一商人として
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:相馬愛蔵 URL:../../index_pages/person1148

   序言

 この書には中村屋創立当時から現在までの推移をほぼ年代を追うて述べているが、店の歴史を語る主意ではない。店員たちに平素抱いている私の考えを取りまとめて話したいと思い、すべて自分の体験に即して商人の道を語ろうとしたので、勢いこの体系をなすに至った。私の店は、累代のしにせでもなければ親譲りの商家でもない。元来私は農家出で、一書生として青年期を送り、たまたま志を商売に起し夫妻力を協せて今日に至ったのである。したがって私の言うところは素人の考えにすぎない。世間の人は私に向かって中村屋が繁昌する秘訣を話せと云い、商売のコツを教えてくれなどと云う人があって、そのつど私は当惑する。自分は商家に生れたのでないから、いわゆる商家伝来の秘訣も何も知らぬ、もし中村屋の商売の仕方に何か異ったものがあるとすれば、それはみな素人としての自分の創意で、どこまでも石橋を叩いて渡る流儀であり、また商人はかくあるべしと自ら信ずる所を実行したまでのものである。したがって、自分だけが行い得られて人には行われないというようなものは絶対にない。ゆえに我が店員はもとより、かつての我々と同様、新たに商売を営もうとする人には多少の参考にもなろうかと思い、ひとえに後より来る人々への微衷よりして筆を執った次第である。
 また「主婦の言葉」は、妻が私の言い漏らしたものを追補する意味で執筆したのであって、これもすべて若き人々への愛より語るものである。妻はさきに「黙移」を著し、相馬一家の自伝的なものはそちらに述べているのであって、本書はどこまでも「一商人として」の著であることを一言しておく。

  昭和十三年六月

相馬愛蔵[#改丁]

 本郷における創業時代

    郷里信州を出(い)づ

 孔子は「三十にして立つ」と言われたが、私は三十二歳で初めて商売の道に入った。つい昨日のことのように思うが、それからもう三十七年経ち、今年は六十九歳になった。しかし私はまだ素人だという気がしている。中村屋は今でも素人の店だと思うている。商売に縁のない家に生れ、まるで畑違いの成長をした人間が、どこまでも素人の分を越えないで、こつこつと至って地味に商売をしているのが中村屋である。素人のすることだから花々しいものは何もない。が、この素人は人の後についてここまで歩いて来たのではない。中村屋の商売は人真似ではない。自己の独創をもって歩いて来ている。したがって世間と異(ちが)うところがあって、何故ああ窮屈に異を樹(た)てるのかと不審がられる向きもあろう。世間の例によらない商売の仕様をするので、お得意先に御不便なこともあろう。店員諸子にしても年少の人たちの中には、店の仕来(しきた)りに従うて仕事をしながらも、何故そうするのか解らないでいるものがないとも言えない。私は自分が独自の道を歩いて来たのだから、誰にも真似をせよとは言わない。各人各様の道があり、私の店にいる諸君が、他日中村屋を出て、自ら新機軸を立て、大いに個性を発揮して新商道を起してくれることをこそ望むのであるが、それにつけてはまず自分の経験したところを話し、中村屋の商売の仕振りをよく理解してもらうとともに、将来の参考ともならばと思うのである。

 私が三十二歳にもなって商売に志したのは、自分が生れつき勤め嫌いで、あくまで独立独歩、自由の境涯を求めたことに原因するのはいうまでもないが、それとともにもう一つ直接の動機となったものがある。それは信州の田舎に嫁して来た私の妻が、風俗習慣の違いと安易な田園生活に希望を失い、精神的苦悩から心身疲労して病気になり、行末危ぶまれる状態となったので、病気療養とともに何らかここに新たな生活を起す必要があったのである。
 私は信州、妻は仙台、この二人の結婚の動機も、いま考えると不思議なところにあった。自分は早稲田を卒業後郷里に帰って、専(もっぱ)ら蚕業の研究に没頭し、ついにその研究の結果を記述して「蚕種製造論」なる一書を出版した。この書は我が国蚕業界の進歩改善に少しは貢献するところがあったと今でも自信するが、五版を重ね、全国蚕業家の注目するところとなって、その原理による蚕種を方々から頼んで来るようになり、私もその依頼に応じて、どうやら蚕種製造が私の仕事のようになった。
 当時栃木県那須野ヶ原に、本郷定次郎氏夫妻の経営する孤児院があった。これは明治二十四年の濃尾大震災に孤児となった子供を収容するために、同氏が全財産を投じ一身をなげうって設立されたものであった。私はかねてこの事業に深く同感していたことではあり、ちょうどそこで養蚕をやると聞いたので、自分の製造した蚕種を寄贈し、どうかよい成績をあげてくれるようにと願っていると、やがて本郷氏がはるばると信州に訪ねて来られて、私の贈った蚕種が非常な好成績をもたらしたことを報告された。私は氏の丁重な訪問を感謝し、かたがた一度氏の仕事を見たいと思ったので、その冬の閑散期を利用し、那須野ヶ原を訪ねて氏の孤児院を見舞った。
 ところがここで私は意外な光景を見た。当時その孤児院の仕事は相当に聞えていて、世間の同情も厚いことであるから、院児たちは氏の庇護の下に不自由なく暮しているであろうと思いのほか、食べたい盛りの子供たちに薄いお粥が僅かに二杯ずつより与えられないという窮状であった。子供たちが本郷夫妻に取りすがって『も少し頂戴よ』『頂戴よ』と哀願するのに、氏はそれを与えることが出来ない。私はこれを黙視するに堪えず、幸いいま自分には暇があることでもあり、少しでも孤児院のために義金を集めることが出来たらと考えて、まず東北仙台に向かった。
 何故仙台に行ったかというと、仙台にはその頃東北学院長として、基督教界の偉人押川方義氏が居られた。私は早稲田在学時代、牛込教会に通うて基督教を聴き、大いにその感化を受けて、信州に帰郷後は伝道をも助け、禁酒禁煙の運動をも行っていたほどで、まだ面識はなかったけれど、押川先生には大いに信頼するところがあった。
 幸いにも私が仙台に入った日は日曜日で、ちょうど仙台教会に押川先生の説教があった。私は汽車から降りたままで教会に行き、先生の説教の後を受けて、孤児院の窮状を会衆に訴えた。どんなふうに話したかおぼえていないが、反響は意外に大きかった。大口の寄付の申し出もあり、相当の額が集まったので、私は孤児院のためじつに嬉しく、自分の誠意の容れられたことを深く感謝した。
 この寄付金募集が機会となって、その後押川先生を初めその教会の人々と親しく交わるようになり、やがてこれが旧仙台藩士の娘、星良を妻に迎える縁となったのである。良は、彼女がその著「黙移」の中で言っている通り、押川先生の教え子であり、先生の高弟島貫兵太夫氏は兄弟子に当り、幼年時代からその懇切な指導を受けたものであった。すなわち押川先生と島貫氏の媒酌で、明治三十年、私の許(もと)に嫁いで来たのである。式は私が上京して牛込教会で挙げた。私は二十八歳、良は二十二歳であった。
 良は最初田園の生活をよろこび、私の蚕種製造の仕事にもよき助手として働くことを惜しまなかったが、都会において受けた教養と、全心全霊を打ち込まねば止まぬ性格と、それには周囲があまりに相違した。その中で長女俊子が生れ、次いで長男安雄が生れた。するとまたその子供の教育が心配されて来る。良はとうとう病気になったので、私は両親に願って妻の病気療養のため上京の途についた。俊子は両親の許に残し、乳飲子の安雄をつれ、喘息で困難な妻を心配しながら、徒歩で十里の山道を越えて上田駅に向かった。時は明治三十四年九月のことである。
 東京に着くと妻は活気をとり戻し、病気も拭われたように癒(い)えた。この上京を機会として我々は東京永住の覚悟を定め、郷里の仕送りを仰がずに最初から独立独歩、全く新たに生活を築くことを誓い、勤めぎらいな私であるから、では商売をしようということになったのである。

