沢氏の二人娘
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著者名:岸田国士 

沢 一寿
  悦子  その長女
  愛子  その次女
奥井らく  家政婦
  桃枝  その子
神谷則武  輸入商
田所理吉  船員、悦子等の亡兄の友人

東京――昭和年代
[#改ページ]

     一

某カトリツク療養院の事務長、元副領事、沢一寿(五十五歳)の住居。郊外の安手な木造洋館で、舞台は白ペンキ塗のバルコニイを前にした、八畳の応接間兼食堂。
古ぼけた、しかし落つきのある家具。壁には風景画と、皿と、それらの中に、不調和にも一枚の女の写真が額にしてかけてある。三十五六の淋しい目立たない顔である。丸髷に結つてゐる。飾棚には、細々した洋風の置物。記念品らしい白大理石の置時計。バルコニイの手摺に色の褪せた副領事の礼服が干してある。
十月の午後。
家政婦奥井らく(三十八歳)が、卓子の上で通帳を調べてゐる。

らく  (通帳から眼を離さずに)桃枝、桃枝……桃ちやん……。(返事がないので、起ち上つて扉の方へ行く。出会ひがしらに水兵服の少女が現はれる)さつきから呼んでるのに……何処へ行つてたの? ご不浄?桃枝  (首をふりながら、なんとなくもぢもぢしてゐる)らく  (嶮しく)二階へ上つたね。なぜ、黙つてそんなことをしますか? ここはお前の家ぢやないんだよ。桃枝  …………。らく  (なだめるやうに)今これがすんだら、お茶でもいれるから、あつちのお部屋で雑誌でも読んでらつしやい。桃枝  ひとりぢやつまんないわ。もうそんなもんのぞかないから、母さんあつちへ来てよ。らく  駄目、駄目、うるさくつて……。桃枝  だつてあたし御手伝ひするつもりだつたのよ。(間)母さん月給いくら貰つてんの、あててみませうか?らく  当てなくたつてようござんす。桃枝  あたし学校を出たら、その月から三十円稼いでみせるわ。らく  どうぞ御自由に……。桃枝  さうさう、伯父さんてばね、あたしみたいな娘、女学校へ通はせとくのは勿体ないんですつて……。らく  ほんとだよ。桃枝  少女歌劇へ出たら、さぞ人気が出るだらうつて云ふの。らく  馬鹿だ、あの伯父さんは……。さ、そいぢや、これは後のことにして……。お前、ちよつと火鉢のお火をみといておくれ。(干してある礼服の埃を払ひ、それを持つて奥にはいる)
桃枝も、一旦奥へはいるが、再び現はれて卓子の上の通帳をめくつてみる。眼を見張つたり、口を尖らしたり、笑ひを噛み殺したりする。やがて廊下に跫音。急いで、素知らぬ風を装ひ、バルコニイの方へ歩を運ぶ。
らくがコサツク帽を手にもつてはいつて来る。

桃枝  なあに、それ?らく  トランクの底から出て来たの。桃枝  これで帽子だわ。らく  惜しいことに、こんなに虫がついて……。桃枝  (独語のやうに)なんだか変ね、この家(うち)……。こんな帽子かぶる旦那さんがゐてさ、十年も前に死んだ奥さんの写真が、あんなところに飾つてあつてさ……。らく  (帽子をバルコニイの手摺にのせながら)それがどうして変だい。お前こそ、子供らしくないよ、余計な事にこせこせ気がついて……肝腎の勉強はお留守でせう。(間)今日はもう遅いから、お茶はこの次のことにして、その代り、ぽつちりだけど、お小遣をあげよう。(帯の間から蟇口を出し、五十銭銀貨を一つ渡す)桃枝  いいの、貰つて?らく  遠慮する柄かね。でも、一人で活動なんかへはいるならあげませんよ。桃枝  ふふ……ぢや、あたし……。らく  あ、ちよつとお待ち……ことによつたら、今日は、お嬢さんたちお帰りがおそいかも知れないから、お前あたしと一緒にごはんたべてかない?桃枝  ええ、ご馳走があれば……なんて……。
その時、扉の入口へ、沢一寿の姿が現はれる。

一寿  ほう、来とるな。らく  おお、びつくりした。何時お帰りでしたの? 玄関は開きましたんですか。(娘を追ひ出すやうにする)一寿  もうぢき、お客さんがみえるから、何時かの葡萄酒を出してな。それから、飯はどうなるかわからんが、ともかくスキ焼ぐらゐできるやうに支度をしといてくれ。なに、仰々しいことはいらん。うちうちの客だ。今日は突然、電話で病院の方へやつて来るつていふから、そんなら、家(うち)へ寄れつて云つてやつたんだ。こつちからはよく訪ねるくせに、向ふからついぞ来たことのない男さ。おや、あの娘(こ)は何処へ行つた? もう帰したのか? 何ぞもたしてやるんだつたのに……。おい、上から部屋着をもつて来いよ。ああ、疲れた。トレ・フアチゲだ。(巻煙草に火をつける)
やがて、らくが派手なガウンを持つて来る。一寿は、ワイシヤツの上にそれを着て、右手をらくの肩にかけ、頬に軽く接吻をするが、女は無表情のままそれを受けたきりで、そつとからだを引く。

らく  (相手の耳が遠いのに慣れてゐるらしく)お茶は苦い方にいたしませうか?一寿  ああ、うんと濃く出して……。それから、外套のカクシに夕刊がある。らく  只今……。
らくの後姿を見送りながら、煙草の煙を長く吐き出して、民謡風の曲を低く口吟む。らくの持つて来た夕刊を受け取り、読みはじめる。茶が来る。音を立てて啜る。日が落ちかける。表に自動車の止る音。

一寿  やつて来たな。(間もなく呼鈴が鳴る)よし、よし、おれが出る。いや、お前出ろ。丁寧にな。
らくが玄関に出る。その間、一寿はまた夕刊を取上げる。落ちつくためである。そこへ、らくが名刺を持つてくる。

一寿  (さも今思ひ出したやうに)おお、さうか。さあ、さあ、こつちへお通しして……。(扉のところまで出迎へながら)いよう、これはこれは……。すぐわかつたかね。
客は、これも元外務省書記生で、今日は輸入商として相当産をなしたと伝へられる神谷則武(五十二歳)である。

