一二六)発行過剰を妨げる必要(一二七)紙幣を一定の条件の下に金と兌換し得るものたらしめることによって、金属貨幣に代えて紙幣を用いる利益(一二八)それは政府によって発行せらるべし(一二九)これに関する種々なる意見(一三〇)単本位または複本位の使用第二十八章 富国及び貧国における、金、穀物及び労働の比較価値について
(一三一)アダム・スミスの主張する如くに、穀物で測られた金は、富国においては、高い価値よりはむしろ低い価値を有つ(一三二)繁栄せる国が衰える時には、穀物で測られた金等の価値はその結果として騰貴するものではない(一三三)金は必ずしも鉱山を所有する国において価値がより低いわけではない第二十九章 生産者によって支払われる租税
(一三四)製造業における後期よりもむしろ初期の租税の支払に関する二つの誤謬の訂正     イ、消費者は、彼れの租税支払期を遅延せしめ得ることによって、前払に対する利子の支払を補償される(一三五)ロ、もし一〇%が課せられるならば、それは一年につき一〇%であり、各転嫁につきそうであるのではないであろう第三十章 需要及び供給の価格に及ぼす影響について
(一三六)需要及び供給は価格を決定するとは言い得ない、次のことが顧慮されざる限り(一三七)イ、貨幣の変動(一三八)ロ、生産費の規制的影響第三十一章 機械について
(一三九)一見したところ機械の導入は、生産に従事する種々なる階級に、単にそれが産業路に変化を惹起す限りにおいてのみ、影響を及ぼすように思われる(一四〇)しかし労働に対する直接の需要は、流動資本より固定資本への資本の変化によって、著しく減少するであろう(一四一)この減少はおそらく救治されるであろう、もっともそれは必ずしも直ちにではない(一四二)労働の利益は、更に、流動資本の用い方の相違によって、著しく影響を被るであろう(一四三)しかしながら機械の導入は一般に徐々として起るであろうから、有害な結果は予見する必要はない第三十二章 地代についてのマルサス氏の意見
(一四四)地代を取扱うにあたってのマルサスの誤謬。第一の誤謬、地代をもって富の創造なりと考う(一四五)マルサス氏の地代の三原則(一四六)第二の誤謬、地代は土地の肥沃度によるとす(一四七)第三の誤謬、労賃の下落は地代の一原因なりとす(一四八)第四の誤謬、肥沃度の増加は地代の増加に導き、その反対も真なり、とす(一四九)穀物と関聯しての「真実価格」なる語のマルサスによる矛盾せる使用(一五〇)穀価の下落は必ずしもすべての他の貨物の価格の下落を齎すものではないこと(一五一)公債所有者の地位を取扱うにあたって、マルサスは前述の如くこの原理を無視している
(訳者註)項への分類、及びその名称は、ゴナア教授のほどこせるものである。

〔目次―完〕[#改ページ]

    第一章 価値について

第一節 一貨物の価値、すなわちそれと交換されるある他の貨物の分量は、その生産に必要な労働の相対的分量に依存し、その労働に対して支払われる報酬の多少に依存しない。
(一)アダム・スミスは次の如く述べている、『価値という言葉は、二つの異った意味を有(も)っており、ある時にはある特定物の効用を言い表わし、またある時にはその物の所有が齎(もた)らす所の他の財貨を購買する力を言い表わす。前者は使用上の価値、後者は交換上の価値と呼ばれ得るであろう。』彼は続けて言う、『最大の使用上の価値を有つ物が、しばしば、ほとんどまたは全く交換上の価値を有たず、また反対に、最大の交換上の価値を有つものが、ほとんどまたは全く使用上の価値を有たない。』(訳者註)水や空気は極めて有用であり、それらは実に生存に不可欠のものであるが、しかも普通の事情の下では、これらと交換して何物も得ることは出来ない。反対に金は、空気や水と比較すればいくらも有用ではないが、多量の他の財貨と交換されるであろう。
(訳者註)アダム・スミス著『諸国民の富』キャナン版、第一巻、三〇頁。