    パン屋を開く

 さて商売をするとはきめたが、商いどころか、日々入用のものを買うことすら知らぬ我々である。何商売をすればよいものか、軽々しく着手すれば失敗に終るにきまっていた。これは素人の弱味ということに充分の自覚を持ってかからねばならぬと思われた。そう考えると、昔からある商売では、玄人の中へ素人が入るのだから、とうてい肩をならべて行かれそうもない。むしろ冒険のようには見えても、西洋にあって日本にまだない商売か、あるいは近年ようやく行われては来たが、まだ新しくて誰が行ってもまず同じこと、素人玄人の開きの少ないという性質のものを選ぶのが、まだしもよさそうであった。
 そこで思いついたのが西洋のコーヒー店のようなものを開くことであった。上京後仮りに落着いたのが本郷であったから、ちょうど大学付近で、この店はいっそう面白そうに考えられた。そうだ、それがよかろうと夫婦相談一決して、いざ準備にかかろうとすると、もう一足お先に、本郷五丁目青木堂前に、淀見軒というミルク・ホールが出来てしまった。残念ながら先を越されて、私はもう手の出しようがなかったのである。さすがは東京だと、私はその機敏さに舌を巻いた。
 次に眼をつけたのがパンであった。パンは初め在留の外人だけが用いていたのがその頃ようやく広まって来て、次第にインテリ層の生活に入り込みつつあった。けれどもこのパンが一時のいわゆるハイカラ好みに終るものか、それとも将来一般の家庭に歓迎され、食事に適するようになるものか、商売として選ぶにはここの見通しが大切であった。これは自分らで試してみるが第一と、早速その日から三食のうちの二度までをパン食にして続けてみた。副食物には砂糖、胡麻汁、ジャム等を用い、見事それで凌いで行けたし、煮炊きの手数は要らぬし、突然の来客の時などことに便利に感じられた。
 こうして試みること三ヶ月、パンは将来大いに用いられるなという見込がついた。もうその年も十二月下旬であったが、萬朝報の三行広告に「パン店譲り受け度(た)し」と出して見ると、その日のうちに数ヶ所から、買ってくれという申し込があった。がその中につい近所帝大前の中村屋があったのにはびっくりした。それは私がこの三ヶ月間毎日パンを買っていた店で、しかも場所柄なかなか繁昌していたから、まさかその中村屋が売りに出ようとは思いもよらなかったのである。話をして見ると、商品、竈、製造道具、配達小車、職人、小僧、女中、といっさいを居抜きのまま金七百円で譲ろうという。
 さてその金策であったが、幸い同郷の友人望月幸一氏に用立ててもらうことが出来て、首尾よく交渉成立し、九月以来の仮寓を引き払っていよいよ中村屋に移ったのは、その年も押し詰った十二月三十日であった。その日から私はパン屋となったのである。
 これで中村屋という屋号の由来も解ってもらえるであろう。中村屋はこうして偶然に譲り受けた名であって、世間で想像されるように相馬中村の因縁があってつけたものではないのである。
 さてその本郷の中村屋だが、私はそこで明治四十年まで営業した。新宿に移転後は、私にとり最初の子飼いの店員であった長束実に譲り渡した。惜しいことにこの長束は早く死んだので、店はまた他に譲られたが、現在もやはりそこに中村屋と称して存続している。

    五ヶ条の盟

 中村屋は相当に売れている店を譲り受けたのであるから、我々にとっては全くの新天地でも、店としてはいわゆる代がわりしただけのことであった。新店を出したのとは違って、初めから売れるか売れないかの心配はなく、ある程度の売上げは当てにしてよかったのである。けれどもそこに危険がある。店が売れているのに失敗したという先の主人中村萬一さんの二の舞いを、うっかりすれば我々が演じることになるのである。ことにそちらは玄人こちらは素人、いっそう戒心を要することであった。
 そこで私は中村さんがこの店を手離さねばならなくなった失敗の原因を、店の者にも質し、人からも聞き、また自分でも周囲の事情に照して考えて見た。すると、先主人中村さんは商売にはなかなか熱心であった、お内儀(かみ)さんもしっかりしていたと誰もが皆言う。それがふと米相場に手を出し、ずるずるとそちらの方に引張られて行って損に損を重ね、とうとう債鬼に責め立てられて店を離さねばならなかった。相場は魔物だ、中村さんも魔物に憑(つ)かれてやりそこなった、と世間の人々は言うのであった。しかしなおよく聞いて見ると、この夫妻は商売に熱心ではあったが、だいぶ享楽的であった。朝も昼も忙しいが、その間にも肴(さかな)を見つくろっておくことは忘れず、日が暮れれば夫婦で晩酌をくみ交して楽しむ。そういう時雇人たちは自然片隅に遠慮していなければならなかった。むろん美食は自分たちだけのことであって、職人や小僧女中たちはいわゆる奉公人並みの食事、昔からある下町の商家のきまりともいうか、とにかくこの差別待遇で、万事に主人側と雇人との区別がきちんとしていた。
 それから夫妻とも信心家で、二十一日は川崎の大師様、二十八日は成田様、五日は水天宮様、というふうに、お詣りするところがなかなか多い。むろん中村さんとしては商売繁昌をお願い申しに詣るのであって、これも商売熱心の現れには違いないが、同時に楽しみでもあって、夫婦ともその日は着飾って出かけて行った。いったいにみなりを構う方で、流行に応じて着物を拵えていた。
 これでは主人夫婦の生活費と小遣いに店の売上げがだいぶ引かれ、一方雇人たちは粗食に甘んじて働かねばならぬ。しごく割のわるい話である。
 ことに相場に手を出してからは、無理なやりくりで店の原料仕入れも現金買いは出来なくなり、すべて掛け買いで、それも勘定が延び延びになるから、問屋も安くは売らない、少なくも一割くらいは高く買わされていた。そんな高い原料を使い、おまけにそういう暮し方をしていたのでは、少々店が売れたところで立ち行く筈はないのである。
 我ら夫婦はこの先代の失敗のあとを見て、互いに戒しめ、
営業が相当目鼻のつくまで衣服は新調せぬこと。
食事は主人も店員女中たちも同じものを摂(と)ること。
将来どのようなことがあっても、米相場や株には手を出さぬこと。
原料の仕入れは現金取引のこと。
 右のように言い合わせ、さらに自分たちは全くの素人であるから、少なくとも最初の間は修業期間とせねばなるまい。その見習い中に親子三人が店の売上げで生活するようでは商売を危くするものであるから、
最初の三年間は親子三人の生活費を月五十円と定めて、これを別途収入に仰ぐこと。
その方法としては、郷里における養蚕を継続し、その収益から支出すること。
 この案を加えて以上を中村屋の五ヶ条の盟とし、なにぶん素人の足弱であるから慎重の上にも慎重を期して、いわゆる士族の商法に陥らぬよう心がけるとともに、店を合理的に建て直すことに力を注いだ。
 私も妻も衣食のことには至って淡泊で、享楽を求める気持もないから、これらの条々に従うのにさしたる無理もなく、かえって店員たちと同じに生活し、いっさい平等に働くところに緊張があり大いに愉快を感じるのであったが、困るのは現金仕入れの一条であった。
 当時の私としては借金して店を買ったのが精いっぱいで、開業早々あとには何程の所持金もない。さればとて郷里の両親に送金を頼むということも出来なかった。病気療養のために上京した年若い夫婦がそのまま東京に止まるさえ不都合というべきに、いわんや全く無経験の商売に手を出すなど危険千万、両親から見れば呆れ果てたことであったに違いない。頼んでやっても送ってくれる筈はないのである。私たちとしてもむろん自力でやって行きたかった。
 幸い子供の貯金がまだ手をつけずにあった。私どもは子供が生れた時から、将来教育費に当てるつもりで少しずつ積んで行き、こればかりは自分の所有にないものとして考えていたのであるが、見ると三百円になっている。無心の子供に対して勝手なようで気が引けたが、一時これを流用することにして現金仕入れを実行した。
 おかげで原料が安く手まわり、一方雇人たちも今度の主人の真剣さを理解してくれて皆々気を揃えて働き、それに我々の生活費を見込まぬという強味もあって、製品ははるかに向上し、これまでより良い品が売れることになったのである。
 すると有難いもので店の売上げは日に日に上向き、間もなく二、三割方の増加を示すようになった。こうなると五ヶ条の最後の一つ、国元の養蚕収益から支出するということは要らなかった。どうやら一個のパン屋として、苦しいなりにも独立自営の目途がついたのであった。
 私の母校東京専門学校の大学昇格資金に、金壱百円を寄付することが出来たのは、たしかそれから一年後であった。まず最初の三年計画が一年で行われたような結果であった。

