物言う術
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著者名:岸田国士 

「物言ふ術」とは、仏蘭西語の ART DE DIRE を訳したつもりである。
 ART DE DIRE は、謂ふところの「話術」又は「雄弁術」ではない。既に「言はるべき言葉」が例へば文字として表示されてゐる、それを如何に「肉声化」するかといふことの工夫である。かういふとおかしくなるが、俳優の「白」に外ならない。
 日本劇の伝統で「せりふまはし」とか、或は、「口跡」とかいふ言葉は、この「物言ふ術」の一部と見るべきであらう。
 そこで問題は、わが国の演劇が「物言ふ術」を今日まで如何に取扱つてゐるかである。殊に今日、新劇の演出者が、どの程度まで、この点に注意を払つてゐるかである。
 日本人は何でも型に嵌めてしまふことの好きな国民とみえて、音楽などでも色々の歌詞を同じ「節」に当嵌めて歌つたり、絵画などでも、花はかう、木の葉はかう、水はかう、山はかうと、ちやんと動きの取れない規則を作つてしまふ。それと同じに在来の芝居の台詞にしても、その「抑揚」から「緩急」に至るまで類型的な標準によつて、人物個々の心理的ニュアンスを無視してゐる。この傾向は単に旧劇ばかりでなく、新派も同様である。更に少し気をつけて見ると、新劇までが、もうそろそろ、「新劇のせりふまはし」とでも云ふやうな型を作りつつあるやうである。これは何故かと云へば、一つは劇作家にも罪がある。即ち、戯曲の文体が「どう言つてもいい」やうな文体であつたり、さもなければ「どう云つていいかわからない」やうな文体であつたりするから、従つて、俳優が戯曲から十分の「指示」を受けることが不可能なのである。
 如何に傑れた演奏家でも、平凡単調な曲を弾かされたのではその腕を揮ふ余地がない訳である。俳優は、勢ひ他の方法で演技に魅力を添へなければならない。演劇の堕落である。

 日本の新劇も、演技の方面からもう少し立ち入つた研究をなすべき時代にはひつてゐると思ふのである。もつと早くこの点に着眼する人があつてもよかつた筈である。着眼した人はあつたかもしれないが、結果から見ると、何もしてゐないのと同じである。
「物言ふ術」は、俳優の演技全体でないことは勿論である。しかし、最も根本的であり、同時に、最も本質的なものである。のみならず、俳優自身が、相当の努力を払ふことによつて、最も研究の効果を挙げ得る性質のものである。
 仏蘭西の演劇は最も「白」を重んずる演劇である。さういふ演劇もあつていいではないか。「白」を軽んずる演劇の現在は、日本に於て見るところでは、あまり成績がよくない。そこで、もうちよつと「白」を重んじて見てはどうかと思ふのである。そのためには、仏蘭西に於ける「物言ふ術」の研究がどれほど参考になるかといふことを少しばかり述べてみたい。

 仏蘭西の国立音楽演劇学校(コンセルヴァトワアル)にデクラマシヨン(朗誦術とでも訳すか)といふ一科があることは屡々本国の識者間に問題を起してゐるが、これは、古典劇の演出に欠くべからざる課目とされてゐる。これにはつまり、仏蘭西劇に様々な舞台的伝統があつて、その伝統を守り続けるといふ趣旨がコンセルヴァトワアルの名を生んだといはれてゐる。
 このデクラマシヨンなる一科は、今日、日本の旧劇修業の課程中にも含まれてゐることと思ふ。で、これは先づ問題外とする。
「物言ふ術」は、例へば、発声法、発音矯正、呼吸調節、顔面表情、科(しぐさ)との関係、それから最後にテキストの修辞的及び心理的研究、かう進んで行くのであるが、結局は言葉の抑揚(Inflexion)に於ける「絶対的正確」を期するに在る。この抑揚は想念の複写そのものでなければならず、「殆ど正確」であることが既に、最も避くべきことなのである。
「物言ふ術」の「こつ」ともいふべきは「句」の中に含まれる「語」の価値判断である。固よりこの場合、人物の性格的心理条件を基礎としての話である。
 然るに、未熟な、又は無能な、或は怠惰な俳優の多くは、この価値判断の努力を惜むか、或は、理解力の薄い結果、常に動詞又は形容詞に「力点」をおいて抑揚をつけるといふのが、この道の研究者の新発見である。日本ではどうだらう。