(二)しからば効用は、交換価値にとって絶対的に不可欠ではあるが、その尺度ではない。もし一貨物がどうしても役に立たないならば、――換言すれば、もしそれがどうしても吾々の満足に貢献し得ないならば、――いかにそれが稀少であろうとも、またどれだけの労働の分量がそれを獲得するに必要であろうとも、それは交換価値を欠くであろう。
(三)効用を有つならば、諸貨物は、次の二つの源泉からその交換価値を得る、すなわちその稀少性からと、それを獲得するに必要な労働の分量からとである。
(四)その価値がその稀少性のみによって決定される若干の貨物がある。いかなる労働もかかる財貨の分量を増加することを得ず、従ってその価値は供給の増加によって低下せしめられ得ない。珍しいある彫像や絵画、稀少な書籍や貨幣、極めて狭い範囲の、特別な土壌で栽培される葡萄からのみ造られ得るに過ぎない、特殊な性質を有つ葡萄酒の如きは、すべてこの種のものである。それらのものの価値は、それを生産するに最初必要とした労働の分量とは全く無関係であり、そしてそれを所有せんと欲する者の富と嗜好との変化するにつれて変化するのである。
 しかしながらこれらの貨物は、市場において日々交換される貨物の総量の中、極めて小なる部分をなすにすぎない。欲望の対象物たる財貨の遥かに最大の部分は、労働によって得られるのであり、そして、もし吾々が、それを獲得するに必要な労働を投ずる気になりさえするならば、啻(ただ)に一国においてのみならず更にまた多くの国において、ほとんど限りなく増加せられ得よう。
(五)しからば、貨物について、その交換価値について、かつその相対価格を左右する所の法則について、語る際には、吾々は常に、人間の勤労の発揮によって分量を増加することが出来、かつその生産には競争が制限なく働く如き貨物のみを意味するのである。
(六)社会の初期においては、これらの貨物の交換価値、すなわち一貨物のどれだけが他の貨物と交換せられるであろうかを決定する規則は、ほとんど全く、各貨物に費された比較的労働量に依存するのである。
 アダム・スミスは曰く、『あらゆる物の真実価格、すなわちあらゆる物がそれを獲得せんと欲する者に真に値するのは、それを獲得するの骨折と煩苦とである。あらゆる物が、それを獲得し、かつそれを処分せんと、すなわちそれを他の何物かと交換せんと欲している者に、真に値する所は、それが彼自身をしてこれから免れしめることが出来、かつこれを他人に課することが出来る所の、骨折と煩苦とである。』(訳者註)『労働は、すべてのものに対して支払われた所の、最初の価格――本来的の購買貨幣であった。』(訳者註)また曰く、『資本の蓄積及び土地の占有の両者に先だつ所の、社会初期の未開状態においては、種々なる物を獲得するに必要な労働の分量の比例が、それらを相互に交換するための何らかの規則を与えることの出来る唯一の事情であるように思われる。例えば、もし狩猟民族の間で通例一匹の海狸を殺すには、一匹の鹿を殺す労働の二倍を要するとすれば、一匹の海狸は当然に二匹の鹿と交換せらるべきであり、換言すれば、二匹に等しい価がある。通例二日の、または二時間の労働の生産物たるものは、通例一日の、または一時間の労働の生産物たるものの二倍に価する、というのは当然である。』(註)
(訳者註)『諸国民の富』キャナン版、第一巻、三二頁。(註)第一篇、第五章(これは誤りである。正しくは第六章。この句は、キャナン版、同上、四九頁――訳者註)。 人間の勤労によって増加し得ないものを除けば、これが真にすべての物の交換価値の基礎であるということは、経済学における最も重要な一学説である、けだし、価値なる語に附せられた曖昧な観念から生ずるほどの、かくも多くの誤謬と、かくも多くの所見の相違が起る源泉は、他にないからである。
 もし、貨物に実現された労働の分量が、その交換価値を左右するとするならば、労働の分量のあらゆる増加は、それに労働が加えられる貨物の価値を増加せしめなければならず、またそのあらゆる減少はそれを下落せしめなければならない。
