人口論
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著者名:マルサストマス・ロバート 

        訳序

 マルサス『人口論』の第一版と第二版との間に大きな差異があることは、どの本にも書いてあり誰でも知っている。しかしその第二版以後がどうかということになると、余りはっきりしていないようである。しかし実際は、『人口論』はマルサスの生きている間に六版を重ねており、その各々にはいずれも訂正または増補が行われているのであって、同一の版本は一つもないのである。もちろん第二版の訂正増補が最大であるが、これに次いでは第三版及び第五版のそれである。そして第四版及び第六版はその各々の前の版の再刻と普通には称せられているが、それでさえ実は修正が加えられているのである。
 これらの訂正ないし増補の跡を辿ることは、単にペダンティックな趣味のためであるならば、実に下らないことである。しかしながら実は、マルサスの『人口論』は、経済学に関する理論的著述であるよりはむしろ階級的利益の代弁書である。そしてこのことは、代弁せらるべき利益の情勢の変化につれて代弁理論が刻々と前後撞着的に変化してゆくことに最もよく露呈されるのである。この意味で、『人口論』こそは、そのある版本だけを読了しそれだけで理解の行く本ではなく、ぜひともその各版本を比較読了しなければならぬのである。
 しかしながら、それだからと云って、六種の版本について格別に六種の訳本を出すことは無用の業である。したがって私は、ただ一つの訳本でしかも前後六版の変化が辿れるような飜訳をしてみたいと、前から考えていた。しかし各版の文句を噛み合せるという形(私がマルサスの『経済学原理』の岩波文庫版で試みた形)ではこれは到底行い難い。けだし各版の差異が大である上に、本が六種にも及ぶので、無理にこれを実行してみたところで煩わしくて読めるものではないからである。
 そこで今囘再建春秋社によって機会が与えられたので、とにかく本文については一応第六版を基礎とし、これになるべく読む邪魔にならぬような形で細字で訳者註を加えて、各版の差異を現すこととした。読み方については別記『凡例』を参照せられたく、また『人口論』の階級的本質その他については『解説』を参照せられたい。
 最後に一言すれば、私はかつてこの試みを少しやりかけたのであるが、それは戦争のために抛棄せざるを得なくなった。従って今囘はこれを改めてはじめからやり直したのであるが、それにもかかわらず当時の試みに関する御配慮につき堀經夫博士にここに謝意を表したい。また今日の試みに当っては美濃口時次郎教授及び東京商大図書館の御配慮によって希覯図書を接見するの便宜を与えられた。併せて感謝の意を表する。なお春秋社の瀬藤五郎及び鷲尾貢の両氏、並びに原稿整理その他各般の事務につき多大の便宜と助力とを与えられた高橋元治郎氏及び高橋一子君にも厚く謝意を表したい。
   一九四八年六月
大久保にて訳者

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       凡例

一、本訳書はマルサス『人口論』の第六版を全訳し、これに加えて、第一―第五版にこれと異る記述がある場合、その他関連的記述のある場合、その重要なものを対照附記したものである。二、第六版の本文の全文は大きな文字で印刷し、その他の部分は訳註として小さな文字で印刷されている。三、従って、第六版を通読しようと思う人は、訳註を飛ばして、大きな文字で印刷されているところだけを通読されたい。四、第一―第六版のいずれをとっても同一の版本は一つもない。しかしその差異の全部を表わすことは、いたずらに煩わしくなるだけであるから、重要と思われるもののみを表すこととした。五、なお各版の出版年次は次の通りである。第一版――一七九八年
第二版――一八〇三年
第三版――一八〇六年
第四版――一八〇七年
第五版――一八一七年
第六版――一八二六年
 右の各版相互の関係については、詳しくは巻頭の『解説』を参照せられたい。


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     マルサス『人口論』解説

        一
 トマス・ロバト・マルサスの『人口論』(Thomas Robert Malthus, An Essay on the Principle of Population.)が匿名の下にはじめて世に現れたのは、一七九八年である。
 それはフランス大革命とそれに続くナポレオン戦争の時代であった。そして『人口論』はまさしく一つのフランス革命の子であると云うことが出来る。しかしそれは革命の側に立ってこれを鼓舞する書ではなく、革命の情熱に冷水を浴びせる書であった。
 由来フランスは、一七八九年の大革命に至るまでは、絶対王制によって統治されていた。しかし実際上の権力は貴族及び僧侶の手にあった。これらの権力者は、貨幣を代償として、種々の特権を大貨幣地主に売渡していた。これらの諸階級は、商人資本及び高利貸資本による封建的農業関係の分解によって生じた農民の貧困や、形成されつつある近代都市に溢れている汚辱的貧困と対照的に、極度の奢侈生活を営んでいた。殊に豪奢の競争において大貨幣地主との助力結合を得て終(つい)に封建貴族を威圧するに至ったところの国王の宮廷における奢侈は、言語に絶するものがあった。ために公債は激増し租税は加重された。しかも対外的には、アメリカにおける植民地は失われ、そこにおける艦隊は無に帰し、またドイツにおいては屈辱的大敗をなめなければならなかった。このことはまたも公債租税の累進に著しい拍車をかけ、フランスの財政は破産に瀕した。かくて特権を享受し得なかった所の小生産者、農民、中小商人資本家は、国王に対し叛旗を飜(ひるがえ)して立った。一七八九年に革命が勃発するや、バスティユは開かれ土地は地主から奪われた。九二年には権力は小資本家及びパリの労働者の手におち、王制は廃止され、九三年には革命はその絶頂に達したのである。
 実にこの革命は封建制度の晩鐘であり資本制制度の暁鐘であった。それは英国にも大きな影響を与えずにはおかなかった。けだし英国は既に数度の革命によって一応立憲的政治形態をとるに至っていたとはいえ、しかもそこには沈淪の状態にある無数の破滅せる農民や小生産者や労働貧民が溢れていたからである。彼らはフランスの『国民』がその貧困の状態を打破せんがために、その貧困の原因と考えられるいわゆる『デスポティスム』に対して立ち上ったのを見た。そして彼ら自身また立って、自己の貧困を打開せんがために、現存する社会制度特に政治制度を打破せんとしたのである。すなわちそれは一方においては、実践的に、いわゆる『通信協会』の運動を、イングランド、スコットランド、及びアイルランドの全英国にわたって、燎原の火の如くに進展せしめると共に、また他方においては、理論的に、リチャアド・プライスのフランス革命謳歌に端を発するエドモンド・バアク対ラディカルズの論争となって現れた。ラディカルズにして論争に参加し革命を讃美し英国の状態を批判したものは、プライスを別としても、メアリ・ウォルストウンクラフト、ジョウジフ・プリイストリ、ジェイムズ・マッキントッシュ、トマス・ペイン、ウィリアム・ゴドウィンをはじめ数十人に上り1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、他方これに反対せるものは、バアクを別としても、ジョン・ホロウェイ、エドワド・セイア、ウィリアム・コックス等多数に上った2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。更にまた『通信協会』も、トマス・ハアディ、トマス・ホルクロフト、ホオン・トゥック、トマス・ペイン等によって代表される『ロンドン通信協会』を中心として、その影響は急速に、全英の小生産者、小資本家、労働者の階級の間に拡がって行った。大都市においては『通信協会』は必ずしも破壊的ではなかったけれども、地方、特にアイルランドにおいては、既に騒擾の兆が現れて来た。かくて革命の当初にはなお平静を持していた英国特権階級も、ようやく事の急なるにその度を失って来た。その最初の現れは、メアリ以下の駁論を誘発したエドモンド・バアクのプライス批判であったが、一七九二年にフランスの王制が廃止された時に、『通信協会』が、権力を掌握したパリの労働者及び小資本家と手を握ったことを見たピット政府は、この英国特権階級の希望を実行に移す口実を得た。すなわちここに英国史上稀に見る一大弾圧が全英にわたってラディカルズの上に加えられ、その著書は発売禁止処分を受け、その代表者は十分の訊問も取調もなくして相次いで処刑され、英国における最初の――もっとも上記の如く純粋なものではないが――労働者運動は根こそぎに破壊され、一八〇〇年の結社禁止法に至ってそれはようやく終りを告げた。これいわゆる『英国におけるフランス革命』であるが、マルサス『人口論』は実にこの闘争における輝ける特権階級擁護の書なのであり、フランス革命に関する論争に終止符を打ったものと称せられているのである。