    コンミッション排斥

 書生上がりのパン屋というので当時は多少珍しかったものか、婦女通信社から早速記者が見えて我々の談話を徴し、書生パン屋と題して大いに社会に紹介された。
 この記事が出ると、今まで知らずにいた人も『ははあ、中村屋はそういうパン屋か』とにわかに注意する。大学や一高の学生さんで、わざわざのぞきにやって来るという物好きな方もあって、妻もまだ年は若かったし、さすがに顔を赤くしていたことがあった。
 そんな関係からだんだん学生さんに馴染(なじみ)が出来て、一高の茶話会の菓子はたいてい中村屋へ註文があり、私の方でも学生さんには特別勉強をすることにしていた。
 ある日その一高の学生さんが見えて、一人五銭ずつ八百人分の註文があった。ところがその後へ小使いが来て『今日寄宿舎に入る四十円の一割を小使部屋へ渡してもらいたい、八人で分ける』という。私は、学生さんから直接の註文であること、また学生さんのことなのですでに特別の勉強をしてあることを話し、小使いの要求に応じる筋はないと言って断った。
 すると彼は意外な面持(おももち)で『他の店ではどこでも一割出す習慣になっている、それをこの店だけが出さぬとあれば、容器(いれもの)などはどんな扱いをするか保証出来ないが』そこで私は『それも宜(よ)かろう、君らは学校から俸給を貰っていて学生の世話が出来ないというのであれば、君らの希望通り、明日から学生の世話をしなくともよいように取り計って上げよう』早速学校の当局に出向いていまの言葉をそのままに話して来ようと強硬な態度を見せたところ、その小使いは驚いて逃げて帰った。あらたまって飛んで来たのが小使頭で、彼は前の小使いの失言を詫び入り、どうぞ内聞に願いたいと頼むのであった。私も気の毒になって、それではと菓子一袋ずつを与えて帰した。昔の一高の小使いなどというものは、出入り商人に対してこの通り威張ってコンミッションを取ったもので、今日から見ればまさに隔世の感がある。
 コンミッションの問題はほかにもあった。中村屋も最初のうちは卸売りをした。本郷から麹町隼町、青山六丁目辺りまで、毎日小僧が卸しにまわる。そのうち大手町の印刷局へ新たに納入することになったので、その届け役を私が引き受けた。雨の日雪の朝、一日も欠かさず、本郷から神田を通って丸の内まで、前垂掛けで大きな箱車を曳いて、毎朝九時には印刷局の門をくぐった。
 それが約一年ほどつづいたが、もうその頃かつての早稲田の学友の中には、官吏の肩書を聳(そび)やかしているものもあり、その他の知人間でも私のことはだいぶ問題になって『奴も物好きな奴さ』と嘲笑して終るのもあれば、『何だ貴様は小僧のようなことをして、我々卒業生の面汚しじゃないか』などと、途中出会って面詰するのもある。むろん私としては、別にきまりがわるいとも辛いとも思うことではなく、むしろ友人には解らぬ快味があったのである。
 とにかくそうして私は印刷局通いをしたが、その最初の日のことであった。『オイオイ、出門の空車は必ず我々の検査を受ける規則になっている、無断の通行はならんよ』そう言って私を呼び止めた門番氏は、次には声をやわらげて愛想笑いさえ見せて『どうだね、中村屋は有名だから、職工らも今日から良いパンを食べられて喜ぶだろうな。ところで君の店には鷲印ミルクはあるかネ、明朝一ダースだけ頼む、家内がお産をして乳不足で困っているから、忘れずに』
 私は門番氏の月給はいくらか知らなかったが、鷲印ミルクとはちょっと解し難いことであった。当時鷲印ミルクは舶来の最上品であって一個三十銭(今日の一円二十銭見当)の高価で、なかなか贅沢品と見られていたものである。
 翌朝、私は試みに一缶だけ持参すると、彼はすこぶる不興気に声をあららげて『君、一ダースの註文だよ、たった一缶とは不都合じゃないか』私もそこで当意即妙に、『私は毎日来るのだから、新しいの新しいのと届ける方がよいでしょう。ところで代価ですが、私の方は現金主義ですから三十銭頂戴しましょう』
 彼は代価は明日残り十一個分と引換えに渡す、という。私は前の代金を払われぬうちは残りを持参せぬというわけで、次の日から毎日この三十銭を請求した。彼が別の門に出ている日はわざわざそこまで請求に出かけて行った。何でも一月あまり請求しつづけたと思う。これが他の門番はもちろんのこと、その他の間にも評判となって、さすがの彼も兜をぬいで渋々(しぶしぶ)三十銭を払い、『あとはもう要らないよ』と悲鳴をあげたことであった。それ以来他の門番衆も私にだけは決して註文しなかった。彼らは、新しく出入りする商人に対してはきまって何かしら註文し、代を支払った例がない。彼らはこれを役得としているのであった。つい弱気な商人たちはそれと知りつつも煩(うる)さいので求められるままに持参し、十人ほどの者から三、四円ずつの損害を蒙らぬものはなかったそうである。もちろん私はそういうことは後で聞いて知ったのだが、どこに行っても万事この通り、私は決して彼らの不正には屈しなかった。
 その私の曳いて行く箱車には、もと陸軍御用の文字が入っていた。それは先の中村萬一さんが陸軍に食パンを納めていたからで、御用という字が一種の誇りにもなったのであろう。私は譲り受けるとすぐこの御用の字を塗りつぶしてしまった。私は御用商人が嫌いであった。明治維新以来、政府と御用商人との切っても切れない因縁は、いまさらここに事新しくいうまでもない。今日天下の富豪となり授爵等の恩命に浴した人々も、その源に遡れば多くはこの御用商人として政府の御用を達し、同時に特別の恩寵に浴して今日の大を成したものが多いのである。私は御用商人必ずしも非難すべきものとは言わない。そこには奉公の精神をもって立派にその務めを果たしたものもあろう。しかしとにもかくにも御用商人と特別の恩寵とはつきものであって、御用商人がその恩寵に対して、一種の卑屈と追従に陥るのもまた免れ難いことであると思う。それゆえ私は大きくとも小さくとも御用商になることが嫌いだ。兵営の酒保に堅パンを納入したパン店が、時々当番の下士の小遣いを調達させられたことも耳にしたし、その他大会社に品物を納めるとては、なおいっそうの奉仕を強要されたことも聞いている。一高の小使いの上前取りもそれだし、印刷局の門番の鷲印ミルクもその例に洩れないのである。私はそれらのところへパンを納入しても、あるいは大量註文を受けても、御用商人的な考えは少しも持っていないのであったから、彼の無法な要求には断然従わなかった。またたとえそういうことで得意を失うとしても未練はないと考えていた。爾来(じらい)我が中村屋は三十余年を通じて、一回たりともコンミッションに悩まされたことはない。すなわち御機嫌取りを必要とする向きにはいっさい眼をくれなかったのである。同時にまた、これが我が中村屋の急速に大を成さなかった所以(ゆえん)でもあると考えている。
 この問題について人のことながら思わず会心の笑みを洩らしたことがある。ついでに記すが、今から数年前のこと、中村屋を出て大阪に行き、菓子の卸売りをしている者があって、例年の如く東京に見学に来て、昔を忘れず私の所へ寄ってくれた。私は彼が卸売りをしているというので、『大商店や百貨店等に品物を入れるには相当のコンミッションが必要だというがどうだ』と尋ねて見た。すると彼はいささか面目なげにうつむいていたが『旦那様に虚言(うそ)を申すわけには参りませんからありのままをお話し致しますが、実際上一割ぐらいのコンミッションは、今のところ一般に必要と致します。私も中村屋に居りまして、御主人からあくまで良品を製造して正直な商売をせよと御教訓にあずかっておきながら、これではまことに申し訳ないと存じますが、どうも商売が出来ませんのでやむを得ず眼をつむって習慣に従うて居ります。しかし小林一三さんの阪急百貨店は、一銭のコンミッションも要りません。年末にごく軽少なものを仕入部主任に持参しましてたいへん叱られたことがあります。それで私の方もここだけには正味ですから確かな品を納めることが出来まして、とても愉快に感じて居ります』
 私はこの話を聞いて、阪急百貨店の将来を大いに頼母(たのも)しく思い、仕入部その他多数の使用人に対して、断然袖の下を謝絶させるだけの力のある小林さんは、当代ちょっと他に類なき人物であると考え、それ以来ひそかに畏敬していたことであった。果たせるかな、今日の氏の活躍はあの通りである。
 私のところは小林さんなどには比すべくもない小人数だが、それでさえ全くコンミッションの弊風を絶滅するには、かなり長年月の苦心を要した。世間がそんなふうであるから、私のところでも仕入部主任という地位はじつに危ない。他の係では無事に勤められたものが、ここに昇進して来るとたちまちにして過失をする。今はようやく理想的になったが、ここに至るまでに幾人かの犠牲者を出したことは、私にとってもじつに悲しい思い出である。