神谷  わかるにはわかつたが、訪問には悪い時刻になつたな。いや、実は、今夜ね、ある男に会ふことになつてるんだが、その前に、是非ちよつと君に話しときたいことがあつてね。一寿  まあ、ゆつくりしてつてくれ。なんにもないが、晩飯にスキ焼でもつツつかう。久し振りで、巴里時代を演じようぢやないか。白葡萄酒(ヴアン・ブラン)も、口を開けないのがある。神谷  まあ、待つてくれ。今日はさういふわけにいかん。今云つた通り、約束があるんだ。一寿  え?神谷  約束があるつて云つてるんだよ、人に会ふ……。一寿  いいさ、いいさ、約束なんか取消したまへ……。君の細君はうまい日本語でさう云つたことがあるぜ――「日本人の時間、どうにでもなります」つて……。神谷  (あたりを見廻して)やあ、いろんなものを、ちやんと持つてるね、君は……。見覚えのあるものばかりだ。あの皿は、ストツクホルムで一緒に買つたもんだ。ね、さうだらう……。あの会議に行つた連中ぢや、残つてるのは笠原だけさ。こないだ土耳古から帰つて来た。たうとう参事官まで漕ぎつけやがつた。どうだい、病院の方は……? 多少慣れたかね。パスポートに判を捺すのとはどつちが楽だ?一寿  一日中薬の臭ひを嗅いでるつていふのは、面白いもんだよ。外へ出るとなんだか、鼻を忘れて来たやうでね。まあ、大きなことは云へないが、これでも、事務長さんで、年が物を云ふから有難いよ。副領事になると、とたんに、首が飛んだなんてこたあ、誰も知りやしない。海外放浪二十年、多少は法螺も吹けるしね。若い医者を煙に捲くぐらゐなんでもないさ。(紅茶を運んで来たらくに)そんなものより、葡萄酒の方がいい。平民的に行かう。忘れたかい、クレベエルのカフエーでさ、月給前になると、――エ・ギヤルソン、ドウウ・ブランなんて呶鳴つたもんだ。神谷  競馬で摺つた後なんかもね。さう云へば、この奥さんだな、(壁の写真を見ながら)苦労をさせたのは。留守宅俸給を逆為替で捲き上げたりなんかしてさ。一寿  (葡萄酒の栓を抜きながら)いや、ほんとの苦労は、それから先だ。マドリツドで首を切られた後、十年間義務不履行といふ時代があつたんだ。女房は、しかし、泣きごとを云つて寄越さなかつた。吾輩は、アルヂエリヤへ渡つて、一と旗挙げるつもりでゐたところが、ほら、欧洲大戦だ。まあ、一ついかう。目論見は外れる、かへる旅費はなしさ。ええい、糞ツていふわけで……。神谷  義勇兵だらう。その話は聞いた。一寿  さあ。(杯を挙げる)神谷  (これに応じて)レジオン・ドヌウルの健康を祝す。一寿  千九百二十四年の夏だ……女房危篤の知らせで……。神谷  実は、話といふのは、ほかでもないがね……。(時計を見る)一寿  え?神谷  お嬢さん方はまだお勤めか……。何時頃だい、退けるのは?一寿  上の奴は、今日は夜学へ出る筈だ。下の奴はもうぢきに帰つて来る。神谷  夜学にまで引つ張り出されるのか?一寿  自分で志願したんださうだから、世話はないさ。なんでも、その方は無給でやつてるらしい。
間。

神谷  君も長男を亡くしたとなると悦子嬢には養子だね。一寿  オー・ノン・メルシイ。神谷  さうか、我党の士だな。うん、時にその話だがね、愛子さんの方を先に片づけるつていふのはまづいかなあ?一寿  ああ、愛子つて云へば、あの節はいろいろどうも……。当人も非常に感謝してるよ。近頃の娘は働くことを自慢にしとるやうだ。レコード会社とは、それにしても陽気でいい。どんなもんだらう。うまく勤まつてるかな。神谷  大丈夫さ。社長の木崎が馬鹿に力瘤を入れてるから。なかなかシヤキシヤキしてるつていふ話だ。吾輩も、まあこの分ならと思ふんだが、しかし、つらつら将来のことを考へて見ると、そこにまたいろいろな不安がないでもない。女はやつぱり女さ。そこでひとつ、世話のしついでだから、そのシヤキシヤキのお嬢さんを、今のうちに、手早く、玉の輿へ乗つけちまはうといふ相談だが、聴いてくれるかね?一寿  玉の輿……? おい、おい、これでも氏は正しいんだぞ。神谷  パルドン。相手は、国こそ違ふが子爵閣下だ。名刺を見せるが、ちやんと、左肩に五つの星の王冠が刷り込んである。おまけに、財産の点では、メエゾン・ペルシエの副支配人と云つただけで、相当の代物だつてことがわかるだらう。一寿  何処の副支配人?神谷  ペルシエさ。知らんか。横浜に支店のある……。一寿  毛唐かね。神谷  野暮なことを云ふな。レジオン・ドヌウル!一寿  いちいちレジオン・ドヌウルを云ふなよ。娘を何処で見たんだね。神谷  ダンスホールかと思つたら、さうぢやない。実は奴さん、日本の流行歌を歌ふんでね。それがなかなか愛嬌があつて面白いもんだから、国華レコードに勧めてみたんだ。先例もないことはないが、味もまるで違ふし、社長、喜んでね。吾輩が連れてつて、社で吹き込ませたもんさ。その時、接待係といふのか、君んとこの令嬢が、さあ、用意が出来ましたから、どうかこちらへといふやうなわけでね、よろしくシヤルマントなところを見せてしまつたんだな。それからといふもの、うるさく社へ顔を出すさうだよ。忘れないうちに云つとくが、その青年、年は三十七、日本流に数へても、八だ。名前は、ルネ・ド・ボオシヨア、文字通りのブルジヨア・ジヤンチヨンムで、さつき云ひかけたが、モロツコにどえらい地面と、革の工場をもつてるさうだ。一寿  なんの?神谷  革さ、牛や羊の皮……。一寿  玉の輿かと思つたら、それぢや革の輿か。なるほど、別段腹も立たんね。しかしだ。かう見えて、吾輩も、やつぱり日本人の端くれだな。娘を毛唐の腕に抱かせるのかと思ふと、なんとなく後暗い。当人同士、事を運んだといふなら別だが、君もそこを察してくれ。これで妙なもんだ。娘たちの意志に逆らふまいとすればするほど、父親の見栄といふやうなものが、事毎に自分を臆病にする。一切干渉はせんといふ主義だが、さうなると、もう、してやりたいことも、おつかなびつくり伺ひを立ててからといふ始末だ。知つての通り、母親もなく……。神谷  さう、まあ、悄げるなよ。一寿  悄げるわけぢやないが、勇気はまるでない。娘たちと一緒に暮すことさへ、気兼ねだ。そこで、此間も、――どうだ、お前たちは、もつと自由な空気を吸へ、アパート生活でもしてみる気はないか、さう云つてやると、二人とも顔を見合して、結局、不賛成さ。どういふわけかと思つたら、自分たちが稼ぐ分だけは、今迄どほり勝手に使ひたいと云ふんだ。吾輩程度の分際では、生活費をまるまる補助するといふことは、こりや無理にきまつてる。が、そこだて。吾輩の恩給の七十円なにがしといふもんを、月々そつちへ廻さうかと云つてみた。すると、今度は、どういふ返事をしたと思ふね。神谷  むろん、異議あるまい。一寿  異議はない。ただし、どうせ呉れるんなら、このままかうしてゐて、それだけお小遣に貰つた方がいいといふわけさ。神谷  なんだつて、さう小遣がいるんだ。一寿  上の奴には、妙な道楽があるらしい。神谷  道楽とは?一寿  慈善さ。寄附行為さ。神谷  ほほう、珍しいね。一寿  いゝかね、そこでだよ、その七十円なにがしのお小遣も、たうとう有耶無耶で出すことになつた。ところで、吾輩がそいつを渋々出してると思ふかね。とんだ間違ひだ。オー・コントレエル。吾輩は、何時もびくびくもんで――そのうちに突つ返されやしまいかと思ひながら――それこそ、顔も見ないやうにして放り出すんだ……。神谷  先生たちは、君の暮し向きについて、別に知らうともせんのだな。一寿  実は、近頃少々、手元を見透かされ気味でね。なかなか、うつかりできん。――お父さんは痩我慢を張つてるなんて、二人が蔭で笑つてやすまいかと思つてね。神谷  笑つてるね、たしかに。吾輩も可笑しくつてたまらんよ。一寿  ぢや、そのつもりで一杯あけてくれ。(葡萄酒を注がうとする)神谷  もう沢山。君の話を聞いてゐると、世の中に子供をもつぐらゐ不幸はないといふことになる。一寿  従つて、君ぐらゐ仕合せな男はないといふことになる。細君は、相変らず、君を叱るかね。神谷  あんな婆は問題ぢやない。有つて無きが如しさ。一寿  ほんとに無ければなほよろしいか。神谷  (玄関の方を振り返り)誰か来たやうだね。ぼつぼつ失敬しよう。一寿  なに、娘だらう。丁度いいから、少しからかつてやつてくれ。だが、今の話は内証だぜ。
らくが現はれる。

