次郎物語
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著者名:下村湖人 

    一 それから

 母に死別してからの次郎の生活は、見ちがえるほどしっとりと落ちついていた。彼は、なるほど、はたから見ると淋しそうではあった。彼の眼の底に焼きつけられた母の顔が、何かにつけ、食卓や、壁や、黒板や、また時としては、空を飛ぶ雲のなかにさえあらわれて、ともすると、彼の気持を周囲の人たちから引きはなしがちだった[#「だった」は底本では「たった」]のである。しかし、母が、臨終の数日まえに、
「あたしは、乳母やよりももっと遠いところから、きっと次郎を見ててあげるよ。だから、……だから、腹が立ったり、……悲しかったりしても……」
 と息をとぎらせながら言った言葉が、いつも力強く彼の心を捉えていた。で、彼自身としては、彼が孤独に見える時ほど、かえって気持が落ちついていたとも言えるのだった。
 彼は、正木のお祖母さんといっしょに、よくお墓詣(まい)りをした。お墓の前にしゃがむと、彼は拝むというよりは、じっと眼をすえて地の底を見透(とお)そうとするかのようであった。彼は、母の屍体が日ごとにくずれて行っているなどとは、微塵(みじん)も思いたくなかった。彼が地下数間のところに想像するものは、いつも、ほのかな光のなかにうき出した大理石像のようなものだった。この大理石像は、お墓詣りがたび重なるにつれて、いよいよ鮮明になって行った。しかも、不思議なことには、その顔は、彼の記憶に残っている母の顔そのままのものではなかった。それは、もっと美しい、神々しい顔だった。やや伏眼に半眼にひらいた眼つきには、どこかに観音さまを思わせるものさえあった。
 次郎は、学校の綴方の時間に、このごろ感じたことを何でもいいから書け、と先生に言われて、「地下に眠る母」という題で、お墓詣りのおりのこうした感じを、そのまま書いて出した。すると、そのつぎの綴方の時間には、先生は、みんなのまえでそれを朗読したあと、黒板の横の壁にピンで貼り出した。題のうえには三重圏が朱で大きく書いてあり、文末には、
「先生も思わず静かな気持に誘いこまれてしまいました。君の孝心がこの名文を書かせたものと思います。」
 と記してあった。
 次郎は、しかし、先生が朗読をはじめた瞬間、後悔に似た感じに襲われた。ひとりで大事にしまっておいたものを、だしぬけに人に見つかったような気がしてならなかったのである。彼は最初顔をまっかにした。が、朗読が終るころには、むしろ青ざめていた。そして、休み時間になって、みんなが黒坂のそばに押しよせた時には、飛びこんでいってそれを引っぱがしたいような気にさえなった。
 次郎にとっては、彼の記憶に残っている実際の母の顔と、墓詣りをするうちに描き出した母の顔とは、決してべつべつのものではなかった。彼自身では、母の顔を二様に思い浮かべているとは、ほとんど意識していなかったほど、まったく自然に、時に応じて、そのどちらかが彼の眼に浮かんで来たのである。彼が、彼なりに社会を持っている場合、つまり、学校や、家庭や、その外の場所で、周囲の人たちと何かの交渉がある場合に、自然に彼が思い出すのは、彼の記憶に残っている実際の母の顔であり、仏壇の前に坐ったり、墓詣りをしたり、夜中にふと眼をさましたりするときに、ひとりでに浮かんで来るのは、観音さまに似た母の顔だった。
 もっとも、月日がたつにつれて、この二つの顔は、次郎のその時の気分しだいで、どちらになることもあった。そして、三四ヵ月もたったころには、彼は自分でも気づかないうちに、観音さまに似た顔ばかりを思い出すようになっていたのである。
 彼は、乳母のお浜におりおり手紙を書くことを忘れなかった。お墓詣りをした時には、葉書ぐらいはきまって出した。また、綴方の時間に「地下に眠る母」を書いて出したのを後悔していたにもかかわらず、お浜には、三重圏のついたその綴方をそのまま送ってやり、教室で先生に朗読してもらったことまで書きそえてやった。
 お浜に手紙を書く時の彼の気持は極めて自由だった。彼は、彼自身のことについてはむろんのこと、彼の周囲のことについても、町の本田一家のことについても、彼の知っていることなら、何でも書いていいような気がしていた。もっとも、実際に書いたのは、たいていお浜が喜びそうなことばかりだった。本田のお祖母さんについては、ただ一度だけ、「お祖母さんは、まだ僕をあまり好きでないようだが、僕はもうちっとも困らない。」と書いたきりだった。
 これは、しかし、いやなことをつとめて避けようとする彼の心づかいからではなかった。お浜へあてた手紙を書き出すと、彼は、ちょうど甘い果物にでもしゃぶりついているような気になって、自然、不愉快なことを書く気がしなかったのである。
 むろん、墓詣りをしたおりの彼の手紙には、母の追憶やら、墓場の光景やら、それに伴う彼自身の感傷やらが、かならず何行かは書きこまれてあった。しかも、時としては、彼はそのために誇張としか思えないような文句まで考え出すのだった。これは、しかし、彼の母への思慕の不純さを示すものだとはいえなかった。彼は、まだ、思いきりお浜に甘えてみたい気持だったのである。母への思慕を濃厚に表わすことが、今では、お浜への思慕を濃厚に表わすことであり、彼はそうすることによってのみ、存分にお浜に甘えているような気持になることが出来たのである。
 次郎にとって、何の自制心も警戒心も必要としないただ一人の相手、嘘であろうと、誇張であろうと、そのままにうけ入れてくれるただ一人の相手、そして、かりに腹をたてあうとしても、腹を立てあうそのことが、愛のしるしでさえあるようなただ一人の相手、それは今でも、お浜だけであるということを、読者はやはり忘れてはならない。
 ところで、次郎は不思議にも、お浜自身に対する彼の思慕を、彼の手紙のなかに、あからさまに書いたことなど、一度だってなかった。彼は、お浜自身に関しては、いつも手紙の末には、「乳母や、では、たっしゃでお暮しなさい。」と書くだけだった。そのほかに、もし彼のお浜に対する深い愛情を示す直接の言葉を求めるとすれば、恐らく、母の葬式後別れてからの最初の手紙に、「僕が大きくなるまで丈夫にしていて下さい。」と書いたのだけであったろう。これもしかし、何も不思議なことではなかった。というのは、次郎のお浜に対する思慕は、次郎にとってはあまりにも自然であり、それを意識的に言い表わす必要など、彼は少しも感じていなかったからである。
 お浜からの返事は、いつも簡単だった。たいていは郵便葉書に、まず手紙を受取ったお礼を書き、そのあとに、勉強して一番になってもらいたいとか、おとなしくせよとか、病気をするなとか、お墓詣りを怠るなとか、いったような意味のことを、きまり文句でしるしてあるに過ぎなかった。たまには、まるで返事さえ来ないこともあった。次郎は、それを物足りなく感じながらも、少しも不服には思わなかった。というのは、彼は、お浜が字が書けなくて、いつも誰かに代筆させていることをよく知っていたからである。