(七)かくも正確に交換価値の源泉を定義し、そして論理を一貫させるためには、すべての物はその生産に投ぜられた労働の多いか少いかに比例してその価値が多くなるか少くなると主張すべきであったアダム・スミスは、彼自身もう一つの価値の標準尺度を立て、そして物は、この標準尺度の多くまたは少くと交換されるに比例して、価値が多くまたは少いと言っている。時に彼は標準尺度として穀物を挙げ、また他の時には労働を挙げている。そしてここに労働というのは、ある物の生産に投ぜられた労働の分量ではなくて、市場においてそれが支配し得る労働の分量なのである。すなわちこれらは同一事の異る二つの表現であるかの如くに、そして、人の労働の能率が二倍になり、従って一貨物の二倍の分量を生産し得るの故をもって、必然的にそれと交換して以前の分量の二倍を受取るであろう、というように言っている。
 もしこれが実際真実であり、すなわちもし労働者の報酬が常に彼の生産した所に比例するならば、一貨物に投ぜられた労働の分量と、その貨物が購買する労働の分量とは等しく、そしてそのいずれも他の物の変動を正確に測るであろう、しかしこの両者は等しくない、前者は多くの事情の下において、他の物の変動を正確に示す不変の尺度であるが、後者はそれと比較される貨物と同じく多くの変動を被るものである。アダム・スミスは最も巧妙に、他の物の価値の変動を決定するためには、金や銀の如き可変的媒介物が不十分なことを、示した後に、彼自身穀物または労働に定めることによって、それらにも劣らず可変的な媒介物を選んだのである。
(八)金や銀は、疑いもなく、新しいかつより豊富な鉱山の発見によって変動を被る。しかし、かかる発見は稀であり、かつその結果は、有力ではあるが、比較的短い期間に限られている。それもまた、鉱山採掘の熟練及び機械の進歩からも変動を被るが、それはけだしかかる進歩の結果、同一労働でより多くの分量が得られるであろうからである。それはまた更にそれが長年の間世界に供給をなした後に、鉱山の生産額が減少しつつあるということからも変動を被る。しかしこれらの変動の諸原因中のいずれから穀物は免れているであろうか? 一方において、それは農業の進歩により、耕作に使用される機械器具の進歩により、並びに、他国において耕作せらるべく、かつ輸入の自由なすべての市場における穀物の価値に影響を及ぼすべき所の肥沃な新地の発見によって、変動しないであろうか? 他方において、それは輸入禁止により、人口と富との増加により、及び劣等地の耕作が必要とする労働量増加によっての供給増加の困難の増大によって、価値の騰貴を被らないであろうか?
(九)労働の価値も等しく可変的ではないか、啻に他のすべての物と同じく、社会の状態のあらゆる変化につれて必ず変動する所の、需要と供給との間の比例によって影響を受けるばかりでなく、更にまた労働の労賃がそれに費される所の、食物その他の必要品の価格の変動によって、影響を受けて?
 同一国において、ある時に、食物及び必要品の一定量を生産するために、他の離れた時に必要なそれの二倍の労働量が必要とされるかもしれない、しかも労働者の報酬は、おそらくほとんど減少しないであろう。もし以前の労働の労賃が食物及び必要品の一定量であるとすれば、彼はおそらくその分量が減少されたならば、生存し得なかったであろう。食物及び必要品はこの場合、その生産に必要な労働の分量によって評価するならば、一〇〇%騰貴しているはずであるが、しかるにこれらの物と交換される労働の分量によって測るならば、それはほとんど価値が増加していないはずである。
 同じことが二つ以上の国についても言い得よう。アメリカやポウランドにおいては、最後に耕作された土地において、一定数の人間の一年の労働は、英国において同じ事情の下に在る土地におけるよりも、遥かにより多くの穀物を生産するであろう。さて、すべての他の必要品が、それらの三国において同様に低廉であると想像するならば、労働者に報酬として与えられる穀物の分量は、各国において生産の難易に比例するであろうと結論するのは、大なる誤りではないであろうか?