らく  お二人とも御一緒にお帰りになりました。(更に声を高くして)あのお嬢様……。一寿  わかつとる。神谷さんがいらしつてるからつて、さう云ひなさい。
悦子愛子の姉妹がはいつて来る。姉は和服、妹は洋装である。一見地味な扮りをした姉は、何処となく朗らかで、妹はパツとした服装のわりに、冷たく取澄してゐる。

一寿  どうした、早いぢやないか、今日は……?悦子  虫が知らせたのよ、ねえ、愛ちやん……。愛子  (神谷に)先達ては……。神谷  やあ、かうして、お二人を並べて見るのは随分久し振りだな……。一寿  初郎の葬式の時、寺へ来てくれた、あの時が最後かね。神谷  この春ね。さうだ。悦子さんも愛子さんもなかなか評判がいいですよ。愛子  あら、どちらで……?神谷  到るところで……。さうさう、ボオシヨア君は近頃も社へやつて来ますか?愛子  ああ、あの西洋の方……。ええ、あの方ならちよいちよい……。神谷  いい青年でせう。わりに上品な……。フランスの貴族ですよ。愛子  御自分で、それを吹聴してらつしやいますわ。神谷  吹聴するかなあ。困るんだ、実に、フランス人つてやつは……。一寿  (得意げに)争はれんもんだ。(悦子に)今日は夜学はないのか?悦子  代つて貰つたのよ。だつて、この人つたら、どうしても今夜映画見に行くつてきかないんですもの……。神谷  この次は、わたしがお伴しよう。悦子  でも今日は、ごゆつくりなすつていただけるんでせう。一寿  こいつの学校つていふのがね、貧民の子弟が大分来るらしいんだ。もうちつといい学校へ替へて貰へつて云つてるんだけど……。悦子  いい学校ぢや、こつちが勤まりませんわ。神谷  気のせゐかも知れんが、かうしてみると、悦子さんは少し疲れておいでのやうだな。子供の相手の仕事は、賑やかなやうで、実は、地味なことこの上なしですね。わたしも中学を出て二年ばかり田舎の小学校へ勤めたことがあります。一寿  どうだね、姉の方は、君の眼鏡で、適当な候補者はないかね。悦子  お父さんは何時でもあれね。さういふお話、ここでなさらないでもいいわ。神谷  ははあ、聞えないや。一寿  ところで、君、ほんとに急ぐのか? 今用意をさせてるんだがね。愛子  あたしたち、どうしようか知ら……。一寿  お前たちは引止めないよ。神谷  いや、いや。吾輩は、そんなことはしてゐられない。もう約束の時間だ。悦子さん……、この次は是非、愛子さんと一緒に、何処かへ御案内しませう。日曜ならよろしいな。愛子  (神谷に)あの、呼出しですけれどお電話いただけば……。(さう云ひながら、自分のハンドバツクから名刺を出して、神谷に渡す)一寿  へえ、そんな名刺こさへたのか。神谷  可笑しな話だけどね。うちのマダムは、此の頃になつて、女名前の手紙をいちいち見分けるのには閉口しとる。一寿  君のところへ、そんなものが来るかね。神谷  お嬢さんたちの前で云ふことだ。良心に誓つて、猥らなもんぢやない。あんたみたいな娘が一人欲しいなんて云ふとつたよ、うちの婆さん……。
丁度そこへ、らくが、一過の手紙を持つて来る。

らく  速達が参りました。一寿  速達……?(受取つて)Tiens(チヤン)! 誰だらう……。はてな、田所理吉……(娘たちは顔を見合はし、意味ありげに眼くばせをする)神谷  ぢや、吾輩はこの辺で引上げよう。まあ、お嬢さん方、ごゆつくり……。一寿  さうかね。スキ焼はまた今度か。神谷  さうしよう。ボンソアル・モン・ヴイユウ!(手を差出す)一寿  メ・コンプリマン・ア・マダム。
一同、神谷を送つて、玄関に出る。
やがて、悦子と愛子とがはいつて来る。