 もっとも彼は、その代筆者を多分お鶴だろうと想像していた。そしてもしそうだとすると、もっと何とか書きようがありそうなものだ、お鶴はもう僕のことを忘れてしまっているのだろうか、などと考えたりした。
 彼は、母を思うとすぐお浜を思い出し、お浜を思うときっと母を思い起した。彼が二人からうけた印象は、色も匂いもまるでちがったものではあったが、それは彼にとって、決して調和しがたいものではなかった。それどころか、彼は、いわば、高く澄みきった暁の星を、咲きさかる紫雲英(れんげ)畑の中からでも仰ぐような気持で、二人の思い出にひたることが出来たのである。暁の星と紫雲英畑とは、もはや彼にとって同時に必要なものになっていた。暁の星だけでは、清澄に過ぎて寂しかったし、紫雲英畑だけでは、何か知ら心の奥に物足りなさが感じられた。彼は、この二つを同時に持つことによって、緊張感(きんちょうかん)と幸福感とを共に味わいつつ、無意識のうちに、彼自身の魂を、永遠と現実との二本の軌道のうえに正しく転じはじめていたのである。
 むろん、彼の周囲には正木一家のひとびとがいて、あたたかく彼を見まもってくれた。正木のお祖父さんは、やはり懐しくも怖くも思われる人だった。お祖母さんは母の死後いよいよやさしくなってきた。墓詣りのたびごとに、母の思い出を語り、ついでにお浜のことを言い出して、次郎を慰めるのは、いつもこのお祖母さんだった。次郎は、しかし、母の死後、この二人が目立って元気がなくなったように見えて、何となく淋しかった。
 謙蔵夫婦や、従兄弟(いとこ)たちには、べつに変ったところもなかった。どちらかと言うと、次郎自身が彼らに対して不必要に気をつかったり、小細工をしたりしなくなっただけに、彼らの次郎に対する態度にも、一層こだわりがなくなって来たと言えたであろう。
 ともかくも、こうして、次郎は正木一家のひとびとに取りかこまれ、しばしば、お浜に手紙を書き、自由に母の追憶にふけっているかぎり、大して不幸な生活をおくっているとは言えなかったのである。
 もっとも、竜一の姉の春子が、いよいよ正式に縁づくことになり、母の死後間もなく、東京に発(た)って行ってしまったと聞いた時には、腹も立ったし、悲しくも思った。このまえ彼女が東京に行って、一旦帰って来た時に、すぐにも訪ねたいと思ったが、そのころは母が危篤で、学校も休んでいたし、いよいよ葬式がすんで学校へ通えるようになってからも、忌中におめでたまえの人の家を訪ねるものではないと、正木のひとびとに言いきかされていたので、とうとう会えないでしまったのが、とりわけ心残りでならなかった。しかし、それも母の死という大打撃のあとだったせいか、このまえ春子が東京に行くと聞いた時にくらべると、不思議なほど、心にうけた痛みが軽かった。そして、時がたつにつれて、学校で竜一の顔を見ても、めったに春子のことを思い出さなくなり、たまに思い出しても、それは、春子の東京土産にもらった硝子製のライオンとともに、むしろ甘い追憶の一つになりかけて来たのである。
 ただ、彼の心にいつも暗い影になってこびりついていたのは、やはり本田のお祖母さんだった。彼は、もう一人でも町に行けるようになっていたので、行きたいとさえ思えば、土曜ごとに泊りがけで行けるのだったが、実際に行くのは、せいぜい月一回ぐらいのものだった。それも、自分から進んで出かけようとしたことなど、ほとんどなく、たいていは、正木の老人たちにつれられたり、あるいはすすめられたりして、しぶしぶ出かけるといったふうだった。
 それも、しかし、本田のお祖母さんの彼に対する仕打が、以前より一層ひどくなって来ている以上、無理もないことだった。本田のお祖母さんは、このごろでは、次郎をまるで本田の子供だとは思っていないかのようにあしらった。小学校を出たあと本田に帰って来られては迷惑だ、と言わぬばかりの口吻をもらしたことも、一度ならずあった。ある時など俊亮に向かって、
「この子もやはり中学校に出す気なのかえ。」とか、
「正木でお世話ついでに何とか考えてもらったら、どうだえ。」とか、次郎を目の前に置いて、平気でそんなことをいったことさえあった。
 俊亮は、むろんそれには取りあわなかったが、次郎としては、将来の希望を打ちくだかれたような気がして、その時は正木に帰ってからも、永いこと暗い気持になっていた。
 何よりも、次郎を不愉快にしたのは、お祖母さんが彼に向かって、正木の人たちのことを何かと悪く言うことだった。しかも、その悪口は、どうかすると、亡くなった母の上にまで飛んで行くのだった。
「親の気位が高いと、自然その娘も気位が高くなるものでね。このお祖母さんは、お前たちのお母さんでどれほど苦労をしたか知れやしないよ。」
 これが、何かにつけ、お祖母さんの言いたがることだった。また、
「気がきつくて、素直でないところは、次郎がお母さんそっくりだよ。恭一なんかお母さんにはちっとも似ていないがね。」
 などとも言った。これには、はたで聞いていた恭一も、いやな顔をした。次郎はなおさらいやだった。自分が悪く言われるのは、慣れっこになっていて、もうさほどには腹も立たなかったが、彼にとっては神聖なものになりきっている母が少しでも傷つけられることは、何としてもたえがたいことだった。
 彼は、しかし歯噛みをしてそれをこらえた。こらえなければ、一層母が悪者になるような気がしたのである。
 彼が本田に行きたがらない理由は、正木一家にも、むろん、よく解っていた。で、正木のお祖父さんは、最近しばしば俊亮にそのことを話して、次郎が中学校へ入学したあとの始末について、十分考えてもらうことにした。しかし、俊亮はその話になると、いつもため息をつくだけだった。
 寄宿舎に入れる手もあり、また、少しは無理でも正木の家から自転車で通わせるという方法も考えられないではなかったが、いずれにせよ、近くに自家(うち)があるのにそんなことをしては、ますます次郎をひがましてしまうのではないか、という心配が俊亮にはあった。実は、次郎本人が知ったら、その方をどのくらい望んだか知れなかったのだが、俊亮としては、そのことについて次郎の気持をきいてみることさえ、よくないことのように思われるのだった。それに、商売の方も、不慣れなために、とかく手ちがいだらけであり、次郎のために特別の支出でもすることになれば、それこそお祖母さんが默ってはいまいし、正木から通わせることにすればその方の心配はないとしても、世間の思わくというものを、元来そんなことにはわりあい無頓着(むとんちゃく)な俊亮も、さすがに無視するわけにはいかなかったのである。
(いっそ養子にでもやってしまおうか。)
 俊亮は、ふとそんなことを考えてみたこともあった。しかし、それは、彼の良心、――というよりは、彼の次郎に対する愛情が許さなかった。
 彼は、次郎を見ると、このごろ涙もろくさえなっていたのである。
 この問題は、実を言うと、お民の葬式がすむとすぐから、ないない誰の気にもかかっていたことで、法事のたびごとに、ひそひそと囁(ささや)かれていたのだが、四十九日が過ぎ、百ヵ日が過ぎ、その年も暮近くになって、やっと正木の老人から俊亮に話し出したのだった。