 1)[#「1)」は縦中横] 例えば次を参照、――Richard Price ; Discourse on the Love of our Country, delivered on Nov. 4, 1789, etc. 1789.Mary Wollstonecraft ; A Vindication of the Rights of Men, etc. London 1790.Joseph Priestley ; Letters to the Right Honourable Edmund Burke, etc. Birmingham 1791.James Mackintosh ; Vindiciae Gallicae. etc. Dublin 1791.Thomas Paine ; Rights of Man etc. 1791.Do. ; Rights of Man. Part Second, etc. 1792.William Godwin ; An Enquiry concerning Political Justice etc. London 1793.Do. ; The Enquirer. etc. London 1797. 2)[#「2)」は縦中横] 例えば次を参照、――Edmund Burke ; Reflections on the Revolution in France, etc. London 1790.John Holloway ; A Letter to the Rev. Dr. Price. etc. London 1789.Edward Sayer ; Observations on Doctor Price's Revolution Sermon. London 1790.William Coxe ; A Letter to the Rev. Richard Price, etc. London 1790. この論争の口火を切ったものはリチャアド・プライスである。彼はそれまで英国に関する人口論争に参加し、英国の人口減退を主張し、貧困に関する世論を喚起せんとしていたのであった1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。しかるに彼は今やフランス革命を見、それが名誉革命の精神と相通ずることはなはだ多きを感じた。しかし彼によれば、名誉革命は大事業ではあったが決して完全な事業ではなかった。そこで彼は、フランス革命に倣い、名誉革命の精神に復帰して、英国の社会的並びに政治的の改革を行わんことを、主張したのである。すなわち彼は一七八九年の『名誉革命記念協会』の集会において一場の説教を試み、愛国心を論じ、我国を愛するがためにはそれをして愛せられるに値するものたらしめる必要のあることを説き、今や自由の光はアメリカに始まってフランスに達し、終に全ヨオロッパを覚醒せしめんとしている、と主張して、フランス革命を擁護し英国の改革を支持した。続いてプライス一派は更にこれに次いで、フランス国民議会に祝辞を送ったが、これは国民議会からの感謝文によって応えられた。これが問題の発端である。
 1)[#「1)」は縦中横] Richard Price ; Observations on Reversionary Payments ; etc. London 1st ed., 1771 ; 2nd ed., 1772 ; 3rd ed., 1773 ; 4th ed., 1783. Do. ; An Essay on the Population of England, etc. London 1780.
 以上のようないきさつは英国特権階級に驚愕の念を与えた。彼らの一部はなお平静を持したが、他の一部はこれに対して何事かがなさるべきことを希望した。かくて、ホロウェイ、セイア、コックス等のプライス批判が現れたが、なかんずく最も重要なのはエドモンド・バアクのそれである。
 バアクの所説の中心点は次の如くである、――およそ英国における一切の改革は過去の先蹤(せんしょう)を典拠として行われたのであり、またそうあるのが当然である。しかるに英国には世襲の王位や世襲の貴族をはじめ、また英国流の自由が遠い祖先から伝えられて来ている。従って真に改革が必要であるならばこれに従って改革を行えばよいのであって、フランスに学ぶような必要は少しもない。かくの如くフランス革命は、啻(ただ)に英国の先例たらしむべき資格を欠くばかりでなく、更にただ革命としてのみ見ても最悪の性質のものである。他の革命においては、その犠牲となったものは常に悪虐極まりない人物であった。しかるにフランス国王が穏和な合法的な国王であることは疑問の余地がないのに、フランス人はかかる模範的統治者に対して革命を起したのである。従って単にフランスから何物も学ぶべきではないというに止らず、更に進んで英国をしてフランスの模範たらしめるべきである、と。
 なおバアクはかかるプライス批判の外に、積極的にフランスにおける反革命運動を組織し支持するに至ったので、ラディカルズは彼に対して著しい怒りの念を懐くこととなった。かくて前述の如くウォルストウンクラフトをはじめ、プリイストリ、マッキントッシュ等数十名のものは一斉に立って、バアクの所論を覆えそうとしたのであるが、その代表的なものはペインの『人権論』である。
 ペインによれば、バアクの所論は彼自身の述べる所そのものによって否定される。けだし改革は過去の先蹤によるべきであるとすれば、その先蹤はまたそれ自身の先蹤を有(も)つであろう故に、結局創造の時まで遡るの外はなく、そして創造の際には人間は人間であるのみであり、それ以外の何ものでもあり得ないのである。しかるに生殖は単に創造の延長に過ぎぬ故に、人間は人間として、創造の際におけると同様に、その生存の権利を有つはずである。しかるにかかる権利すなわち彼れのいわゆる自然的権利の中には、なるほど個人において権利としては完全であるが、その行使において不完全なものがある。それは安固及び保護に関する権利である。かくて各個人はかかる権利を社会の共通貯蔵に持込み、必要の場合には共通貯蔵からその保護を受けることとなる。これいわゆる市民的権利である。ひるがえって政府の起源を見るに、それは迷信か、力か、この市民的権利かであり、フランスにおいて形成されつつあるものはこの第三のものであるが、英国の政府はウィリアム征服王以来その第二に属する。従って英国もまた一つの『フランス革命』を必要とする、というのである。
 バアクはこれに対し正面からは答えなかったが、しかしその政治的態度の故にホイグ党から離脱するに当って若干ペインに触れ、更に実践的には法律によるペインの処刑を大いに運動したが、しかしこれは成功しなかった。一方ペインは更に続いて『人権論』第二部を公けにし、国王及び貴族を大いに罵倒するかたわら、貧困問題の重要性を強調し、貧民法を廃止して貧民に権利としての生存を保証せんことを主張した。この書については終にバアクの運動は効を奏し、ペインは起訴され終に有罪の判決を受けたが、彼は既に身はパリにあり、その処刑を免れることが出来た。
