次郎物語
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著者名:下村湖人 

    一 お猿さん

「癪(しゃく)にさわるったら、ありゃしない。」と、乳母のお浜が、台所の上り框(がまち)に腰をかけながら言う。
「全くさ。いくら気がきついたって、奥さんもあんまりだよ。まるで人情というものをふみつけにしているんだもの。」と、竈(かまど)の前で、あばた面をほてらしながら、お糸婆さんが、能弁にあいづちをうつ。
「お前たち、何を言っているんだよ。」と、その時、台所と茶の間を仕切る障子が、がらりと開いて、お民のかん高い声が、鋭く二人の耳をうつ。
 お糸婆さんは、そ知らぬ顔をする。お浜は、どうせやけ糞だ、といったように、まともにお民の顔を見かえす。見返されて、お民はいよいよきっとなる。
「お浜、あたしあれほど事をわけて言っているのに、お前まだわからないのかい。恭(きょう)一は何と言っても惣領(そうりょう)なんだからね。どうせあの子を、そういつまでも、お前の家に預けとくわけにはいかないじゃないか。」
「そんなこと、もうわかっていますわ。どうせ御無理ごもっともでしょうからね。」
「お前何ということをお言いだい、私に向かって。……お前それですむと思うの。」
「すむかすまないかわかりませんわ。まるで欺(だま)しうちにあったんですもの。」
「欺しうちだって。」
「そうじゃございませんか。恭さんをちょっと連れて来いとおっしゃるから、つれて上ると、すぐにお祖母さんに連れ出さしておいて、そのあとで、こんなお話なんですもの。」
「それで、お前すねたというのだね。」
「すねたくもなろうじゃありませんか。私にも人情っていうものがございますからね。」
「すると、恭一の代りに、次郎を預るのは、どうしても嫌だとお言いなのかい。」
 お浜はそっぽを向いて默りこむ。
「何というわからずやだろうね。私に乳がないばっかりにこうして頼んでいるのに、やさしく言えばつけ上ってさ。……嫌(いや)なら嫌でいいよ、もうお前にはどの子も頼まないから。その代りこの家とはこれっきり縁を切るから、そうお思い。飯米(はんまい)に困るなんてまた泣きついて来たって知らないよ。恭一にだって、これからはどんな事があっても逢わせるこっちゃない。」
 お民は、そう言ってぴしゃりと障子(しょうじ)をしめた。
「奥さん、そりゃあんまりです。あんまりです。」
 お浜はしめられた障子のそとでわめき立てた。
「何があんまりだよ。」
「あんまりですわ。やっと恭一さんを一年あまりもお育てしたところを、だしぬけに、今度の赤ちゃんのような、あんな……」
「あんな、何だえ。」と、また障子ががらりと開く。
「…………」
「はっきりお言い。」
「まあまあ、奥さん、わたしからお浜どんにはよう言って聞かせましょうで……」と、お糸婆さんが、やっとなだめにかかる。
「言って聞かせるもないもんだよ。年寄りのくせに、お浜にあいづちばかりうっていてさ。」
「へへへへ。」お糸婆さんは、お歯黒(はぐろ)のはげた歯をむき出して、変な笑いかたをする。
 その時、奥の方から赤ん坊の泣き声がきこえた。お民は障子をしめながら、二人をぐっと睨(ね)めつけて、おいて、その方に立って行く。
「どうせお前さんの思う通りにゃなりっこないよ。あきらめたらどうだね。」と、お糸婆さんはお浜に寄りそって小声で言った。
「やっぱり今度の赤ちゃんを預るのさ。飯米のこともあるしね。」
「あたしゃ、飯米のことなんか、どうだっていい気がするんだよ。」
「そりゃ、お前さんの今の気持はそうだろうともさ。だけど飯米もふいになるし、恭さんにもこれから逢えないとなりゃ……」
「ほんとうに逢わせない気だろうかね。」
「そりゃ、あの奥さんのことだもの。……お前さんも随分勝気だが、奥さんにあっちゃ叶(かな)いっこないよ。こうと決めたら、てこでも動くこっちゃないからね。」
「そのうちには、恭さんもわたしたちを忘れてしまうだろうね。」
「そりゃ、何といってもね……だから、やっぱり今のうちに、お前さんの方で折れた方が何かと工合がいいんだよ。」
「でも、恭さんの代りにあんな猿みたいな子を預るのかと思うと……」
「そんなこと言うのは、およし。聞えたらどうする。」
「だって、本当だろう。お前さん、そうは思わないかい。」
「それほどにも思わないよ。そりゃ恭さんとはくらべものにならないけれど。」
「恭さんは、そりゃ生まれた時から品があったよ。」
「今度の赤ちゃんだって、育てていりゃ、そのうち可愛ゆくなるさ。」
「あんなお猿さんみたいな顔でもかい。」
「およしったら。ほんとに聞えたら知らないよ。」
「聞えたら、聞えたでかまわないさ。」
「でも、それじゃ、何もかも駄目になるじゃないかね、第一、恭さんにも一生逢えなくなるよ。それでもいいのかい。」
「ああ、ああ、癪でも、やっぱり預ることにしようかね。」
「そうおし、飯米のこともあるしね。」
「また飯米のことかい。よしておくれよ。あたしゃ、恭さんが可愛いばっかりに、あんな猿みたいな赤ちゃんでも、預ってみようというんだよ。」
「おやおや、えらいご奮発(ふんぱつ)だね。でも、預る気になってくれて、わたしも奥さんに申訳が立つというわけさ、……どうれ、また気が変らないうちに、奥さんに知らしてあげようか。」
 お糸婆さんは、にたにた笑いながら奥に行った。そして、お民にさんざん噛(か)みつかれながらも、ともかくもうまく話をまとめた。
 そこで次郎はその日から、恭一に代って、お浜の家に里子(さとご)に行くことになったわけなのである。
 だが、お浜が次郎をいつまでもお猿さん扱いにして嫌(きら)っていたかというと、そうではない。三四ヵ月もたつと、彼女の愛情は、もうすっかり恭一から次郎の方へ移ってしまっていたのである。
 お民は、次郎が次男坊なためか、或いはお浜が言ったように、実際猿みたいな顔をしていたためなのか、恭一を預けていた頃にくらべて何かにつけ冷淡だった。お浜にはそれが癪だった。そして、それがかえって彼女の次郎に対する愛着を増す原因のひとつでもあったのである。
 ある日、お浜は次郎の大きくなったのを、お民に見せたいと思って、しばらくぶりでやって来た。するといきなりこんな会話が始まった。
お民――「おかげで、お猿さんも随分大きくなったわね。」
お浜――「まあ、お猿さんですって?」
お民――「そう言っちゃ、いけなかったのかい。」
お浜――「だって、自分の御子様じゃございませんか。」