    同業者の囮(おとり)商略

 その頃中村屋の近くに、中村屋よりもはるかに優勢で、めざましく繁昌する食料品店があった。この店ではミルク、バター、ジャム、ビスケット等を、ほとんど仕入原価で売っていた。近所で、しかも同じ商品を扱っている中村屋としては、じつに迷惑なことであった。私の経営方針は、店の経費が償われて職人その他の雇人に世間並みの待遇さえ出来れば、それ以上の利益はなくとも宜(よろ)しいという信念に立っていたから、薄利多売大いに同感であるが、その店のようにミルクやジャムをほとんど無手数料で売っていたのでは、いくら売れたにしても店の立ちようがない。そんな商売は無茶というものであった。それでもその店は見事やって行く。どうも不思議だ。仕入れが安いか、何かぬけ道があるか、どうも正直な頭では解しかねることであったので、私はなおもその店に注意し、また相当の対抗策もなくてはならぬところであるから、いろいろ熱心に研究していた。
 するとある日のこと、横浜の貿易商が来て私に、葡萄酒、コニャック、シャンパン等を売って見ないかという勧誘をした。私はかつて郷里において禁酒会を組織したほどで、飲酒の害は知りぬいていたから、それを自分の店で売ることなど思いもよらない。で、膠(にべ)もなく拒絶した。しかし彼はなかなか引き退(さが)らない。私の最も気にしているところの例の店を指して、『あの店がミルクやジャムであれだけの安売りをして立って行けるわけをあなたは御存じですか』と、期するところあり気にいう。つづいて『それはこの洋酒や西洋煙草を売るからですよ。洋酒はだいたい卸値の二倍に売るもので、これあればこそ食料品の安売りが出来るのです、食料品は囮(おとり)ですよ』
 なるほど、この説明で私の長い間の疑問は解けた。それならば進んで、その店の安売りを中止させる手段(てだて)は――。勧誘子はさらに語をついで『中村屋もせめて滋養の酒だけでも店において、他の品同様に二割くらいの利益で販売なすってはどうです。そうすれば洋酒の客はみなこちらへ来るから、あの店の財源はたちまち涸渇する。それでは食料品の安売りも出来ないという順序でしょう』
 どうだこの種あかしを聞いては、嫌でも洋酒を売らざるを得ぬであろう、と言わんばかりの説明であって、折が折とて私もこれに動かされた。それではと葡萄酒ほか二、三の洋酒を店におくことにした。
 さてお得意先へも洋酒販売のことを披露すると、翌日内村鑑三先生が入って来られた。『今日のあなたの店の通知、あれは何ですか』内村先生は逝去せられて今年はもう八年になるが、故植村正久先生、松村介石先生とともに当時基督教界の三傑と称せられたもので、明治大正昭和に亘(わた)って思想界宗教界の巨人であった。ことにその厳として秋霜烈日的なる人格は深く畏敬せられ、自(おの)ずと衆人に襟を正さしむるものがあった。そして中村屋にとってはじつによき理解者で、最初からの大切なお得意であった。
『私はこれまであなた方のやりかたにはことごとく同感で、蔭ながら中村屋を推薦して来ました。その中村屋が今度悪魔の使者ともいうべき酒を売るとは……私はこれから先、御交際が出来なくなりますが』『酒を売るようではあなたの店の特色もなくなります、あなたとしてもわざわざ商売を選んだ意義がなくなりましょう』私は全く先生の前に頭が上がらなかった。他の店の狡猾な手段を制するためとはいえ、つい心ならずも酒を売ろうとしたのだ、全く面目次第もないことであった。私がそこでただちに洋酒の販売を中止したことはいうまでもない。
 こんなふうで、その店の囮商略はずいぶん中村屋を悩ませた。世間には理解のあるお客様ばかりはない。商売は儲かるものと思い、だから安く売ろうと思えばいくらでも安く売れるのだと考えている人が、まだ世間には多いのである。そういう人はこの囮商品の安値に釣られ、正しい値段で売っている方を暴利と見る。誠実な商人にとっては迷惑この上もないことである。
『商売は儲かる』という人は、売上げから元値を引けば、後はそっくりそのまま利益として残るものとでも見るのであろうが、商売はそんなに易々(やすやす)とは行われていない。お客の需(もと)めに応ずるために各種の品物を常に用意し、買ってもらえば袋とか箱とかに入れ、紙で包み紐をかける。配達でもすればなおさらのことだ。いうまでもなく家賃、税金、装飾、電燈電話料、従業員の食費給料、むろん主人家族も生活せねばならない。それらの経費を弁ずるために、仕入値におよそ二割を加算するのが、昔から商売の約束とされてある。日本は生活費が安いから二割で足るが、物価の高い米国ではなかなかこの程度では済まない。最低二割五分、上は四割、五割に達して、まず平均が三割二、三分となっている。
 とにかく我々の店で薄利多売を主義として理想的の経営をするとしても、最低一割五、六分の経費は必要であって、それに些少の利得を加算して二割の販売差益を受けるのは当然のことである。官吏が俸給を受け技師が設計費を取るのと、何ら異なるところはないのである。
 それを小売商人が他の店との競争意識にとらわれて、二割要るところを一割ぐらいにして客を引くと、それでは実際の経費を償うに足らぬのであるから、この無理はどこかへ現れなくてはならない。すなわち問屋の払いを踏み倒すか、雇人の給料を不払いにするか、家賃を滞(とどこ)らすか、いずれにしても不始末は免れないのだ。それゆえ実際の経費以下の利鞘で販売する商人は、真の勉強する商人ではなくて、他に迷惑を及ぼす不都合な商人というべきである。