悦子  タイプが共通ね。愛子  でも、流石にどつか違ふわ、憎々しいところがあるわ。悦子  さうか知ら……。おやぢより、もつとおつちよこちよいに見えるけど……?愛子  さうよ、いいつもりでゐるところがね。一寿  (はいつて来て)面白い男は面白い男だが、少し調子に乗りすぎとる。ああいふ男が成功するんだから世の中は広いもんだ。世間は広いやうで狭いといふが、その実、狭いやうでゐてやはり、広い……。愛子  パパ。……一寿  わかつとる。今、渡すから、ちよつと待つてくれ。この速達が、どうも気になる。田所理吉といふ男は、金輪際、わしの記憶にない。(手紙を開封する)悦子  あら、覚えてらつしやらない?愛子  去年の夏、兄さんが連れて来たお友達よ。一寿  (しばらく黙読してゐるが)ふむ、なるほど、さう書いてある。初郎と一緒の船に乗つてゐたとある。……「御臨終の模様など、詳しくお耳に入れたく、枕頭にあつて、及ばずながら最後まで御世話申上げた同僚の一人として、夙にかくすべき義務を感じてゐた次第であります。なほ初郎君亡き後ではありますが、小生一身上の問題につき、御親父たる貴下の御配慮を煩はしたき儀もあり……≪なんぢや、これは……≫、此度、休暇上陸の機を得ましたのを幸ひ、至急御面接お許し下さるやう願ひあげます。突然参上いたすも如何かと存じますので、予め御都合御漏し下されば幸甚に存じます。住所は表記の処でございますが、念のため電話番号を記しておきます。下谷一七九三。」
長い沈黙。

愛子  なんだか変ね。(悦子の方をみる)悦子  (小声で)知つてるわよ。一寿  小生一身上の問題か……。御親父たる貴下の御配慮とは、どういふ筋合のもんかな。悦子  兄さんの代りにお父さんに心配していただかうつていふのよ。一寿  それはわかつとるが、何を心配しろといふんだ。愛子  そんな話聞かない方がいいわ。他人のことまで心配してたらきりがなくつてよ。一寿  去年の夏と……あのうちの一人だな。顔なんかろくに覚えとらんが……。お前たち一緒に何処かへ出掛けたぢやないか。悦子  ほら、奥多摩へピクニツクよ。愛子  …………。悦子  みんな黒かつたわね。だけど……。一寿  とにかく、会はんわけに行くまい。お前たちも一緒にどうだ。悦子  兄さんのことで詳しいお話を聞けるには聞けるけど……。さあ……(愛子の顔を見る)愛子  あたしはどうでも……。その手紙の調子だと、会つても面白くなささうだわ。悦子  なんだか固苦しい文章ね。尤も兄さんは「奉り候」よ。候文の方が短くつてすむんですつて……。愛子  さ、この方はパパにお委せして、あたしたち、そろそろ出掛けませうよ。悦子  ちよつと待つて……。兄さんのことからいろんなこと思ひ出したわ。ああ、なんだか不思議よ。こんなぼうつとした気特にまだなれるのか知ら……。愛子  いつまでもお若くつて結構ね。悦子  朝は早いし、夜はねむいし、眼の前には用事ばつかり溜つてるし……。愛子  遊ぶだけでも忙しいし……。悦子  さうよ。頭が、前へも後へも働かないつていふ感じね。それが、今晩は……ほんとに久し振りだわ……。嗤はれてもいいから、あたし、少し、しんみりしようつと……。愛子  これからすんの? よしてよ、後生だから……。悦子  (父のそばへ行き)ねえ、お父さん、同胞(きやうだい)や親子の間に、何か秘密があるつてことは不幸ぢやない? 秘密つていふと大袈裟だけど、自分だけで苦しまなけりやならないことがあつたら……。一寿  (眼をつぶつてゐる)どうしてそんなことを云ひ出したんだ。悦子  どうしてつてことないけど、兄さんのことを、ふつと考へて、親同胞つてもつと近いもんぢやないかつて気がしだしたの。みんなてんでんばらばらでゐすぎたわ。お互に、知らないことが多すぎるわ。うちぢや誰も相談つてことをちつともしないのね。どうして、かうなんでせう。愛子  お互が一番頼りにならないからよ。世の中の面倒な問題、何が解決してくれると思つて? 一に勇気、二にお金、三に時間よ。名誉心や、同情がなんになるもんですか。悦子  だからよ。その、勇気もお金も時間もない時の話よ。愛子  汽車に乗るんぢやないから、時間はたつぷりあるでせう。悦子  死ぬまで待てばね。一寿  はてな、初郎の写真は、何処へしまひ込んだつけな……。悦子  愛ちやん、議論なんか何時だつて出来るから、今日は、三人で、約束しませうよ。お互に、心配なことはなんでも相談し合ふこと、いつさい秘密を作らないこと、お互に気がねなんかしないで注文を出し合ふこと……。愛子  自分の行為に対し自分が責任をもつつてこと、姉さん、お嫌ひ? 議論ぢやないわよ。ただ訊(き)いとくだけ……。悦子  今あたしが云つたことは、それと矛盾しないと思ふわ。一寿  よし。二人の云ふことはわかつた。両方とも正しい。わしが折衷案を出す。愛子  いいわよ。どうせ守れない約束なんかしたつてしやうがないわ。悦子  あたし云ひ方が、教師臭いからいけないのね。どう云つたらいいか知ら……。みんなが、だんだん遠くへ離れて行くやうな気がして、なんだか心細いのよ。まだまだ今のうちは、手をつないでなきやどうにもならないんぢやない?愛子  パパは、あたしたち二人が子供の時分、どつちが余計可愛いとお思ひになつた?一寿  (当惑した笑ひ)さうさな……。悦子  そりや、あんたよ。生れた時から抱つこされてたんですもの。一寿  (笑ひに紛らしてしまふ)愛子  さういふこと、平気で云へないもんか知ら……。一寿  なにしろ、お前が四つ、姉さんが六つの時には、もうわしは日本を離れちまつたんだから……。愛子  あたしの方が可愛いかつたつて、ちやんとおつしやいよ。悦子  愛子つていふ名前をみてもわかるわね。一寿  そいつは、お前……。愛子  だから、今がどうつていふわけぢやないのよ。以前のこと。とつくの昔のことよ。ああ、うれしい。それだつてパパの秘密の一つよ。悦子  よしなさいよ、いぢめるのは……。一寿  さういふことをいふなら……まあ、赦しといてやらう。お母さんが一番よく知つてるさ。わしは、お前をおぶり、姉さんを抱いて、「汽笛一声」を唄ひながら、縁側を行つたり来たりしたことがある。悦子  それ、なんのためだつたの?一寿  寝かせつけるためさ。二人とも泣虫でしやうがなかつた。悦子  お母さんはさういふ時、どうしてらしつたの?一寿  さあ、なにをしてたか?愛子  知つてるわ。お里へ帰つてらしつた。一寿  畜生、聞いたな、その話を。
間。