お民――「でも、お猿さんって言うのは、お前がつけてくれた名だっていうじゃないの。ちゃんと婆さんに聞いて知っているのよ。」
お浜――「あの時は、あの時ですわ。いつまでもそんな……」
お民――「少しは人間らしい顔に見えて来たと、お言いなのかい。」
ぉ浜――「奥さんたち、わたし、くやしいっ。」
お民――「おや、泣いているの、ついからかってみたくなったのだよ。すまなかったわね。」
お浜――「からかうのも、事によりますわ。奥さんがそんな気持でしたら、私にも考えがあります。」
 お浜は、ぷんぷん怒って、次郎を抱いて帰ってしまった。そして、それっきり、お民から何度使いをやっても顔を見せなかったばかりか、月々の飯米さえ受取りに来ようとしなかった。で、とうとうお民の方が根負(こんま)けして、自分でお浜の家に出かけることになった。
 今度は、無論お猿の話なんか、どちらからも出なかった。それどころか、お民はこんなことを言って、お浜の機嫌(きげん)をとったのである。
「この子は八月十五夜の丁度(ちょうど)月の出に生まれたんだよ。だから、きっと今に偉くなると思うわ。」
 お浜は、それですっかり気をよくした。そして、それ以来、「八月十五夜の月の出」が、いつも二人の話の種になった。話の種になっても、それはちっとも不都合ではなかったのである。と言うのは、次郎の生まれた時刻は、実際その通りだったのだから。
 尤(もっと)も、その時刻に生まれたことが、果して次郎にとって幸福であったかどうかは、疑わしい。それはおいおいと話していくうちにわかることである。

    二 お玉杓子

 次郎は、お浜の娘のお兼とお鶴とを相手に、地べたに蓆(むしろ)を敷いて、ままごと遊びをしている。場所は古ぼけた小学校の校庭だが、森閑(しんかん)として物音一つしない。周囲は、見渡すかぎり、黄金色の稲田である。午後の陽(ひ)がぽかぽかと温かい。
 この光景は、次郎の心に、おりおり蘇(よみがえ)って来る、最も古い記憶の一つで、たぶん、彼の五歳頃のことだったろうと思われる。
 お浜一家は、村の小学校の校番をしていた。老夫婦にお浜夫婦、それにお兼とお鶴、都合六人の家族が、教員室のすぐ隣の、うす暗い畳敷の部屋と、その次の板の間とを自分達の住家にしていたのである。そしてそこへ割りこまされたのが次郎であった。
 全体、恭一にせよ、次郎にせよ、何でわざわざこんな家を選(えら)んで預けられたのかというと、それは、母のお民が、子供の教育について一かどの見識家(けんしきか)だったからである。彼女は、槍一筋(やりひとすじ)の武士の娘であった。そして幼いころから幾十回となく、孟母三遷(もうぼさんせん)の教というものを聞かされて、それになみなみならぬ感激を覚えていた。で、自分に子供が出来たら、機会を見つけてそれに似たようなことを実行してみたいと、かねて心に期していたのである。
 こうした抱負をもった彼女にとって、お浜一家が学校の中に寝起きしているということが、大きな魅力にならないわけはなかった。この魅力の前には、校番の部屋が狭くて不潔であろうと、お浜本人が、以前三味線(しゃみせん)の門付(かどづ)けをしていた女であろうと、また、彼女の亭主の勘作がどこかの炭坑稼ぎにあぶれて、この村に流れこんで来た者であろうと、そんなことはまるで問題ではなかったのである。
 そこで、三人の日向(ひなた)ぼっこの話にもどる。
 次郎は蓆の中央に殿様のように座を占めて、お兼とお鶴とが、左右からつぎつぎにブリキの皿に盛って差出す草の実や、砂饅頭(まんじゅう)に箸をつける真似をしていた。しかし、もう同じような遊びを小半時も続けていたので、少し厭(あ)きが来たところだった。厭きが来ると、次郎はいつもお兼だけをのけ者にしてお鶴と二人きりで遊びたい気持になるのであった。お兼は恭一と同い年、お鶴は次郎と同い年で、これが次郎をして自然お兼よりもお鶴の方に親しませる理由だったらしい。が、同時に、色の黒い、藪睨(やぶにら)みのお兼にくらべて、ふっくらした頬とくるくるした眼をもったお鶴の方が、より大きな魅力であったことも否(いな)みがたい事実であった。
 ところで、次郎にとって、ここに一つの悲しむべきことがあった。それはお鶴のふっくらした左頬に、形も大きさも、お玉杓子(たまじゃくし)そっくりなあざが一つくっついていたことである。次郎はいつもそれが気になって仕方がなかった。その日も、ままごとに厭くと、お兼にくるりと尻を向けてお鶴と差向いになったが、その時、早速眼についたのがそのお玉杓子であった。
 お鶴は、次郎のそんな仕草(しぐさ)にはちっとも気がつかないで、相変らず草の葉を刻(きざ)んでは、せっせとそれをブリキ罐の中にためこんでいたが、永いこと陽に照らされて、ピンク色に染まったその頬の上に、鮮かに浮き出したお玉杓子が、次郎の眼には、いかにも血がかよって動いているように見えたのである。
 次郎は変に心が落ちつかなくなった。そして、しばらくの間は、むずむずした気分で、それに見入っていた。そのうちに彼の右手の人差指がいつの間にかそろそろと伸びていって、こわいものにでも触(ふ)れるように、そっとお鶴の頬をかすめたのである。
 お鶴には、次郎が何でそんなことをするのかわからなかった。で、彼女は相変らずお玉杓子を頬にくっつけたまま、きょとんとして次郎の顔をみつめた。
 お兼は、藪睨みの眼を一層藪睨みにして「ひっひっ」と次郎のうしろで笑った。
 次郎は、その笑い声をきくと、何か非常に悪いことでもしたように思って、きまり悪くなった。ところで、男の子供というものは、きまり悪くなると、時として、妙に乱暴な気分になるものである。彼は急に立ち上って、あたりにあるままごと道具を、めちゃくちゃに足で蹴ちらしはじめた。
 お兼がまた「ひっひっ」と笑った。
 すると、次郎は何と思ったのか、今度はいきなりお鶴の方に飛びかかって行って、お玉杓子のくっついている頬をぬじ切るようにつねり上げたのである。
 お鶴は火がつくように泣き出した。
「父っちゃん」と、お兼は金切声をあげて、校番室の方に走り出した。そして、それから一二分の後には、次郎の両手は、勘作の木の根のような掌(てのひら)の中に、しっかりと握りしめられていたのである。
「何しやがるんだい、こいつ。」と、勘作の怒った声。
 同時に、次郎の体は、乱暴(らんぼう)に宙につり上げられた。手首と肩のつけ根とが無性に痛い。
 次郎は、それでも、泣き声を立てなかった。彼は両足をばたばたさせながら、めちゃくちゃに勘作の下腹を蹴(け)った。