 ペインの『人権論』は、バアクの書と並んで多大の反響を惹き起したが、これに続いて現れたゴドウィンの『政治的正義』の反響も、これに劣るものではなかった。しかしこの書は、ペインのそれとは異ってもはや論争の書ではなく、積極的理論の展開がその主題である。積極的理論とは、空想的思弁的な無政府共産生義である。すなわちゴドウィンによれば、政府の目的は単に暴力の行使にあるにすぎない。従ってそれは悟性または意思の働きたる服従とは何らの適法的関係をも有ち得ない。されば、あるべきものは『政府なき簡単な社会形態』でなければならない。更に彼れの共産主義は如何というに、有用物の所有ないし消費を決定するものは正義でなければならない。換言すればそれは必要ないし欲望によって決定されなければならない。他方労働もまた万人の共通に担当するところでなければならない。従って、もし一方では奢侈に耽り得る人がいるのに、他方健康や生命を破壊してまでかかる奢侈に必要な物資の生産に従事するものがいるのは、正義に反することである。結局生産及び消費の全分野において共産主義が導入せらるべきである、というのである。ただここに注意すべきは、彼が、人口の増加によるかかる理想社会の終局的困難を予想していたことである。しかし彼によれば、その時は遠いのであるから、かかる遠い将来の困難が予想されるからといって、現在の実質的進歩に躊躇すべきではない、というのである。
 彼はなおこれに続いて『研究者』を著している。これはマルサス父子の論争を誘発し、その結果として子マルサスが『人口論』第一版を著すこととなったものであるが、しかし理論的興味は多からぬものである。
 かかる時に、また、人類の『不定限の可完全化性』を主張するコンドルセエの楽観的思想1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]が、フランスから海を越えて渡って来た。彼れの思想は一種の歴史観を基調とするものである。すなわち彼によれば、人類の歴史は将来をも含めて十段階に分たれ得るものであり、この第九段階と第十段階とを分つものがフランス共和囲の成立である。しからばこの時から始まる第十段階においてはいかなる見通しがなされるかというに、国民間の不平等の消滅、同一国民内の不平等の消滅、及び人類の真の完成、の三つがそれである。そして科学や文明の進歩を見、人類の精神とその能力とを検討するならば、この三つは果てしなく実現されるであろうと考えられる。――しかしながら、その際には、ゴドウィンの頭にも浮かんだところの、人口の増加による終局的困難が生じないであろうか、という疑問は、また彼れの頭にも浮かんだものであった。これに対して彼もまた、時は遠いと答える。しかし彼もまた、これではその時が到着した時に対する真の解答にはならぬことに気附いて、その時には産児調節の手段に出ずべきことを説いている。かくて彼は、かくの如き完全化の進行によって、終に人類は不死になるに至るものとさえ、考えているのである。
 1)[#「1)」は縦中横] Marie Jean Antoine Nicolas Caritat, Marquis de Condorcet ; Esquisse d'un Tableau Historique des Progr□s de l'Esprit Humaine. L'An III de la R□publique.
 かくの如き社会の将来に関して相次いで現れた楽観的見解を否定し、よってもってフランス革命により生じた一種の狂熱状態を沈静せしめるの役割を演じたのが、外ならぬマルサス『人口論』第一版である。
        二
 マルサスの『人口論』第一版は、匿名の下に、一七九八年に現れたのであるが、これに先立って一七九六年、彼は公刊の目的をもって、フランス革命に影響されて混沌たる状態にある時勢を論じた一つのパンフレット1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]を書いた。これは終に公刊されずに終ったが、しかし吾々はエンプスンが後に試みた引用と紹介2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]とによってその大略を知ることが出来る。
 1)[#「1)」は縦中横] これは次の如く名附けられるはずであった、―― The Crisis, a View of the Present Interesting State of Great Britain, by a Friend to the Consitution.
 2)[#「2)」は縦中横] Edinburgh Review for Jan., 1837. "Art. IX. Principles of Political Economy considered with a View to their Practical Application. …… etc." by Empson.
 エンプスンによれば、このパンフレットは、政治論、宗教論、及び経済論の三部分に分たれているのであるが、これを一読すれば、マルサスがこれによって擁護せんとしたものが、いわゆる地主階級及び中流階級であり、すなわちラディカルズによって最も攻撃されたところの政治組織の担当者たる特権階級であったことが、わかるのである。
 このパンフレットは出版書肆の拒絶によって日の眼を見ないでしまったが、それに次いで彼が一七九八年に著した『人口論』こそは、彼を一躍時代の寵児たらしめたものである。
『人口論』を誘発するに至った直接的動機は、その序言に明かな如くに、ゴドウィンの著『研究者』の中に収められた『貪慾と浪費』なる論文について、彼がその一友――実はその父ダニエル・マルサス――と交わした会話にある。しかるにこの会話は社会の将来の改善に関する一般的問題へと移行して行った。そしてこの一般的問題に関するマルサスの見解をまとめたものが、『人口論』第一版なのである。
 ここにマルサスのいわゆる一般的問題とは、人類はこれから加速度的に限りなき進歩をなして行くものであるか、または幸福に達すれば再び窮乏に沈淪しこの窮乏がまたも次の幸福の出発点となるというふうに永久の擺動(はいどう)(オシレイション――マルサスはこの語そのものもその観念もこれをコンドルセエから得て来たもののように思われる)に運命づけられていなければならぬのであるか、ということである。そしてマルサスは後の方を肯定することによってこの問題に答えんとしたのである。
 マルサスの論述の仕方において極めて特徴的なことは、それが一種の唯物論的色彩を非常に濃くもっていることである。このことは、彼が繰返して、経験の重視を強調し、単なる臆測を排撃していることから、容易に知ることが出来る。実は彼れのこの卑俗な一種の唯物論が、空想的思弁的なゴドウィン、コンドルセエ流の思想に対して、一つの大きな強味と見えたであろうことは、容易に想像し得るところである。
 すなわち彼は本来の問題に立入るに先立ってまずその基礎理論を展開する。まず食物が人間の生存に必要であるということ、及び両性間の情欲は必然的でありかつほとんどその現状に止まるであろうということは、何らの証明を必要としないこと、すなわち『公準』とせられ得よう。そこでひるがえって見るに、人口増加力は、人口を支持すべき生活資料の増加力よりも、不定限により大である。しかるに人間の生存には食物が必要なのであるから、この不等の二つの力の結果は勢い平等に保たれなければならず、換言すれば人口増加力はいかに大であろうとも、現実の人口増加は生活資料の増加の範囲に限られてしまうこととなる。この関係はしかし人類のみに限られたことではなく、一切の生物界に見られるところである。そしてこの不等の二つの力の結果が平等ならしめられざるを得ないことの結果として、動植物界においては種子の濫費や疾病や早死が起り、人類においては窮乏及び罪悪が生ずる。すなわち窮乏及び罪悪は人口に対する『妨げ』であり、これあるによって人口は生活資料と均衡を維持し得るのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1)[#「1)」は縦中横] Malthus, Essay on Population, 1st ed., ch. I.