 それでも、結局、解決がつかないままに年があけてしまったのである。

    二 万年筆

「次郎、父さんは、今日正木へ行く用が出来たんだが、いっしょに行かないか。」
 朝飯をすまして、火鉢のはたで、手紙の封をきっていた俊亮が、だしぬけに言った。
 次郎は正月を迎えるために本田に帰って来ていたが、むろん、一日だってお祖母さんに不愉快な思いをさせられない日はなかった。恭一や俊三といっしょに、父と一度映画館につれて行ってもらったほかに、正月らしい気分は何一つ味わえず、とりわけ、食卓での差別待遇が、母にわかれてからの彼のしみじみとした気持を、めちゃくちゃにしそうだった。で、休みはまだあと二日ほど残っていたが、父にそう言われると、彼は飛び立つように嬉しかった。
「すぐ行くの? 僕、じゃあ、カバンを取って来るよ。」
 彼は、そう言って、二階へかけあがった。
「だしぬけに、どうしたんだね。」
 と、まだちゃぶ台のそばで茶を飲んでいたお祖母さんが、不機嫌そうに、俊亮にたずねた。
「いや、歳暮(くれ)にも無沙汰をしていますし、どうせ一度行って来なければなりますまい。」
「でも、今年はまだ忌(いみ)があるんじゃないのかい。」
「そりゃそうです。しかし、べつに年始というわけではありませんから。」
「じゃあ、松の内でも過ぎてからにした方が、よくはないのかい。あんまり物を知らないように思われても、何だから。」
 俊亮は苦笑した。そして、ちょっと何か考えていたが、
「じつは、今、正木から至急の手紙が来ましてね。」
 と、膝の前に重ねて置いた四五通の手紙に眼をやった。
「何を言って来たのだえ。」
 お祖母さんは、急いでちゃぶ台のそばをはなれ、不機嫌と好奇心とをいっしょにしたような眼つきをして、俊亮の火鉢の前に坐った。
「今日の夕刻までに、是非来てくれというんです。」
「そんな急な用件って、何だね。」
「それは、行ってみないと、はっきりしませんが……」
「何とも書いてはないのかい。」
「ええ……」
 俊亮の返事は少しあいまいだった。
「用件も書かないで、人を呼びつけるなんて、ずいぶん失礼だとは思わないのかい。」
 俊亮はまた苦笑しながら、
「親類仲でそうこだわることもありますまい。それに、こちらのことを気にかけてのことらしいのですから。」
「こちらのこと? すると何かい、こちらのことで何か相談がある、と書いて来ているんだね。」
 と、お祖母さんは、何か不安らしい眼をして、じろじろと手紙に眼をやった。
「そうらしく思われます。ご覧になりたけりゃ、ご覧下すってもいいんです。」
 俊亮は、渋い顔をしながら、正木からの手紙をぬきとって、お祖母さんの方につき出した。
「べつに、わたしが見なけりゃならん、ということもないのだけれど……」
 お祖母さんは、そう言いながら、手をひろげて、念入りに読みだした。しかし「委細(いさい)は拝眉(はいび)の上」とあるきりで、はっきりしたことは何も書いてなかった。ただ「次郎の行末とも、自然関係ある儀に付、云々(うんぬん)」という文句だけが、強くお祖母さんの眼を刺戟した。
 俊亮は、お祖母さんに構わず立ち上った。
「夕方までに行けばいいのなら、お午飯(ひる)でもすましてからにしたら、どうだえ。手紙を見たからって、そういそいで行くこともあるまいじゃないかね。」
 お祖母さんは、もう一度、読みかえしていた手紙を膝の上に置いて、俊亮を見た。俊亮が出かける前にもっとよく話し合っておきたい、というのがその肚(はら)らしかった。俊亮は、しかし、
「日も短いし、早く行って、早く帰った方がいいんです。」
 と、すぐ立ち上って次の間の箪笥(たんす)の抽斗(ひきだし)から自分で羽織を出しかけた。
 次郎は俊三と肩を組んで元気よく二階からおりて来た。そのあとから恭一もついて来た。
「お祖母さん、次郎ちゃんはもう帰るんだってさあ、まだ休みが二日もあるのに。」
 俊三が訴えるように言った。
 お祖母さんは、しかし、それには答えないで、次郎のにこにこしている顔を、憎らしそうに見ながら、
「お前は正木へ行くのが、そんなに嬉しいのかえ。」
 次郎の笑顔は、すぐ消えた。彼は默って次の間から出て来た父の顔を見上げた。
「何か、お土産になるものはありませんかね。」
 俊亮は、その場の様子に気がついていないかのように、お祖母さんに言った。
「何もありませんよ。」
 と、お祖母さんは、極めてそっけない。
「じゃあ、次郎、店に行って、壜詰(びんずめ)を三本ほど結(ゆわ)えてもらっておいで。」
 次郎はすぐ店に走って行った。
「店の品じゃ可笑(おか)しくはないかい。それに重たいだろうにね。」
 お祖母さんは、店の壜詰棚が、このごろ淋しくなっているのをよく知っていたのである。
「なあに――」
 と、俊亮は一旦火鉢のはたに坐って、ひろげたままになっていた手紙を巻きおさめながら、
「何か、次郎にやるものはありませんかね。」
「次郎に? ありませんよ。」
「食べものでもいいんです。……もしあったら、お祖母さんからやっていただくといいんですが……」
 お祖母さんは、じろりと上眼で俊亮を見た。それから、つとめて何でもないような調子で言った。
「飴だと少しは残っていたかも知れないがね。でも、珍しくもないだろうよ。毎日次郎にもやっていたんだから。」
 俊亮は、もう何も言わなかった。そして、巻煙草に火をつけて、吸うともなく吸いはじめた。すると、その時まで默っていた恭一が、お祖母さんの方を見ながら、用心ぶかそうに、
「僕、次郎ちゃんに、こないだの万年筆やろうかな。」
「歳暮(くれ)に買ってあげたのをかい。」
 と、お祖母さんは、とんでもないという顔をした。
「ええ。」
「お前、どうしてもいると言ったから、買ってあげたばかりじゃないかね。」
「僕、赤インキをいれるつもりだったんだけれど、黒いのだけあればいいや。」
「また、すぐ買いたくなるんじゃないのかい。」
「ううん、色鉛筆で間にあわせるよ。」
「でも、次郎は万年筆なんかまだいらないだろう。」
「いらんかなあ。でも、次郎ちゃん、ほしそうだったけど。」
「あれは、何でも見さえすりゃ、ほしがるんだよ。ほしがったからって、いちいちやっていたら、きりがないじゃないかね。」
 お祖母さんは、恭一に言っているよりは、むしろ俊亮に言っているようなふうだった。
 恭一は默って俊亮の顔を見た。俊亮は、巻煙草の吸いがらを火鉢に突っこみながら、
「お前は、次郎にやってもいいんだね。」
「ええ……」
 と、恭一は、ちょっとお祖母さんの顔をうかがって、あいまいに答えた。
「じゃあ、やったらいい。お前のは、また父さんが買ってあげるよ。」
 お祖母さんは、ひきつけるように頬をふるわせた。そして、急にいずまいを正しながら、
「俊亮や、お前は、あたしが次郎にやりたくないから、こんなことを言うとでもお思いなのかい。あたしはね、どの子にだって、いらないものを持たせるのは、よくないと思うのだよ。それに……」
 俊亮は顔をしかめながら、