「この餓鬼(がき)め。」
 次郎は、いきなりうつ伏せに地べたに放り出された。掌と、唇と、鼻柱と、膝頭とが、その瞬間に、打ちくだかれたような痛みを覚えた。彼は四五秒の間突っ伏したまま、身じろぎもしなかったが、次の瞬間には、地の底で鵞鳥(がちょう)が縮め殺されるような泣き声を立てた。
 お鶴も仰向(あおむ)けになってまだ泣いていたが、次郎の泣き声を聞くと、一層大きな声を出して泣いた。そしてそれから二人はせり合うように、代る代る泣き声をはり上げた。
 勘作は突っ立ったままじっと次郎を睨めつけていた。
「どうしたんだね。」と、そこへお浜が掃除をしていたらしく、竹箒を持ったままやって来た。
「何だか知らねえが、こいつ、お鶴の頬ぺたを、ひどくつねっていやがったんでね。」
「それでお前さんは、坊ちゃんをなげとばしたとお言いなのかい。」
「そうだよ。」
「そうだよもないもんだ。たかが子供の喧嘩じゃないかね。仕事なしだとは言いながら、大の男が、子供の喧嘩を買って出るなんて、そんな話がどこの世界にあるもんか。」
「お浜、おめえ、自分の子が可愛いくはねえのか、こんな目にあわされても。」
「何言ってるんだよ。ばかばかしい。可愛いけりゃこそ、こうやって私の手一つで、育てているんじゃないかね。お前さんこそ、子供が可愛いくないんだろう。毎日毎日ぶらぶらして、びた一文こさえて来るではなしさ。」
 勘作はそっぽを向いて、默ってしまった。
 それまで、気のぬけた泣き声を出しながら、二人の言いあいに聞き耳を立てていた次郎は、どうやらお浜の方が優勢(ゆうせい)らしいのを知って、ほっとした。そして、もう一度お浜の同情を求めるために、大きな声を立てた。するとお鶴の方でも、それに負けないでわめき立てた。
「いつまでも泣くんじゃない。」
 お浜は、お鶴をかろくたしなめてから、次郎の突っ伏しているそばにやって来た。
「次郎ちゃん。勘忍(かんにん)なさいね。」
 お浜は、他の人に向かっては、次郎のことを「坊ちゃん」と呼ぶのだが、次郎本人に対しては、いつも、「次郎ちゃん」と呼ぶことにしているのである。
「次郎ちゃんは、もう大きくなったんだから、お偉いでしょう。さあ、自分で起っきするんですよ。」
 次郎は、しかし、お浜にそう言われて、足をばたばたさせながら、もう一度烈しくわめき立てた。すると、お浜は、うろたえたように、持っていた箒を地べたに置き、彼を抱き起こしにかかった。
「おやっ。」
 次郎を抱き起こしたお浜は、土埃(つちほこり)にまみれた彼の鼻と唇のあたりに、ほんの僅かではあったが血がにじんでいるのを見つけたのである。
「お前さん、坊ちゃんのお顔に傷をつけたんだね。」
 彼女は、きっとなって、もう一度勘作の方に向き直った。
 勘作は、その時、お鶴の方を抱き起こして塵を払ってやっていたが、お浜の見幕(けんまく)を見ると、そ知らぬ顔をして、さっさと校番室の方に歩き出した。
「お待ちっ。」
 お浜はそう叫ぶと同時に、竹箒を取りあげて、うしろから思うさま勘作の頭をなぐりつけた。
「何しやがるんだい。」
 勘作も、さすがに恐ろしい眼付をして向き直った。
「何も糞もあるもんか、大事な坊ちゃんの顔に傷をつけやがってさ。」
 お浜は、まるで気が狂ったように、箒をふりまわして、勘作の顔といわず、手といわず、盲滅法(めくらめっぽう)に打ってかかった。勘作は、突っ立ったまま、しばらく両手でそれを払いのけていたが、お浜の見幕はますます烈しくなるばかりであった。
「ちえっ。」と、勘作は舌打をした。そして、くるりと向きをかえると、校庭の溝をとび越えて、畦道(あぜみち)の方に逃げ出した。
「ぐうたらの、恩知らずめ。」
 お浜はそう叫びながら、あとを追った。しかし、溝(みぞ)のところまで行くと、さすがにそれを飛びこしかねたらしく、そこに立ち止ったまま、いつまでも口ぎたなく勘作を罵っていた。
 次郎とお鶴とは、ぽかんとしてこの光景に眼を見張った。
 二人の眼からは涙はもうすっかり乾いていたが、彼らの顔は、涙でねった土埃で真っ黒によごれていた。
 お鶴の頬のお玉杓子もどうやら行方不明になっていた。同時に、次郎も、すっかりそれを忘れてしまっていたのである。

    三 耳たぶ

 ある夏の日暮である。次郎は直吉の肩車に乗って、校番の部屋から畦道に出た――直吉は二十二三歳の青年で、次郎の実家の雇人である。今日はお民に言いつかって、次郎を迎えに来たのであった。
 次郎は肩車が好きだった。このごろ勘作がいよいよ自分をかまいつけてくれなくなり、もう、永いこと肩車に乗らなかったところへ、ひょっくり直吉がやって来て、お浜と何か二言三言囁(ささや)きあったあと、肩車にのせてやろうと言ったので、彼は大喜びだった。
 校門を出て一町ほど北に行くと大きな沢がある。そこにはもう毎晩蛍が飛んでいるころだ。次郎はよくそのことを知っている。だから、彼は肩車に乗って、そこに連れて行って貰うつもりだったのである。
 ところが直吉は、校門を出ると、すぐ南の方角に歩き出した。この南の方角というのが、次郎にとっては、あまり好ましい方角ではなかったのだ。というのは、その方角に、彼の父母や、祖父母や、兄弟達が住んでいる家があったのだから。
 お民は、孟母三遷の教にヒントを得て、次郎を校番の家に預けはしたものの、彼がもの心つくにつれて、どうやらお浜に親しみ過ぎる傾向があり、それに、孟子の場合とちがって、学校というものの感化力が思ったほどでない、ということをだんだん知りはじめたので、この頃では、お浜が次郎を伴(つ)れてやって来るごとに、彼女を説きつけて、こっそり一人で帰って貰うことにしていたのである。
 次郎にとって、それが大きな試煉であったことはいうまでもない。彼はそんな時には、きまって、恐ろしい沈默家になり、小食家になり、おまけに不安から来る寝小便をすらもらしたのであった。
 彼にとっては、第一、家があまり広すぎた。狭っくるしい部屋の中で、むせるような生活をしなれて来た彼は、こんな広い家に這入ると、急にすべての人間が自分から遠のいてしまうような気がして、妙な肌(はだ)寒さを感じた。お浜がそばについている間ですらそうであったのに、まして、彼女がこっそり姿を消してしまったあとの頼りなさといったらなかったのである。