 しからば、フランス革命が暗示すると考えられている社会の一般的永続的改善は、この事実によって完全に否定されなければならない。ゴドウィンの想像するような社会はこれあるによって初めから不可能なのであるが、今仮りにこれが成立したとしても、一方においては家族を支持する上での危惧が全く消滅するために人口増加は著しくなり、他方においては自利の発条が除かれるので、生活資料の生産は減少するので、まもなく人口と生活資料との均衡は破壊され、三十年も経たない内にゴドウィンの社会は全滅してしまうことであろう。ゴドウィンの説はかくて、必然の法則から発する罪悪及び窮乏を社会制度に由来するものと考えた点にある、と云わなければならない1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1)[#「1)」は縦中横] Ibid., ch. X.
 さればまた当然に単なる人口増加の擁護は誤りでなければならない1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。それと同時に、食物を増加せしめずに単に人口のみを増加せしめ、かつ社会の最良部分とは称し得ないものに食物を強制的に分与しようとする貧民法もまた、誤れる法律であると云わなければならない2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。
 1)[#「1)」は縦中横] Ibid., ch. VII.
 2)[#「2)」は縦中横] Ibid., ch. V.
 これと共にまた、前述の人口は過去と現在とではいずれが多いかという人口論争についても、そのいずれが正しいかは容易に決定せられ得る。それは単に出生数または死亡数のみを取扱っていたのでは明かにされ得ない。人口は生活資料によって終局的並びに総括的に規定されるのであるから、この生活資料の増減に着眼すれば、人口の増加は同時に明かにされるであろう。そして生活資料の増加を考えるならば、人口が減退して来ているとは決して云い得ないのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1)[#「1)」は縦中横] Ibid., ch. IV.
 さてひるがえって考えるに、人口にかくの如き秩序があるとすれば、それは一切の改善の努力を無に帰せしめるものであり、従ってこれは人間に絶望を教えるものではないであろうか。しかしこれは事実ではない。反対にこのことはかえって人間を覚醒せしめるものである。怠惰なものは生存し得ず勤勉と努力に対してのみ報いが与えられるということは、かえって人に大きな希望を与える。しかも必要は発明の母であり、従ってこれによって人類はますます進歩して行くこととなるのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1)[#「1)」は縦中横] Ibid., chs. XIIX & XIX.
 以上の如きものが『人口論』第一版の主たる主張であるが、その基礎理論たる人口理論の中で最も中心的な命題は、人口増加力は食物増加力よりも『不定限に』より大である、ということである。ここに『不定限に』とは、マルサスによれば、限度は存在することは確実であるけれども、しかしこれを明瞭に指示し得ない、という意味である。マルサスは人口及び食物の増加力を示すに当って有名な幾何級数及び算術級数の語を用いたけれども、それは直ちに両増加力を明確に限定するものと解してはならない。むしろ彼においては両増加力は幾何の大きさを有つかを明確に云い得ないのであり、従って両者を明確に比較することは不可能なのである。しかしこれらを、事実しかる大きさから離して具体的に云い現せば、人口は少くとも二十五年を一期として倍加し、食物はせいぜいの所二十五年を一期として同量附加をなす如き力しか有たない。しかしこの二つの級数は、事実しかる大きさからは離されているのであり、両者の真の大きさは従って不明である。すなわち人口増加力は食物増加力よりも大であるということだけはわかるが、その真実の開きは不定限であるというのである。――これが彼れの根本命題の真の意義である。さて、しかるに食物は人間の生存に必要なのであった。しからば結論は当然に、人口は必然的に生活資料によって制限される、ということにならざるを得ない。かかるものが彼れの基礎理論なのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1)[#「1)」は縦中横] Ibid., chs. I, II & IX.
 以上の基礎理論は生物界一般につき自然法則として樹立されたものであるが、彼は次に一転して、この理論によって社会の問題を解こうとし、平等主義や貧民法や人口論争の問題を論ずるに至ったことは、右に述べた如くである。しかし彼は社会を説くに当って、当時の時事問題のみを論じたのではない。彼は歴史を論じ、人類はまず狩猟状態から始まり、次いで牧畜状態に進み、最後に農牧併行状態に進むものと考え、これらの時代における重要な歴史事実を以上の如き基礎理論によって解釈せんとしているのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1)[#「1)」は縦中横] Ibid., chs. II & III.
 かくの如き内容を有つ『人口論』の第一版はすさまじい反響を喚び起した。ゴドウィン等の平等主義はまもなくこれによって圧倒されてしまった。『英国におけるフランス革命』は、『人口論』第一版と、ピット政府の弾圧とによって、全く克服されてしまった。マルサスの匿名はまもなく破られた。そして彼れの名は一躍論壇の寵児となったのである。
 かくてマルサス『人口論』は一世の名著と称せられるに至り、それは連綿として今日にまで至っているのであるが、この名声の根拠が何に帰せらるべきかは余りにも明かであると云わなければならない。
 そこで彼れの思想の理論的背景を振返ってみるに、まずこれをヨオロッパ全体の問題として見る時は、そこには一方では人口をもって富なりとしまたは富に達する唯一または最大の手段なりとする見解(マアカンティリズム及びカメラリスティクの如き)が広く行われており、国家の政策が人口増加を擁護すべきはむしろ自明の理であるとされていた。しかるにまた他方では人口は単に国の繁栄の結果であり、かつ徴標であるにすぎず、従って単に人口を増加せしめんことを企図するよりも、まずその基礎たる国の物質的一般的幸福を企図する必要があると説くものが少なからず存在した。しかも彼らの中の多くによれば、人口増加力は極めて大なるものであり、この人口を支持すべき資料は、これと同一の速度をもっては増加し得ない故に、そこに必然的に戦争や流行病や不節制や不道徳がかかる優勢な力の実現を阻止するために現れることとなる、と説いていた。しかもある者は、この事実をもって社会の一般的永続的改善を不可能ならしめる要因をなすものである、と考えてすらいた。かかる時に一七八九年にフランス革命は勃発した。それは貧困と悪辱、不正義と不公正を一挙にして絶滅するものであるかの如く見えた。社会の一般的永続的改善はこの日よりその緒についたかの如く見えた。さればここに政治的社会的のまた思想的の一大混乱時代が出現したのである。
 更にマルサスの理論的背景を特殊的に英国について見るに、常識的世論が人口増加の擁護にあったことはヨオロッパ一般と同一であるが、マルサス的思想においてもまた欠けるところはなかった。なかんずくジェイムズ・スチュワアトはこれをいわゆる学問的に1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、ジョウジフ・タウンスエンドはこれを試論的に2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]、論じて余すところがなかった。しかるにフランスにおいてその端を開いた3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]人口減少の危惧は、英国に渡って極めて広汎にわたる人口論争を惹き起しており4)[#「4)」は縦中横、行右小書き]、またフランス革命勃発後はいわゆる『英国におけるフランス革命』と呼ばれる英国史上空前のの社会的混乱が経験されていた。この後の問題は特に緊急なものであった。従って『英国におけるフランス革命』に対する鎮静剤たる理論は一つの必然であり、かつそれがマルサス的内容を有することは可能であったのである。
 1)[#「1)」は縦中横] 彼は人口と食物との両増加力の関係をその全経済理論の出発点としている。James Steuart ; An Inquiry into the Principles of Political Oeconomy : etc. London 1767.
