次郎物語
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著者名:下村湖人 

    一 血書

「次郎さん、いらっしゃる?」
 階段のすぐ下から、道江の声がした。
 次郎はちょっとその方をふりむいたが、すぐまた机に頬杖をついて、じっと何か考えこんでいる。いつもなら学校からかえるとすぐ、鶏舎か畑に出て、夕飯時まではせっせと手伝いをする習慣であり、それがまた彼のこのごろの一つの楽しみにもなっているのであるが、今日はどうしたわけか、誰にも帰ったというあいさつもしないで、二階にあがったきり、机によりかかっているのである。
 次郎はもう中学の五年である。
 階段からは、やがて足音がきこえて来た。次郎は机の一点に眼をすえたまま動かない。しかし、べつに足音をじゃまにしているようにも見えない。六月末の風が、あけはなした窓をしずかに吹きとおしている。
「あら、いらっしゃるくせに、返事もなさらないのね。」
 道江はややはしゃぎかげんにそう言って、机のまえに坐った。白いセーラーの校服がすこし汗ばんでいる。右乳からすこしさがったところに、校章のバッジをつけた紅いリボンがさがっており、そのすぐ下に年級を示す4の字が小さく金色に光っていたが、次郎はそれに眼をうつしたきり、やはり默っている。
「どうかなすったの?」
「返事をしないのに、かってにあがって来るやつがあるか。」
 次郎はおこったように言った。が、すぐ、道江の眼を見ながら、
「何か用?」
「ええ、こないだ貸していただいた詩集に、意味のわからないのがたくさんあったの。」
 道江はそう言って、手提から一冊の小型な美しい本をとり出した。
 次郎は、しかし、もうその時にはそとを見ていた。そして、しばらく遠くに眼をすえていたが、
「僕、きょうはそれどころではないんだよ。」
 と、急に熱のこもった調子になり、
「大変なんだから、僕たちの学校が。」
「大変って? ……何かあったの?」
 と、道江も本を握ったまま、眼を光らした。
「朝倉先生が学校をやめられるんだよ。」
「朝倉先生? あのいつもおっしゃる白鳥会の先生でしょう。」
「そうだよ。」
「どうしておやめになるの?」
「それが僕たちにはわけがわからないんだ。」
 次郎は、きょう学校で、生徒たちの間に噂されていたことのあらましを話した。それによると、つい一週間ほどまえ、朝倉先生は校長といっしょに県庁に呼び出され、知事から直接の取調べをうけたが、すぐその場で辞職を勧告された。理由は、先生がどこかの講演会にのぞみ、講演のあとで少数の人たちの座談会をやったが、その席上で、最近の大事件として世間をさわがした五・一五事件――犬養首相の暗殺事件が話題にのぼり、それについて先生が率直に自分の所信をのべたのが一部の軍人を刺戟し、憲兵隊までが問題にし出したことにあるらしいというのである。なお校長がいっしょに県庁に呼び出されたことについても、いろいろと噂がとんでいたが、現在の花山校長は、人望のあった大垣校長がこの学年の変り目に新設のある高等学校長に栄転したあとをうけて赴任して来た人で、容貌も、性質も、大垣校長とは比較にならないほど弱いところがあり、おまけに女のように疑い深くて、朝倉先生に対する生徒間の人望をいつも気にしていたので、何かその間に小細工があったにちがいないというのが、ほとんど全部の生徒の抱いている感想である。次郎自身も、むろんそれを確信しているらしく、道江に話す口ぶりの中に、よくそれがあらわれていた。
「でも、朝倉先生は、まだ学校に出ていらっしゃるでしょう。」
「昨日までは出ていられたが、今日は見えなかったようだ。」
「昨日まで出ていらしったのなら、ほんとうかどうか、まだわからないわね。」
「しかし、県庁の学務課に出ている人の子供がそう言っているんだから、みんなほんとうだと思っているんだ。」
「先生にじきじきお尋ねしてみたら、どうかしら。」
「そんなことしたって、先生はほんとのことを言やせんよ。つまらん先生なら、すぐ言うんだが。」
 道江は、女学校の先生たちの中に、たずねもされないのに学校における自分の立場などを話し、それとなく生徒の同情を買おうとするような先生が何人もいるのを思い出して、ちょっと苦笑した。そしてしばらく何か考えていたが、
「女学校では、先生のことだと、まるで根も葉もない噂が立つことがあるのよ。」
「そうかね、しかし朝倉先生のことはどうもほんとらしい。こないだ白鳥会の時にも、五・一五事件のことを話し出して、ひどくこのごろの若い軍人たちの考え方をけなしていられたんだから。」
「そんなにひどくけなしていらしって?」
「いつもの先生とはまるで人がちがっているような烈しさだったんだ。将来日本を亡ぼすものは恐らく彼らだろう、といった調子でね。」
 道江は眼を見張った。そして急に何かにおびえたように肩をすぼめながら、
「そんなこと言ってもいいのか知ら。」
 次郎は、いいとも悪いとも答えなかった。しかし彼の不満そうな眼が、あきらかに道江のそんな質問をけなしていた。彼はひとりごとのように、すぐ言った。
「朝倉先生だけだよ、今の時勢にそんなことが堂々と言えるのは。」
 道江は心配そうに次郎の顔を見つめていたが、
「もし、おやめになるのがほんとうだったら、どうなさる。」
「むろん、留任運動さ。朝倉先生がやめられたら、学校はもうまるで駄目なんだからね。きっとみんなも賛成するよ。いや、賛成させて見せるよ。僕、きょう、学校でそんな噂をきいたときから、そのつもりでいるんだ。」
「でも、そんなことなすったら、次郎さんたちも大変なことになるんじゃない?」
「どうして?」
「だって、先生のおやめになる理由がそんなだと……」
 次郎はきっと口を結んだきり、答えなかった。道江は、それでなお心配そうな顔をして、
「留任運動って、どんなことをなさる?」
「僕、さっきから、それを考えているんだよ。」
「まさか、ストライキなんかなさるんじゃないでしょうね。」
「誰がそんなばかなまねをするもんか。そんなことしたら、かえって朝倉先生に恥をかかせるようなもんだ。」
「でも、やり出したら、どんなことになるかわからないわ。」
 次郎は腕組をしてだまりこんだ。彼はさっきから苦慮していたのも実はそのことだったのである。彼は、留任運励そのものが、すでに朝倉先生の気持にそわないということを、よく知っていた。しかし、朝倉先生を失ったあとの学校のうつろさを考えると、じっとしては居れない。何が何でも留任は実現させなければならない。それが実現しないくらいなら、自分も学校をよしてしまった方がいい、というふうにさえ考えているのである。だから、運動をよす気には絶対になれない。たとい朝倉先生に叱られても、それだけは仕方がない、しかし、やり出せばストライキになる心配はたしかにある。第一、今度の校長があの通りだし、古くからの先生たちに対する生徒間の不満もずいぶんつもっているのだから、生徒の中には、騒ぐのにいい機会が見つかったと思って、喜ぶものがあるかも知れない。そんなことで、もし実際にストライキになってしまったとしたらどうだろう。ストライキ、とりわけ学校ストライキは、何といっても学校に対する脅迫(きょうはく)であり、一種の暴力である。事件の大小はべつとして、それはちょうど朝倉先生が極力非難した軍人たちの過ちを、そのままくりかえすことになるのではないか。暴力を非難したために迫害されている朝倉先生を暴力で護ろうとする。それは何という矛盾だ。何という不合理だ。そしてまた何という無意味さだ。それが朝倉先生を公衆の中ではずかしめることにならないと誰が言い得るのか。――次郎はそんなふうに考えて、いろいろ思いなやんでいたのである。