 むろん、お浜が去ったあとでは、お民をはじめ、みんなで彼を取りまいて、いろいろと言葉をかけてくれた。しかしそれらの言葉は、彼の耳には、学校の先生が教壇の上からものを言っているようにきこえて、何だか身がすくむようだった。とりわけお民の言葉にはそんな調子がひどかった。お民としてはそれはやむを得ないことだったかも知れない。というのは、彼女は、こんご次郎の悪癖を矯(た)め、彼に上品な礼儀を教えこむという、母として重大な責務を負っていたのだから。
 恭一は大して恐い兄とは思えなかった。しかし、その生(なま)白い顔と、いやにしとやかな動作とが、どうも次郎にしっくりしなかった。弟の俊三(しゅんぞう)はまだ生まれて三年たらずではあったが、末っ子で、はじめから母の乳房(ちぶさ)で育ったためか、誰に対しても無遠慮な振舞いがあり、次郎の眼には、彼こそ第一の強敵のように映った。
 祖父と父とは、遠くから冷やかに彼を眺めている、といったふうであった。祖母は馬鹿に彼にちやほやするかと思うと、すぐ突っけんどんになった。
 こんなふうで、彼の実家はどんな角度から見ても、彼にとって愉快なものではなかった。で、彼がお浜に置き去りを食ったあと、沈默家になり、小食家になり、寝小便をもらすのは余儀ない次第であった。いわばそれは彼の自衛本能(じえいほんのう)ともいうべきものだったのである。そして、この本能の命令に従うことは、いつも事柄を次郎の有利なように展開させたというのは、彼は結局家中の者にもてあまされて、再びお浜の手に引き渡されることになったからである。
 次郎は最近二十日あまりも寝小便もたらさないで、お浜の許(もと)に落ちついていた。そしてそろそろ実家の記憶もうすらぎかけたところであった。ところが、今日はだしぬけに、お浜と一緒ですら嫌いな方角に、大して親しみもない直吉によって、運び去られようとするのである。これは次郎にとっては、全く思いがけない出来事であった。
 直吉の肩の上で、彼の小さな胸はどきどきし出した。
「いやあよ、いやあよ、あっちだい。」
 彼は、彼の両手で、直吉の顔をうしろの方にねじ向けようとした。しかし、直吉の顔は、頑(がん)として南の方を向いたきりで、どうにもならなかった。どうにもならないどころか、直吉の足は、かえってそのために、一層速くなる傾向(けいこう)さえあった。
 次郎はしくしく泣き出した。泣き出しても、直吉は一向平気らしかった。彼はずんずん南の方にあるくだけで、口一つ利(き)こうとしない。次郎は泣きながらうしろを振りかえった。学校の建物が夕暮の光の中に、一歩一歩と遠ざかっていくのが、たまらなく淋しい。
 こうなると、次郎はあきらめてしまうか、戦うか、二つに一つを選ばなければならなかった。彼は決然として後者を選んだ。――元来(がんらい)、次郎の勇気は学校との距離に反比例し、実家との距離に正比例することになっていたので、戦うならなるべく早い方が歩(ぶ)がよかったのである。
 なお、彼が肩車に乗っていたことも、彼にとっては、有利な条件だった。それは、直吉の髪の毛や耳朶(みみたぶ)を、自由に掴むことが出来たからである。しかも幸いなことには、直吉の髪の毛は相当長かった。彼は早速髪の毛をむしることにした。
「痛いっ。」
 直吉は頓狂(とんきょう)に呼んだ。しかし、彼の歩いて行く方向は、依然として変らない。従って、次郎の進む方向にも一向変化がないのである。
 今度は思い切って耳朶をつかんだ。少々すべっこくて、頼りない感じがする。次郎は総身の力をその小さな爪先にこめて、直吉の耳朶をもみくちゃにした。
「ひいっ、畜生っ。」
 直吉は悲鳴をあげた。同時に、今まで次郎の足にかけていた両手を思わず放してしまった。
 とたんに次郎の体はうしろの方にぐらついた。次郎の十本の指は、直吉の耳朶をつかんだままだったが、彼の体の重みを支えるには少し弱すぎたらしく、次の瞬間には、彼の体は、砂利(じゃり)で固まった路の上に、ほとんどまっさかさまに落っこちた。
 彼は、後頭部と肩のあたりに花火が爆発したような震動(しんどう)を感じて、ぼうっとなった。しかし、この瞬間は彼にとって大事な一瞬であった。彼は毬(まり)が弾(は)ねるように起き上った。そして、まっしぐらに学校の方に走り出した。
 ものの半丁ばかりは、まるで夢中だった。しかし彼は、直吉が追っかけて来るかどうかを確かめずには居れない気がした。で、走りながら、一寸うしろを振り向いた。すると直吉は、両手で耳朶を押さえながら、うらめしそうにこちらをにらんで立っていた。
 次郎はいくらか安心した。同時に、ちらと見た直吉の様子が妙に恐ろしくなった。そして、急に名状しがたい悲しさがこみ上げて来た。彼は、走りながら、精一ぱいの声を出して泣き出した。
 校門までくると、そこにはお浜が身を忍ばせるようにして、彼を待っていた。彼はもう一度大声をあげて泣きながら彼女に飛びついた。お浜は默って身をこごめながら、彼に頬ずりした。
 次郎の涙は、そろそろ甘いものに変っていった。そして心が落ちつくにつれて、彼はお浜に抱きついている自分の両手の指先が、妙にぬるぬるするのに気づき出した。彼は涙のたまった眼をしばだたきながら、そっと指先をのぞいて見た。血だ。どす黒い血のかたまりだ。
 彼は、それをお浜に見られてはならないような気がした。で、甘ったれた息ずすりをしながら、そっと指先をお浜の着物になすりつけてしまったのである。

    四 提灯

 耳たぶ一件以来、次郎の警戒心(けいかいしん)は急に強くなった。たといお浜と一緒であっても、もし彼女が校門を出て南の方角に行きそうになると、彼はすぐ握られた手を振り放した。また彼は、それっきり、どんなに誘いをかけられても、よその人におんぶされたり、その肩車に乗ったりはしなくなった。
「もうそんなことをするのが恥ずかしいんですよ。やっぱり年が教えるんですね。」
 お浜は、よくそんなことを得意らしく言っては、次郎の警戒心の言訳をしなければならなかった。
 お民の方からは、それ以来、三日にあげず、いろいろの人が次郎を迎えに来た。中には、お浜が飯米欲しさに次郎を手放したがらないのだ、といったような口吻(くちぶり)をもらして、彼女を怒らすものもあった。
 お浜にして見ると、次郎を手放すのはつらいには、つらかった。しかし、次郎がさきざき実家でどんな立場に立つだろうかと考えると、内心不安を感じずには居られなかったので、お民からの使いに対しても、ひどく反感を持つようなことはなかった。むしろ、最近では、なぜもっと早く次郎をかえしてしまわなかったろうかと、それを後悔しているくらいであった。