「ええ、もうわかっています。お母さんのおっしゃることはよくわかっています。しかし、私は、恭一のやさしい気持も買ってやりたいと思ったんです。次郎の身になったら、それがどんなに嬉しいでしょう。兄弟の仲がそうして美しくなれたら、万年筆一本ぐらい、いるとかいらないとか、やかましく言う必要もないじゃありませんか。」
 お祖母さんは、恭一のやさしい気持を買ってやりたい、と言った俊亮の言葉には刃向かえなかった。しかし、そのあとがいけなかった。次郎を喜ばせることは、お祖母さんにとっては、むしろ不愉快の種だったし、それに、万年筆一本ぐらいどうでもいいようなふうに言われたのには、何としても我慢がならなかった。
「ねえ俊亮や――」
 とお祖母さんは声をふるわせながら、
「ほしがるものなら何でもやるがいい、と、お前がお考えなら、あたしはもう何も言いますまいよ。だけど、子供たちのさきざきのためを思ったら、ちっとは不自由な目も見せておかないとね。……何よりの証拠(しょうこ)がお前じゃないのかい。一人息子で、あまやかされて育ったばかりに、お前も今のような始末になったんだと、あたしは思うのだよ。そりゃあ、悪かったのはあたしさ。あたしの育てようが悪かったればこそ、御先祖からの田畑を売りはらって、こんな見すぼらしい商売を始めるようなことにもなったんだろうさ。だから、あたしは、罪ほろぼしに、孫だけでもしっかりさせたいと思うのだよ。それがあたしの仏様への……」
 お祖母さんは、袖を眼にあてて泣き出した。俊亮は、恭一と俊三とが、まん前にきちんと坐って、いかにも心配そうに自分を見つめているのに気がつくと、さすがにたまらない気持になったが、あきらめたように大きく吐息をして、店の方に眼をそらした。
 その瞬間、彼は、はっとした。一尺ほど開いたままになっていた襖(ふすま)のかげから、次郎の眼が、そっとこちらをのぞいていたのである。次郎の眼はすぐ襖のかげにかくれたが、たしかに涙のたまっている眼だった。
「次郎!」
 俊亮は、ほとんど反射的に次郎を呼び、
「さあ、行くぞ。」
 と、わざとらしく元気に立ち上った。そしてマントをひっかけながら、
「じゃあ、恭一、万年筆はせっかくお祖母さんに買っていただいたんだから、大事にしとくんだ。」
 それから、お祖母さんの方を見、少し気まずそうに、
「お母さん、では、行ってまいります。」
 お祖母さんは、まだ袖を眼に押しあてたまま、返事をしなかった。
「次郎ちゃん、今度はいつ来る?」
 俊三は、重たそうに壜詰をさげて部屋にはいって来た次郎を見ると、すぐ立ってたずねた。恭一は、考えぶかそうに次郎を見ているだけだった。
「うむ――」
 と、次郎は生(なま)返事をしながら、壜詰を上り框(がまち)におくと、いそいで仏間の方に行った。仏間には田舎にいたころのぴかぴかする仏壇がそのまま据えてあり、その中にまだ白木のままの母の位牌(いはい)が、黒塗りの小さな寄せ位牌の厨子(づし)とならんで、さびしく立っていた。次郎はその前に坐ると、眼をつぶって合掌した。
 観音さまに似た母の顔が、すぐ浮かんで来た。お浜のあたたかい、そして励ますような眼が、それに重なって浮いたり消えたりした。彼は悲しかった。つぶった眼から急に涙があふれて、頬を伝い、唇をぬらした。彼は、なんとなしに、この家の仏壇を拝むのもこれでおしまいだ、という気がしてならなかったのである。
「次郎ちゃん、父さんが待ってるよっ。」
 俊三が仏間に這入って来ていった。
 次郎はあわてて涙をふいた。そして俊三といっしょに茶の間の方に行きかけると、恭一が、足音を忍ばせるようにして、二階からおりて来た。彼は、俊三の方に気をくばりながら、
「次郎ちゃん、ちょっと。」
 と呼びとめた。
 次郎が近づいて行くと、恭一は、梯子段(はしごだん)をおりたところで、自分のからだをぴったりと次郎のからだにこすりつけて、ふところにしていた右手を、すばやく次郎の左袖に突っこんだ。
 次郎は、脇(わき)の下を小さな円いものでつっつかれたようなくすぐったさを覚えた。彼はそれが万年筆であるということを、すぐ覚った。そして嬉しいとも、きまりがわるいとも、怖いともつかぬ、妙な感じに襲(おそ)われた。
「何してるの。」
 と俊三がよって来た。
「くすぐってやったんだい。だけど、次郎ちゃんは笑わないよ。」
 恭一はやっとそうごま化した。そして、顔をあからめなから、変な笑い方をしていた。これは、しかし、恭一にしては精一ぱいの芸当だった。
 俊三は笑わない次郎の顔を、心配そうにのぞいて、
「怒ってんの、次郎ちゃん。」
 次郎はますますうろたえた。が、こうした場合の彼のすばしこさは、まだ決して失われてはいなかった。彼は、恭一の方にちょっと笑顔を見せたあと、いきなり俊三の脇腹をくすぐった。俊三はとん狂な声を立てて飛びのいた。同時に恭一と次郎が、きゃあきゃあ笑い出した。
「何を次郎はぐずぐずしているのだえ。感心に仏様にご挨拶(あいさつ)をしているかと思うと、そんなところで、ふざけたりしていてさ。行くなら、さっさとおいで。」
 お祖母さんの声が、するどく茶の間からきこえた。俊三は、口を両手にあてて渋面をつくった。恭一は心配そうに次郎の顔を見た。次郎は、しかし、ほとんど無表情な顔をして、茶の間に出て行き、お祖母さんのまえに坐って、
「さようなら、お祖母さん。」
 と、ていねいにお辞儀をした。そして、脇腹に次第にあたたまって行く万年筆の感触を味わいながら、元気よくカバンを肩にかけた。
 本田の家を出てからの次郎の気持は、決して不幸ではなかった。俊亮は、自転車に壜詰を結(ゆわ)えつけて、それを押しながら家を出たが、町はずれまで来ると、次郎をいっしょにのせてペタルをふんだ。風は寒かったし、からだも窮屈だったが、次郎は、父のマントをとおして、ふっくらした肉のぬくもりを感ずることが出来た。
 彼は、恭一に万年筆をもらったことを、すぐにも父に話したかったが、なぜかいつまでも言い出せなかった。大方一里あまり走ったころ彼はやっと言った。
「あのねえ、父さん、……恭ちゃんが、そっと僕に万年筆をくれたよ。」
「ふうむ――」
 俊亮はえたいの知れない返事をしたきりだった。次郎もそれっきり默っていた。そして自転車の合乗りでは、どちらも相手の顔をまともにのぞいて見るわけには行かなかったのである。
 それから一丁あまり走ったころ、俊亮が思い出したようにたずねた。
「いつ、くれたんだい。」
「僕、母さんのお位牌を拝んで出て来ると、梯子段のところで、くれたよ。」
「ふうむ――」
 俊亮は、またえたいの知れない返事をしたが、今度は半丁も走らないうちに、ちょっと自転車の速力をゆるめながら、
「じゃあ、恭一には、父さんがもっと上等なのを買ってやろうね。」
「うむ。」
 次郎は造作(ぞうさ)なく答えた。答えてしまっていい気持だった。
 彼はもっと上等の万年筆を、しかも、父自身に買ってもらう恭一の幸福を、少しも妬(ねた)ましいとは感じなかった。彼は、むしろ、恭一に万年筆をもらった喜びの奥に、何かしら気にかかっていたものが、父のその言葉で、すっかり拭い去られたような気がして、はればれとなった。そして、それから五六分もたって、もう一度、落ちついて父の言葉を頭の中でくりかえしてみたが、やはり妬ましい気には少しもならなかった。