悦子  兄さんが学校のお友達を大勢連れて来て「やい、みんな、欲しいやつに、おれの妹やるぞ」なんて呶鳴つてたの、あれ、幾つぐらゐの時か知ら……。あたしつたら、その前へ呼び出されて、平気で立つてたのよ。……さうね、平気でもなかつたけれど……。子供の時分つて、考へると、こはいわ……。愛子  さ、しんみりしちやつたら、出掛けませうよ。今夜は忙しいのよ。
そこへ、らくが、テーブルを片づけに来る。

らく  おなかがお空きになりましたでせう。悦子  いいえ、さうでもないわ。御飯の用意まだでせう。あたしたち、もう出掛けるの。らく  おや……。愛子  いいのよ、そんなにびつくりしないだつて……。外で食べるつもりなんだから、どうせ……。
一寿が妙な咳払ひをする。らく、急いで退場。

一寿  近頃、洋食といふもんが、まるで口に合はん。お前たちは、洋食洋食と云つて騒ぐが、あんなもん、何処がうまいんだ。悦子  丁度いいぢやないの、おらくさんはバタの臭ひを嗅ぐと胸がわるくなるつて云つてるから……。一寿  (悦子に)おい、二階から洋服の上着をもつて来てくれ。いや、わからんかな。わしが行かう。(出で去る)愛子  さつきの手紙ね、おやぢ、ほんとに見当つかないか知ら?悦子  あたしはつくけど……。愛子  後生だから、姉さん、余計な干渉しつこなしよ。一寿  (帰つて来て、紙幣の束を卓子の上に投げ出し、知らん顔をして、煙草に火をつける)愛子  (それを全部そのまま自分の方へ引寄せ、悦子に)ぢや、これで、こないだの分、みんな貰つとくわよ。かまはなくつて?悦子  (笑ひながら)しかたがないわ。またいる時借りるから……。お父さん、愛ちやん、すばらしいピアノを買ふんですつて……。独逸製よ……。一寿  そんな金が何処にあつた?愛子  安い出物があつたの。もち、セカンド・ハンドよ。たつた四百円ですもの。一寿  だから、そんな金を何処から引出したんだ。愛子  あら、引出すつていへば銀行ぢやないの?悦子  お父さん、御存じない? 愛ちやんは財産家よ。(妹に眼くばせをして)云つてもいいこと?愛子  人の貯金のことなんか、どうだつていいわよ。さうさう、ねえ、パパ、このお人形、あたしに頂戴ね。せんから欲しかつたの。(飾棚の和蘭人形を取上げる)悦子  あら、ずるいわ。一寿  そいつはなあ……まあいいか。人にやるんぢやないよ。愛子  (奥に向ひ)ちよつと、おらくさん……小母さん……あたしの部屋の電球とり替へといてくれた?
奥で、「あ、さう、さう」といふらくの声。

悦子  球なんか自分で替へなさいよ。
そのうちに、らくが、電球を持つて現はれる。

らく  これでよろしいでせうか。
愛子は引つたくるやうにそれを受け取つて、すかしてみる。

愛子  駄目よ、これ、二十四ワツトぢやないの? 四十でなきや、暗くつて、字も読めないわ。一寿  (娘のやや粗雑な言葉の調子を聞きとがめ、しばらく、ぢつと眼をつぶつてゐるが、やがて)おい愛子、それから悦子、お前たちに云つておくがね……。(長い間)この女(ひと)は、もう雇人ぢやないんだよ。
この突然の宣言に、女たち三人は、それぞれの驚き方で、すくむやうに後退りをしながら、互に妙な会釈を交す。

一寿  お前たちに「お母さん」と呼ばせるかどうか、そこまではなんとも云へない。お前たちの意見もあることだらう。ただ、かういふことは、内証にしておくべきでないと、今ふと考へついたんだ。お前たち二人は、なんにも心配しないで、伸び伸びと、自分の生活を築いて行きなさい。この女(ひと)も、半生は不仕合せだつた。わしも弱かつた。これも縁だらう。黙つて見逃しておくれ……。
らくと悦子とは、云ひ合はしたやうに顔を伏せる。愛子は、ひとり、昂然と、父の方を見据ゑてゐる。
父親退場。

悦子  ぢや、ちよつと、あたしたち出て来ますわ。
娘達退場
らく、室を出ようとする。
娘桃枝、そつと現はれ母親の顔を見る。

     二

舞台は前に同じ。
数日後の日曜日――午前十時頃。
一寿と田所理吉(二十九歳)。主客は卓子を挟んで向ひ合つてゐる。田所は、二等運転士の服装、健康な赭顔に絶えず微笑を泛べてゐる。

田所  あれが香港かハワイあたりだつたら、病院も相当なのがありますし、ことによつたら、あんなことにならずにすんだかも知れません。しかし、丁度、発病の時機もわるかつたんです。一寿  いろいろ、みなさんにお世話をかけたことだらう。日頃の不養生が祟つたんだね。酒はあまりやらんやうだつたが、あの通り、どか食ひをしよるんでね。田所  いや、初郎君なんか、まだ神妙な方ですよ。去年の夏、一緒に伺つた岡田なんて奴は……。
そこへ悦子が現はれる。

悦子  愛子はなんだか気分がわるいんで、失礼するつて申してますわ。少し風邪気味らしいんですの。田所  (ぢつと悦子の顔を見つめ)ちよつと顔だけ見せるつてわけに行きませんか。一寿  今朝、食事の時は起きて来よつたぢやないか。悦子  起きてはゐるんですよ。でも変な顔してお目にかかるのいやなんでせう。さうさう、岡田さんはどうしていらしつて?田所  相変らずですよ。今もお話したんですが、奴さん、この夏お嫁さんを貰ひましてね……。悦子  あら……。田所  それで可笑しいんです。上陸するたびに、まあ家へ帰るのはいいとして、船へ戻つて来ると、きまつて腹をこはしてるんです。なんでも、いきなり汁粉をこさへさせて、そいつを朝昼晩と食ふらしいんですな。悦子  まさか……。田所  船乗りなんて、みんな子供みたいなもんですよ。悦子  それでゐて、何時かは、麦酒をあんなに滅茶にお飲みになつて……。田所  あれは初郎君がわるいんだ。先生は人をおだてる名人でしてね、煽動家ですよ。うちの船長がその手に乗つて、たうとう黒ん坊の女と寝たつて話……あ、いけねえ……。一寿  何とね?悦子  いやねえ、黒ん坊の女とですつて……。一寿  ああ、君がかね。田所  いや、僕の話ぢやないんです。ああ、もうよさう。どうもたまに陸へ上ると、頭の調子が狂つて来やがる。一寿  ああ、君、なんか特別な話があるんだつたね。こいつがゐちや具合がわるいか。悦子  あたしはもう引込むわよ。明日の準備もありますし……では、ごゆつくり……。
悦子が奥へはいると、両人はしばらく、黙つて煙草を吸つてゐる。