 以上私が近所の店の囮(おとり)商いに悩まされたのは三十数年の昔で、時代はそれよりたしかに進んだ筈であるが、いまだにこの囮商いは廃されない。例の一つをあげて見ると、数年前のこと都下の某百貨店で、七月の中元売出しを控えて角砂糖の特価販売をした。当時角砂糖は市価一斤二十三銭、製造会社の卸原価が二十銭でこの利鞘が一割五分であるから、これは大勉強の値段であった。この同じ角砂糖をその百貨店では一斤十八銭売りとして広告を出したから、市内の砂糖商は驚いた。これは明らかに角砂糖を囮にしたものであって、たとえ原価を二銭も切って角砂糖では損をしても『安いぞ』という印象で砂糖に釣られて他の商品がよく売れるから、損はただちに埋め合わされ、かえって幾倍かの利益を見ることが出来る。百貨店のこの計画はたちまち砂糖店の問題となった。中元売出しを目の前にしてたくさん仕入れた砂糖が、これでは客を百貨店に取られて、どこもみな品を持ち越さねばならない。そこで砂糖店側では組合長の宅に集まって、善後策を相談した。その結果組合長が電話で製造会社に問い合わせて、会社がその百貨店に売り渡した数量は二十五斤入り三千箱一万五千円であることを確かめ、一同はただちにつれ立ってその百貨店に行き、売場に積み上げてある七百箱を買い取り、さらに一千箱の予約註文を出した。先方は狼狽した。こう大量に引き上げられては無益に千余円の損失を見るわけだ。さすがに砂糖商の苦肉の策と察してただちに陳謝し、囮の特価販売を中止する代りに、砂糖店側でも一千箱の予約註文だけは取り消してもらいたいと頼んだ。砂糖店の方でも百貨店をいじめるのが目的ではなく、やむを得ずこの挙に出たのであったから了解してこの事件を解決した。
 中村屋の店員諸子もやがて私のところを出て独立すれば、一度は必ずこういう試練に会うことであろう。願わくは酒を売ろうとした私の過失を君たちにおいて繰り返すことなかれ、いわんや自ら不誠実にして他人迷惑な囮商略を弄するものとなってはならない。

    賞与の銀時計

 やはりその時分のこと、中村屋の近くに村上というパン屋があって、ちょっと他の店にない美味しいパンをつくり出し、フランスパンと称して売っていた。そのパンは学生さんたちに特に好評でよく売れたが、中村屋ファンの学生さんたちはフランスパン、フランスパンと言いながら、やはり私の店の方へ来てくれる。そして顔を見るたびに『中村屋でも村上のようなパンを売り出せ、出来ないことはないのだろう』というわけで、私も何とかしてフランスパンを拵(こしら)えなくては済まなくなった。
 そこで職人にいいつけて研究させるのだが、彼らが何と苦心しても、そのパンのような美味しいのは出来なかった。私も残念であったが、お客様の方でもまだかまだかという催促でじつに困った。ところが一月ほどすると、長束実という少年店員がとうとうそれを造り出した。しかも食べくらべて見ると、村上のよりも美味しいくらいの出来であった。
 私は大いに喜んだ。これでこそ中村屋も恥かしくない、中村屋ファンのかねての信望にも報いることが出来るのであった。早速それを製造して売り出した。お待ちかねの学生さんたちも『これはいっそう上等だ、よく出来た』と言って喜び、友人たちにも大いに吹聴してくれた。店はいっそう売れるようになった。
 さてこの長束実は、中村屋が私のものになった最初に入店したもので、まだ小僧であったが、常から真面目で勤勉で研究心に富み、じつに感心な少年であった。果たして今度そういう手柄をしたのであるから、私はこれこそ表彰して他の店員の模範とすべきだと考え、賞与として長く記念に残るようにと銀時計を買って与えた。むろん店はじまって最初のことであった。純情な長束少年はこれを非常な光栄と感じ、いっそう仕事を励むとともにその時計を大切にして、つい数年前死去するまで、約三十年というもの、肌身離さず愛用し、死んで行く枕元にさえちゃんと飾っていたほどであった。
 しかし後になって考えると、この銀時計を彼にのみ与えたことは私の大きな過失であった。フランスパンの製造のことでは皆が苦労したのであったのに、長束が成功して彼だけが称揚され銀時計をもらった。長束はうまいことをした、我々も苦心においては長束に劣らなかったつもりであるのに、主人は苦心を見てくれない。いったい主人はふだんから長束に目をかけていたようだ、我々は骨折り損だという気がして、店員全体にその後しばらく面白くない空気を醸(かも)した。なるほどと私は考えた。一つの商店は一家である。店主は店員の親であって、店員たちは店主の子であるとともに、古参新参のへだてなく、みな仲の好い兄弟でなくてはならない。兄弟は喜びも悲しみも共にすべきであって、そのうちの一人が優れていたからといって、親はそこに差別待遇をしてはならぬのであった。長束の手柄を褒めて一般店員の奮起を促そうとした私の態度は、長束には感謝されても、他の店員には気の毒なことをしたのであった。これは彼らが不満を抱くのは無理もない、たしかに自分が不明であったと、私は心ひそかに愧(は)じたのであった。
 私はこの失敗に気づいて以来、どんなことがあっても大勢の中の一人二人だけを褒めるということはしなくなった。店員は一家族である、親子兄弟の家族の中に見ても生れつきはそれぞれ異うのであって、他人が寄ればなおさらある者は力において優れており、ある者は智慧(ちえ)において勝り、またある者はその善良さにおいて、その勤勉さにおいて、親切さにおいて、これら各々の持ち前を出し合って一つの仕事一つの生活を支え合うところに家族の面白さがあるのである。賞すべき時は全店員を賞すべきであり、その労を慰める時は全店員を同じに慰めるべきである。そうしてこそ人各々の持ち前に応じた進歩があり、調和がある。現在中村屋では店員諸子を他に招いて御馳走する時も、芝居や相撲見物に我々が同行する時も、幹部から少年店員に至るまですべて同待遇である。特にその中の誰々だけを優遇し、誰を貶(おとし)めるということはしない。そういう差別待遇は中村屋の制度のどの方面にも絶対に存在しないのである。
 ただ罰する場合だけは、なるべく少数を罰して、他を警める方針を採っている。