 もし労働者の靴や衣服が、機械の進歩によって、今日その生産に必要な労働の四分の一で生産され得るに至るならば、それはおそらく七五%下落するであろう。しかし、労働者がそれによって、一着または一足の代りに永久に四着の上衣または四足の靴を消費し得るに至るであろう、ということは決して真実でないから、おそらく、彼の労働は近いうちに、競争の及び人口に対する刺戟の結果によって、その労賃の費される必要品の新価値に適合せしめられるであろう。もしかかる改良が労働者の消費するすべての物にまで及ぶならば、吾々は、それらの貨物の交換価値が、その製造においてかかる改良が行われなかったあらゆる他の貨物に比較して、極めて著しい低落を受けたにもかかわらず、またそれが極めて著しく減少した労働量の生産物であるにもかかわらず、おそらく数年ならずして労働者は、たとえ増加したとしてもわずかしか増加しなかった享楽品を所有しているに過ぎないことを、見出すであろう。
(一〇)しからばアダム・[#「・」は底本では欠落]スミスと共に、『労働は時により多くの、また時により少い財貨を、購買し得るであろうから、変化するのは財貨の価値であり、財貨を購買する所の労働の価値ではない、』(訳者註)したがって『それのみがそれ自身の価値において決して変化しないものである所の労働が、それによってすべての貨物の価値が、すべての時及び処において評価されかつ比較され得る所の、窮極のかつ真実の標準である。』(訳者註)と言うのは、正しくない、――しかし、アダム・スミスが前に言った如くに、『種々なる物を獲得するに必要な労働の分量の比例が、それらを相互に交換するための何らかの規則を与えることが出来る唯一の事情であるように思われる、』換言すれば、貨物の現在または過去の相対価値を決定するものは、労働が生産するであろう所の貨物の比較的分量であって、労働者にその労働と交換して与えられる貨物の比較的分量でないと言うのは、正しいのである。
(訳者註)『諸国民の富』キャナン版、同上、三五頁。
(一一)(編者註)もし現在及びあらゆる時においてそれを生産するために正確に同一の労働を必要とするある一貨物が見出され得るならば、その貨物は不変的価値を有つものであり、そして他の物の変動を測り得る標準として極めて有用であろう。かかる財貨については吾々は何ら知る所なく、従ってある価値標準を定めることは出来ない。しかしながら、吾々が貨物の相対価値の変動の諸原因を知り得るために、またそれらの原因が作用する如く思われる程度を算定し得るに至らんがために、価値標準の本質は何であるかを確かめるのは、正しい理論を得るために、極めて有用なことである。
(編者註)第一版及び第二版にあったこの章句は、第三版から除かれた。ここではそれを旧に復しておく。(一二)二つの貨物が相対価値において変動する、そして吾々は、そのいずれに変動が実際起ったのであるか、を知りたいと思う。もし吾々がその一方の現在の価値を、靴、靴下、帽子、鉄、砂糖、その他すべての貨物と比較するならば、吾々は、それがすべてのこれらの物の正確に以前と同一の分量と交換されるであろうことを見出す。もし吾々がその他方を同一の諸貨物と比較するならば、吾々は、それがこれらのすべての財貨に対する関係において変動しているのを見出す、かくて吾々は、たぶんの蓋然性をもって、変化はこの後の貨物にあったのであり、それと吾々が比較した諸貨物にあったのではないということを、推断し得るであろう。もしこれらの種々なる貨物の生産に関連せるすべての事情をより詳細に検討して、靴、靴下、帽子、鉄、砂糖等の生産は正確に同一量の労働及び資本が必要であるが、しかしその相対価値が変動した一個の貨物の生産には、以前と同一量の労働が必要ではないことを吾々が見出すならば、蓋然性は確実性に変じ、そして吾々は変動はこの一個の貨物にあることを確知し、かくてその変化の原因をもまた発見するのである。
 もし私が、一オンスの金が、上掲のすべての貨物及びその他の多くの貨物のより少い分量と交換されることを見出し、更にもし私が、新しいより肥沃な鉱山の発見により、または機械の極めて有利な使用によって、一定量の金がより少い労働量によって獲得され得ることを、見出すならば、他の貨物に比較して金の価値の変動の原因は、その生産がより便利となったこと、すなわちそれを獲得するに必要な労働の分量の減少である、と正当に言い得るはずである。同様に、もし労働があらゆる他の物に比較して価値において大いに下落し、そしてもしその下落が、労働者の穀物及びその他の必要品の生産が大いに便利になったことによって助勢された豊富な供給の結果であることを見出すならば、思うに私が、穀物及び必要品はその生産に必要な労働の分量が減少した結果価値において下落したのであり、かつかくの如く労働者を養うための資料の供給が容易になったことが、続いて労働の価値における下落を伴ったのであると言うのは、私としては正確であろう。