(恭ちゃんが僕より上等の万年筆をもつのは、あたりまえだ。)
 彼は何の努力なしに、そう思うことが出来た。また、恭一に万年筆をもらわないで、そのかわりに、父に買ってもらうとしたらどうだろう、とも考えてみたが、これもむしろ、恭一にもらったことの方が嬉しいような気がした。
 二人は、それからあまり口もききあわなかった。口をききあうには、二人の気持が、少し複雑になり過ぎていた。それに、二人とも、口をききあわなければ物足りない、とも感じていなかったのである。
 荷馬車に出あったり、土橋を渡ったり、そのほか、少しでも危険を感するような場所では、二人はかならず自転車をおりた。そんな時には、俊亮は、きまって次郎の顔をまじまじと見た。次郎も父の顔を見たが、いつもすぐ眼をそらして、少しはにかむようなふうだった。
 二人は、正木につく前に、ちょっと寄道(よりみち)をして、お民の墓詣りをした。そこでも二人はあまり口をきかなかった。しかし、墓地の出口まで出て来たときに、ふと俊亮が言った。
「お前が恭一に万年筆をもらったのを、お母さんもきっと喜んだろうね。」
 次郎は默って自分のカバンを見た。その中には、恭一にもらった万年筆が、もう何よりも大事にしまいこまれていたのだった。

    三 大きな笑(え)くぼ

 二人が正木の家(うち)についたのは十一時を少し過ぎたころだった。正木では、俊亮が午前中に来ると予想していなかったらしく、門口をはいると、みんなが、「おや」という顔をした。
 老夫婦は、しかし、二人の顔を見ると、次郎の方にはろくに言葉もかけないで、せき立てるように、俊亮だけを座敷に案内した。
 次郎には、それが物足りないというよりは、何かしら気になった。で、カバンを二階の子供部屋の机の上におくと、自分もすぐ座敷の方に行ってみるつもりで、梯子段を降りかけた。しかし、梯子段の下には、もう従兄弟たちが待っていて、やんやとはしゃぎながら、彼を蝋小屋の方にひっぱって行った。
 蝋(ろう)小屋の蒸炉(むしろ)には、火がごうごうと燃えていた。従兄弟たちは、そのまえに行くと、めいめいに火掻(かき)や棒ぎれをにぎって、さきを争うように、炉口(ろぐち)にうずたかくなっている蝋灰をかきおこしはじめた。蝋灰のなかからは、まるごとに焼けた薩摩芋がいくつもいくつもころがり出た。
 次郎は、もうすっかり腹が減(へ)っていたので、その香ばしい匂いをかぐと、すぐその一つに手を出した。火傷(やけど)しそうに熱いのを、両手で持ちかえ持ちかえしながら、二つに折ると、黄いろい肉から、湯気がむせるように彼の頬にかかった。彼はふうふう吹いては、それを食った。従兄弟たちもさかんに食った。食いながら、みんなでいろんなおしゃべりをしては、笑った。
 次郎は、急にのびのびしたあたたかい気持になり、きのうまでの不愉快な生活を夢のように思い浮かべた。そして今更のように、正木の家はいいなあ、と思った。
 しかし、一方では、どうしたわけか、しばらくぶりで逢(あ)った従兄弟たちが、何とはなしに物足りないように思われてならなかった。むろん、彼らが次郎に対して、いつもよりは冷淡だったというのではない。それどころか、芋を焼いていた彼らが、次郎が帰って来たのを知ると、彼をも仲間に入れようとして、すぐ飛んで出て来たのには、むしろいつも以上の親しさが感じられた。それにもかかわらず、次郎は、彼らとこうしていっしょにおしゃべりをしたり、笑ったりしているのが、何とはなしに、いつもほどしっくりしない。
 彼は、自分ながら変な気がした。
 従兄弟たちは、いったいに、学校の成績はいい方ではない。久男は、恭一よりも二つも年上だが、少し耳が遠いせいもあって、中学校には二度も失敗し、やっと私立の商業学校にはいって、今二年である。源次は次郎より一つ年上で、気はきいているが、ずぼらなところがあり、やはり一度は中学校に失敗して、この三月に、次郎といっしょにもう一度受験することになっている。しかし、今でもちっとも勉強しようとはしない。この二人にくらべると、彼らの義理の弟になっている誠吉の方が、ずっと出来がいいのだが、彼はまだ尋常四年だし、次郎の勉強の相手にはてんでならない。次郎が、そんな点で、ふだんから彼らにいくぶんの物足りなさを感じていたのはたしかだった。
 しかし、きょうの物足りなさは、それとは全くちがった物足りなさだった。従兄弟たちの好意は十分にみとめながらも、それがしっくり身について来ないといった感じだったのである。
 これは、しかし、実は不思議でも何でもなかった。彼は、彼自身ではっきり意識していなかったとしても、やはり、心のどこかで、まだ万年筆のことを思いつづけていたにちがいなかったのである。いや、万年筆をとおして、たまたま数時間まえに示された肉親の兄の愛が、久しく彼の血管の中に凍りついていた本能の流れを溶かして、従兄弟たちの好意を、その流の上に、木の葉でも浮かすように、浮かしはじめていたにちがいなかったのである。
 血は水よりも濃い。そして濃い血は淡い血よりも人の心を濃くする。次郎が今日従兄弟たちの愛をいつも程に味わい得なかったとしても、それは決して彼の軽薄さを示すものではなかったのだ。
 だが、実をいうと、次郎の気持を従兄弟たちから引きはなしていた理由は、ただそれだけなのではなかった。彼の心の動きはいつも単純ではない。生れた瞬間から、八方に気をつかうように運命づけられて来た彼は、焼芋を頬張ったり、おしゃべりをしたりしている最中にも、やはり、老夫婦がせき立てるように父を座敷につれて行ったことを忘れてはいなかったのである。
 彼は、焼芋を三つ四つ食い終ったころ、ふと思い出したように言った。
「僕、まだお祖父さんにご挨拶してないんだよ。」
 これは、むろん嘘だった。彼はさっき茶の間にあがるとすぐ、まっさきにお祖父さんに挨拶をすましていたのである。
 彼は、言ってしまって嫌な気がした。このごろめったに小細工をやらなくなっている彼ではあったが、何かの拍子に、われ知らずそれが出る。そしていつも後悔する。後悔はするが、すなおに小細工をひっこめる気にはなかなかなれない。その結果、一層まずい小細工をやって、あとでは手も足も出なくなってしまうことが多い。そんな時にかぎって、彼には母やお浜の顔を思い浮かべる余裕がない。それを思い浮かべるのは、たいてい何もかもすんでしまったあと、ひとりで、にがい後悔のあと味を噛みしめている時なのである。
「じゃあ、すぐ行っておいでよ。」
 久男が年長者らしく言った。むろん次郎がどんな気持でいるのか、それにはまるで気がついていなかったらしい。
「すぐまた、ここにおいでよ。これから餅を焼くんだから。」
 源次が芋の皮を炉に投げこみながら言った。
 次郎は変にそぐわない気持で立ち上った。すると誠吉が、
「餅なら、僕がとって来らあ。……次郎ちゃん行こう。」
 と、次郎と肩をくみそうにした。次郎の手は、しかし、ぶらさがったままだった。
 蝋小屋を出て、母屋の土間にはいると、誠吉は、台所で午飯の支度をしていたお延に言った。