 ことに、飯米欲しさに次郎を手放さない、などと言われることは、彼女の気性として、我慢の出来ないことであった。そんな時には、ついかっとなって、次郎を、使いに来た人の方に無理に押しやるような真似をすることさえあった。しかし、次郎に泣きつかれたり、逃げられたりすると、いつもそのままになってしまうのであった。
 ところが、ある晩だしぬけに、お民自身が迎えにやって来た。これはお浜も全く予期しなかったことであった。
 次郎は、その時、もう寝床に這入っていた。真夏のころで、寝床といっても、茣蓙(ござ)一枚だった。むれ臭い蚊帳のそとでは、蚊が物すごい唸(うな)りを立てていた。
 次郎のそばには校番の弥作(やさく)爺さんが寝ていた。――爺さんは、人を笑わせるような短い話をいくつも知っていたので、次郎は、この頃、お浜のそばよりも、爺さんのそばに寝るのが好きになっていたのである。
 爺さんは、ゆっくりゆっくり話をすすめながら、おりおり大きな欠伸(あくび)をした。すると、そのたんびに、しょぼしょぼした眼尻から、ねばっこい涙がたらたらと流れ出して、耳の方にはっていった。次郎は、指先で、自分の好きな方向に、涙に道をつけてやるのが、また一つの楽しみであった。
 その楽しみの最中に、お民がやって来たのである。
 彼女は中には這入って来なかった。しかし、次郎は、声を聞いただけで、すぐそれが誰だか、そして何の用で来たかが、はっきりわかった。彼は小さい胸をどきつかせながら、眠ったふりをして耳をすました。
 話し声は、戸外の縁台から、団扇(うちわ)の音にまじって聞えて来る。
「そりゃ、私だって、今では一日も早くおかえししたい、とは思っていますが……」
 お浜の声である。
「やっぱり帰ろうとは言わないのかい。」
「ええ、ちょいと門を出るのでさえ、このごろでは、おずおずしていらっしゃるようで、そりゃおかわいそうなんですの。」
「でも、私から、じかに言って聞かしたら、納得(なっとく)しないわけはないと思うのだがね。」
「そうだと結構でございますが……」
「親身の親が言ってきかしても、駄目だとお言いなのかい。」
 と、少しとげのあるものの言いかたである。それが次郎にもよくわかる。
「そりゃ、仕方がございませんわ。」
 お浜の突っ張る声。次郎はそれでいくらか気が強くなる。
「困った子になってしまったわ。」
 次郎は、胸のしんに異様な圧迫を感じた。お浜は返事をしない。しばらくは、団扇の音だけが、ばたばたと聞える。
「とにかく、今夜はどんなことがあっても、つれて帰るつもりでやって来たんだからね。……まだ寝ついてはいないんだろう。」
 急に団扇の音がやんで、誰かが立ち上るような気配(けはい)がした。
 次郎は唾(つば)をこくりとのんで、爺さんの方に寝がえりを打った。そして鼾(いびき)をかくまねをした。しかし、彼の瞼(まぶた)はぶるぶるとふるえて、心臓の鼓動が乱調子なのを物語っている。
「明日になすったらどうでしょう。こんなに暮れてからでは、余計おかわいそうですわ。」
「何時だって同じさ。まさか怖いことはあるまいよ。男の子だもの。」
「でも、こんなことは、やっぱり昼間の方がようございますわ。明日になったら、今度こそ本当にご得心(とくしん)がいくように、私から申しましょうから。」
「駄目よ、お前では。……いつも、あべこべに引きとめるようなことばかり、言って聞かすんだろう。」
「そんなことはありませんわ。とにかく明日までお待ち下さいまし。私もほんとうに腹をきめているのですから。」
 次郎は淋しかった。彼の鼾はふるえがちであった。
「どうだか……」お民は、もう敷居をまたいでいるらしい。次郎の鼾はひとりでに止ってしまった。
「おやおや、奥さんでいらっしゃいますか。」
 爺さんが、褌(ふんどし)一つの皺だらけの体をのろのろと蚊帳の中で起した。
「坊ちゃん、おっ母さんだよ、ほら。」
 爺さんの手が次郎の肩をゆすぶる。
「ううん。……ううん。」
 次郎はもう一度寝返りをうって、自分の顔をお民からかくした。彼の耳は、その間にも、鋭敏に周囲を偵察(ていさつ)している。
 しかし、彼のあらゆる努力は結局無駄に終った。次の瞬間には、お民の手が蚊帳の中に伸びて来て、有無(うむ)を言わせず、彼の体をずるずると板の間に引き出してしまったのである。
「まあ、そんなに乱暴になさらなくても……」
 お浜の少し怒りを帯びた声が、戸口から聞えた。もうその時には、次郎は、まる裸のまま板の間にすわって、眼をこすったり、腕を掻いたりしていた。
 彼は泣かなかった。諦(あきら)めとも悲壮な決心ともつかないようなものが、この時、彼の心を支配したのである。
「奥さん、どうなさいますので……」
 そう言って、爺さんは蚊帳の中からのそのそと出て来た。そして次郎にたかって来る蚊を、団扇でおってやった。
 戸外の縁台からは、お浜のあとについて、お作婆さんや、勘作や、お兼や、お鶴が、ぞろぞろと這入って来た。みんな土間に突っ立ったまま、默りこくってお民と次郎とを見くらべている。その中で、お浜の眼だけが、かなり険しく光っていた。ほかの人達は、ただあっけにとられたといったふうであった。
 それからお民は、女教師のような口吻で、何やらながながと次郎に話して聞かした。しかし、それは次郎の耳にはほとんど一言も這入らなかった。彼は、その間、お浜の表情だけを、注意深く窺(うかが)っていた。その表情から、彼は彼女が本当に自分を実家に帰してしまう気でいるかを読みたかったのである。しかしお浜の眼は、険しく光って、じろじろと彼とお民とを見くらべているだけで、彼には何の暗示も与えなかった。
「わかったね。」
 と、お民は、長い説教のあとで、念を押すように言った。次郎はそれに対して、無表情にうなずいた。
 彼は心の中で、この時、自分の眼の前に二人の敵を見ていたのである。一人は正面の敵であるお民、もう一人は、裏切者としてのお浜であった。
「裸ではしようがないわ、何か着物を着せておくれよ。」
 正面の敵が裏切者を顧みて言った。しかし、裏切者は、相変らず険しい眼付をしたまま動かなかった。
 次郎は、横目で裏切者の顔をちらとのぞいたが、その顔からは何の合図もなかった。彼は捨鉢のような気になって、急に立ち上ると、蚊帳の隅にくたくたにまるめてあった汗くさい浴衣を自分で着て、くるくると帯をしめた。
「偉いね。」
 と、正面の敵が言った。
 次郎は上り框の下にうつ伏しになって、自分の草履を探しながら、眼がしらの熱くなるのを、じっとこらえた。
 その間に、お民は提灯(ちょうちん)に火を入れた。