「物言ふ術」が俳優の演技に於ける根本的にして本質的な条件であるといふ理由は、いふまでもなく、「科」そのものも「白」と無関係であることはなく、かへつて「科」の大部は「白」によつて導き出されるものだからである。而も、「科」といふものは、消極的な規正法しかないのである。即ち俳優に対して、「さういふ科は不必要である」とか、「その科は嘘だ」とか云へるけれども、「かういふ科をしろ」とか、「その科はかうすべきである」とか云ふのは極めて不条理な註文なのである。つまり、「科をする術」といふものは存在しない。ここが即ち俳優教育上興味ある問題を提供するので、結局、「科がうまい」といふのは、いろいろな科を上手にやることではなく、必要な科のみを正確にやることなのである。

 発声及び発音の訓練は、将来、俳優としての才能を云々される場合に、殆ど忘れられるであらう事柄であるが、これは丁度、長じて政治家たらうとするものが、普通学として数学や歴史を学ぶ必要があるのと同様である。
 仏蘭西の教養ある家庭では、発音の矯正といふことは非常に重大視され、そのために一般の人達、殊に若い婦人などは日常の対話に典雅さを増すため、わざわざ俳優について、「物言ふ術」又は「朗誦術」を学ぶくらゐである。従つてさういふ研究も専門家の手でし尽くされ、様様有効なメトオドも発表されてゐる。
 例へばS又はCHの発音を完全にするために行ふ「発音体操の課題」(竹屋が竹立てかけた式ではあるが)
Voici six chasseurs se s□chant, sachant chasser sans chien.
(ヴアスィー スィー シャスウル ス セシャン サシャン シャッセ サン シヤン)
意味を云ふと、「犬を使はずに猟の出来る猟師が六人火でからだを乾かしてゐる」

「物言ふ術」の心得第何条かにかういふ文句がある。(サンソンの『演技論』)
――知つてるやうな風をするな。考へるやうな風をせよ。
 なかなか面白い注意である。

 ブレモンはその著『物言ふ術と演劇』に於て、ある一句の「言ひ方」がどれほど「言葉の裏」を変化させるかについて一例を上げてゐる。即ち Ah! vous voil□ monsieur.(意訳をすると「ああ、あなたですか」)
 この一句は次のやうな、様々な感情を言ひ現はすことができる。

――おや、こいつは珍らしい。――君は、約束をしといて、なんです、今頃。――ああ、やつと来てくれたんですか、待つてましたよ。――なんだ、こんなところへわざわざ来なくつてもいいのに……君は。――やあ、たうとう来ましたね、それでも。――へえ、君はよくそれで、おめおめここへ来られたもんですね。――や、丁度いいところへおいでなすつた。――さあ、それぢや一つ、よく話をきめておかうぢやありませんか、君が来た以上は、ね、さうでせう。――なるほど、君はこんなところにゐたんですか。僕はまた、もつとずつと遠方に行つてるんだと思つてましたよ。――ひどい目に遭ひましたね、さぞお困りでせう。お察しします。――実は弱つたことができたんですよ。 等々々、この外「無数」と断つてある。
――どうも早や面目次第もありません。

 道草が長くなつたが、「物言ふ術」の研究は何れもつと系統的に述べて見たいと思つてゐる。
 序に、仏蘭西語で書かれた参考書を二三挙げておかう。
De la physionomie de la parole (A. Lemoine)
La Diction Pratique (P. S□guy)
Art de bien dire (D. Vernon)
Symphonie d'Expressions (M. Heymon)
Art th□□tral (Samson)
L'Art de Dire et le Th□□tre (L. Br□mont)

 私は嘗て、戯曲作家の第一要件は「対話させる術」であると断じたが、ここで、俳優の「物言ふ術」と関連してそれを考へて見ることが出来る。舞台の上で「脚本朗読」をするだけなら、対話の形式で小説を書くのと変りはない。




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