「母さん、源ちゃんが餅を下さいって、次郎ちゃんと、蝋小屋で焼いて食べるんだってさ。」
 次郎には、誠吉のそうした卑屈な言葉が、いまはとくべついやに聞えた。
「もうすぐお午飯(ひる)だのに。……でも、少しならもっておいでよ。」
 お延は、そう言って、次郎の方をちらと見た。次郎には、それもいい気持ではなかった。
 彼は茶の間をぬけて、座敷の次の間まで行ったが、そこで立ちすくんでしまった。襖のむこうからは、ひそひそと話声がきこえるが、落ちついて立ち聞きする気にはもうなれない。さればといって、思いきって座敷にはいって行く勇気も出ない。結局、従兄弟たちに言った嘘をほんとうらしくするために、わざわざここまでやって来たに過ぎないような結果になってしまったのである。
 彼はすぐ次の間から引きかえそうとした。が、もう一度蝋小屋に行って、いかにもお祖父さんに挨拶をして来たような顔をするのがいやだったので、ちょっと思案していた。
 すると、急に座敷の話声が、高くなった。
「いや、先方はまだ何も知りませんのじゃ。」
 お祖父さんの声である。つづいてお祖母さんの声がきこえる。
「先方では、あんたが、きょうこちらにお見えのことも知らないでいるはずでございますよ。きょうは私どもの急な思いつきで、顔だけでもあんたに見ておいてもらったら、と思いましてね。幸い先方が訪ねて来るというものですから。」
「なあに、いけなけりゃ、いけないで、ちっとも構いませんのじゃ。じゃが、仏に対する遠慮なら、もう無用にしてもらいましょう。ちっとでも次郎のためになることなら、仏も喜びましょうからな。」
 次郎はもう動けなくなった。
「そりゃあ、気が利かないうえに、学校も小学校きりでございますから、何かと足りないがちだろうとは思います。ただすなおなのが取柄でございましてね。」
「生半可(なまはんか)に気が利いたり、学問があったりするのは、こういう場合には、かえってよくないものじゃ。ことに、次郎にはやさしいのが何よりじゃでのう。」
 次郎はいつの間にか、襖の方に二三歩近づいていた。彼にはもう、話の内容がおぼろげながらわかりかけて来たのである。
「しかし――」
 と、はじめて俊亮の声がきこえた。次郎はごくりと固唾(かたず)をのんだ。
「この話は、次郎本位に考えるだけでいい、というわけでもありませんし……」
「ご尤も。」
 とお祖父さんが言った。俊亮は少し声を落して、
「何しろ、ご存じの通りの内輪の事情ですから、誰に来てもらったところで、すいぶんつらいことがあるだろうと思います。」
「それはいたし方ない。先方も初婚というわけではないし、それに、さっきから話しましたような事情じゃで、とくと話せば、大ていのことは我慢する気になるだろうと思いますがな。」
「しかし、それも程度がありますのでね。それに、万一来て下さる方が、次郎の方にだけ親しみが出来るというようになりますと、いよいよ面倒になりまして、次郎のためだと思ったことが、かえって悪い結果にならんとも限りませんし……」
「なるほど、そこいらはよほど気をつけんとなりますまい。じゃが、かげになって次郎をかばってくれる女が、一人は居りませんとな。」
 しばらく沈默がつづいた。次郎はただ頭がもやもやしていた。父にどう返事をしてもらいたいのか、それさえ自分でもわからなかった。第二の母、そんなことは、まだこれまでに彼が考えてみようとしたことさえなかったことなのである。
「とにかく、会ってやって下さるぶんには、差支えございませんでしょうね。」
 お祖母さんの声である。次郎は固唾をのんだ。
「ええ、それはかまいません。どうせ今日は、おそくなれば夜になる肚(はら)であがったんですから。」
 次郎は、失望に似た感じと、好奇心に似た感じとを、同時に味わった。
「次郎ちゃん、――何してんだい。――餅が焼けたよう――。」
 誠吉が土間の方から呼んでいる声がきこえた。彼は、はっとして、急いで部屋を出た。
 蝋小屋に行ってみると、もう餅がふくらんで、熱い息を吹き出していた。蓆(むしろ)のうえには、醤油と黒砂糖を容れた皿が二つ置かれていた。しかし、彼には、もうほとんど食慾がなかった。彼は、蒸炉にもえさかっている火の勢いで、自分の頭がぐるぐる回転しているような感じだった。
 間もなくお延が、彼らを午飯に呼びに来た。
 次郎は、しかし、ちゃぶ台のまえに坐っても、お延が盆をもって座敷に往ったり来たりするのに気をとられて、たった一杯しかたべなかった。従兄弟たちは、それをべつに変だとも思わなかったらしい。――彼らの腹も、蝋小屋で食った薩摩芋と餅とで、もう相当にふくらんでいたのである。
 次郎は食事をすますと、一人で二階に行って、お浜に手紙を書きはじめた。
 彼は先ず、町から正木に帰って来たことを知らせ、それから、さっきの座敷の話について何か書くつもりだった。しかし、彼はそれをどう書いていいのか、さっぱり見当がつかなかった。で、町で一度父に映画を見せてもらったことや、恭一に万年筆をもらったことや、父といっしょにお墓詣りをしたことなどを、多少の感傷をまじえて書いた。本田のお祖母さんのことは、何とも書かなかった。書きたくなかったのである。正木のお祖父さんや、お祖母さんについては、何かちょっとでも書いておきたいと思ったが、書こうとすると、ついさっきの話がひっかかって、筆が進まなかった。で、とうとうそれを思いきって、最後に、例のとおり、「では乳母や、からだに気をつけてください」と書き、すぐ封筒に入れて封をしてしまった。
 彼は、しかし、何だか物足りなくて、それからしばらくは、ぽかんと机に頬杖をついていた。
 そのうちに、継母を持っている数人の学校友達の顔が、ひとりでに思い出されて来た。そのある者は彼の非常にきらいな子供だったし、またある者は彼がかなり親しんでいる子供だった。彼は、しかし、それらの顔を思い浮かべたために、一層不愉快にもならなければ、慰められもしなかった。
 彼は、そのうちに、万年筆のことを思い出して、カバンの中からそれを取り出した。そしてキャップをとって、ためつすかしつ眺めはじめた。それは吸上ポンプ式だったが、まだインキが入れてなかった。彼は町で、恭一がそれに水を入れたり出したりしたのを見ていたので、どうすればインキがはいるのかがわかっていた。彼は部屋を見まわして、久男の机の上にインキ壺を見つけると、すぐそこに行ってインキを入れた。そして、自分の机のところに持って来ると、それでお浜に出す手紙の上がきを書いた。筆や鉛筆で書くのとちがって非常に書きづらかった。ペン先に紙がひっかかって、インキが点々と散った。それでも彼は、お浜あての手紙に、兄にもらった万年筆をはじめて使ったのが心からうれしかった。そして何度も封筒をひっくりかえしては、青みがかった文字の色をながめた。
 彼はそれでいくらか気が軽くなって、階下(した)におりた。そして従兄弟たちを探すために、蝋小屋の方に行きかけた。
 すると門口から、背(せ)の馬鹿に高い、頭のつるつるに禿げた、真白な顎鬚(あごひげ)のある老人がはいって来た。次郎は、一目見ると、それが母の葬式の時に来ていた人だということを、すぐ思い出した。天狗の面を思わせるような顔が、次郎の記憶に、はっきり残っていたのである。