否、とアダム・スミスやマルサス氏は言う、金の場合にはその変動をその価値の下落と呼ぶのは正当であったろう、けだしこの際穀物及び労働は変動しなかったからである。そして金は、これらのもの並びにすべての他の物の以前よりもより少い分量を支配するであろうから、すべての物は静止しており、金のみが変動したというのも正しかった。しかし吾々が価値の標準尺度たるものとして選んだ所の穀物及び労働が下落した時は、それらが蒙ることを吾々が認める所のすべての変動にもかかわらず、かくの如く言うのは極めて不当である。正しい言葉としては、穀物及び労働は静止しており、そして他のすべてのものは価値において騰貴したと、言うべきであろう、と。
 さて、私が抗議するのはこの言葉に対してである。金の場合におけるが如く、穀物と他の物との間の変動の原因は、正しく、穀物を生産するに必要な労働の分量の減少であることを、私は発見する、従ってあらゆる正当な推理によって、私は、穀物及び労働の変動をもってそれらの価値における下落と呼び、そしてそれらが比較される物の価値における騰貴ではないと言わざるを得ない。もし私が一週間の間、一人の労働者を雇わねばならず、そして私が彼に十シリングではなく八シリング支払うとしても、貨幣の価値に何らの変動も起らなければ、この労働はおそらくその八シリングをもって彼が前に十シリングで得たよりもより多くの食物及び必要品を獲得し得よう。しかしこれは、アダム・スミスによって述べられ、更に近くはマルサス氏によって述べられた如く、彼れの労賃の真実価値における騰貴によるものではなく、彼れの労賃が費される物の価値における下落によるのであり、この二つは全く異なるのである。しかもなお私がこれをもって労賃の真実価値の下落と呼ぶのに対し、経済学の真実の原理と相容れない所の新しいかつ異常の言葉を用いるものといわれている。私にとっては異常なそして実に矛盾した言葉とは、私の反対論者によって使用されているものこそそれであるように思われる。
 穀物が一クヲタア八〇シリングの時、一労働者が一週間の仕事に対し穀物一ブッシェルの支払を受け、かつ価格が四〇シリングに下落した時、彼が一ブッシェル四分の一の支払を受けるとせよ。更に、彼は、彼自身の家庭内において一週間に半ブッシェルの穀物を消費し、その残りを、燃料、石鹸、蝋燭、茶、砂糖、塩、等々のごとき他の物と交換するとせよ。もし後の場合に彼れの手許に残るべき四分の三ブッシェルが、前の場合に半ブッシェルが彼に齎したと同じだけの上記の貨物を齎し得なければ、――それは実際齎さないであろうが――労働は価値において騰貴したのであろうか、または下落したのであろうか? 騰貴した、とアダム・スミスは言わなければならぬ、けだし彼れの標準は穀物であり、そして労働は一週間の労働に対してより多くの穀物を受取るからである。下落した、とこの同じアダム・スミスは言わなければならぬ、『けだし一物の価値は、その物の所有が齎す所の、他の財貨を購買する力に依存し、』そして労働はかかる他の財貨を購買するよりわずかな力しか有っていないからである。

第二節 異る質の労働は異った報酬を受ける。このことは貨物の相対価値における変動の原因ではない。
(一三)しかしながら労働をもってすべての価値の基礎であると論じ、かつ労働の相対的分量をもってほとんど全く貨物の相対価値を決定するものであると論ずるに当って、私は、労働の異る質を、また一つの事業における一時間または一日の労働を他の事業における同時間の労働と比較する困難を、考慮に入れぬものと考えられてはならない。異る質の労働の評価は、すべての実際的目的のためには十分正確に、市場において速かに調整され、そして労働者の比較的熟練、及びなされたる労働の強度に依存するものである。この準尺は、一度形成されれば、ほとんど変化を蒙らない。もし宝石工の一日の労働が、普通労働者の一日の労働よりも価値がより大であるならば、それは久しい以前から調整されているのであり、価値の準尺における適当の位置に置かれているのである(註)。