「白鳥会の人たちだけでおやりなっても、だめか知ら。」
 道江は、次郎が默りこんでいるのを同情するように見ながら、言った。
「そりゃあ、僕も考えてみたさ。しかし、こんなことは、やはり小人数ではだめだよ。少なくも五年級ぐらい団結しなきゃあ。それに白鳥会だけだと、何だか白鳥会のためにやっているようで変だよ。第一、それでは、ほかの連中が承知しないだろう、かえってそっぽをむいて笑うかも知れんね。」
「でも、それで次郎さんのお気持だけは通るんじゃないの。」
「なあんだ。」
 と、次郎は、あきれたようにしばらく道江の顔を見ていたが、
「女って、そんなものかね。」
 と、なげるように言って、ごろりと畳の上にねころんでしまった。
 次郎は、道江に対して、時おりこんなふうに失望を感ずることがある。彼は、叔父の大巻徹太郎の結婚式のおり、花嫁方の席にならんでいた道江をはじめて見た時から、何となく心をひかれ、その後大巻を中にして親戚づきあいが深まるにつれ、次第に彼女との親しみをまし、今では、淡いながらも、それが心地よい一種の匂いとなって彼の血管を流れているのであるが、彼女と何かまじめな問題について話しあったりしていると、彼は時おりそうした失望を感じ、淡い匂いが血管からすっと消えて行くような気になるのである。もっとも、そうした失望も、さほど深刻には彼の心にひびかないらしく、淡い匂いが、まもなくまた彼の血管にただよいはじめる。それは、恐らく、聰明(そうめい)ではあるが普通の女の常識の限界を一歩ものりこえない、ただすなおで、親切で、物わかりのいい道江の性質が次郎にもよくわかっていて、自然、彼女に求むるところが最初からそう大きくなかったからでもあろう。また道江が気だてもよく、年頃もちょうど兄の恭一にふさわしいというので、祖母をはじめ、俊亮や、お芳や、大巻の人たちの間に、よりよりその話があるのをきいており、彼自身でも、何かのひょうしに、将来の兄嫁に今のようなぞんざいな口のききかたをしてもいいのか知らん、などと考えたりするほど、それを決定的なことのように思っているせいもあるだろう。とにかく、彼が道江に対してしばしば失望を感ずるのも事実だし、また、そのために少しでも彼女をうとんずる気になれないというのも事実である。そして、彼自身でそれを少しも変だと思わないところに、彼のひそかな恋情がひそんでおり、彼の将来の運命に何かの影をなげる因子(いんし)が芽を出しかけているともいえるであろう。
「次郎さん、おこったの。」
 道江はねころんでいる次郎の横顔を見て、たずねた。
「おこってやしないさ。しかし、道江さんは考えかたが浅薄すぎるよ。人間はもっと真剣でなくっちゃあ。」
 次郎は、そう言ってもう半ばからだを起していた。
「すまなかったわ。でも、あたし、何だか心配なの。次郎さんにはどこか烈しいところがあるんですもの。」
 次郎は苦笑した。子供のころのことや、中学に入学したてに、五年生を相手に戦ったことが、心によみがえって来たのである。同時に、彼は、大垣前校長が口ぐせのように言っていた「大慈悲」という言葉を思いおこし、それを今度の朝倉先生の問題の場合にあてはめたら、自分たちはどういう態度に出るべきであろうか、と考えてみた。しかし、いくら考えてみても、その二つが彼の心の中でしっくり結びついて来なかった。ただ、朝倉先生の留任は「大慈悲」の精神にかなうが、万一にもそのための運動がストライキにまで発展したら、どんな立場から見ても、それにかなわないということだけが、はっきりしたのである。
 道江は、次郎が考えこんでいるのを、自分の言葉のききめだとでも思ったのか、
「やっぱり、どうしても留任運動はおはじめになるの?」
「そりゃあ、はじめるさ。方法はもっと考えるが、このままほってはおけんよ。」
 道江の予期に反して、次郎の答えは断乎(だんこ)としていた。しかし、彼はすぐ何かにはっとしたように、固(かた)く唇をむすび、じっと道江の顔を見つめた。その眼は、これまで道江が一度も見たことのない、つめたい、しかし烈しい光をたたえた眼だった。
「道江さん――」
 と、次郎は、しばらくして口をひらき、
「僕は、こんな話を道江さんにするんではなかったんだ。僕はまだやっぱりだめなんかな。」
「どうして?」
 道江の顔も、いくぶん青ざめている。
「かりに道江さんが、きょうの話を誰かにしゃべったとしたらどうなる?」
 道江はけげんそうな顔をして、返事をしない。
「かりに僕の父さんにしゃべったとしたら、……いや、僕の父さんならわかってくれるかも知れない。しかしこれが普通の父兄だと、きっと僕のじゃまをするんだ。」
「そうか知ら。」
「そうか知らって、道江さんだって、さっき、朝倉先生の辞職の理由を問題にしていたんじゃないか。そんな理由で辞職する先生の留任運動をじっと見ていてくれる父兄は、今のような時勢にはめったにないよ。それに、どうかするとそれがストライキになる心配もあるんだからね。」
 道江はやっとうなずいた。うなずいたのが、次郎の気持に同感したせいなのか、それとも一般父兄のそれに同感したせいなのかは、道江自身にもはっきりしなかった。
「だから――」
 と、次郎は、もう一度道江の眼を射るように見つめて、
「僕は道江さんに、きょうの話は絶対に誰にもしゃべらないということを約束してもらいたいんだ。」
 道江は眼をふせて、かすかにうなずいた。次郎は、しかし、まだ不安だった。少しの冒険性もない彼女の常識的な聰明さが、きょうほど彼にもどかしく感じられたことはなかったのである。
「いいかね。」
 と、彼はつよく念をおした。そしてまるで脅迫するように、
「もし約束を守らなかったら、承知しないよ。」
 道江が、次郎の口から、これほどきびしい、温か味のない言葉をきいたことは、これまでにかつてないことだった。彼女は少し涙ぐんだような眼をしていたが、それでも、だまって、もう一度うなずいた。
 それっきりふたりが口をきかないでいると、急にそうぞうしい足音がして、俊三が階段を上ってきた。彼も、もう四年生である。今日は、午後武道の時間だったらしく、垢じみた柔道着をいいかげんにまるめて手にぶらさげていたが、道江にはあいさつもしないで、それを自分の机の近くにほうりなげると、すぐ次郎に言った。
「きいた? 朝倉先生のこと?」
「うむ、――きいたよ。」
 次郎は、あまり気のりのしないらしい返事をした。
「きいていて、すぐ帰って来ちまったの?」