    内村鑑三先生と日曜問題

 内村鑑三先生はある時私に対(むか)って『日曜日だけは商売を休んで、教会で一日を清く過ごすことは出来ませんか』と勧められた。
 一週に一日業務を休んで宗教的情操を養うことは望ましいが、我が国の如くいまだ一般に日曜休みの習慣なくかえって商売の最も多いその日を休むことは営業上にも宜しくない上に、多数のお客様の便利を考えぬ身勝手な仕方であると思い、これは先生の忠言にも従うことが出来なかった。
 その頃日本橋通りにワンプライス・ショップという洋品店があり、また神田に中庸堂という書籍店があって、どちらも日曜を休みにしていた。私もふだん忙がしい店員に十日目に一日くらいの休みを与えたいと思いながら、それさえ実行しかねていた時であったから、商売の最も多い日曜日の休業を断行しているこの二つの店の勇気に敬服し、なお絶えず注意し、どうなって行くものであろうと見ていた。気の毒なことに私の不安な予想が当って、中庸堂は破産し、ワンプライス・ショップは日曜休みを廃止してしまった。ああ私もあの時理想を行うに急で日曜休業を実行していたとしたら、中村屋も同じ運命を免れなかったに違いない、危いことであったと思った。
 いったい基督教が日本に拡がりはじめた明治の頃は、基督教徒に一種悲壮な頑固さがあった。そういう人々は基督教の精神を外来の形のままで行おうとして、風俗伝統を異にする我が国の実状とその伝統の根強さを無視してかかり、自身失敗するに止まらず、傾倒して来た多くの人々を過まらせた例が世間にじつに多いのである。
 昭和三年に私は欧羅巴(ヨーロッパ)の方へ行って見たが、いうまでもなくそれらの国々は基督教国であるけれども、パリ、ロンドン、ベルリンなどの都市で、我々のような菓子屋が日曜だからとて休業するのは見受けられなかった。欧州でさえこの状態である。時代と共に推移することもあろうし、何によらず型にはまってその通り行わねばならぬとすると、この通り間違いがある。休日問題に限らず、何事にも欧米の慣習を鵜呑(うのみ)にするのは危いと思われた。

    店頭のお客様が大切

 本郷の大学付近は、今は他の発展に圧されて目立たなくなったが、その時分はあれで学者学生の生活を中心に、その時代としての新鮮味を盛り、それらの店の中には本郷の何々といわれてかなり魅力を持ったものがあり、あの辺り一帯なかなか活気のあったものである。ちょうど三丁目の所には旧幕時代からつづいている粟餅屋があって、昔一日百両の売上げがあったという誰知らぬものない名代の店であった。
 私はある日そこへ粟餅を買いに行ったが、店が閉めてある。早稲田大学の運動会に売店を出して全員総出をしたから、店の方は一日休業だということであった。私はその時、この店は必ず破滅するなと直感したが、果たして間もなく閉店してしまった。
 運動会の一日の売上げが平日の幾倍に当り、どれほどの儲けがあるか知らぬが、そのために一日店を閉め切り、当てにしてわざわざ出向いて来て下さる常得意のお客に無駄足をさせる。こんな仕方をすれば多年どれほど売り込んだ老舗であっても、得意の同情を失って破滅に至るは当然である。
 この粟餅屋のような極端な例は別としても、大量の臨時註文というものを持って来られるとなかなか思い切れないものらしく、無理をして引き受けて失敗した例は世間にいくらもある。
 私の方でも店が繁昌し、製品が少し評判になって来ると、学校その他から四時折々の催しにつけて売店の勧誘を受けるようなり、中には前々からの関係で断りにくい場合もあったが、私は店にそれだけの余力がないことを話してお断りし、その他の臨時の註文も店の製造能力から考えて、無理と思われるものは辞退し、いつも地道に店頭のお得意第一と心がけて来た。店も多い中に特に自分のところへ御註文下さるとあっては、たとえ無理をしてもお受けせねばならぬと思うのが人情であり、またせいぜい勉強して先様のお間に合わすということも平常の同情に報ずる道であって、それを思えばつい店員を励まして非常時的努力を試みたくもなるのである。だが人間はそんなに無理の利くものではない。註文の時間に後れるとか間に合わせの品が出来るとかして、とかく不成績に終り、その上店売の製品には手がまわらなくて、せっかく出向いて来て下さったお客様に、あれもございませんこれも出来ませんでしたという不始末になる。人の能力に限りのあることを思えば、かような結果はただちに予想されるのであって、したがって無理は出来ないということになるのである。
 私のところの経験によると、人は緊張すれば一時的には、平常の働きの五割増くらいまでの仕事をすることが出来るが、それ以上を望めば必ず失態を生じ、またその時は何とかなっても、後になって疲労が出て著しく能率を減ずる結果になったりする。もっとも世間には五割増どころか、いざとなれば平日の二倍も三倍もの仕事を無事に仕上げることが出来るという者がある。しかしその人が緊張時において本当に平日の二、三倍の仕事が出来たとすれば、それは平日充分の能率をあげていなかった証拠であって、それこそ大いに研究を要するところである。
 この特別勤労の五割増も、精いっぱいの働きからさらに五割の力をしぼり出せるというのではなく、平日の働きが自ずから調和のとれた働きである時に初めてそれだけの緊張を予想することが出来るのであって、解りやすい例でいえば、一様に何時間労働という中にも、米国の工場における八時間は、機械が主になっていて、人は機械に従い、機械につれて速力的に働かねばならぬのであるから、自主的の労働と大いに趣きを異にし、常に緊張そのものであらねばならない。そうして彼方ではこの緊張した労働の限度を八時間としているのであって、日本のまだそれほどに機械化しておらぬ我々商店の労働をこれに較べると、彼の八時間はこれの十二時間とほぼ匹敵するであろう。それゆえ一週に一日くらいは大いに緊張して平日の五割増くらいの仕事をするのに困難はなく、したがって翌日の仕事にたいして影響するほどのこともない。それゆえ臨時の仕事を引き受ける場合は平日の五割増程度に止め、それ以上欲張ることは慎しまねばならない。
 ゆえに能率が平均して向上するのでなければ、店の売上げが全体的には増加しても、最高最低の差が甚だしくては経済的にはかえって安心出来ないのであって、高低の差の少ないことが最も望ましい。理想としては売上げが毎日平均し、したがって店員の働きも平均されるのをもって上々とする。しかし商売はお客様次第、こちらでどんなに平均しようと望んでも、売れる日と売れない日があり、平均の成績は望むべくしてじつはとうてい得られるものでないが、せめて平日を基準として最高五割増、最低三分の二を下らぬよう経営の安全を計るべきである。