(註)『しかし、労働がすべての貨物の交換価値の真実の尺度であるとはいえ、それらの貨物の価値が普通これによって測られるのではない。二つの異る労働量の間の比例を確めることはしばしば困難である。二つの異る種類の仕事に費された時間は、単独では、常にこの比例を決定するものとはきまらないであろう。忍ばれた困難や発揮された才能の異れる諸程度が、同様に斟酌されなければならない。二時間の容易な仕事によりも、一時間の困難な仕事に、より多くの労働があるかもしれない。あるいは通常の誰も知っている事業における一月の勤労に従事するよりも、それを習得するに十年の労働を要する職業に一時間従事する方に、より多くの労働があるかもしれない。しかし、困難にしろ才能にしろ、それの正確な尺度を見出すことは容易ではない。実際異る種類の労働の異る生産物を相互に交換する際には、ある酌量が普通両者に対してなされている。しかしながらそれは正確な尺度によって調整されているのではなくて、正確ではないが、日常生活の仕事を行うに十分であるという種類の、大ざっぱな平等に従って、市場の駈引によって調節されているのである。』――『諸国民の富』第一篇、第十章(これは誤りである。正しくは第五章である。――訳者註) 従って、異る時期に同一の貨物の価値を比較する際には、その特定貨物の生産に要した労働の比較的熟練及び強度についての考慮は、ほとんど必要がない、けだし労働は両方の時期において同様に作用しているからである。ある時におけるある種類の労働が、他の時における同じ種類の労働に比較されているのである。もし十分の一、五分の一、または四分の一が附加されまたは減少されたならば、この原因に比例せる結果がその貨物の相対価値の上に生み出されるであろう。
 もし今毛織布一片がリンネル二片の価値に等しく、そしてもし十年後に毛織布一片の通常の価値がリンネル四片に等しくなるとするならば、吾々は毛織布を作るにより多くの労働が必要であるか、またはリンネルを作るに労働がより少くて足るか、または両方の原因が作用した、のいずれかである、と安全に結論し得るであろう。
 私が読者の注意をひこうと欲する研究は、貨物の相対価値における変動の結果に関するものであって、その絶対価値におけるそれに関するものではないから、種々なる種類の人間労働の評価されるその比較的程度を検討することはさして重要ではないであろう。吾々は、種々なる種類の労働の間に本来いかなる不平等があろうと、またある種の手先の技術を習得するに必要な才能、熟練、または時間が、他の種のもの以上にどれだけであろうと、それは一時代より次の時代に引続きほとんど同様であるか、または少くともその変動は、年々に亙って、極めて小なるものであり、従って短期間内では、貨物の相対価値に対しほとんど影響を及ぼし得ないものであると、正当に結論し得るであろう。『労働及び資本の種々なる用途における労賃及び利潤の両者の種々なる率の比例は、既に述べた如くに、社会の貧富、社会の進歩的、停止的、または退歩的状態によって、多くの影響を蒙るものではないように思われる。公共の福祉のかかる変革は、労賃及び利潤の両者の一般率には影響を及ぼすけれども、結局はすべての異れる職業において両者の率に一様に影響しなければならない。従ってそれらの間の比例は引続き同一でなければならず、そして少くともあるかなりの長期間に亙ってかかる変革によってよく変更され得ないものである。』(註)
 
(註)『諸国民の富』第一篇、第十章(キャナン版、一四四頁――訳者註)

第三節 啻に貨物に直接に加えられた労働がその価値に影響を及ぼすばかりでなく、かかる労働を補助する所の、器具、道具、及び建物に投ぜられた労働もまた、そうである。
(一四)アダム・スミスが述べている初期の状態においてすら、狩猟者をしてその鳥獣を殺すことを得しめるためには、おそらく彼自身によって作られかつ蓄積されたものであろうとはいえ、ある資本が必要であろう。ある武器がなければ、海狸も鹿も殺され得なかったであろう、従ってこれらの動物の価値は、それを殺すに必要な時間と労働とだけによってではなく、狩猟者の資本、すなわちその助力によってそれを殺す所の武器を、作るに必要な時間と労働とによってもまた、左右されるであろう。
 海狸を殺すに必要な武器は、それに近づくことが鹿に近づくよりもより困難であり、従って標準がより正確であることが必要であるために、鹿を殺すに必要な武器よりも遥かにより多くの労働をもって作られたと仮定せよ。一匹の海狸は当然に二頭の鹿よりも価値がより多いであろう。そしてそれはまさに全体としてより以上の労働がそれを殺すために必要であるという理由の故である。または両方の武器を作るに同一の分量の労働が必要であるが、しかし両者は非常に耐久力が異ると仮定せよ。耐久的な器具からはその価値のわずか一小部分が貨物に移転されるであろうが、より耐久的ならざる器具からは、それがその生産に寄与する所の貨物に、その価値の遥かにより大なる一部分が実現されるであろう。