 二人が戸口を出る時、みんなは、芝居の幕が下りるときのように、静かであった。ただ、お作婆さんだけが、両手を腰に組んで、二人のあとを、一間ほどはなれ、校門のところまでついて来て、言った。
「坊ちゃん、さようなら。」
 次郎は、しかし、ふり向きもしなかった。彼はあふれ出る涙を歯でかみしめて、お民のあとに従った。
「怖かあないかい。」
 一丁ほど行った時に、お民が言った。その時次郎はお民の左うしろについて歩いていた。
 次郎は返事をしなかった。やや湿(しめ)りを帯びた彼の草履(ぞうり)が、闇の中でぴたぴたと異様な音を立てた。
「怖けりゃ、先においで。」
 次郎は、ちっとも怖くはなかった。しかし、言われるままに、小走りしてお民のさきに立った。自分の体が、お民の提(さ)げている提灯のあかりを路一ぱいに遮ぎって、前が真っ暗になる。左右の稲田が、ぼうっと明るく、両方の眼尻にうつる。眼尻にうつるというよりは、じかに脳髄(のうずい)に映ると言った方が適当である。
「先に行くなら、提灯をお持ち。」
 次郎は提灯を持った。提灯は弓張りだった。あたりまえに提げると、その底が地べたをこするので、彼は手首を胸の辺まで上げていなければならなかった。
 彼の草履の音がぴたぴたと鳴る。それが、ともすると、お民には妙な方向から響いてくるように思える。
「次郎、お前やっぱり後からお出で、足が速すぎていけないよ。」
 次郎は提灯をまたお民に渡して、うしろから草履の音をぴたぴたと立てる。
「向こうから誰か来るようだね。」
 お民はだしぬけにそう言って立ちどまった。次郎も一緒に立ちどまったが、しんとして人の来る気配はない。
「僕、先に行ってみるよ。」
 次郎は、変に皮肉な気持になって、提灯を母の手からとると、小走りに走り出した。
「次郎っ。」
 お民の声は、少しふるえていた。次郎は二三間先に立って、提灯を上げたり下げたりした。その拍子に、ふっと灯が消えて、闇がのしかかるように二人を圧さえた。
「まあ、次郎。」
 お民の声は、すっかりおびえ切っている。
 次郎は、闇をすかしながら、道の端っこにしゃがんだ。
「次郎、次郎や、どこにいるの。」
 次郎は息を殺した。そして、逃げ出すなら今だと思った。
 しかし、彼は立ち上らなかった。それは、お民が、その時、すぐそばに立っているからばかりではなかった。彼は、お浜のことを思い浮かべてみても、いつものように心が熱くならなかったのである。彼は真っ暗な中に、ぽつんと淋しくしゃがんでいた。
「次郎や、次郎ったら。」
 お民の声は、妙にすごかった。恐怖と怒りとがごっちゃになっているような声だった。次郎はそれでも身じろがなかった。そして、お民の口から漏れる烈しい息づかいに、じっと耳をすましていた。
 そのうちに二人の眼が、だんだんと闇になれて来た。お民は浮き腰で地面をすかしていたが、次郎を見つけると恐ろしい勢いで飛びついて来た。そのために次郎のもっていた提灯は、地べたに押されて、ひしゃげそうになった。
「なんてずうずうしい子なんだろう。……さあ提灯をおよこし。」
 お民は、ひったくるように提灯をとると、その中に手を突っこんで、マッチを取り出した。
 ぱっとともるマッチの火に照らされたお民の顔は、気味わるく硬ばっていた。
 どこかで、煩悩鷺(ぼんのうさぎ)がほうほうと鳴いた。
 提灯をともし終ると、お民は次郎の手を鷲づかみにして、引きずるように歩き出した。その足どりがやけに速い。次郎は、何度も引き倒されそうになったが、息をはずませながら、やっとついて行った。草履の音と、下駄の音とが騒がしく入り乱れる。
 村に這入ると、お民の足どりが急に落ちついて来た。同時に握っていた次郎の手を放した。
 村といっても、一本筋の場末町みたいなところで、駄菓子屋、豆腐屋、散髪屋、鍛冶屋、薬屋、肴(さかな)屋などが曲りくねって、でこぼこにつづいている。その間に、種油を搾(しぼ)る家が、何軒もあって、その前を通ると香ばしい匂いが鼻をうった。
 どの家からも、蚊遣(かやり)の煙がもうもうと流れ出している。次郎は、それが自分の汗ばんだ顔にこびりつくようで息苦しかった。
 家なみが途切(とぎ)れて、また一丁ばかり闇が続いた。寺である。墓地の一部が、じかに路に沿っている。古い石塔が、提灯の火で煙のように見える。
 次郎は、これまでお浜につれられて、夜ここを通る時には、非常に怖いところだと思っていたが、今日はそんな気がちっともしなかった。むしろ、ほっとしたような気にすらなった。そして、この墓地を通りすぎて明るいところに出ると、間もなく自分の連れて行かれる家があるのだ、と思うと、彼はいつまでも暗いところにじっとしていたかった。彼は急にぴたりと足をとめた。
「おやっ。」
 暗いところに来て、再び足どりがせっかちになっていたお民は、次郎の草履の音が急に聞えなくなったので、ぎょっとして振りかえった。
「どうしたというんだよ。」
 彼女は、提灯をさし上げて闇をすかした。しかし、次郎はすでにその時、路に近い大きな石塔のかげに身をひそめていたので、お民はどこにも彼の姿を見出すことが出来なかった。
「次……次郎っ。」
 お民は、半ば嗄(しわが)れた声で、そう叫びながら、提灯をさし上げて、一間ばかりのところを往ったり来たりした。しかし、墓地に這入って探してみようとは決してしなかった。次郎は、石塔のかげから、じっとその様子を見守っていた。すると提灯の火は、間もなく、ぶかぶかと闇を走って、一丁ほど先の家なみの明るい中に消えていった。
 次郎の心はしいんとなった。同時に、蚊がぶんぶんと自分の体のまわりにたかって来るのを感じた。
 彼は、しかし、これからどうしていいのか、少しも見当がつかなかった。彼の心からは、すべての人間が見失われて、足をはこぶ目当がなくなっていた。彼は墓石に腰をおろしたまま、じっと闇を見つめた。
 十分あまりの時間が、蚊のうなり声の中ですぎた。
「もう逃げて行ったのかも知れないが、ちょっとそこいらを見ておくれ。」
 お民の声である。
「この中をですかい。まさか子供一人で……」
 直吉らしい。
「でも、いやに押しの強い子供だから、居るかも知れないよ。」
「そうでしょうか。」
 どしんどしんと足音がして、提灯の火が次郎の目の前にゆれて来た。
「あっ、居たっ。」
 一間ほどおいて、提灯はぴたりと止まった。容易に近寄ろうとはしない。声の主はたしかに直吉である。顔はよく見えない。
「居たら、引っぱり出したらいいじゃないかね。」
 お民の声が鋭く路から響く。