田所  どうも、少し、切り出しにくいんで……。一寿  さあ、遠慮なく云ひ給へ。但し、僕の力に及ぶことかどうか……。田所  それが問題なんですが、ぢや、はつきり云ひます。実は、愛子さんのことで御相談があるんです。一寿  …………。田所  僕も、やつと一等運転士(チーフ・メート)の免状も取りましたし、そろそろ……。一寿  ああ、わかつた。愛子をくれと云はれるのか。そいつは、僕に相談してもなんにもならんよ。僕から取次いでもいいやうなもんだが、あれも自分のことは自分でやると云つとる。なるほど、それだけの頭もできとるやうに思ふから、僕も一切信用して、放任主義を取つとるんだ。そりや、君、世間の親達は、娘の将来にあれこれと喙を容れたがるが、それだけ娘を幸福にできるもんか? 僕はその点、親の権能といふもんを、正しく認識しとるつもりなんだ。娘の方から相談してくれれば、こりやまた別で、当りさはりのない注意ぐらゐしてやれんこともないが、僕んとこの娘たちは、ことにあの愛子といふ奴は、なかなか自信家でね。僕からでも、そんな話を持ち出さうものなら、てんで相手にはせんよ。まあまあ、そこはよろしくやり給へ。田所  さうおつしやられると、実は、どうしていいかわからなくなるんです。まつたく取りつく島がないわけなんで……。といふのは、順序として、お話しなければわかりませんが、以前、初郎君に一度愛子さんの心持を訊いてもらつたことがあるんです……。一寿  ほう、すると……?田所  むろん、手紙でなんですが、そのお返事つていふのが、まつたく予想外で、僕はそのために、却つて、愛子さんの真意がわからなくなりました。つまり、その文句によりますと、――田所といふ男は、名前も顔も覚えてゐない。従つて、なんらの関心も持つてゐない。何れにせよ、自分はもともと結婚はしないつもりなんだから、その話はこれきり打切つてもらひたい……。一寿  結婚せんつもりだつていふのかね。へえ、そりや僕も初耳だ。そんなら、君、ほつとき給へな。田所  いや、結婚するしないは別として、僕の名前も顔も忘れてゐられる道理はないと思ふんです。まる二日、ああして、一緒に顔をつき合はしてゐたんですからね。お宅で一日御厄介になつた挙句、翌日は、みんなで奥多摩へピクニツクをしました。途中、冗談も云ひ合つたり、すつかり仲好しになつたつもりなんです。一寿  岡田君とごつちやになつてるんぢやないかね?田所  まあ、しかし、そのことは、一度お目にかかりさへすれば、解決がつくと思ふんですが、今日の様子では、それもむづかしいやうだし、近いうちにまた出直して来ませう。ただ、僕が来たことについて、何か誤解をされてゐては困るんです。会ひたくないと云はれるんなら、たつてとは云ひませんが、さうなると、僕の方でもその理由を伺つておきたい気がします。一寿  待つてくれ給へ。どうもよく腑に落ちんが、君の言葉の調子でみると、愛子は君の意志を知つてゐて、わざと顔を見せたがらんのだといふやうに聞えるが、それなら、君も返事を聞く必要はないんぢやないのかね?田所  返事よりも、理由です、僕が聞きたいのは……。一寿  なんの理由……。田所  返事のできない理由です。一寿  返事ができるかできんか、まだ訊ねてもみないぢやないか。田所  わからないかなあ。さつき云つたでせう。初郎君への返事は、まるで返事になつてゐません。一寿  或は、それが返事の代りかも知れんな。田所  さうおつしやるのは、あなたがまだ、肝腎な点を御存じないからです。僕たちの間柄を、普通なもんだと思つてらつしやるからです。一寿  穏かならんことを云ふぢやないか。男女の間柄を、普通でないといふと、どういふことになるね。田所  愛子さんを此処へ呼んでごらんなさい。僕の前へ立たせてごらんなさい。すぐにお察しがつくと思ひますから。
一寿は、茫然として一つ時相手の顔を見つめてゐる。が、やがて、起ち上つて、奥にはいりかける。しかし、そのまま、思ひ返して座に戻る。

一寿  とにかく、いづれ僕から愛子に話してみよう。一旦、君は帰り給へ。さういふわけなら、この間題は僕が預つた。田所  それはかまひませんが、近いうち、一度愛子さんに会はせていただけるでせうか。一寿  その必要があればね。双方のために会はん方がいいといふことになれば、つまり、必要がないわけだ。田所  いいえ、それはあなたの方の御都合できまるわけでせう。僕の方は、どうあつても、愛子さんの口から、一言、はつきりした御返事を聞きたいんです。一寿  「否(ノー)」といふ返事なら聞くに及ぶまい。田所  ところが、ただ「否(ノー)」では、僕が承知すまいとおつしやつて下さい。一寿  承知せんといふのはどういふ意味だね。田所  満足できないといふ意味です。一寿  そりや無理だ。どんな約束をしたか知らんが、当人同士の約束だけでは、正式の約束とは云へん。第一、親の僕が、与り知らんといふ法はないぢやないか。田所  あなたは、一切干渉をなさらない方針ぢやなかつたんですか。一寿  今はさうだ。しかし、娘がそんな約束ぐらゐに縛られて、身動きができん羽目に落ちてゐるなら、吾輩は、断じて、約束なるものを取消させる。こりや当り前だらう。田所  今ここで、何を云つても無駄なやうですから、愛子さんにお目にかかれる機会を待ちませう。僕は、話さへわかればいいんです。決して、男らしくない真似はしないつもりです。ただ、いくら世間を識らないお嬢さんでも、自分の行為に責任をもてない筈はありません。相手の面目を潰さないぐらゐのことは心得てゐて欲しい。過去は過去として認めた上で、現在の立場を明かにする方法は、いくらでもあると思ひます。一寿  過去と云はれるが、それも序に聞いておかう。いつたい二人の関係といふのは、どの程度まで進んでゐたんですか?田所  それを、はつきり申上げるためには、愛子さんの同意を得なければならないでせう。かまひませんか?一寿  そいつはかまはんと思ふが……いや、待ち給へ。君にそれだけのデリカシイがあるなら、僕も、強ひて訊くまい。愛子から云はせることにしよう。かうつと……では、またといふのもなんだから、君、しばらく、悦子と話でもしてゐてくれ給へ。僕は、ちよつと愛子の様子を見てくるから……。
一寿が奥へ引込むと、入違ひに悦子が現はれる。