    日露戦役当時の思い出

 ここにまた日露戦争当時、軍用ビスケット製造の話がある。日露の戦端が開かれた明治三十七年は、私がパン屋になって第三年目、ようやく少し経営にも道がついて、おいおい自家独特の製品を作り出そうと研究怠りなき頃であった。国内は軍需品製造で大小の工場が動員され、軍用ビスケットの製造に都下の有力なパン屋が競って参加し、一時非常な景気を呈した。納入価格はたしか九銭二厘であったと思うが、平均一店一日の製造高が五千斤にも上るという状態であったから、その利益はおよそ一割と見て毎日四十五、六円を下らぬ計算であった。
 当時私の郷里長野県選出の代議士で川上源一という人があり、ある日店に来て仕事の様子を見て、『君もこれだけの工場を持っているのだから、一つ軍用ビスケットを製造してはどうだ、関係当局の方は私が斡旋する』と言って勧められた。私は川上氏の好意を感謝したが、『いや私はまだ素人です、軍用ビスケットの製造は私には大仕事すぎます』と言い、手を出す気のないことを答えた。
 川上氏は『それは惜しい、今は二度と得難い飛躍の機会だ、勇気を出して是非やって見るよう』と再三推し勧められたが、私はやはり従わなかった。自分のような経験の浅いものがそういう離れわざを試みるのは全く僭越の沙汰だ、きっと成功しない、とほんとうにそう考えていたからである。
 川上氏は私の頑固なのに呆(あき)れて帰られたが、当時そういうよい手蔓(てづる)がありながらこの仕事に乗り出さぬというのは、あまりに臆病すぎる話であったかも知れない。実際この製造に参加した店々はその後も毎日莫大な利益を上げ、職人の給料なども一躍三倍という素晴しい景気を見せて、その上納入数量はますます増加する、どこまで進展するか知れぬという有様であった。が、間もなくこの仕事の成行きを見るに及んで、私はやっぱり間違わなかったことを知った。軍用ビスケットの需要が大きく、製造工場が争うて原料を吸収する結果、原料はついに一割五分高となり、ビスケットを入れて満州に送る箱材料の松板は三、四割高、箱の内張りのブリキ板と燃料の石炭は一躍して二倍という暴騰であった。
 さてこうなって見ると、初めのうちは毎日数十円の利益を見て有頂天になっていたものが、今度は反対にその利益を吐き出して欠損を補い、それも出来なくなると、何しろ勢いに乗じて工場を拡張していただけに打撃が大きくて、破産また破産、参加した七、八軒が揃ってじつに気の毒なことになってしまった。ビスケットばかりでなく、他の食料品や酒類の納入者もだいたいパン店と同様の悲運に陥った。私ももしあの時手を出していたなら、これら先輩同業者と同じ失敗をし、中村屋も破産したに違いない。誘われながらこれを免れたのは何という幸運であったか。

    新菓発売のよろこび

 さらに開業第三年目の思い出の中には、新案クリームパンとクリームワップルの二つがある。私はかねて中村屋を支持して下さるお得意に対し、これはと喜んでもらえるような新製品を何がな作り出したいものと心がけていたが、ある日初めてシュークリームを食べて美味しいのに驚いた。そしてこのクリームを餡(あん)パンの餡の代りに用いたら、栄養価はもちろん、一種新鮮な風味を加えて餡パンよりは一段上がったものになるなと考えたのである。
 早速拵えて店に出すと案の定非常な好評であった。それからワップルに応用し、ジャムの代りにクリームを入れて見たのである。ちょうどこの試作の時に島田三郎氏が折よく見え、早速一つ試食を願うと『これは美味しい、いいものを思いついた』と氏も賞讃され、店に出すと果たしてこれもよく売れた。
 クリームパンとクリームワップルはその後他の店でも作るようになり、今日ではもうありふれて珍しくもないが、こんなに拡がって日本全国津々浦々まで行き渡ったことは、私として愉快に感じる。
 なおこのついでに葉桜餅のことを言っておくのも無駄ではあるまい。これはだいぶ後で、大正も終りの方のことであった。五月も十日頃、我が淀橋町の役場から電話で、小学校生徒のために赤飯一石五斗の註文があった。ちょうど私が店にいたので電話で註文をきき、早速糯米(もちごめ)を水に浸けるように命じて帰宅したのであったが、翌朝行って見ると番頭から意外な報告である。それは役場からまた電話があって註文の取消しがあり、やむなく承知いたしましたが、その糯米の始末に困っておりますというのであった。
 私も驚いて、註文の間違いは役場にあって、この方には少しの手落もないものを、電話一つで損害の全部を引き受ける馬鹿があるかと叱っては見たものの、何としてもこの一石五斗の水に浸した糯米の始末には閉口した。
 そこで取りあえず、店で朝生(あさなま)と称している田舎、ドラ焼、そば饅頭などの製造をいっさい中止させ、その赤飯用の糯米を少しつぶして桜色をつけ、餡を入れて桜の葉に包み「新菓葉桜餅」として売り出して見た。するとこれが葉桜、季節に適うてまず新鮮な感じを呼んだことであろう、たいへんに受けて、拵えても拵えてもみな売り切れ、次の日と二日で一石五斗の糯米をきれいに用い尽してしまった。あまり良く売れるので引き続き毎朝製造し、およそ一月の間に二十石もの糯米を使用したほどであった。
 この葉桜餅も今日では全国に行き渡り、季節の感を新たにする菓子の一つとして愛されている。