 2)[#「2)」は縦中横] 彼がフアン・フェルナンデスの山羊と犬との例を引いて貧困を論じたことは、極めて有名である。Joseph Townsend ; A Dissertation on the Poor Laws. London 1786. Do. ; A Journey through Spain etc. 2nd ed., London 1792.
 3)[#「3)」は縦中横] Charles de Secondat, Baron de La Br□de et de Montesquieu ; Lettres Persanes. 1721. Do. ; De l'Esprit des Lois. 1748.
 4)[#「4)」は縦中横] 英国においてはこの論争は二つの形で行われた。その一は英国自身に関するものであり、人口減退を主張するものは前掲のリチャアド・プライス、その反対者は、Arthur Young (A six Months Tour through the North of England : etc. Vol. IV. 1771. Do. ; The Farmer's Tour through the East of England. etc. London 1771.), John Campbell (A Political Survey of Britain. etc. 1774.), William Eden (Four Letters to the Earl of Carlisle, etc. London 1779. Do. ; A Fifth Letter etc. London 1780.), William Wales (An Inquiry into the present State of Population etc. London 1781.), John Howlett (An Examination of Dr. Price's Essay), George Chalmers (An Estimate of the Comparative Strength of Great-Britain, etc. 1782.) 等である。
 もう一つは、マルサスが『人口論』でかなり詳しく触れているところの、古代世界と当時とに関する Hume-Wallace Controversy である、―― Robert Wallace ; A Dissertation on the Numbers of Mankind etc. Edinburgh 1753. David Hume ; Political Discourses. Edinburgh 1752 : Discourse X. Of the Populousness of Antient Nations.
 いわゆるマルサス的理論が単に識者の口にするに過ぎないところであり、常識的世論が人口増加の擁護であった時において、マルサスがこの常識論を正面から排撃する立場に立ったことは、なるほど世人を驚かしたことであろう。しかし単にこの事実をもって吾々はマルサスのすさまじい反響を説明することは出来ない。実に彼れの『人口論』の第一版は社会思想史上において完全に比類なきほどの反響を惹き起した。悪罵と賞讃とは共にそれに雨と注いだ。しからばそれは右の如き俗論の徹底的排撃によるものであろうか。それが事実でないことを知るためには、単にタウンスエンドを振返るだけで十分である。けだし彼は既にこのことをマルサス以上に徹底的に行っていたのであるから。ではそれは何によって説明せらるべきであろうか。上述の如くにそれがこの内在的理論の故をもって説明し得ないとすれば、勢いそれは外部的事情すなわち社会的役割によって説明せられる外はない。しかるにマルサスはその基礎理論の上に立って二つのことを解決せんとしたのであった。人口論争における人口減退の問題がその一であり、『英国におけるフランス革命』における社会の一般的永続的改善の可能性の問題――貧民法の問題を含めて――がその二である。しかるに人口論争においては勝敗の数は既に明かであったのであり、しかもフランス革命に関する論争が起って後はそれはかなりに世間の視聴から隠れてしまっていた。従って『人口論』第一版の出版の年たる一七九八年の遅きに至ってマルサスが現代の人口のより多きを立証せんとしたところで、それは世間の視聴を惹くべくもなかったのである。結局彼れの反響の基礎は、フランス革命によって惹き起された英国特権階級の不安を最も適時にかつ俗耳に入り易い形で排除した点にある、と云うべきである。もちろん平等の社会への憧れを抹殺し去ったのはマルサスをもって最初とはしない。しかしながらフランス革命の主動勢力が一七九二年を境としてジャコバンの手に落ち、英国における『通信協会』がジャコバンと手を結ぶに至って後、英国の社会情勢が著しく逼迫を告げるに至って後に、人口原理を根拠として平等主義を正面から克服せんとしたのは、マルサスをもって最初とする。ここにマルサスの名声の真の根拠が存在するのである。
        三
 この絶大な『人口論』のポピュラリティに最も驚愕したものは、おそらく著者マルサスその人であったかもしれない。ところがこの書は時事問題を論ずるいわゆる試論であり、学究的なまたは philosophical な論究ではない。そこで第一版の望外な成功に自ら驚いたマルサスは、海外旅行と多大な読書とによって多数の資料を蒐集した上、一八〇三年の第二版においては、第一版の試論的性質を捨ててこれに代えてそれを一つの論究の書とするにつとめた。かくて努力の主観的目標は、時論の追及から原理の歴史的証明へと転向した。すなわち第一版においては若干の頁を割かれたに止った人口原理を実証する歴史的記述の部分は著しく拡張され、それは尨大(ぼうだい)な第二版の約二分の一を占めることとなった。彼れの主観的意図のこの変更は、両版の書名の比較によって知ることが出来る。すなわち、――
 第一版―― An Essay on the Principle of Population, as its affects the future Improvements of Society, with Remarks on the Speculations of Mr. Godwin, M. Condorcet, and other Writers.
 第二版―― An Essay on the Principle of Population ; or, A View of its past and present Effects on Human Happiness ; with an Inquiry into our Prospect respecting the future Removal or Mitigation of the Evils which it occasions. A new Edition, very much enlarged.
 かくて『人口論』第二版は第一版に比して著しく尨大なものとなったが、なお彼れの主観においては極めて重大なもう一つの変更がある。それは第三の妨げとしての『道徳的抑制』の導入である。第一版においては、より大なる力たる人口の力は、罪悪及び窮乏の二つの妨げのみによって、食物の水準にまで圧縮されるというのであったが、第二版においてはこの二つの妨げに加えて、『道徳的抑制』すなわち結婚し得る境遇に至るまで結婚を差控えその間道徳的生活を送ることを挙げている。この変更は論敵ゴドウィン自身の示唆によるものと想像されるが1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、マルサスはこの修正を極めて重視している。これについては『人口論』第二版の序言、その他その本文の関係箇所における彼自身の記述に詳しい。
 1)[#「1)」は縦中横] William Godwin ; Thoughts occasioned by the Perusal of Dr. Parr's Spital Sermon, etc. London 1801, pp. 72-75. Malthus ; Essay, Bk. III., Ch. III. : Observations on the Reply of Mr. Godwin.