 海狸及び鹿を殺すに必要なすべての器具は一階級の人々に属し、そしてそれを殺すために用いられる労働は他の階級によって提供されることもあろう。しかも両者の比較価格は、資本の形成と動物の捕殺との両者に投ぜられた現実の労働に比例するであろう。資本が労働に比して豊富でありまたは稀少であるという、事情の異る場合においては、人間の生活に欠くべからざる食物及び必要品が豊富でありまたは稀少であるという事情の異れる場合においては、同一の価値の資本を一つのまたは他の事業に提供した者は、取得された生産物の半分、四分の一、または八分の一を得、残りは労賃として労働を提供した者に支払われるであろう、しかしこの分割は、これらの貨物の相対価値には少しも影響を及ぼし得ないであろうが、それはけだし資本の利潤が多かろうと少かろうと、それが五〇%であろうと、二〇%であろうと、一〇%であろうと、または労働の労賃が高かろうと低かろうと、これらは両方の事業に一様に作用するであろうからである。
(一五)もし吾々が、社会の職業の範囲が拡張し、ある者は漁撈に必要な独木舟及び船具を作り、また他の者は種子及び始めて農業に用いられる粗末な機械を作ると仮定しても、しかもなお生産された貨物の交換価値は、その生産に――啻にその直接の生産にばかりではなく、更に器具または機械がそれに用いられる特定労働を有効ならしめるに必要なすべての器具または機械の生産に――投ぜられた労働に比例するであろう、という同一の原理は依然真実であろう。
 たとえ吾々が、より以上の進歩がなされ、かつ技術と商業の繁栄せる社会状態を見ても、吾々はなお、貨物がこの原理に従って価値において変動するのを見出すであろう。すなわち例えば、靴下の交換価値を測るに当って、吾々は、他の物と比較してのその価値が、それを製造しかつそれを市場に齎すに必要な全労働量に依存することを見出すであろう。第一に、原棉が栽培される土地の耕作に必要な労働がある。第二に、靴下が製造されるべき国に綿を運搬する労働があるが、それは綿を運搬する船舶の建造に投ぜられた労働の一部分を含み、そしてそれはこの財の運賃に算入されている。第三に、紡績工及び機械工の労働がある。第四に、その生産を助ける建物及び機械を作った所の機械工、鍛冶屋、及び大工の労働の一部分がある。第五に、小売商人その他これ以上特記する必要のない多くの者の労働がある。これら種々なる種類の労働の総額が、これらの靴下と交換せらるべき他の物の分量を決定するのである。他方投ぜられた種々なる分量の労働に関する同一の考察が、同様に、靴下に対し与えらるべきそれらのものの分量を支配するであろう。
 これが交換価値の真の基礎であることを確信するために、製造された靴下が他の物と交換されるために市場に来るまでに、原棉が通過しなければならぬ種々なる行程のいずれか一つにおいて、労働を節約する手段中においてある改良がなされたと仮定し、そしてそれに随伴する諸結果を観察しよう。もし原棉を栽培するに必要な人間が減少するか、または航海に従事する船員、または原棉をわが国に運搬する船舶を建造する造船工が減少するならば、またもし建物及び機械を作るに人手が減少するか、またはそれが作られた時に能率を増加せしめられたならば、靴下は必然的に価値において下落し、従ってより少量の他の物を支配するであろう。それが下落するのは、けだしより少量の労働がその生産に必要であり、従ってかかる労働の節約のなされなかった物のより少い分量と交換されるからである。
 労働の使用を節約すれば、その節約が貨物そのものの製造に必要な労働で行われようと、またはその生産を援助する資本の形成に必要な労働で行われようと、必ず貨物の相対価値は下落する。いずれの場合においても靴下の製造に直接必要な人々たる漂白工、紡績工及び機械工として用いられる者が減少したにしろ、またはより間接に関係している人々たる船員、運搬夫、機械工、及び鍛冶工として用いられるものが減少したにしろ、靴下の価格は下落するであろう。一方の場合には一部分のみに靴下が帰属し、残りはその生産のために建物、機械、及び車輛が役立つ所の、すべての他の貨物に帰するであろう。
 社会の初期の段階において、狩猟者の弓及び矢と漁夫の独木舟及び器具は共に同一の分量の労働の生産物であって、等しい価値を有ち等しい耐久力を有つものと仮定せよ。かかる事情の下においては、狩猟者の一日の労働の生産物たる鹿の価値は、漁夫の一日の労働の生産物たる魚の価値と、正確に等しいであろう。魚と獣との比較価値は、生産物の量がどれだけであろうと、または一般的労賃または利潤が高かろうと低かろうと、全然その各々に実現された労働の分量によって左右されるのである。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:639 KB

担当:undef