 老人は、そりかえるように背をのばして、大股(おおまた)に土間を歩いて行った。
 次郎が、ぼんやり突っ立ってそれを見送っていると、つづいて三十あまりの年頃の女が門口をはいって来て、小走りに彼のそばをすりぬけた。彼はちらとその横顔を見たが、少しも見覚えのある顔ではなかった。色が白くて、頬がやわらかに垂れさがっているような感じの女だった。
 彼は、しかし、その瞬間はっとした。そして吸いつけられるように、うしろ姿に視線をそそいだ。
「まあ、よくいらっしゃいました。さあどうぞ。父もたいへんお待ち申して居りました。」
 お延があいそよく二人を迎えた。
「きょうはお延さんにお造作(ぞうさ)をかけますな。はっはっはっ。」
 老人は肩をそびやかすようにして、そう言いながら、さっさと上にあがった。女の人は、上り框のところで、土間に立ったまま、何度もお延に頭をさげていたが、これも間もなく障子の向こうに消えた。
 次郎は、それまで、一心に女を見つめていた。そして障子がしまると、急に自分にかえって、あたりを見まわした。あたりには誰もいなかった。
 彼は、これからどうしようかと考えた。
 むろん、もう従兄弟たちを探す気にはなれなかった。二階に一人でいる気もしなかった。彼は、何度も門口を出たりはいったりしたあと、いつの間にか、母屋と土蔵との間の路地をぬけて庭の方にまわり、座敷の縁障子のそとに立った。しかし障子が二重になっていて、内からの話声はほとんどきこえなかった。ただ、みんなの笑声にまじって、さっきの老人の声が一きわ高くひびいてくるだけだった。
 彼は、障子の内に、父とさっきの女の人との坐っている位置をさまざまに想像しながら、寒い風にふかれて、しばらく植込をうろつきまわっていたが、ふと、従兄弟たちが自分のいないのに気づいて、探しに来てもいけない、と思った。で、何食わぬ顔をして、急いで蝋小屋の方に帰って行った。
 蝋小屋には、しかし、もう従兄弟たちはいなかった。仕事も早じまいだったらしく、炉の中には、灰になりかかった燠(おき)が、ひっそりとしずまりかえっていた。
 次郎は、一人でいるのが結局気安いような気がして、蓆の上にごろりと寝ころんだ。そして、次第に白ちゃけて行く燠にじっと眼をこらした。
「ちっとでも次郎のためになることなら、仏も喜びましょうからな。」
 そう言ったお祖父さんの言葉が思い出された。それはいいことのようにも思えたし、また悪いことのようにも思えた。自分のために、悪いことを考えるようなお祖父さんではない。――そうは信じていたが、ふだんのお祖父さんの言葉のように、彼の心にぴったりしないものがあった。
「かげになって、次郎をかばってくれる女が一人は居りませんとな。」
 そうもお祖父さんは言った。が、次郎にはやはりそれもぴんと響かなかった。
(もし、さっき見た女の人がそうだとすると、あんな人に、乳母やのような親切な心があるわけがない。だいいち、あの女は自分がこれまで見たこともない人ではないか。)
 彼は、それからそれへと、いろんなことを考えつづけた。しかし、考えれば考えるほど、いよいよわけがわからなくなって来た。
 そのうちに、あたりがそろそろ暗くなり出し、おりおり炉の中でくずれる燠(おき)が、ぱっと明るく彼の顔をてらした。そして彼の眼に浮かんで来るのは、母や乳母やの顔ではなくて、いつも、さっき見た女の人の横顔だった。
 彼は、しかしそう永くは蝋小屋にも落ちつけなくて、間もなく茶の間の方に行った。
 茶の間には、もうあかあかと電燈がともって居り、客用のお膳がいくつも用意されていた。
 彼は、火鉢のそばに坐ってそれを見ているうちに、お膳の上のものをめちゃくちゃにひっくりかえしてみたいような衝動を感じた。
「ひとりでいるの? みんなどこに行ったんだろうね。」
 お延が忙しそうに立ち仂きながら、次郎に言った。
「どこに行ったんかね。」
 次郎は、気のない返事をして、相変らずお膳を見つめていた。
「喧嘩をしたんではない?」
「ううん。」
「誠吉もいないの。」
「僕、知らないよ。」
 お延は、心配そうに何度も次郎の顔をのぞいていたが、そのうちに、女中と二人で座敷にお膳を運びはじめた。次郎は、お膳が一つ一つ眼の前から消えて行くごとに、座敷の様子を想像して、ただいらいらしていた。
 ご馳走がおわって、客が帰ったのは九時すぎだった。
 ほかの子供たちはもう寝てしまっていたが、次郎だけは茶の間に頑張っていて、みんなに挨拶している女の人の顔を注意ぶかく観察した。それは幅の広い、ぼやけたような顔だった。ただ、笑うと右の頬に大きな笑くばが出来るのが、はっきり次郎の眼にうつった。
 次郎は、その顔からべつに不快な感じはうけなかった。しかし、記憶に残っている母の引きしまった顔とくらべて、何だか気のぬけた顔だと思った。
 俊亮は、座敷に残ったまま、二人を送って出なかった。そして、それから老夫婦と二十分ほど何か話したあと、帰り支度をはじめた。次郎は彼の顔にも注意を怠らなかったが、別にいつもと変った様子がなかった。
「次郎はまだ起きていたのか。」
 あっさりそう言って、上り框(がまち)をおりた父の様子には、次郎だけが味わいうるいつもの親しさがあった。次郎は何か知ら安心したような気持になった。
 俊亮は土間で自転車に燈(ひ)を入れながら、お祖母さんに向かって言った。
「急にっていうわけにも行きますまいが、いずれ母の考えもききました上で、手紙ででもご返事いたしますから。」
 次郎はそれでまた変な気になった。
 彼は床にはいってからも、ぼやけたような顔だと思った女の顔を、案外はっきり思いうかべた。そして何度もねがえりをうった。

    四 寝言

 正月も終りに近いころだった。次郎が学校から帰って来ると、茶の間でお針をしていたお延が、いかにも意味ありげな微笑をもらしながら、言った。
「お帰り。……今日は次郎ちゃんに嬉しいことがあるのよ。」
 次郎は、土間に突っ立ったまま、きょとんとしてお延の顔を見ていたが、
「はやくお座敷に行ってごらん。お祖母さんが待っていらっしゃるから。」
 と、お延にせき立てられ、あわてたようにカバンを茶の間に放り出して、座敷の方に走って行った。
「お祖母さん、ただいま。」
 次郎は元気よく座敷の襖をあけた。が、その瞬間、彼は全く予期しなかった人の眼にぶっつかって、そのまま立ちすくんでしまった。――座敷には、こないだの女の人が、お祖母さんと火鉢を中にして坐っていたのである。
「お帰り。どうしたのだえ、そんなところに突っ立って。」
 お祖母さんがにこにこしながら言った。次郎があわてて襖(ふすま)をしめようとすると、
「おはいりよ。そして、お辞儀をするんですよ。」
 次郎は、敷居に坐って、お辞儀をした。
「まあ、おかしな子だね。いつもにも似合わない。ちゃんと中にはいって、お辞儀をするんだよ。」
 次郎は、しぶしぶ膝をにじらせて敷居の内側にはいった。そしてもう一度お辞儀をしたが、それをすますと、急いで立って行こうとした。