 まるで詰問でもするような調子である。次郎にくらべてやや面長な、いくぶん青味をおびた顔に、才気がほとばしっており、末っ子らしいやんちゃな気分が、その態度や言葉つきにしみでている。
 次郎は答えない。
「みんなで君をさがしていたよ。」
 俊三は、いつの間にか次郎を君と呼ぶようになっていたのである。
「僕を?」
「そうさ。でも、見つからないので五年の連中が四五人でうちにやって来ると言っていたんだ。」
「そうか。」
「もうじき来るだろう。来たら道江さんはいない方がいいね。」
 それは決して俊三の皮肉ではなかった。次郎は、しかし、少し顔をあからめて道江を見た。さっきからのこともあり、二重の意味でうろたえたのである。
 道江はすぐ立ちあがったが、しかし、もうその時には、階段の下には生徒たちのさわがしい声がきこえていた。階段は土間からすぐ上るようになっており、次郎や俊三の親しい友達は、時には案内も乞わないで上って来ることがあるのである。
 次郎は、道江より先にいそいで階段の上まで行き、彼らをむかえた。そのため道江はどこにも落ちつくところがなくなり、次郎のうしろにかくれるようにして、彼らがあがって来るのをまっていた。
「どうしたい。きょうはばかにいそいで帰ってしまったじゃないか。」
 そう言って最初にあがって来たのは、新賀だった。新智は次郎といっしょに彼らの年級では最初に白鳥会に入会した、とくべつ親しい友人で、よくたずねても来ていたので、道江ともいつの間にか顔見知りになっていた。
 道江はいくらかほっとしたように、彼に目礼した。
 新賀をむかえると、次郎はすぐ彼の先に立って自分の机のそばに坐った。そのため道江は、つづいて上って来る生徒たちを、階段のうえに立ってひとりでむかえるようなかっこうになってしまったのである。彼女は視線を畳におとして立っていた。新賀のほかに四人ほどいたが、彼らがつぎつぎに上って来て、自分のそばを通るのが何となく息ぐるしかった。しかし、何よりも彼女をおどろかしたのは、その最後のひとりが階段をのぼりきらないうちに、
「やあ、道江さんじゃありませんか。」
 と、いかにも親しげに声をかけたことであった。
 道江はぎくっとしたように顔をあげてその方を見たが、その瞬間、それまでいくらかほてっていた彼女の顔から、さっと血の気があせた。そして、いつもなら平凡なほど温和なその眼が、異様な光をおびて、まともに相手の顔を見つめ、きっと結んだ唇は、石のようなつめたさでふるえていた。驚きと、羞恥と、怒りと、侮蔑(ぶべつ)とをいっしょにしたような表情である。
 相手は、階段をのぼりきると、そのまま道江の真正面に立って、変な微笑をもらした。殿様顔といってもいいほど目鼻立ちはととのっているが、口元にしまりがなく、何とはなしに下品に見える。涼しい風に吹かれているかのように、眼をほそめてまたたかせているのが、いかにもわざとらしく、それが口もとの下品さに輪をかけている。
 道江は、彼から視線をそらして、すぐ階段をおりようとした。すると、彼はそれをさえぎるように言った。
「道江さんがこんなところに来ているなんて、夢にも思っていませんでしたよ。ここにはしょっちゅう来ますか。」
 道江は、しかし、ふり向きもしないで階段をおりて行ってしまった。
「おい、馬田! さっさと坐れ。」
 新賀がどなるように言った。馬田と呼ばれた生徒は、まだ階段の上につっ立って、道江のあとを眼で追っていたが、
「うむ。」
 と、なま返事をして、べつにはずかしそうな顔もせず、ゆっくりと歩いて来て、一座の中に加わった。そして、次郎の顔を見てにやにや笑いながら、
「親類かい、君んとこの?」
「親類だよ。」
 次郎の答えはぶっきらぼうだった。
「そんなこと、どうでもいいじゃないか。」
 新賀が、またどなるように馬田をねめつけて言った。
「そうだ、ぐずぐすしていると、手おくれになるかも知れんぞ。朝倉先生はもう辞表を出されたそうだから。」
 そう言ったのは、一年のころから、色の黒い美少年だという評判のあった梅本だった。すべてにひきしまった、しかしどこかに温かい感じのする顔が、馬田のだらしない顔といい対照をなしている。彼も白鳥会の一員になっているのである。
 あとの二人は何か考えこんだように默りこんで坐っていた。ひとりは平尾、もうひとりは大山といった。平尾は出っ歯で、近眼で、みんなの中で一ばん不景気な顔をしているが、おそろしく記憶力のいい勉強家で、三年の頃からめきめきと成績をあげ、四年以来一度も首席を人にゆずったことがないというので有名になっている。大山は、その反対に三年の頃まではたいてい首席だったが、それから次第に少しずつさがって、今ではやっと優等の尻にぶらさがっている程度の成績である。おっとりしたのんき者で、まんまるな顔がいつも笑っているように見えるせいか、「満月」という綽名(あだな)をつけられており、同級生からばかりでなく、下級生からも非常に親しまれている。馬田とこの二人とは白鳥会には関係がない。
 校友会関係でいうと、六人ともそれぞれに何かの委員をやっており、平尾が総務、次郎が文芸、梅本が弁論、新賀が柔道、大山が弓道、馬田が卓球となっている。むろん、このほかにも、剣道、野球、庭球、登山、陸上競技、水泳、図書などの部があり、委員の数も各部二名乃至三名ずつで、校友会の問題ばかりでなく、学校に何か問題があると、それら五十名近くの委員が全部集まって相談することになっているが、今日は新賀と梅本とが中心になり、とりあえず、学校にまだ残っていた委員だけを集めてやって来たわけなのである。学校からかなり遠い次郎の家をわざわざたずねて来たのは、秘密の相談所としてそこが適しているという理由もあったが、主なる理由は、いやしくも朝倉先生の問題に関するかぎり、最初から次郎を除外するわけにはいかない、という新賀の肚(はら)があったからである。
「俊ちゃんは下におりとってくれよ。」
 次郎は、俊三がまだ机のそばにねころんで、じろじろ自分たちの方を見ているのに気がついて言った。
「かまわんさ、俊三君なら。かえってきいていてもらった方がいいかも知れんよ。どうせ四年も加わってもらうんだから。」
 そう言ったのは馬田だった。ほかの四人はだまっている。次郎は、
「いけないよ。まだほかの委員にも相談しないうちに、四年生がいちゃあ、あとでうるさくなるから。」
 しかし、次郎の言葉がまだ終らないうちに俊三はもう階段をおりかけていた。彼は自分の顔がかくれる瞬間、新賀の方を見て、ぺろりと舌を出し、顔をしかめて見せた。新賀は、柔道仲間で、俊三ともかなり親しかったのである。
「どうだい、本田、朝倉先生がやめられるというのに、君は、まさか、默ってはおれまい。」
 俊三の足音がきこえなくなると、すぐ新賀が言った。
「むろんさ。留任運動は決定的だと思うんだ。しかし、方法がむずかしいよ。僕、ひとりでそれを考えていたんだが、……」
「ひとりでかい?」
 と、馬田が、変に微笑しながら、口をはさんだ。次郎はむっとした顔をして、ちょっと彼の顔を見つめたが、思いかえしたようにすぐ新賀の方をむいて、
「とにかく、正々堂々と恥かしくない方法でやりたいものだね。」
