もつれ糸
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:清水紫琴 

「銀さんー」と、女は胸に手を差入れて、切ない思いをこらへながら、みんなあたしが悪かつたの、耐忍(かに)しておくれ、ねあたしだつて、何も酔興で、彼家へ嫁入つたといふのじやなしさ、お前さんも知つての通りな羽目になつて、よんどころなく、つひ……」
と男の面(かほ)をそつとながめて、ほろりとした。年の二十三か四でもあろう。頭髪(かみ)の銀杏返(いてふがえし)とうに結つて、メレンスと繻子の昼夜帯の、だらり、しつかけに、見たところ、まだ初々しい世話女房であつた。
「そりや、解つてらア」と、銀と呼ばれた男は、つつけんどんにいつた。酒に靡(な)へてか、よろめく足元危く、肩には、古ぼけた縞の毛布(ケツト)をかけていたが、その姿から見ると、車(くるま)夫ででもあろうか。年は女よりは三つばかり年長(としかさ)に見えた。
 大学の大時計と、上野の時鐘とが、言い合わしたように今、十時を打ち出して、不忍池畔の夜は更けた。その静けさを破つて、溝川を越えて彼方の町並を流し行く三味線(しやみ)の音がしんみりと聞こえる。秋といつても九月の末、柳は、もう大概落葉してしまつた。
「でもね。銀さん」と女は改めて呼びかけた。「そりや、あたしにア腹を立つてもおありだらうけども、何もね、伯母(おば)さんが知つておいでの事じやあるまいし、いつまでもそんな真似をしていて、伯母さんに苦労を掛けていやうといふの。……立派な手腕(うで)を持つておありだし、伯父さんの代からの花主(とくい)はたんとお有りだらうし、こころを入れ換へてさ。ちいと酒を控目にしてお稼ぎなら、直とむかしの棟梁になつておしまひだらうに、あのこんな事いつちや何だけど、お前その気は無いのかえ」
「無えー」
「無いつてお前……」と、女のことばはつまる。
「無えよ、うむー。正に無え、……俺(おいら)の手腕はとうにしびれッちまつた。手腕ばかりならいいが、脛も腰も、骨も肉も、ないし魂も根性もだツ、立派に腐つた……。しびれきつてしまつたてえ事ッ。碌でなしだからな」
 空を仰いで虹のやうな息を吐く。
「しようがないね」と、のみ、女はさらに愁然(しゆうねん)として、「お前さんは、そんなにおこつておいでだし、あたしアやる瀬がありやしない」
と、いつか、両袖で顔を隠してしまつた。あはれその心の底は、いかに激しく悶えるのであらう。肩頭(かたさき)よりかすかに顫(ふる)へた。