『人口論』はその後しばしば版を重ねている。すなわち一八〇三年の第二版に続いて、一八〇六年には第三版、一八〇七年には第四版、一八一七年には第五版、一八二六年には第六版が現れている。これらはいずれも訂正増補を含むが、その中特に第二、第三、及び第五の諸版が甚だしい。今それら諸版の相照応する諸章を対照してみると次の如くである。
第五・六版 / 第三・四版 / 第二版 / 第一版
第一篇 世界の未開国及び過去の時代における人口に対する妨げについて / 第一篇 同上 / 第一篇 同上 / 
 第一章 問題の要旨、人口と食物との増加率 / 第一章 同上 / 第一章 同上 / 第一章 第二章
 第二章 人口に対する一般的妨げとその働き方について / 第二章 同上 / 第二章 同上 / 第一章 第二章
 第三章 人類社会の最低段階における人口に対する妨げについて / 第三章 同上 / 第三章 同上 / 第三章 第四章
 第四章 アメリカ・インディアンにおける人口に対する妨げについて / 第四章 同上 / 第四章 同上 / 第三章 第四章
 第五章 南洋諸島における人口に対する妨げについて / 第五章 同上 / 第五章 同上 / 第三章 第四章
 第六章 ヨオロッパ北部の古代住民における人口に対する妨げについて / 第六章 同上 / 第六章 同上 / 第三章 第四章
 第七章 近代牧畜民族における人口に対する妨げについて / 第七章 同上 / 第七章 同上 / 第三章 第四章
 第八章 アフリカ各地における人口に対する妨げについて / 第八章 同上 / 第八章 同上 / 第三章 第四章
 第九章 南北シベリアにおける人口に対する妨げについて / 第九章 同上 / 第九章 同上 / 第三章 第四章
 第十章 トルコ領及びペルシアにおける人口に対する妨げについて / 第十章 同上 / 第十章 同上 / 第三章 第四章
 第十一章 印度及び西蔵における人口に対する妨げについて / 第十一章 同上 / 第十一章 同上 / 第三章 第四章
 第十二章 支那及び日本における人口に対する妨げについて / 第十二章 同上 / 第十二章 同上 / 第三章 第四章
 第十三章 ギリシア人における人口に対する妨げについて / 第十三章 同上 / 第十三章 同上 / 第三章 第四章
 第十四章 ロオマ人における人口に対する妨げについて / 第十四章 同上 / 第十四章 同上 / 第三章 第四章
第二篇 近代ヨオロッパ諸国における人口に対する妨げについて / 第二篇 同上 / 第二篇 同上 / 
 第一章 ノルウェイにおける人口に対する妨げについて / 第一章 同上 / 第一章 同上 / 第四章 第五章
 第二章 スウェーデンにおける人口に対する妨げについて / 第二章 同上 / 第二章 同上 / 第四章 第五章
 第三章 ロシアにおける人口に対する妨げについて / 第三章 同上 / 第三章 同上 / 第四章 第五章
 第四章 ヨオロッパ中部における人口に対する妨げについて / 第四章 同上 / 第五章 同上 / 第四章 第五章
 第五章 スイスにおける人口に対する妨げについて / 第五章 同上 / 第七章 同上 / 第四章 第五章
 第六章 フランスにおける人口に対する妨げについて / 第六章 同上 / 第八章 同上 / 第四章 第五章
 第七章 フランスにおける人口に対する妨げについて(続) /  /  / 第四章 第五章
 第八章 英蘭(イングランド)における人口に対する妨げについて / 第七章 同上 / 第九章 同上 / 第四章 第五章
 第九章 英蘭における人口に対する妨げについて(続) /  /  / 第四章 第五章
 第十章 蘇格蘭(スコットランド)及び愛蘭(アイルランド)における人口に対する妨げについて / 第八章 同上 / 第十章 同上 / 第四章 第五章
 第十一章 結婚の出産性について / 第九章 同上 / 第四章 同上 / 第四章 第五章
 第十二章 伝染病が出生、死亡、及び結婚の記録簿に及ぼす影響 / 第十章 同上 / 第六章 伝染病が死亡記録簿に及ぼす影響 / 第四章 第五章
 第十三章 以上の社会観察による一般的推論 / 第十一章 同上 / 第十一章 同上 / 第六章 第七章
第三篇 人口原理より生ずる害悪を除去するものとしてかつて社会に提案されまたは実施された種々な制度または方策について / 第三篇 同上 / 第三篇 同上 / 
 第一章 平等主義について、ウォレイス、コンドルセエ / 第一章 同上 / 第一章 同上 / 第八章 第九章
 第二章 平等主義について、ゴドウィン / 第二章 同上 / 第二章 同上 / 第十、十一、十二、十三、十四、十五章
 /第三章 ゴドウィン氏の駁論に関する考察 / 第三章 同上 / 
 第三章 平等主義について(続) /  /  / 
 第四章 移民について / 第四章 同上 / 第四章 同上 / 
 第五章 貧民法について / 第五章 同上 / 第五章 英国貧民法について / 第五章 第七章
 第六章 貧民法について(続) / 第六章 貧民法問題の続き / 第六章 同上 / 
 第七章 貧民法について(続) /  /  / 
 第八章 農業主義について 第九章 商業主義について 第十章 農商併行主義について 第十一章 穀物条例について、輸出奨励金 第十二章 穀物条例について、輸入制限 / 第八章 富の定義について、農業及び商業主義 / 第八章 同上 / 第十七章
 第八章 農業主義について 第九章 商業主義について 第十章 農商併行主義について 第十一章 穀物条例について、輸出奨励金 第十二章 穀物条例について、輸入制限 / 第九章 農業及び商業及び商業主義の種々なる結果 / 第九章 同上 / 
 第八章 農業主義について 第九章 商業主義について 第十章 農商併行主義について 第十一章 穀物条例について、輸出奨励金 第十二章 穀物条例について、輸入制限 / 第十章 穀物輸出奨励金について / 第十章 同上 / 
 第十三章 富の増加が貧民の境遇に及ぼす影響について / 第七章 同上 / 第七章 同上 / 第十六章
 第十四章 一般的観察 / 第十一章 人口及び豊富についての一般の誤謬について / 第十一章 人口及び豊富についての一般の誤謬の主たる源泉について / 
第四篇 人口原理より起る害悪の除去または緩和に関する吾々の将来の展望について / 第四篇 同上 / 第四篇 同上 / 
 第一章 道徳的抑制及びこの徳を行うべき吾々の義務について / 第一章 同上 / 第一章 道徳的抑制及びこの徳を行うべき吾々の義務の根拠について / 第十八章 第十九章
 第二章 道徳的抑制の普及が社会に及ぼす影響について / 第二章 この徳の普及が社会に及ぼす影響について / 第二章 同上 / 第十八章 第十九章
 第三章 貧民の境遇を改善する唯一の有効な方策について / 第三章 同上 / 第三章 同上 / 第十八章 第十九章
 第四章 この方策に対する反対論を考察す / 第四章 同上 / 第四章 同上 / 第十八章 第十九章
 第五章 反対の方策を実行せる諸結果について / 第五章 同上 / 第五章 同上 / 第十八章 第十九章
 第六章 貧困の主要原因に関する知識が政治的自由に及ぼす諸影響 / 第六章 同上 / 第六章 貧困の主要原因に関する知識が政治的自由に及ぼす影響 / 第十八章 第十九章