「そうだ、最初校長に願ってみて、いいかげんな返事しか得られなかったら、直接県庁にぶっつかるんだね。」
「校長はどうせ相手にならんよ。まるで配属将校の部下みたようなものじゃないか。」
 そう言ったのは、梅本だった、すると馬田が、
「花山校長の鼻をあかすいい機会だよ。いよいよストライキになったとき、あのちょっぴりした青い鼻がどんなかっこうになるか、それを眺めるのも、はなはだ興味があるね。」
 と、さかんに「はな」を連発して、ひとりで得意になった。
「ふざけるのはよせ!」
 新賀が今度はなぐりつけそうなけんまくでどなった。
「僕たちはストライキをやろうとしてるんではないだろう。」
 と、次郎がすぐそのあとで、表面何気ないような、しかしどこかにおさえつけるような調子をこめて言った。
「ストライキをやらないで、いったい何をやるんだ。」
 馬田は、さっきからのふざけた様子とはうって変り、まるで喧嘩腰になって次郎の方に向き直った。
「留任運動をやるさ。僕たちは僕たちの真情を訴えれば、それでいいんだ。」
 次郎はおちついて答えた。
「それが成功すると思っているのか。」
「成功させるよ。」
「知事がきめたことが、僕たちの運動ぐらいでひっくりかえるもんか。」
「全生徒が誠意をもって願えば、知事だって考えるよ。」
「ふふん。」
 馬田は鼻であざ笑った。そして、次郎なんか相手にならないといったようなふうに、ほかの生徒たちの方を見て、
「本田のようなお上品な考えかたには、僕は賛成出来ないよ。そりゃあ、一応形式的に校長や県庁に願い出るのはいいさ。しかし、どうせ成功はしないよ。成功しなかったら、それで默ってひっこむかね。」
 誰も返事をしない。留任運動をやろうという以上、誰もがそこまでは考えたことであり、馬田のような問題には、みんなが一度はぶっつかっていたことなのである。
 馬田は勝ちほこったように、
「結局はストライキだよ。ストライキまで行けば、知事も或は考えなおすかも知れん。かりにそれがだめだとしても、校長や、いやな教員を追い出すぐらいなことは、きっと出来るよ。だからはじめからストライキの覚悟をきめて、その計画をやる方が実際的だと僕は思うね。代表を出して、おとなしくお願いすることなんか、頭をつかわなくたって、すぐ出来ることじゃないか。」
 馬田は下品ではあるが、頭はそう悪い方ではない。自分の理窟に曲りなりにも一通りの筋道を立てるぐらいなことは、十分出来る生徒なのである。
 次郎は、自分が一番心配していたストライキの煽動者(せんどうしゃ)を、相談のしょっぱなから、しかも馬田のような生徒に見出して、いらいらし出した。最初のうち、彼は、自分の考えもまだ十分まとまっていないし、今日はなるべくほかの生徒たちの意見をきこうと思っていたのだが、もうだまってはおれなくなって来た。それには、平尾と大山とが一言も言わないで坐っているのも、いくらか原因していたのである。
 彼は、先ず平尾と大山の顔を見くらべながら、朝倉先生の人格に対する彼の信仰にも似た尊敬の念を披瀝(ひれき)し、先生なきあとの学校を論じて、留任運動の絶対に必要なる所以(ゆえん)を力説した。それから、強いて自分をおちつかせるように、声の調子をおとし、馬田の方を向いて言った。
「しかし、留任運動は純粋な留任運動でなければならないと僕は思うんだ。それがほかの不純な目的のためにとって代られることは、最初から運動をやらないよりなおわるいことだよ。馬田君は最初からストライキを予定して、しかもそれを校長排斥にもって行こうとしているが、不純にもほどがあると思うね。僕は、そんな考え方には絶対不賛成だ。むしろ僕たちは、ストライキのおそれがあったら、極力それをくいとめることに努力しなければならないんだ。それが留任運動をおこすものの義務だよ。それに――」
 と、次郎の調子は次鶉に熱をおびて来たが、急に胸がつまったように声をふるわせて、
「万一、ストライキにでもなってみたまえ。僕たちは、表面朝倉先生を慕っているように見えて、実は先生を侮辱していることになるんだよ。ストライキのような卑怯な手段で先生に留任してもらうなんて、そんな……そんなひどい侮辱を先生に与えていいと思うのか。それも、先生の辞職の理由が僕たちにわかっていなければ、まだいい。わかっていてストライキをやるなんて、あんまりひどすぎるじゃないか。」
「じゃあ、君はいったいどうしようというんだ。理くつばかり言っていないで、具体的に方法を言いたまえ。」
 馬田がきめつけるように言った。次郎は、しばらく返事をしないで、馬田の顔をじっと見つめていたが、思いきったように、
「血だよ。血をもって願うんだよ。」
「血だって?」
「うむ、血だ。五・一五事件の軍人たちは、相手の血で自分たちの目的をとげようとした。しかし、僕たちは、僕たち自身の血でそれを貫くんだ。」
 馬田ばかりでなく、みんなが眼を見はった。次郎は、しかし、わりあい冷静に、
「僕はいろいろ考えてみたんだが、日本では昔から、何か真剣な願いごとがあると、よく血書とか血判とかいうことをやって来たね。君らはどう思うか知らんが、僕は今の場合、僕たちの真心をあらわすには、あれよりほかにないと思うんだ。」
 みんな顔を見あわせてだまっている。馬田だけがひやかすように言った。
「奇抜(きばつ)だね。しかし、すこぶる野蛮だよ。」
「むろん形式は文明的ではない。僕にもそれはわかっている。しかしストライキほど野蛮ではないんだ。」
 次郎も少し皮肉な調子だった。
「すると程度問題ということになるね。さっき君は、ストライキは朝倉先生を侮辱すると言って心配していたが、血書や血判は侮辱しないのかい。」
 次郎はちょっと考えた。が、すぐ決然とした態度で、
「形は野蛮でも、それは朝倉先生に対する僕たちの真情をあらわす方法として、ちっともその限度をこえていないんだ。秩序をみだして相手を脅迫するストライキとは、根本的に性質がちがっているよ。だから、朝倉先生を侮辱することにはならないさ。僕はそう信ずる。」
「しかし――」
 と、この時、平尾が近眼鏡の奥の眼をしばたたくようにしながら、めずらしく口をきった。
「本田は、いったい、どんな方法で血書や血判をあつめるつもりなんだい。まさかそんなことを全校生徒に強制するわけにもいくまいし。」
「そりゃ無論さ。こんなことはみんなの自由意意でなくちゃあ、意味をなさんよ。だから、僕は、強いて全校生徒からそれを集めようとは思っていない。出来れば五年生ぐらいは全部加わってほしいと思うが、それが無理なら、校友会の委員だけでもいい。それが無理だというのなら、有志だけでも仕方ないさ。」
「しかし、こんなことは、めいめいの自由意志にまかしておくと、ほとんど加わる人がないし、ちょっと勧誘すると、強制になってしまうものだよ。君はそんなことについても考えてみたかね。」
「考えてみたさ。僕が一ばん考えたのは、その点だったんだ。」
「では、どうするんだい。」
「僕は、まず僕ひとりでやる。」
「君ひとりで? しかし、それを誰も知らなかったとしたら、どうなる。」
「少くとも、君たちだけは、現にもうそれを知っているんだ!」