「次郎さん、そんなことをして、馬鹿だね。」
 直吉はおずおずと寄って来て、次郎の手をとった。
 それからあと、次郎は何が何やらわからなかった。彼はお民と直吉に両手を握られて、ぐんぐんと明るいところに引っぱられて行った。
 彼が自分を取りもどして、自分の周囲(しゅうい)を見まわすことが出来たのは、広い座敷の真ん中に坐らされて、先生のような態度をしたお民から、さんざん説教をされている時であった。

    五 寝小便

 お民は存分説教をしたあと、少しばかりの駄菓子を紙に包んで、次郎の手に握らせた。それは彼女の教育的見地からであった。しかし次郎は決してそれを口にしなかった。彼が寝床に這入ったあとでも、その紙包は、ぽつんと部屋の真ん中に置かれたままであった。
 お民の右側に恭一、左側に俊三が寝た。次郎の寝床は俊三のつぎに並(なら)べて敷かれてあった。
 次郎は永いこと眠れなかった。そのうちに、そろそろ小便を催(もよお)して来た。
 お浜の家では、寝しなには、きっと便所に行く習慣だったが、今夜はいろいろと事情がちがっていたために、ついそれを怠っていたのである。彼は苦しくなるにつれて、多少それを悔いた。しかし、起き上って便所に行く気にはなれない。ここの便所は廊下づたいで少し遠すぎるし、それに、どこかで鼠がかさこそと音を立てていて気味がわるい。
 そのうちに、彼はふと妙なことを思いついた。そしてぱっちりと眼をあいて母の方を覗いて見た。蚊帳の中は真っ暗で見えないが、よく寝ているらしい。彼は寝返りをする真似をして俊三によりそった。そして永いことこらえていた小便を、その脇腹のあたりに少しずつ放射した。
 放射が終るとまたもとの位置にかえって、心地よくぐっすりと眠ってしまった。
 どのくらい眠ったのか、はっきりしなかったが、彼は、だしぬけにお民に両足を掴まれて蚊帳の外に引き出されたので、眼がさめた。部屋の中はまだ真っ暗だった。彼はさかさにつり下げられているような気がして、眼を覚ました瞬間は、まるで世界の見当がつかなかった。
「何という情ない子だろう。もう六つにもなって。」
 同時に彼の腰から下が、どたりと畳の上に落ちた。右足のくるぶしの落ちた辺が、丁度敷居の上だったらしく、ごつんと音がして、かなり強い痛みを覚えた。
 彼はしかし、まだ眼がさめないふりをして、そのまま動かなかった。しばらく沈默がつづいた。
「まあ、あきれた子だね。」
 お民は平手で、三つ四つ彼の臀(しり)を叩いた。それでも彼は、小豚の死骸のように転がったままでいた。そのうちに燈火がぱっと灯った。瞼を透して来る赤い光線の刺激で、おのずと眉根がよる。
「ううーん。」
 次郎は寝返りをうつ恰好をして、光線をよけた。
「次郎、お前、寝たふりをする気かい。……よろしい。いつまでもそうしておいで。」
 お民は、燈火をつけ放しにしたまま、そう言って蚊帳の中に這入った。あたりがしいんとなる。蚊のうなり声が、急に次郎の耳につき出した。と思うと、もう体じゅうがちくりちくりとやられている。
 お民は、まだきっと蚊帳の中から自分を覗いているに相違ない。――そう思うと、自由に動くわけにもゆかない。彼はつらかったが辛抱した。
 そのうちに彼はまた一つの智恵を恵まれた。それは、寝返りをうつ真似をしてだんだんと蚊帳の中にころがり込むことだった。彼は蚊帳に近づくまでは、かなり巧みにそれを実行した。しかし、いざ蚊帳の裾(すそ)をまくるという段になって彼は当惑(とうわく)した。あまり手を使いすぎると、眼をさましていることが発覚しそうである。彼は先ず頭の方から這入る計画を立てた。しかし、何度転んでみても、いつも頭が蚊帳の裾に乗っかって、うまくいかない。で、今度は足の方から這入ることにした。これも容易には成功しなかったが、それでも頭ほどに不便ではなかった。それは、下駄を穿(は)く時の要領(ようりょう)で、うまく足指を使うことが出来たからである。
 こうして、ともかくも、彼は腰の辺まで蚊帳の中に這入ることが出来た。蚊の襲撃(しゅうげき)から完全に遁(のが)れるためには、あとわずかな努力が残されているのみであった。彼はその努力の機会をねらって、一息入れながら、かすかに眼を開いて母の様子をうかがった。
 すると、どうだろう、蚊帳の内側では、母がきちんと坐って、眼を皿のようにして自分の方を見つめているではないか。
 次郎はもうこれ以上身動きしてはならないと思った。
 実は母に覗かれているという意識があったればこそ、こんな手も使ったのであるが、こうまともに見られているのだとは、夢にも思わなかったのである。
 しかし、その間にも、蚊は容赦なく彼の上半身を襲って、彼の忍耐力に挑戦した。彼はそのたびに思わず芋虫のように体を左右にまげた。そして最後にとうとう両手を使って、一挙に蚊帳の裾を頭の方に引っぱってしまった。
「次郎や。」
 この時、気味わるく落ちついた母の声が、彼の耳をうった。
「お前、誰にそんな芸当を教わったの。」
 次郎は返事をする代りに、軽い鼾をしてみせた。
「次郎ったら。」
 母の声は急に鋭くなった。次郎はびくっとしたが、今更どうすることも出来なかった。すると次の瞬間には、お民の指が彼の耳朶をつかんで、再び彼を蚊帳の外に引きずった。
 次郎は、かつて直吉の耳朶に、全身の重みを託そうとしたことがあった。しかし、自分自身の耳朶に自分の体を託した経験は、全くはじめてである。彼は思わず悲鳴をあげた。両手は思わず母の手を握った。それで耳朶の痛みはいくらか減じたが、その代りらくらくと蚊帳のそとに引きずり出されてしまったのである。
「そこに夜どおしで、そうしているんだよ。」
 母はあらあらしい息づかいをしながら、寝床に這入った。
 次郎の眼からは、ぼろぼろと涙がこぼれた。しかし彼は喉(のど)にこみあげてくる泣き声を、じっと噛み殺した。そして、とうとう夜があけるまで、蚊にさされなから、蚊帳の外を芋虫のようにころげまわっていた。

    六 飯びつ

「ご飯だよ。」
 翌朝次郎が、ぽつねんと人気(ひとけ)のない座敷の縁に腰をかけて、庭石を見つめていた時に、台所の方から母の声がきこえた。しかし、彼は動かなかった。それは、その声が彼を呼んでいるようには聞えなかったし、かりに彼を呼んでいるとしても、そんな遠方からの呼び声に応じて出て行くのが変に思えたからである。
 やがて、家じゅうの者が茶の間に集まったらしく、話し声が賑やかになり、茶碗(ちゃわん)のふれる音や、鍋をかする音などが聞えて来た。