悦子  (小声で)妹はどうしてああでせう。お目にかかるのが恥かしいのか知ら……。あたくし、お手紙のこと、知つててよ。田所  ああ、僕の手紙ですか。愛子さんは、ほんとに読まないで破いちまつたんでせうか。兄さんのところへは、さう云つて来てましたよ。どうも、そいつが信じられないんだ。悦子  あたくしにも、絶対、あなたのことは隠してるんだから、不思議だわ。でも、今奥で話したけれど、あの女(ひと)たしかにどうかしててよ。そりや、気分もわるいにはわるいんでせうけれど、御挨拶ぐらゐできない法ないつて、あたし、さんざん勧めてみたの。駄目ね。変りましたよ、以前と……。冷たいつていふのか、強いつていふのか、あの頃から見ると、女らしいところなんかすつかりなくなつたわ。自分でも、それを努めてるつて風ね。でも、あなたに対する気持には、たしかに、自然でないところがあるわ。詳しい事情はよく知らないけど……。田所  事情は、大体、今お父さんにお話したんですが、どうも、一方的な説明は、こいつ、しにくくつて……。悦子  (好奇的に眼を見張り)あら、そんな深い事情がおありになるの? うそでせう。いくらなんでも、たつた二日の間に。そこまで行けるか知ら……?田所  行つたんだから仕方がないでせう。悦子  妬いてると思はれちやいやだけど、あの子、あたしなんかより、ずつと大胆だわ……。田所  あなたには、むろん、第一に親しみを感じますよ。悦子  (そこにある急須に手を触れてみて)少しおぬるいか知ら。
間。

田所  学校の方は、まだお止めになりませんか?悦子  停年には間がありますもの。田所  いや、さういふ意味でなく、相変らず、興味をおもちですか?悦子  職業としてでは、もつと柄に合つた仕事がありさうに思ふんですけれ時までも歌を唄つてるの。低い声だけど、節なんかはつきり……。一寿  寝言ぢやないんだな。愛子  ええ。姉さんは、蒲団を引つかぶつて、何処が頭だかわからないやうにしてるし、あたしは、それができないから、明るい電気の下で、眼が冴えて眠られないぢやないの。かすかに、流れの音が聞えて来て、あの人のバスにそれが交ると、寝返りを打つのも怖いやうな静かな晩になつたわ。一寿  隣の部屋との唐紙は閉めてあつたのか。愛子  それがよ。閉めてあつたのよ。でも、少し隙間が開いてるもんだから、あたし、気になつて……ひよいと、何気なく手を伸ばして、それを閉めようとしたの……。その手をぐいとつかまれた時、あたし、もうなんにも見えなかつた。声も出なかつたの。ハツと気がついてみると、部屋が真つ暗になつてて、……外には風が出てゐたらしいわ。雨戸が頭の上で、ゴトゴト鳴つてゐたの……。一寿  たしかに、あの男だとわかつてたんだね。愛子  (急に、つめ寄るやうに)わかつてたらどうなの? あたしの責任なの?(激しく)いやだわ、いやだわ……そんなの、なんにもなかつたのとおんなじだわ。最初から最後のものを与へるなんて、そんな馬鹿な女どこにもないわ。さういふことが、何の証拠になるの? 男が、それで、何を得たと云へるの? 自惚れるがいいわ、勝手に……。約束なんて、それがどんな約束なの? 愛してる証拠なら、ほかにあるわ。いくらだつてみせられる……。さうよ、なぜ拒まなかつたかつて云ふんでせう。ああ、女つて、そんなもんぢやないわ……。(卓子に突つ伏す)
この時、悦子が忍び足で、入口に現はれ、父の方に眼くばせをして、快げな微笑を送る。一寿は、それに応へる代りに、静かに瞼を閉ぢる。

悦子  (そつと愛子の肩に手をかけ)大丈夫よ、大丈夫よ、愛子ちやん……。あたしたちが附いてるわよ。長い間、ひとりで苦しかつたでせう。可哀さうに……。そんな秘密をあんたが持つてると判つたら、あたしは、もつともつとあんたを労はらなけりやならなかつたんだわ……。遠くにゐたあんたが、今、急に、こんなにあたしたちの近くへ戻つて来ようなんて……それこそ、夢のやうだわ……。だから、あたし、悲しいのか、うれしいのかわからない……。さうよ、葬らなけりやならない過去は、早く葬つてしまはう……ね。あんた、まだ泣いてるの……?愛子  (急に顔をあげ)うゝん、泣いてなんかゐない……(その通りである)悦子  もつと、あたしのそばへ寄りなさいよ。愛子  ええ、ありがたう……。だけど、あたしたちは、姉さんの云ふやうに、近くなつたなんて、うそだわ。大うそだわ……。悦子  あら、どうして?愛子  (冷たく)パパ、あたしは、今日から、この家を出てくわ。なんにも心配しないで頂戴ね。いろんなことが、だんだんわかつて来たからだわ。自分の生活は、お父さんや姉さんのそばにないつてことがわかつたの……。(入口に立つてうしろを振り返り)居所がきまつたら、すぐお知らせするわ……。一寿  おい……愛子……。
愛子姿を消す。
悦子は、しばらくそれを見送つてゐるが、ふと、父の眼に涙を発見し、急いで、自分もハンケチを取出す。

     三

あるアパートの一室。正面に扉。右手に窓。左手に幕を引いたアルコーヴ。寝台の一端が見える。室の中央に瀬戸火鉢。
前場より二年後の冬、昼近く。
扉をノツクする音。
寝台から、むくむくと起き上つた男は、無精髭を生やした沢一寿である。彼は、扉を開けに行く。奥井らくが立つてゐる。