「ここにいてもいいんだよ。お客様ではないのだから。……もっと火鉢のそばにおより。」
 お祖母さんは、そう言って立ち上り、自分で次郎のうしろの襖をしめた。次郎は監禁(かんきん)でもされたかのように、窮屈(きゅうくつ)そうに坐っていた。
「どうしたのだえ、次郎。お客様ではないと言ってるのに。……この方はね……」
 と、お祖母さんは、もとの座にかえりながら、
「この方は、これからうちの人になっていただくんだから、そんなに窮屈にしないでもいいのだよ。そばによってお菓子でもおねだり。」
 すると女の人がはじめて口をきいた。
「次郎ちゃん、こちらにいらっしゃい。お菓子あげますわ。」
 何だか張りのない声だった。彼女は、そう言いながら、お菓子鉢から丸芳露(まるぼうろ)を一つ箸にはさんで次郎の方に差し出した。
 次郎は、しかし、手を出さなかった。
「おきらい?」
 次郎は、伏せていた眼をあげて、ちらと相手の顔を見た。相手は笑っていた。右頬の笑くぼがこないだ見た時よりも、一層大きく見える。ふっくらした頬の形は、どこかに春子を思わせるものがあった。しかし吸いつけられるような感じには、ちっともなれなかった。
「おいただきなさいよ。」
 お祖母さんがうながした。それでも次郎は手を出そうとしない。女の人は箸にはさんだ丸芳露を、ちょっともちあつかっている。
「まあ、ほんとにどうしたというんだね。いつもはお菓子に眼がないくせに。……くださるものは、すなおにいただくものですよ。」
 次郎は、お祖母さんにそう言われると、だしぬけに手をつき出して、丸芳露を受取ったが、いかにも厄介な預り物でもしたように、すぐそれを膝の上においた。
「はじめて、お目にかかるものですから、きまりが悪いのですよ。」
 と、お祖母さんは取りなすように言って、
「次郎、おたべよ、……お芳さんもひとついかが。次郎が一人ではきまりが悪そうだから、あたしたちもお相伴(しょうばん)いたしましょうよ。」
「ええ、いただきますわ。」
 二人は次郎の様子に注意しながら、丸芳露をたべだした。次郎は、しかし、食べようとしない。
 彼は「お芳さん」という女の名を何度も心の中でくりかえした。そして、さっきお祖母さんが、
「これからうちの人になっていただくんだから――」と言ったのを思いだして、変だなあと思った。
 誰もしばらく物を言わない。二人がむしゃむしゃ口を動かしている音だけが聞える。
 次郎は畳のうえに落していた眼をあげて、もう一度、そおっとお芳の顔をぬすみ見た。ほんの一瞬ではあったが、相手が都合よく彼の方を見ていなかったので、かなりこまかに観察することが出来た。下唇が少し突き出ている。顎の骨も、肉で円味を帯びてはいるが、並はずれて大きい。その唇と顎とが盛んに活動している様子は、次郎の眼にあまり上品には映らなかった。
「たべたくないのかえ。」
 お祖母さんがもどかしそうに言った。
「ううん」
「じゃあ、おたべよ。」
 次郎はやっと丸芳露を口にもって行った。しかし、たべだすと、またたくうちに平らげてしまった。
「もう一つあげましょうね。」
 お芳が、丸芳露を箸ではさみながら言った。次郎は返事をしなかったが、差し出されると、今度はすぐ受取って、ぱくぱく食べ出した。
 お祖母さんとお芳とがいっしょに笑い出した。
「さあ、もうきまり悪くなんかなくなったんだろう。もっとそばにおより。」
 お祖母さんが火鉢を押し出すようにして言った。
 次郎の気持は、しかし、まだちっとも落ちついてはいなかった。彼は、一刻も早く部屋を出て行きたいと思った。
「僕、宿題があるんだけれど――」
 彼はとうとうまた嘘を言った。が、この時は不思議に気がとがめなかった。
「そう?」
 と、お祖母さんはちょっと思案してから、
「じゃあ、宿題をすましたら、すぐまたおいでよ。お話があるんだから。」
 次郎は、お話があると言われたのが気がかりだったが、それでも、何かほっとした気持になって、座敷を出た。
 茶の間には、お延が微笑しながら彼を待っていた。
「次郎ちゃん、どうだったの、いいことがあったでしょう?」
 次郎はむっつりして、お延の顔を見た。そして、返事をしないで、放り出しておいたカバンを乱暴にひきずりながら、二階の方に行きかけた。
 お延の顔からは、すぐ微笑が消えた。
「どうしたの、次郎ちゃん。」
 彼女は縫物をやめ、次郎のまえに立ちふさがるようにして、その肩をつかまえた。
「まあ、ここにお坐りよ。」
 次郎はしぶしぶ坐った。しかし顔はそっぽを向いている。
「どうしたのよ、次郎ちゃん。何かいやなことがあったの。叱られた?」
 次郎はそれでも默っている。
「まあ、おかしな次郎ちゃん。この叔母さんにかくすことなんかありゃしないじゃないの。」
 すると、次郎は急にお延の顔をまともに見ながら、
「お芳さんって、どこの人?」
 お延は、ちょっとあきれたような顔をした。が、すぐわざとのように笑顔をつくって、
「まあ、お芳さんなんて、駄目よ、そんなふうに言っちゃあ。」
「どうして?」
「どうしてって、お祖母さんは何ともおっしゃらなかったの。」
「言ったよ。これからうちの人になるんだって。」
 お延はちょっと考えてから、
「そう? いいわね。うちの人になっていただいて。」
「うちってどこ?」
「うちはうちさ。」
「ここのうち?」
「そうよ。」
「どうしてうちの人になるの。」
「さあ、どうしてだか、次郎ちゃんにわからない?」
 お延は探るように次郎の眼を見た。
「うちの何になるの?」
「あたしのお姉さん。……あたしより年はおわかいのだけれど、お姉さんになっていただくの。」
 お延の姉――亡くなった母――と、次郎の頭は敏捷(びんしょう)に仂いた。もう何もかもはっきりした。彼は、しかし亡くなった母の代りに、いま座敷にいる「お芳さん」を「母さん」と呼ぶ気にはむろんなれなかった。
「じゃあ、僕、あの人を何て言えばいいの、やっぱり叔母さん?」
「そうね――」
 と、お延はちょっと考えていたが、すぐ思い切ったように、
「叔母さんでもいけないわ。――ほんとはね、次郎ちゃん、あの方は次郎ちゃんのお母さんになっていただく方なの。あとでお祖母さんから次郎ちゃんに、よくお話があるだろうと思うけれど。……」
 お延はそう言って次郎の顔をうかがった。
 次郎は、しかし、もうちっとも驚いてはいなかった。また、そう言われたために、まえよりも不機嫌になったようにも見えなかった。彼はただ考えぶかそうな眼をして、じっとお延の顔を見つめていた。
「ね、それでわかったでしょう?――」
 と、お延は、いくらか安心したような、それでいて一層不安なような顔をしながら、
「だから、叔母さんなんて言ったら、可笑しいわ。今のうちは叔母さんでも構わないようなものだけれど、今度いよいよお母さんになっていただいた時に、すぐこまるでしょう。だから、はじめっから、お母さんって言う方がいいわ。」
 次郎は、あらためて「お芳さん」の顔を思いうかべてみた。
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