 第七章 同じ問題の続き /  /  / 第十八章 第十九章
 第八章 貧民法の漸次的廃止の企画を提唱す / 第七章 同上 / 第七章 同上 / 第十八章 第十九章
 第九章 人口に関する通説を訂正する方法について / 第八章 同上 / 第八章 人口の問題に関する通説を訂正する方法について / 第十八章 第十九章
 第十章 吾々の慈善の方針について / 第九章 同上 / 第九章 同上 / 第十八章 第十九章
 第十一章 貧民の境遇を改善する種々なる企画 / 第十章 同上 / 第十章 貧民の境遇を改善せんがためにかつて提案された種々なる企画の誤謬について / 第十八章 第十九章
 第十二章 同じ問題の続き /  /  / 第十八章 第十九章
 第十三章 この問題に関する一般的原理の必要について / 第十一章 同上 / 第十一章 同上 / 第十八章 第十九章
 第十四章 社会の将来の改良に関する吾々の合理的期待について / 第十二章 同上 / 第十二章 同上 / 第十八章 第十九章
附録 / 同上 /  / 
〔註〕傍点は訳者の施せるもの。
 以上の対照は章別のみに関するものであるが、これによって既に各版の間に大きな差異の存することが知られる。そして通常は、各版の間の差異は、第一版と第二版との間に限られるようなことが云われているが、これが決して事実でないことがわかる。しかも各版の間の差異は決して単に章別のみに関するものではなく、更に同じ章の中でもまた各版の間に大なり小なりの差異が存するのである。従って『人口論』各版の差異なるものは、普通に想像されているよりも遥かに大きいものであることがわかるのである。
 ではかかる各版の外形的差異によって、理論的内容の上にいかなる変化がもたらされたかというに、その詳細は以下の本文自身が物語るであろうから、ここでは敢えて取り上げないが、ただその理論的差異を解釈する上でのいわゆる『導きの糸』をここに与えておくことは決して無用ではなかろう。
 吾々は既に『人口論』第一版の社会的意義が、『英国におけるフランス革命』に対する英国特権階級擁護にあることを見た。この特権階級は、国王、貴族、僧侶、大地主、大資本家等の雑多な要素を含むものであり、ラディカリズムの階級的支持者たる小資本家、小生産者、労働者、無産無職者等に対する意味においてのみ一体をなしていたものである。しかるに『英国におけるフランス革命』が彼らにとり勝利的に終るにつれ、今度はナポレオン戦争の進行に伴って、特権階級の内部における封建的要素とブルジョア的要素との対立が激化して来た。これは主として穀物価格の騰貴による地主利益と資本家利益との対立によるものである。この対立は経済学の範囲においてはマルサス対リカアドウの対立となって現れた。すなわち前者は封建利益なかんずく地主利益の擁護者となり、後者は資本家利益の擁護者となった。すなわち『人口論』は版が進むにつれて、資本家利益に対する封建利益の擁護者としてのマルサスの役割がますます明瞭に露呈されて行くのが見られるのである。
『人口論』各版の進むにつれて見られるもう一つの顕著な点は、その反労働者性である。時の進行につれ地主階級と資本家階級の対立は鮮明になって行ったが、これと共にまた、資本家階級と労働者階級との対立も激化して行った。そして、地主利益の関する限りにおいては反資本家階級的であったマルサスも、事が資本家対労働者の関係に関するものであり、しかも地主階級利益がそれと関しない限りにおいては、今度は反労働者階級的な資本家階級擁護者としてますます明かに現れるのである。
 以上二つの観点に立って『人口論』各版の差異を見る時に、その真価は最もよく理解せられ得るのである。
        四
 既に述べた如くに、マルサスの『人口論』はその出現の時以来、実に異常の反響を喚び起し、悪罵と賞讃は雨の如くにこれに注いだ。すなわちそれに対しては善意悪意の無数の反撃が行われているが、それにもかかわらず、それはまたその出現後まもなく経済学の名著の一つとなり、それは連綿として今日に及んでいる。従って経済学または社会思想を論ずる著書でこれを紹介しまたは批評しないものはほとんどない状態である。だからマルサス批判の書は真に汗牛充棟も啻ならざるものがあるのである。しかしここでは到底その全部を紹介することは出来ないから、極めて簡単な一瞥(いちべつ)を与えてみることとする。
 マルサス『人口論』に対する諸批判は、肯定的批判と否定的批判とに分って見るのが便利であろう。前者はマルサス説の大綱はこれを認め、それに若干の加工を加えることによって、これを『発展』せしめんとするものであり、後者はマルサス説の誤謬を指摘してこれを否定せんとするものである。吾々はまず肯定的批判を瞥見(べっけん)して後、否定的批判を見よう。
 吾々は右に、マルサスが既に『人口論』の後版において反労働者的な資本家擁護論を説きはじめていることを述べた。しかしこれは、地主階級の利益に触れない限りにおいて、という条件附きのことであって、彼れの理論の主たる擁護利益はどこまでも地主階級利益にあったのである。そこで、肯定的批判の第一歩は、マルサスの理論から地主的色彩を払拭し、これを純然たる資本家階級理論とすることによって行われた。これはいわばマルサスの手を離れて後のマルサス説の第十九世紀的存在状態なのであり、私がマルサス説の第二期と仮称するところのものである。
 このマルサス説の第二期は前後二段に分たれる。すなわちその前半はいわゆる収穫逓減の法則の人口理論への採用と労賃基金説の成立とに至るまでの時期であり、その後半はこれが卑俗化され俗流化された後に労働運動無効論=反社会主義の形で大衆の中に宣伝され浸透して行く時期である。そしてこの前後二段の時期を境するものは、ジョン・スチュワアト・ミルである。
 マルサス説の第一期から第二期への転換を成就し、前者における地主階級的色彩の一掃に理論的に寄与したもの、すなわちそれの第二期の前半を代表するものは、ジェイムズ・ミル、ナソオ・ウィリアム・シイニョア、ジョン・ラムゼイ・マカロック、及びジョン・スチュワアト・ミルである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。そしてかくして成立した純資本家理論としてのマルサス説こそが、いわゆる労賃基金説である。
 1)[#「1)」は縦中横] James Mill ; Elements of Political Economy. London 1821.Nassau William Senior ; Two Lectures on Populations, etc. London 1829.John Ramsay McCulloch ; The Principles of Political Economy : etc. Edinburgh 1825. Do. ; A Treatise on the Circumstances which determine the Rate of Wages and the Condition of the labouring Classes, etc. London (2nd ed.) 1854.J. S. Mill ; Principles of Political Economy etc. 1848. マルサス説の第二期においては、主題は当然に労働者階級の労賃である。すなわち労賃基金説においては、総労賃は労働者に分たるべきところの生産された既与の食物量なのであり、これが労働者に分たれて労賃となる、というのである。これを有名な用語をもってすれば、分子は総労賃=食物量であり、分母は労働者数であり、商は労賃である。従って労賃基金説によれば、重大な結論が随伴することとなる。分子は既に生産された既与のものであるから、商すなわち労賃を大ならしめるためには、分母すなわち労働者数を減少する以外にない、ということになる。換言すれば、労働者数の減少を企てずして労賃の引上を行えば、その結果は失業の増加となって現れざるを得ない。かくて労賃の引上を目的とする労働運動は労働者階級全体にとっては自殺的行為となることとなる。――労賃基金説はかくて有力な反労働運動論、反社会主義論となった。