    缶詰業の先覚豊田翁の卓見

 地方から東京に出て来て商売をしようという時、誰でも一度はきっとその故郷の物産を取り寄せて店におくことを考える。御多分に洩れず私も中村屋のはじめ、信州の杏の甘露煮缶詰をたくさんに仕入れ、これを店において大々的に売り捌こうとした。そしておきまり通り失敗した。東京には日本全国はもとより外国からも輸入されて、じつに多種類の食品が入り込み、それを自在に選択して用いている東京人であるから、その嗜好はじつに複雑で、いかに一地方で自慢の品だといっても、決してそれだけで満足はしないのである。
 地方ではそれが解らぬから、青森からは東京に林檎を出して失敗し、山形の「乃し梅」越後の「越の雪」岡山の「きびだんご」等々、地方の名物で、東京に販売所を出して失敗しないものはないと言ってよいくらい、どんなに地方で物産奨励と意気込んではるばる品物を輸送し、販売所を東京に設けて見ても東京の家賃は高い、一地方の名産の一、二種ぐらいを販売して立ち行くものではないのである。客の立場から見ても、青森の林檎がどれほど好ましかろうと、それ一種の籠詰ではちょっと進物になりかねる。信州の杏の缶詰もその通り、そこに気がつかなかったのは、私がやはり田舎者であったのである。
 私はまた、信州の山林にたくさん野生する山葡萄からジャムを造って売り出してはどうかと思い、缶詰業界の大先覚豊田吉三郎翁を訪問して教示を乞うた。翁はこれに答えて明快なる断定を下された。
『山葡萄はジャムとしては相当味わえるが、商品としては見込がない、あの通り山林に野生するものでごく低廉に手に入るところから、誰でも一度は考えて見るのだが、さてこれを商品として売り出すようになりますと、原料は年一年と払底して次第に山の奥深く入って採集せねばならなくなり、原料代は高くなって採集量はかえって少なくなるというのが順序です。で、せっかく販路が拡張されて相当の売行きを見る頃は、製品は逆に格高となり、終には中止せねばならない。そこへ行くと栽培果実を原料としての製品は、最初は天然物に比してはるかに格高であるが、販路拡張して多量に需要されることになれば、栽培技術は進歩し、製造機関は完成し、年一年と原価の引下げを見ることになって、商品としての価値はますます向上して行くものです。それゆえ山葡萄のような自然生のものは、自家用の原料としては適当ですが、商品としてはほとんど価値を認められません』
 私はなるほどと思い、その教えを深く感謝した。この山葡萄に着目したのは私ばかりでなく、福島県岩手県等でこれから葡萄液を製造することを思いつき、苦心研究中の人があった。私はそれらの人々にもこの豊田翁の言を伝え、その失敗を未然に免れしめることが出来た。

    割引券を焼く

 明治三十九年十二月は、我ら夫婦が中村屋を譲り受けてから満五年に相当した。『五年経った』この感懐は私の胸に深かった。書生上がりの素人が失敗もせずにどうやらここまでやって来たのだ、また店は日に日にいささかずつでも進展しつつある。これ偏(ひとえ)にお得意の御愛顧の賜物であると思うと、私は何かしてこの機会に謝恩の微意を表したくなった。そして思いついたのが開業満五周年記念として、一割引の特待券を進呈することであった。割引券も上品に美術的にと意匠して、正倉院の御物中にあるという馬を写して相馬の意味を通わせ、当時有名な凸版印刷会社に調製を頼んだ。
 その割引券一万枚が出来上がって間もなくのことであった。「松屋のバーゲンデー、売り切れぬ間に」という新聞広告が目についた。今の銀座松屋がまだ神田今川橋時代のことであった。二人の若い男女が急ぎ足で松屋に駆けつける絵入りの広告で、今なら百貨店の特価売出しは毎度のことだが、当時としては珍しく、思い切った試みをするものだと誰しもかなり興味を惹(ひ)かれた。私もこの広告に惹きつけられてわざわざ松屋に出かけて行った。
 割引場に入って見ると押すな押すなの大盛況で、その二室とも身動きもならぬ有様だ。私はなるほどこんなものかと、すなわち割引というものに対する大衆の心理に驚き、混雑に押されて外に出たが、他の各室の至って閑散なことはまた私に別の驚きをさせた。
 帰途電車の中でも、私はバーゲンセールについて、色々と考えさせられた。
『私は今日の広告を見て行ったから三割引で買物が出来たが、前日松屋で買物をした客はどんな気持がするだろう、同じ品を今日の客より三割高く買わされたという感じをしないものだろうか。そう思ったらずいぶん腹も立つことだろう』
『バーゲンデーは一週間限りだが、八日目に行った客はどんた気持がするだろう』
『店の方から考えても、日を限っての廉売をして一時的に多数の客を吸収することは、能率的に見てもまた経済的にも決して策を得たものではない。どちらから考えても割引販売ということはすべきでない』
 私は電車の中でこう断定を下した。店に帰ると家でも一割引の計画中だ。もう一万枚の割引券は立派に出来上がって来ているのだ。しかし『まあせっかくここまで準備の出来たものだから、今度だけはやってもよかろう』ということは、私には出来ないことであった。『割引売出しは中止だ』とばかり、割引券を取り出してパン焼竈に投じ、早速煙にしてしまった。
 爾来三十年、私の信ずるところは少しも変らない。世間でどんなに特価販売が流行し、買手の心がどんなにそこへ動いて行っても、我が中村屋は割引を絶対にしない。どこまでも正価販売に一貫した経営で立っている。すなわちその正価というものが、中村屋では割引など仮初(かりそめ)にも出来ないほんとうの正価に据えられているのであって、この正価販売への精進こそは我が中村屋の生命である。
 当時店員の中に、山梨県出身の白砂という少年がいた。これは今は陸軍主計大佐相当官になっているが、松屋の支配人故内藤彦一氏の甥であったので、私は自分の意見をこの少年から内藤氏に伝えさせた。『バーゲン・セールは中止する方が得策でしょう』と。
 その後も松屋は年々これを繰り返し、バーゲン・セールは松屋の年中行事となっていたが、銀座進出と同時にこれを廃(や)めてしまった。内藤氏が私の忠言に耳を傾けたのかどうかは知らぬが、他の百貨店が競って特価廉売景品等に浮身をやつす中に、現在松屋だけが超然としているのを見ると、私はじつに会心の微笑を禁じ得ないのである。

 正価販売の話のついでに、私はもう一つこのことを言いたい。
 現在森永の定価十銭のキャラメルが八銭で売られ、明治の小型キャラメルが三箇十銭で売られているのは周知の事実だが、信用ある大会社の製品がこんなに売りくずされているのを見るのはまことに遺憾である。
 世間ではこれを単に小売店の馬鹿競争と見ているようだが、私に言わせれば両会社の責任である。会社自身が互いの競争意識に引きずられて、一時に多量の仕入れをする者には割戻し、福引、温泉案内などの景品を付ける。したがって必要以上に多量に仕入れた商品は、それだけ格安に捌(さば)くことが出来るのみでなく、終には投売りもするようになる。この順序が解っているから両会社も市中の乱売者を取り締ることが出来ない。森永も明治も市内目抜きの場所にそれぞれ堂々たる構えで売店を出しているが、喫茶の方は別として、ここに来て会社の製品を買う客の意外に少ないのは、この定価以下の崩し売りが会社自身の売店では出来ないからであって、会社自身の不見識な商策から直営店の繁昌が望まれないことは、皮肉といおうか笑止といおうか、会社でもたしかに困った問題であろう。
 かつて森永が独占的地位を占めていた大正の初め頃、某百貨店が森永の製品を定価の一割引で売り出したことがあった。その時森永ではただちにその百貨店に抗議して、全国幾十万の菓子店の迷惑であるとて譲らず、ついに商品の輸送を停止してしまったことがある。百貨店側では自分の方の利得を犠牲にして客に奉仕するのに製造会社の干渉は受けないという言い分であったが、さすがに権威ある森永は、そんな商業道徳を無視するものの手で我が製品を売ってもらおうとは思わぬ、絶対にお断りするといって、二年間も頑張り通したのであった。
 ちょうどその頃、佐久間ドロップで会社が設立されて、製品が宜(よろ)しかったので私の店でも取引し、販売に尽力した。ところがある日お客から意外な叱言を受けた。
『このドロップは○○(森永製品の輸送を中止された店)では一斤四十銭で売っているのに、貴店で五十銭取るとは怪しからぬ』

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:231 KB

担当:undef