 しばらく経つてから、「お前そういつておいでだけども、ねえ、銀さん、何も時と時節だわね。そう一酷(こく)にさ、いや忌々しいの、腹が立つのといつていたんじや、一日だつて世の中に生きていられはしないよ、世の中が思つたり適つたりで暮らせる位なら、人間にア涙なんてえものァいらないものさ。それがある点(とこ)がうき世をいつたものじやないの。そりや銀さんは、あたしを不人情者とも、不貞腐(ふてくさ)れとも思つておいでだろう。もとよりあたしが非(わる)いんさ。非いにァちがいないけども、底には底のあるものだよ」
 と女はしみじみと語り出した。
 渠女(かれ)は、銀が三年以来(このかた)の惨澹たる経歴と、大酒飲みになつた事と、真面目(まじめ)に働くがいやになつた事と、この世には望みもなければ、楽しみといふものの光明も認められぬやうになつた事など、落ちも無く銀に語つて聞かされたのである。で、聞く一言一言が、渠女(かれ)の身に取ると、胸に釘を打たるる思ひ。その場へ昏倒するのではないかと思はれた事も幾度かであつた。渠女(かれ)は始終、涙と太息(ためいき)とで聞いてしまつて、さて心の糸のもつれもつれて、なつかしさと切なさとに胸裡は張り裂けんばかり、銀が今の身の上最愛(いとし)と思ひつめては、ほとんど前後不覚。よし自分の身辺にまつはる事情や行懸りをうつちやつても……。我が身を引ン裂いてなりと、まのあたり銀が餓えと恥辱に呵責(さいな)まるる苦痛をすくはうと煩悶した。あせつたのである。身□(あが)りしたのである。けれども、女の身の格別好いちえも分別も出なかつた。
 そこで女は、とやかう思案を煎じつめた挙句、「ままよ」とつぶやいたかと思ふと、さきにその所夫(おつと)から預けられて、問屋場へ持つて行くべき、少なからぬ、なにがしといふ金を懐中(ふところ)から取り出した。包みのまま、銀につきつけて、それでもつて撲(ぶ)ち殺してある、鉋(かんな)や鑿(のみ)や鋸や、または手斧(ておの)や曲尺(まがりかね)や凖(すみ)縄や、すべての職業道具(しようばいどうぐ)受け出して、明日からでも立派に仕事場へ出て、一人の母にも安心させ、また自分の力にもなつてくれるやうにと、縋(すが)りつくやうにして泣き且つ頼んだ。そして
「ねえ、お願いだから」
とこれが最後のことばであつた。
 けれども、性来執拗(ごうじよう)な銀は、折角の好意(こころ)も水の泡にしてしまつて、きつぱりその親切を、はねつけた。小気味よく承知しなかつた。渠(かれ)のいふ所によると、これでも舊(もと)は「大政(たいまさ)」ともいはれた名たたる棟梁の悴(せがれ)である。よし、母子二人倒死(のたれじに)するまでも、腹の中をからにして往生するにもしろ、以前、我が家の昌(さか)つた頃、台所から這ひずつて来て、親父の指の先に転がされて働いた奴等の下職人(した)とはなつて、溝板修覆(なお)しや、床などの張換へして鉋を磨いて痩腹(やせばら)膨らかすやうな、意気地の無い、卑劣(しみつたれ)な真似は、銀が眼の玉の黒いうちは、なんとしてやれぬといつた、いやだといつた。侮蔑(みくび)つて貰ふまいともいへば、心外だともいつた。つまり銀はあくまでも女の請(ねが)ひをはねつけたのであつた。

「お前がそういつて剛情を張つておいでのところを見ると、何(ど)うしてもあたしが彼家(あすこ)へ嫁入(いつ)たのを根にもつて、あたしを呵責(いた)めて泣かして、笑つてくれやうと思つておいでなのにちがひない。そりやあんまり酷(むご)いといふものじやないの、え、銀さん」
と女は途方に暮れて泣くばかりであつた。で、僻(ひが)むだやうな愚痴も並べ出して、
「そんなに慍(おこ)つてばかりいないで、あたしのいふ事もちつたァ聞いておくれな。あたしが彼家(あすこ)へ行つた当座、お前がだんだんいけなくおなりだという噂が、ちらりあたしの耳へ這入つた時、あたしァ、……あたしァまあどんなにかつらかつたらう。いつそ、彼家を出てしまはうかと思つた事も、そりや五度や三度じやなかつたね。あたしだつて人間だもの、まさかお前の心の悟(よ)めていないでもなかつたけれど、そこにア、それ……、かういつちや勿体(もつたい)ないけどまつたくさ。阿父(おとつ)さんてえ人が居なすつて、どうにもあたしの心のままにァならなかつたの、そのうち阿父さんは死んでおしまひだし……」
「な、なに?」と銀は眼を□(みは)つて、「親父が亡くなつたえ。え、何時」
「一昨年(おととし)の夏さ」といつて、女は面(かほ)をそむけて、啜り上げた。「それからというものは帰らうにも実家はなしさ、心の中じや力に思つていたお前までが、どこへか引越しておしまひだし、……あたしはほんのひとりぼつちになつてしまつたの。だからさ、何もみんな無い往昔(むかし)とあきらめてしまつてさ。ねえ、銀さん。両人(ふたり)していたちこつこして遊すんだ時分のあたしだと思つて、これだけあたしのいふ事を承(き)いておくれな、一生のお願ひだわ」
 石のやうに固くなつて聞いていた銀は、やおら、面をあげて勢い好く、「よしッ! 解つた」
「あの、承いておくれか」
「む、む!、永い事ァ厄介かけたねえ、なんの一年ばかし面倒見といてくんねえ。銀も男だ、今更他人(ひと)の下職人(した)は働かねえが、ちつとばかし目論見があるんだ。そのうち訪ねて行つた時の姿を見てくんねえ。きつとだ。男になつて行かア!」
「好くまァそういつておくれだ。そいであたしア……」としばらく口も利き得なかつた女の眼の内には、喜悦と満足と而して感謝の意の相混じて見られた。(『万朝報』一八九九年八月)




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:6826 Bytes

担当:undef