 次郎は、それが相手に対する強制を意味し、従って彼自身矛盾を犯しているということに気がつかないのではなかった。しかし、彼は、どうにかして留任運動を阻止しようとしている平尾の気持をさっきから見ぬいており、そのつめたい理ぜめの言葉に、馬田に対するとはべつの意味で怒りを感じていたのである。
「ようし。僕も血書に賛成だ。」
 新賀がその頑丈なからだをゆすぶって言った。
「僕も賛成。」
 梅木がつづいて叫んだ。
「血書は僕ひとりでたくさんだ。君たちはそれに賛成ならそのあとに血判だけ押してくれ。」
 次郎がやや興奮した眼を二人の方に向けて言った。すると、今までとぼけたように、そのまんまるな顔の中に眼玉をきょろつかせていた大山が、にこにこ笑いながら、
「僕も血判をおそう。本田、どうしておすのか教えてくれよ。僕は、こんなことははじめてでわからないんだからな。」
 次郎と新賀と梅本とが思わす吹き出した。
 馬田はその時そっぽを向いており、平尾は出っ歯の口を狸のように結んで眼をつぶっていたが、二人とも笑いもせず口もきかなかった。

    二 父と子

 相談はとうとうはっきりした結末がつかないままで終ってしまった。平尾は、自分は総務の一人として、他の総務ともよく相談したうえ、あす校友会の委員全部に集まってもらってこの問題を提案したい、それまでは何ごともおたがいの間だけで決定するわけにはいかない、と主張し出したのである。次郎も、新賀も、梅本もそれには正面から反対も出来ず、平尾の肚を見すかしながらも承知するよりほかなかった。馬田はにやにや笑って次郎の顔を横目で見ながら、「それがほんとうだよ。」と言い、大山はその満月のような顔をよごれた手拭でゆるゆるとふきながら、「それもよかろうな」と言った。
 それでみんなは間もなく帰って行ったが、そのあと、次郎はすぐ畑に出た。なかば行きがかりからではあったが、血書のことを言い出してしまったのが、かえって彼の心をおちつかせ、自分だけはもう何もかもきまってしまったような気持に彼はなっていたのだった。
 畑には、めずらしく俊三が出ていた。次郎を見ると、
「もうみんな帰った? どうきまったんだい?」
「どうもきまらないよ。あす委員が全部集まってからきめるんだ。」
「なあんだ、あいつら、わざわざここまでやって来て、そんなことか。」
 二人が話していると、鶏舎の方から、もうとうに帰っていたはずの道江が走って来た。そして息をはずませながら、俊三とおなじことを次郎にたずねた。
「道江さんには関係ないことだよ。」
 次郎はそっけなく答えて、草をむしりはじめた。さっき階段をのぼって来て、だしぬけに道江に話しかけた馬田の顔が、この時、ふしぎなほどはっきり彼の眼にうかんで来たのだった。
「ひどいわ。」
 次郎は道江のしょげたような視線を感じた。しかし、答えない。すると俊三が、
「あす、校友会の委員が集ってきめるんだってさ。」
「そう?」
 と、道江はいくらか安心したように、
「あたし、次郎さんがひとりで主謀者みたいになるんじゃないかと思って、心配していたわ。」
 俊三は「ぷっ」と軽蔑するように笑い、横をむいて苦笑した。
 道江は、二人がまじめに自分を相手にしてくれそうにないので、さすがに腹を立てたらしく、彼女にしてはめずらしく蓮っ葉に、
「さいなら!」
 と言うと、そのまま、おもやの方にも行かず、表に出て行ってしまった。次郎は、あとを追いかけて、彼女と馬田との関係を問いただしてみたいような衝動を感じながら、草をむしっていたが、彼女のすがたが見えなくなると、
「もう誰かにしゃべったんじゃないかね。」
「何をさ?」
 俊三はとぼけたような顔をしている。
「留任運動の話さ。」
「留任運動をやるってこと、道江さんにも、もう話したんかい。」
「うむ……」
 次郎はまごついた。俊三は、かまわず、
「話したんなら、しゃべったってしようがないよ。さっき鶏舎で母さんに何かこそこそ言っていたが、その話かも知れないね。」
 次郎はやけに草を引きぬき、旱天つづきでぼさぼさした畑の土を、あたりの青い菜っ葉にまきちらした。それは、道江や、馬田や、自分自身に対する腹立たしさからばかりではなかった。道江をまるで眼中においてない俊三の態度が、変に彼の気持をいらだたせたのである。
 しかし、夕方になって風呂にひたった時には、彼はもう何もかも忘れて、一途に血書のことばかり考えていた。
 湯ぶねのふちに頭をもたせて、見るともなく眼のまえの棚を見ていた彼は、ふと、その上に、父の俊亮がいつも使う西洋かみそりがのっているのに眼をとめた。彼は、めずらしいものでも見つけたように、いそいで湯ぶねを出てそれを手にとった。そしてその刃をひらいて、しばらくじっと見入っていたが、やがて指先で用心ぶかくそれをなでると、またそっともとのところに置き、何か安心したようにからだをこすりはじめた。
 夕飯をすましてからの彼は、門先をぶらぶら歩きまわったり、二階の自分の机のそばに坐りこんだりして、はた目には何かおちつかないふうに見えたが、頭の中では、血書の文句をねるのに夢中だった。簡潔で、気品があり、しかも強い感情のこもった表現がほしい。しかし、それが詩になってしまってはいけない。世間普通の人にも、すらすらと受けいれられるような文句でなければならないのだ。そう思うと、詩を作るになれた彼の頭は行きつもどりつするのだった。そのために、彼は、お芳が台所のあとかたづけを、めずらしく女中のお金ちゃんだけに任して、いそいで大巻をたずねたのも、そのあと間もなく徹太郎がやって来て、俊亮と座敷の縁で何か話しこんでいたのも、まるで知らないでいたほどだったのである。
 彼が、どうやら自分で満足するような文句をまとめあげたのは、もう真暗になった門先をぶらついていた時だった。彼は、それをノートに書きしるすために、いそいで家にはいり、階段をのぼりかけたが、その時はじめて徹太郎の来ているのに気がつき、思わず立ちどまって耳をすました。
「時勢が時勢でないと、こんなことはむしろ美しいことですがね。」
 徹太郎の声である。話はもう大よそすんだらしい口ぶりである。
「次郎がどこまで考えてそんなことをやろうとしているのか、とにかく、あとで私からよくききただしてみることにしましょう。」
「ええ、そうなすった方がいいと思います。ほっておいて世間をさわがすようなことになっても、つまりませんからね。……じゃ失礼します。」
 次郎はいそいで階段を上りながら、徹太郎叔父も、学校の先生だけあって、やはりこんな場合には事なかれ主義らしい、という気がして、ちょっとさびしかった。道江がお芳か姉の敏子(徹太郎の妻)かにしゃべったのはもうたしかであり、そのあまりなたよりなさには、むかむかと腹も立った。
 俊三はもうその時には蚊帳のなかでいびきをかいていた。
 次郎には、なぜか、俊三がにくらしくもあわれにも思えた。そして、机によりかかってじっといびきに耳をかたむけるうちに、子供のころの自分の生活に、よかれあしかれ、あんなにも探いかゝわりをもっていた肉親のひとりが、今はまったく別の世界に住んでいる。人間というものは、年月がたつにつれ、こうして次第にわかれわかれになって行くものだろうか、などと考えて、変な気持になって行った。