一寿  なんの用だ!らく  さう突慳貪に云はないで下さいよ。はいつちやいけないんですか。一寿  用事を早く云つたらいいだらう。らく  それぢやあなた、風邪を引きますよ。いいんですか。一寿  (渋々、引つ返して丹前の袖を通しながら)今日は娘たちの来る日なんだ。また見つかると、わしはいやだよ。らく  だから、すぐ帰りますよ。(さう云ひながら、火鉢のそばに蹲る)一寿  ねえ、おい、今の境遇ぢや、さうさうは困るよ。もう就職も、わしは思ひきつた。神谷の奴も、てんで相手にしてくれず、この年になつて、方々へ頭を下げて廻るよりは、かうして細々と暮してゐた方がましかも知れんと、近頃やつと覚悟をきめたんだ。らく  愛子さんの方からは、ちつと、どうかできないんですか。一寿  それだけは勘弁してくれ。あいつも、来るたんびに、なんか置いてかうとするが、わしは断然、そんなものは受取らんと突つ返してやる。毛唐の女房になつて、楽をしようつてぐらゐの女だ。娘は娘でも、こつちから弱味をみせたくないんだ。らく  あたし一人だけなら、今のでどうかかうかやつて行けるんですけど、桃枝を学校へ出すとなると、こりや無理にきまつてるんです。悦子さんに、あたしからお詫びしてもかまひませんから、元々どほりにしていただけないでせうか?一寿  元々どほりつて、三人が一緒に暮すことかい。そいつは、もう真平だ。お前と悦子の間に挟まつて、わしはどれだけ苦労したか、まあ考へてみてくれ。ほかの理由でならとにかく、お前との折合ひが悪くつて、あいつが出て行くといふもんを、それならさうしろと、このわしが云へるか。妙な意地で、三人がばらばらになつた。それでも、そのためにわしは双方への顔がたつた。もう、これでよろしい。なんにも変へる必要はない。そうつとしといてくれ。らく  あたしも、最初伺つた時は、あんなことになるつもりはなかつたんですからね……。一寿  それを、今云ひ出してどうするんだ。らく  どうしようていふんぢやないんですよ。自分で自分がわからないつてことを云つてるんです。今日も月謝のことで桃枝とすつたもんだの挙句、ふらふらつと、ここへ来てしまつたんです。一寿  ふらふらつとなら、もうちつと気の利いたところへ行くとよかつた。五円はおろか、二円も覚束ない、今のところ……。らく  へえ、今日がお二人の見える日でしたかね。ちつとも気がつかなかつた。一寿  毎月の第三日曜つてこと覚えといてくれ。愛子の亭主がゴルフをやりに行く日だ。今日はこれで風もなし、絶好のゴルフ日和だな。(クラブを振る真似をする)らく  あなた、やつたことあるんですか。ゴルフとかつて……。一寿  (照れて)ない。
この時、扉をノツクする音。
一寿、慌てて、扉を細目に開ける。
「お電話です、横浜から」といふ声。

一寿  ありがたう。(らくに)ぢや、今日はもう帰るか?らく  しかたがないでせう。(これも起ち上つて、一緒に出かけるが、思ひ出したやうに)また序に、洗濯を持つて行きますよ。
彼女は、戸棚から、汚れたシヤツ、猿股、ハンケチなどを取り出し、それを新聞紙に包む。脱ぎ棄てた洋服を壁に掛ける。ポケツトの中のものを出してみる。銀貨がチヨツキのカクシからこぼれる。その一つ二つを、手早く帯の間へ押し込む。
一寿が、寒さうにはいつて来る。

らく  さうさう、いい話を聞きましたよ。一寿  (大袈裟に)ああ、たまにはいい話を持つて来てくれ。らく  さういふいい話かどうか知らないけど、今ゐる家の階下(した)の店へ来る問屋さんでね、悦子さんの学校へ文房具を入れてる人があるんです。その人がさう云つてましたよ――悦子さんは、どうして、すごいんですつてね。一寿  さういふ噂は、半分に聞いとくといい。らく  そりや噂だから、根も葉もないことかも知れないけど、なかなかすごいんですつて……。一寿  すごいすごいつて、なにがすごいんだ?らく  すごいんですつて、ああ見えて……。一寿  校長を丸め込んでるとでも云ふのか?らく  まあ、あたしの口からは云はない方がいいでせう。一寿  やれやれ、さういふ癖が、お前にもあるのか。四十年この方、わしの識つた女は、例外なくそれだつたよ。らく  そんなら言ひませうか。一寿  云はんでよろしい。聞きたくない。らく  あら、怒つたんですか?一寿  (火鉢の炭を吹きながら)拗ねてみせるやうな年になつてみたい、もう一度……。らく  悦子さんは、若い男の先生達から、とても騒がれてるんですつて……。ところが、うんと騒がしといて、そのうちの一人を、誰も知らないうちに、ちやんと手なづけてるんですつて、三年前から……。そりや、わからないやうにうまいんですつてさ。相手は五つとか年下なんですけどね、学校にゐる時は、まるで子供扱ひにして、お使ひまでさせるんですつて……。一寿  (益々顔を火鉢に近づけ、やたらに灰を吹き上げる)あちいツ!(顰めた顔で、らくをみあげ)おい、頼むから帰つてくれ。らく  はい、はい、ぢや、御用がなければ、あたくしは帰ります。一寿  教へた通りの挨拶をして行け。らく  (ぎごちなく、一寿の額に接吻する)
彼女が出て行くと、一寿は、洋服に着かへはじめる。最初の場で唄つたのと同じ節の歌を口吟む。大きく咳払ひをする。嚏めをする。手で鼻を拭く。
カラの釦をはめようとしてゐる時、扉をノツクする音。

一寿  アントレエ! おはいりイ!
悦子が、肩掛に顔を埋めてはいつて来る。

悦子  お変りない?一寿  変らざること、ミイラの如し。お前も風邪は引かんかい?悦子  風邪なんか引いてられないわ。忙しくつて忙しくつて……。一寿  結構だ。悦子  愛ちやん、今日来る?(チヨツキと上着を着せかけてやる)一寿  今電話をかけて寄越した。出かける時間だけど、ゴルフ場から車が帰つて来ないんで、ことによると、少し遅れるかも知れんつてさ。十二時には間に合ふだらう。悦子  今日は是非、会つてきたいの。この前はあんな風にして別れたもんで、あと気持ちが悪くて……。でも、ああなつちまつたら、なほらないもんね。もうちやんと性格になつてるわ。どういふものか知ら……人の言ひなりになるつてことがいやなのね。一寿  亭主にはああでもなからう。悦子  それが、あの女(ひと)うまいのよ。
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