 労賃基金説はジョン・ミルによって理論的に完成され、同時に彼によって抛棄された。すなわち彼は、フランシス・ロンジ及びウィリアム・トマス・ソオントンの批判を受けて、この説を淡白に抛棄した1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。しかし、この説は、経済学史上抛棄されたこの日から、大衆の中へ下向して俗流化し、反社会主義論、産児調節論として大きな実践的結果を挙げることとなるのである。
 1)[#「1)」は縦中横] Francis D. Longe ; A Refutation of the Wage-Fund Theory etc. London 1866.William Thomas Thornton ; On Labour, Its wrongful Claims and rightful Dues etc. (2nd ed.) London 1870.J. S. Mill ; Thornton on Labour and its Claims. Fortnightly Review, for May, 1869. 俗流化常識化された労賃基金説の宣伝用特別版の作者は、一八七七年に設立された『マルサス主義連盟』に集まったもの、なかんずくC・R・ドライスデイル及びアンニ・ベサント夫人である。彼らはこの国際的組織に拠って、反社会主義と産児調節の宣伝のために倦むことを知らぬ活動を続けた。そしてそのために、多数の集会や講演会を催し、各種の印刷物を無数に印刷配付し、社会主義者と果敢執拗な闘争を行い、また法廷事件を利用してその勢力を増大することを忘れなかった1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
 1)[#「1)」は縦中横] 『連盟』の出版物中で最も有名なのは、その機関誌 The Malthusian 及びパンフレット Annie Besant, The Law of Population etc. であり、また法廷事件として最も有名なものは "Fruits of Philosophy" case 及び Dr. Allbutt case. である。
 マルサス説は再転してその第三期に入る。それはすなわち第二十世紀におけるマルサス主義であり、または帝国主義時代におけるそれである。
 第二十世紀は恐慌と窮乏の時代であり、侵略的戦争の時代である。それはかくて『持てる国と持たざる国』の理論を作り上げ、過剰人口の圧迫による侵略戦争の合理化を試み、戦争準備のために労働運動圧伏のために新装の労賃基金説を発明する。それは今日の吾々としては詳細に縷説(るせつ)する必要がないほど生々しい事実である。ここではただ、その理論的代表者として例えばルウドウィヒ・ミイゼス1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、実践的代表者として第二次大戦終了に至るまでの日・独・伊の政策の如きを、挙げるだけで十分であろう。
 1)[#「1)」は縦中横] Ludwig Mises ; Ursachen der Wirtschaftskrise. 1931.
 次に、マルサス人口理論の否定的批判に至っては真に無数に存在すると云い得るように思われる。けだし上述の如くに、マルサス以後の経済学または社会思想に関する著書にしてこれに触れぬものはほとんどないと云っても差支えなく、しかもそれは一言なりとも批評的な言辞を弄しないものはまずないからである。
 しかしながら、よく考えてみると、それに対する否定的批判は実は思ったほど多くは存在しないのであることがわかる。けだし否定的批判が真に否定的批判であり得るのは、問題の論者が単にこれを否定せんとする意図を有ったというだけでは足りないのであって、真にその批判がこの否定を全面的にまたは部分的に行ったという事実によるのであるからである。
 そもそもマルサス人口理論における根本的致命的誤謬は二つの点にある。その第一は、いわゆる人口原理なるものを樹立するに当って採用されている孤立化という方法であり、その第二はかかる普遍的自然的原理が直ちにもって歴史的人類に対しその特殊な段階に関係なく無条件に適用され得ると考える点にある。そして真の否定的批判と称せらるべきものはこれらの点に関して行われた批判のみに限られるのである。
 まず第一の点から見るならば、マルサスにおける人口はそれ自身としての人口であり、また食物はそれ自身としての食物である。それらは絶対化され孤立化されている。しかし実は、食物を食う人口なるものも、これを食う人口に対しては食物である。例えば鰯はそれ自身の食物を有ちながら同時にそれを食うものに対しては食物である。しかるにマルサスにあっては、鰯の人口は鰯の人口であって鰯たる食物となることのないものである。実は生物のある種はマルサスにおけるが如くにそれ自身として存在するものではなく、自然界における密接不可離の相互関連と複雑多様な交互作用の中ではじめて自己自身たることを得るのである。従ってはじめから個別化された種そのものはあり得ない。反対に、存在するものは全生物界における存在の生産及び再生産であり、全体の種における総連関である。むしろ特定の種は、かかる総連関の中においてのみ特定の種であり得るに過ぎぬ。かくて探究は当然に全体から出発しなければならぬ。そしてここに、個別化され絶対化された部分から出発するマルサス人口理論の根本的誤謬が存在するのである。
 孤立化された部分ではなく、全体から出発するならば、全自然界における人口と食物とは一つの均衡を形成している。すなわち全自然界における生命は、全体としては、食うものと食われるものとに分たるべきであって、この二つの均衡がない限り生命の持続は不可能である。もとよりこの均衡は内的及び外的の原因によって絶えず破壊される。しかしこの均衡破壊の運動と同時に、均衡再建の、または新らしい均衡形成の、反作用が働く。従ってここに云う食うものと食われるものとの均衡は、一つの動的均衡であるということになる。そして特定の種の増殖の秩序は、全体としてのこの動的均衡の中においてかつこれに対してのみ決定されるのである。
 例えば鰯をとろう。マルサスによれば、鰯はその食物以上に増殖するので、過剰のものは他の餌食になる。
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