 しかしノートをひらいて血書の文句を書き出した時には、彼はもう一途な力強い感情におされて、徹太郎のことも、道江のことも、俊三のことも忘れていた。そして、書き終った文句を何度も何度もよみかえしたあと、足音をしのばせるようにして階下におりていったが、やがてもどって来た彼の手には、父の西洋かみそりと一枚の小皿とがにぎられていた。彼はその二つの品を机の上に置いて、しばらくそれに見入った。家が没落して売立がはじまった時、そのなかにまじっていた刀剣のことが、ふと彼の記憶によみがえって来た。すると、眼のまえの西洋かみそりが何かそぐわない、うすっぺらなもののように感じられてならなかった。しかし、そんな感じはほんの一瞬だった。彼はすぐかみそりの刃をひらいた。そして、いつ、誰に、どこできいたのか、また、それが果して定法なのかどうかはっきりしなかったが、血判や血書には、左手のくすり指の指先をすじ目に切るものだということが頭にあったので、その通りに指先をかみそりの刃にあて、おなじ左手のおや指で強く、それをおさえながら、思いきりすばやく、一寸ほど横にすべらせた。
 つめたいとも、あついともいえぬような鋭い痛みが、一瞬指先に感じられた。しかし、そのあとは何ともなかった。血も出ていない、次郎はしくじったと思った。しかし、そう思っておや指のささえをゆるめたとたん、赤黒い血が三日月形ににじみ出し、それが見る見るふくらんで、熟した葡萄のようなしずくをつくった。
 次郎はいそいでそれを小皿にうけた。つぎつぎにしたたる血が、たちまちに、小皿の中央に描いてあった藍絵の胡蝶の胴をひたし、翅(はね)をひたし、触角(しょくかく)をひたしていった。次郎は、表面張力によってやや盛りあがり気味に、真白な磁器の膚(はだ)をひたして行く自分の血を、何か美しいもののように見入った。そしてそれからおよそ三十分の後には、彼は一枚の半紙に毛筆で苦心の文句を書きあげていたが、その三十分間ほど彼にとって異様に感じられた時間はこれまでになかった。それはちょうど氷のはりつめた湖の底に炎がうずまいているような、静寂と興奮との時間であった。
 もっとも、字があまり上手でないうえに、使いなれない毛筆を血糊にひたしての仕事だったので、濃淡が思うようにいかず、あるところはべっとりと赤黒くにじんでいるかと思うと、あるところはほとんど血とは思えないほどの黄色っぽい淡い色になっていて、全体としてはいかにも乱雑に見えた。しかし、一ヵ所も消したり書き加えたりしたところがなく、また、一字一字を見ると、下手ながらも極めて正確で、誰にも読みあやまられる心配はなかった。文句にはこうあった。

 知事閣下並に校長先生
 私たち八百の生徒は、昨今名状しがたい不安に襲われています。それは、私たちの敬愛の的である朝倉道三郎先生が突如として我校を去られようとしていることを耳にしたからであります。
 私たちにとって、朝倉先生を我校から失うことは、私たちの学徒としての生命の芽を摘(つ)みきられるにも等しい重大事であります。私たちは、これまで、朝倉先生を仰ぐことによって私たちの良心のよりどころを見出し、朝倉先生に励まされることによって愛と正義の実践に勇敢であり、そして朝倉先生と共にあることによって真に心の平和を味わうことが出来ました。朝倉先生こそは、実に我校八百の生徒にとって、かけがえのない心の燈火であり、生命の泉であったのであります。
 私たちは、朝倉先生が我校を去られる真の理由が何であるかは全く知りません。しかし、それが先生自ら私たちを教えるに足らずと考えられた結果でないことは、これまでの先生の私たちを導かれた御態度に照らしても明らかであります。また、私たちは、先生が、いかなる事情の下においても、教育家として社会から指弾(しだん)されるような言動に出られようとは、断じて信じることが出来ません。従って、私たちは、先生が我校を去らなければならない絶対の理由を発見するに苦しむものであります。
 知事閣下、並に校長先生、願わくは八百学徒の伸びゆく生命のために、また、我校の平和のために、そして、国家社会に真に正しい道義を確立するために、朝倉先生が永く我校に止まられるよう、あらゆる援助を賜わらんことを。
 右血書を以て謹んでお願いいたします。
   昭和七年六月二十七日

 次郎は、年月日を書いたあと、すぐその下に自分の姓名を書こうとしたが、それは思いとまった。もし多数の生徒たちが墨書で署名するようだったら、自分も人並に墨書する方がいいと思ったからである。
 指先の出血はまだ十分とまっていず、くるんだ紙が真赤にぬれていた。彼はもう一枚新しい紙をそのうえに巻きつけながら、窓ぎわによって、ふかぶかと夜の空気を吸った。空には無数の星が宝石のように微風にゆられていた。彼はそれを眺めているうちに、自分が血書をしたためたことが、何か遠い世界につながる神秘的な意義があるような気がし出し、昼間馬田にそれを野蛮だと非難された時、どうして反駁(はんばく)が出来なかったのだろう、と不思議に思った。
 興奮からさめるにつれて、心地よいつかれが彼の全身を襲って来た。彼は窓によりかかったまま、ついうとうととなっていた。すると、
「次郎、蚊がつきはしないか。」
 と、いつの間に上って来たのか、俊亮がすぐまえにつっ立ってじっと彼の顔を見おろしていた。
 次郎は、はっとして机の上に眼をやったが、もう自分のやったことをかくすわけにはいかなかった。俊亮は立ったまま、ちょっと微笑した。が、すぐ血書の方に視線を転じながら、
「生臭いね。」
 と、顔をしかめた。そしてしばらく机の上を見まわしたあと、
「用がすんだら、かみそりや皿はさっさと始末したらどうだい。」
 次郎は父の気持をはかりかねたが、言われるままに、かみそりと皿とをもって下におりた。そして、ながしで音を立てないように皿を洗い、それをもとのところに置くと、変にりきんだ気持になって二階に帰って来た。
 俊亮はもうその時には坐りこんで血書に眼をさらしていた。次郎もそばに行儀よく坐って、何とか言われるのを待っていた。しかし、俊亮はいつまでたってもふりむきもしない。とうとう次郎の方からたずねた。
「こんなこと、いけないんでしょうか。」
 俊亮はやっと血書から眼をはなして、
「いいかわるいか自分では考えてみなかったのか。」
「考えてみたんです。考えてみて、いいと思ったからやったんです。」
「自分でいいと思ったら、いいだろう。」
 次郎はひょうしぬけがした。
 しかし、彼は、つぎの瞬間には、自分を見つめている父の眼に、何か安心の出来ないものを感じて、かえって固くなっていた。
「しかし――」
 と、俊亮はまた血書の方に眼をやって、
「朝倉先生にはきっと叱られるね。」
「ええ、でも、それは仕方がありません。」
 俊亮はだまってうなずいた。そしてしばらく何か考えていたが、
「ところで、これがうまく成功すると思っているかね。」
「成功させます。」
 次郎はきおい立って答えた。俊亮は微笑しながら、
「しかし相手は役人だよ。日本の役人は中学生なんか相手にしてくれないんだぜ。」
 次郎は、学校の卒業式に訓辞をよみにやって来る役人以外の役人をほとんど知らなかったが、その役人たちは、考えてみると、自分たちとはあまりにもかけはなれた存在のようだった。彼は今さらのようにそれを思って、何か心細い気がした。
「それに――」
 と、俊亮は少し声をおとして、
「大巻の叔父さんの話では、朝倉先生の辞職の原因は五・一五事件の軍人を非難したからだっていうじゃないか。」
「ええ、しかし朝倉先生の言われたことは正しいんでしょう。」
「そりゃ正しいとも。たしかに正しいよ。」
「正しくってもいけないんですか。」
「正しいことで役人が動く世の中なら問題はないさ。しかし、床の上を歩かないでいつも天井にぶらさがっているような今どきの役人では、そうはいかないよ。」
 次郎には、床だの天井だのという言葉の意味がよくのみこめなくて、きょとんとしていた。
「つまり日本の役人は、権力という天井にぶらさがって、床の上をあるく国民の迷惑なんかおかまいなしに、足をぶらぶらさしているようなもんだよ。」
 次郎は思わず吹き出した。
「ところで、その権力というのが、昔はだいたい上役にあったものだが、次第に政党にうつり、今では軍人にうつろうとしている。ほかのことならとにかく、自分たちのぶらさがる天井のことだから、役人たちはよくそれを知っているんだ。今ごろは多分、古い天井の棧(さん)に一方の手をかけたまま、もう一方の手で新しい天井の棧に飛びついていることだろう。苦しい芸当さ。はたから見ていると、みじめでもあり、気の毒でもある。しかし、それを苦しいともみじめだとも思わないで、かえって得意になっでいるのが今の役人だよ。そんな役人を相手に、一中学生が血書なんか書いてみたって、何の役にも立つものではない。ことに、それが新しい権力に楯(たて)つくようなことを言った先生の弁護とあってはね。」
 次郎は、かつて小役人をしたことのある父の役人観を面白半分にきいていたが、おしまいに自分の血書があまりにも過小に評価されたような気がして不満だった。いやしくも一人の人間が血を流してつづった願いだ。それがまるで無視されるという道理はない。実は相手が役人ではだめだというが、たといつまらん役人でも、いやつまらん役人であれはあるほど、血書をつきつけられてそれを默殺するだけの勇気はあるまい。彼にはそんなふうにも思えるのだった。それは、満州事変このかた、軍部に対する血書の歎願といったようなものが青年の間に流行し、それが新聞に発表されるごとに、たいてい役人がきまって感激的な感想をもらしていたのを、よく知っていたからであったのかも知れない。
 俊亮は、彼の気持にはとんちゃくなしに、
「しかし、せっかく書いたものをほごにするにも及ぶまい。まあ出すだけは出してみるさ。すこしなまぐさいだけで、べつにわるいことではないからな。まあ、しかし、これという返事は得られないものだと思った方がいいね。」
「まるで返事もしないって、そんなことがありますか。」
「そりゃあ、あるとも。多分学校といっしょになって秘密に葬(ほうむ)ろうとするだろうね。」
「秘密になんか出来っこありません。生徒の中に署名するものが何人もあるんですから。」
「役人の秘密というのは、誰でも知っていることを知らん顔することなんだよ。ははは。」
 俊亮は声をたてて笑った。次郎は、にこりともしないで、父の顔を見つめた。
「そこでと、――」
 と、俊亮はすぐ真顔になって、
「いよいよ相手にされなかった場合、どうする? 引っこみがつかなくなって、困りはしないかね。」
「そうなれば、困ります。」
「困るだろう。ことにおまえが一人でやる仕事でないとすると。」
 次郎は、ぴしりと胸をたたかれたような気がした。
「多数の力を借りて事を起そうとする場合には、だから、よほど慎重でないといけないんだ。さっきおまえは十分考えたうえで決心したようなことを言っていたが、そうでもなかったようだね。」
「僕は、血書をそんな弱いものだとは思っていなかったんです。」
「ふむ――」
 と、俊亮はちょっと考えたが、
「血書を出せば朝倉先生の留任はきっと出来る、と思っていたんだね。」
「ええ。たいてい出来ると思っていました。」
「今では、どうだい。」
「今でも、その希望はすてません。僕は成功すると思っているんです。」
「ふむ。」
 俊亮はまた考えた。それから、何か思いきったように、
「もし私が、おまえの血書に不純なものがあると言ったら怒るだろうね。」
 次郎にとっては、全く意外な質問だった。彼はあきれたように父の顔を見ながら、
「どうしてお父さんはそんなことを仰しゃるんです。」
「人間というものは、功名心のためなら自殺さえしかねないものだからね。」
 次郎には、ますますわけがわからなかった。俊亮は微笑しながら、
「むろん私は、おまえの血書を不純だと断定しているわけではない。しかし、血書なんか書く人の中には、血書の目的に興奮しているよりか、血書そのものに興奮している人が、よくあるものだよ。つまり血書を書くことに変な誇りを感じるんだね。そういう人にかぎって、自分の血書を何か神聖なもののように考え、血書さえ書けば世間は何でもきいてくれると思いたがるものだ。おまえに全然そんな気持がないと言いきれるかね。」
 次郎は考えこんだ。しかし、どんなに考えてみても、自分が功名心に支配されて血書を書いたような気はしなかった。
「それだけは僕を信じて下すってもいいと思います。」
 彼はきっぱりとそう答えた。
 俊亮は、次郎の答えに満足なのか不満なのか、不得要領な顔をして、
「じゃあ、まあ、それはそれでいいとして、おまえの希望どおりにならなかった時はどうする?」
「あきらめるよりほかありません。」
「あきらめられるかね。」
「だってほかに仕方がないんです。」
「しかし、これはおまえ一人の問題ではないね。おまえはあきらめても、みんながあきらめなかったらどうする。」
「みんなにも、あきらめるように言います。」
「みんなはそれで承知するかね。」
「それはわかりません。」
「おまえもそれには自信がないだろう。」
 次郎はだまりこむより仕方がなかった。俊亮はしみじみとした調子になって、
「時の勢いというものは、恐ろしいものだよ。五・一五事件もそうだったが、今度のおまえたちの問題も、どうせ行くところまで行くだろう。結局ストライキになるかも知れないね。」
「それは絶対にさけるつもりです。」
「さけるつもりでもさけられないよ。」
「まじめな五年生が五六人も結束すれば、さけられると思います。」
「その五六人というのは、留任運動の主唱者ではないかね。」
「ええ。ですからその五六人が結束すれば、きっと……」
「時の勢いというものは、一度出来てしまえば、それを作った人にもどうにも出来ないものだよ。現に五・一五がそうだろう。政党の腐敗を憤り、軍人が腐敗した政党と結んで政治に関係するのを快く思わなかった人たちは決して乱暴なことを企(たく)らんでいたわけではなかったんだ。ところが、その人たちの考えが一旦時の勢いを作ってしまうと、次第に不純な分子や、無思慮な分子がその勢いに乗っかって来る。これではならんと思っても、そうなると、もうどうにも出来ない。そして、いよいよ五・一五事件ということになったんだ。時の勢いというものは、だいたいそんなものだよ。」
「すると、僕たち、どうすればいいんです。はじめっから留任運動なんかやらない方がいいんですか。」
「それをやらなくちゃあ、お前たちの正義感が納(おさ)まるまい。」
「むろんです。」
「じゃあ、やるより仕方がないね。」
「しかし、お父さんが仰しゃるとおりですと、結局はストライキになるんでしょう。」
「それも仕方がないさ。」
 次郎には、父が自分を茶化しているとしか思えなかった。彼は両腕を膝につっぱってしばらく默りこんでいたが、急にそっぽを向き、右腕で両眼をおさえると、たまりかねたようにしゃくりあげた。
「泣くことはない。」
 と、俊亮はべつにあわてたようなふうもなく、
「何もかも自然の成行きだよ。学校がだめで朝倉先生だけがお前たちの希望だというのに、その朝倉先生を失うとなれは、留任運動をおこしたくなるのは当然だし、留任運動をおこす以上、少しでもそれを強力にするために、血書を書いたり、全校生徒に呼びかけたりするのも当然だ。また、朝倉先生が五・一五事件を非難したために学校を追われるのも、それを阻止しようとするお前たちの運動が失敗するのも、時勢がすでにそうなってしまっている以上、何とも仕方のないことだ。そしてその結果がおまえたちのストライキになるとすれば、それもやはり自然の成行きだというよりない。時の勢いで世の中が狂っている以上、その狂いが直るまでは、正しいことから正しい結果ばかりは生まれて来ないんだ。まあ、いわば一種の運命だね。」
 次郎はもう泣いてはいなかった。彼は、まだ十分かわききれない眼を光らして、父の顔をにらむように見つめていた。
「むろん私は、それが自然の成行きだからただ見おくっていればいい、と言うのではない。今の場合、おまえたちが気をつけなければならないことは沢山ある。とりわけ大事なことは、自分で自分のお調子にのらないことだ。おまえは、おまえの血書に少しも不純な気持はない、と信じているようだが、なるほど不純だというのは言いすぎかも知れない。しかし、私には、おまえが自分で気づかないうちに、血書に何か英雄的な誇りを感じているように思えてならないんだ。血書なんていうものは、元来誇るべきものではない。人間の冷静な理知に訴えるだけの力のない人が、窮余(きゅうよ)の策(さく)として用いる手段だからね。それに誇りを感ずるなんて考えてみると滑稽だよ。いや、滑稽ですめば結構だが、その誇りがだんだん昂じて来ると、おしまいには、問答無用で総理大臣にピストルをつきつけるようなことにもなりかねないんだ。自分で自分のお調子にのるのは恐ろしいことだよ。」
 次郎は、血書のことを思いついてそれを書き終るまでの自分の心の動きを、あらためてこまかに反省してみた。すると父の言っていることに何か否定の出来ないものがあるような気がし出した。しかもこの反省は、次第に彼を彼の子供の時代にまで誘いこんで行ったのである。そこには、がむしゃらな反抗や、子供らしくない策略などといっしょに、ほめられたさの英雄的行為や芝居じみた親孝行などが、長い行列をつくっていた。父は自分のことを何もかも知っている。自分ではもうとうに克服(こくふく)し得たつもりの弱点でも、それがまだ少しでも尾をひいている限り、父の眼にははっきりとうつるのだ。そう思って彼はひとりでにうなだれてしまった。
 しばらく沈默がつづいた。机の上の枕時計はもう十二時をまわっている。俊亮はそれに眼をやったが、べつに驚いたふうもなく、またゆっくりと口をきき出した。
「おまえは、もう、人のおだてにのるほど無思慮ではない。それはたしかだ。その点では私はおまえを絶対に信じてもいいと思っている。だが、その程度では、まだ人間がほんとうに一本立になったとはいえないんだ。ほんとうに一本立になった人間は、人のおだてに乗らないだけでなく、自分のおだてにものらない人間だよ。私はおまえにそういう人間になってもらいたいと思っている。英雄主義流行の時代には、おまえたちのような若いものには、それはなかなかむずかしいことだが、しかし、そういう時代であればこそ、私は一層おまえにそれを望むんだ。わかるかね。私のこの気持が?」
「わかります。」
 俊亮は、次郎がいつの間にか、きちんと膝を折って坐っているのに気がついた。
「そう窮屈にならんでもいい。」
 彼はそう言って次郎にあぐらをかかせ、天井のない、すすけた屋根裏を見まわしていたが、
「私がこんなことを言うのも、私の経験からだよ。実を言うと、私もわかい頃はかなりの英雄主義者でね、自分で自分のお調子にのって、今から考えると、まるで意味のない、ひとりよがりの義侠心を発揮したものだよ。その結果、先祖伝来の家屋敷も手放してしまうし、せっかくはじめた酒屋も番頭に食われてしまうといった工合で、お祖母さんをはじめ、おまえたちにも、ひどく難儀をさせたものさ。こう言うと、私が今になって貧乏したのを悔(くや)んでいるようにきこえるかも知れないが、そうじゃない。問題は、貧乏したことでなくて、貧乏するに至った原因だ。つまり、私自身のその頃の人間が問題なんだよ。夜中に眼をさましてその頃のことを思い出したりすると、全くいやになるね。」
 次郎は、父にもそんな悩みがあるのかと不思議な気がした。同時に、その悩みを正直にうちあけて、自分をさとしてくれる気持に、これまでとはちがった父を見出して、胸がいっぱいになるようだった。俊亮はつづけて言った。
「世間には、若いうちは功名心に燃えるぐらいでなくちゃあ駄目だと言う人もある。しかし、私はそう思わない。ことに今のような時代には、そういう考え方は禁物だ。静かに、理知的にものを考えて、極端に言うと、つめたい機械のように道理に従って行く、そういう人間がひとりでも多くなることが、この狂いかけた時代を救う道だよ。むろん私は人間の感情を何もかも否定はしない。おまえたちが朝倉先生を慕(した)う気持なんか実に尊い感情だよ。道理とりっぱに道づれの出来る感情だからね。しかしその尊い感情も、それに功名心がくっつくと、すぐしみが出来る。しみぐらいですめばいいが、次第にそれが生地(きじ)みたいになってしまうから、危いんだよ。」
「お父さん、僕――」
 と、次郎はやにわに、まだ机の上にひろげたままになっていた血書をわしづかみにして、
「こんなもの出すの、もうよします。」
 彼はすぐそれをやぶきそうにした。
「まて!」
 俊亮はおさえつけるように言って、
「おまえは、今日来た友達に、血書を書くことを約束したんではないかね。」
「約束しました。」
「その約束が取消せるのか。」
 次郎は考えた。自分から言い出しておいてそれを取消すのは、自分の立場はとにかくとして、留任運動そのものに水をさすようなものであった。
「取消せまい。」
 と、俊亮は念を押すように言ったが、
「いや、取消す必要もないだろう。
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