 次郎は、誰かが気づいて自分を呼びに来るのを、心待ちに待っていた。しかし、呼びに来ても、飛びついて行くようなふうは見せたくない、と思っていた。
 ところが、十分経っても、二十分経っても、誰も彼を呼びには来なかった。そして、そのうちに、恭一と俊三とは、すでに飯をすましたらしく、口端を手でこすりながら彼の方に走って来た。
「ご飯どうして食べない。」
 恭一は次郎のそばまで来るとたずねた。次郎は庭の方を見たきり、振り向こうともしなかった。
「ご飯たべない、ばかあ――」
 俊三の声である。次郎はそれでも默っていた。すると俊三は、ちょこちょこと寄って来て、うしろから片手を次郎の肩にかけ、その耳元で、
「馬鹿やあい。」
 と言った。次郎はいきなり右臂(ひじ)で俊三を突きのけた。俊三はよろよろと縁をよろけて、敷居に躓(つまず)き、座敷の畳の上に仰向けに倒れた。
 彼の泣き声は、家じゅうに響き渡った。
 お民が出て来て、恭一に言った。
「どうしたんだえ。」
「次郎ちゃんが突き倒したんだい。」
「次郎が? どうして?」
「僕知らないよ。」
 恭一は神経質らしく、お民と次郎とを見比べながら答えた。
 お民は、しばらく次郎をうしろからじっと睨めつけていたが、何と思ったのか、そのまま俊三を抱き起こして、茶の間の方に行ってしまった。
 恭一もすぐそのあとについた。
 次郎は、また一人でぽつねんと庭を眺めた。
 そのうちに、彼はゆうべの寝不足のため、うつらうつらし出した。そうしてとうとう縁側から地べたにすべり落ちてしまった。
 幸いに大した痛みを覚えなかった。彼は起き上ってあたりを見まわしたが、誰もいなかったので、安心した。そして、跣足(はだし)のまま植込をぬけて、隣との境になっている孟宗竹の藪に這入ると、そのままごろりと寝ころんだ。
 そこで彼は涼しい風に吹かれながら、ぐっすり眠った。眼がさめたのは昼過ぎだった。腹がげっそりと減っている。それに何よりも喉が乾いて堪えられないほどだ。
 彼は起き上ると、八方に眼を配りながら、座敷の縁に忍びよった。そして縁板に足のよごれをにじりつけてから、足音を立てないように茶の間の方に行った。
 そこには誰もいなかった。もう昼飯がすんだあとらしく、ちゃぶ台の上には薬罐(やかん)と飯櫃(おひつ)だけが残されていて、蠅が五、六匹しずかにとまっている。
 彼はあたりを見まわしてから、薬罐(やかん)から口づけに、冷えた渋茶をがぶがぶと飲んだ。それから飯櫃の蓋をとって、いきなりそのなかに手を突っこんだ。
「誰だい。」
 だしぬけに台所からお民の声がきこえた。次郎はびっくりして手を引いたが、その五本の指には飯が一握りつかまれていた。彼はあわててそれを口に押しこみながら、座敷の方に逃げ出そうとした。
 しかし、もうそれは遅かった。座敷の敷居をまたぐか、またがないかに、彼は襟首をお民につかまれていたのである。
「お前は、お前は……」
 お民の声は、怒りとも悲しみともつかぬ感情で、ふるえていた。
 それから次郎は、ちゃぶ台の前に引き据えられて、ながいことお民と対坐しなければならなかった。
「ここはお前の生まれた家なんだよ。」
 説教は、彼が昨夜来何度も聞かされた言葉で始まった。
「ここの家はね、こんな田舎に住んでいても、れっきとした士族なんだよ。」
 これも次郎が聞きあきるほど聞いた文句であった。もっとも士族が何だかは、今だにはっきりしない。
「士族の子ともあろうものが、何という情ない真似をするんだよ。……強情で食べないつもりなら、いっそ二日でも三日でも食べないでいたらいいじゃないの。ご飯時には寄りつかないで、竹藪の中に寝たりしているくせに、こっそり忍んで来て手づかみで食べるなんて、思っただけでも、このお母さんはぞっとするよ。」
 次郎は、まだ指先にくっついている飯粒を、どう始末していいかわからないで、もじもじと手を動かした。
「それ、その手をご覧、それを見たら、ちっとは自分でも恥ずかしい気がするだろう。」
 次郎は何と思ったか、ぴたりと手を動かすのをやめてしまった。
「お前はね……」
 と、急にお民の声がやさしくなった。
「丁度八月十五夜の月が出る頃に生まれたので、今にきっと恭一よりも俊三よりも偉くなるだろうって、お父さんはじめ、みんなでおっしゃっているんだよ。」
 次郎は、これまでお浜が人の顔さえ見ると、よくそんなことを言っていたのを覚えている。そして彼は、そんな話が出ると、いつも内心得意になっていたが、母の口から今はじめてそれを聞かされて、急にそれがつまらないことのように思われ出した。同時に、彼は校番のむさ苦しい部屋が、無性(むしょう)に恋しくなって来た。
(偉くならなくてもいい。)
 そんな感じが、はっきりとではないが、彼の心を支配した。一人ぼっちで、しかも、どちらを向いても突きあたるような気持でいるのが、彼にはたまらなく嫌だったのである。
「お浜のところへは、もうどんな事があっても帰さないよ。それも、みんなお前に偉くなって貰いたいと思うからのことだよ。……このお母さんの心が、お前にわかるかい。」
 次郎には、もうお浜のところに帰れないということだけがわかった。
 彼は今更のように悲しくなって、思わず涙をぽたぽたと膝の上に落した。飯粒のついた指が、急いでそれを拭いた。
 お民は昨夜来はじめて次郎の涙を見て、それを自分の説教の効果だと信じた。そこで、簡単に説教のしめくくりをつけると、すぐ立ち上って、次郎のために椀と皿と箸を用意した。
 次郎の涙は容易にとまらなかった。彼は飯をかき込みながら、しきりに息ずすりした。袖口(そでくち)と手の甲が、涙と鼻汁とで、ぐしょぐしょに濡れた。お副食(かず)には小魚の煮たのをつけて貰ったが、泣きじゃくってうまくむしれなかったので、一寸箸をつけたぎりだった。それでも飯だけは四杯かえた。
 お民は、その間そばに坐って、次郎のために飯をよそってやった。
 それはむろん彼女の母としての愛情を示すためであった。しかし次郎の方から言うと、それはちっともありがたいことではなかった。なぜなら、もし彼女がそばにいなかったら、彼は四杯どころか、五杯でも六杯でも食べたであろうから。
 何よりも次郎の心を刺激したのは、恭一と俊三とが手をつないでやって来て、縁側から、珍しそうにその場の様子を眺めていたことであった。
「お前たちは、あっちに行っておいで。」
 お民は何度も二人をたしなめたが、二人は平気な顔をして、ちっとも動こうとはしなかった。飯が存分に食べられなかったのは、一つはそのためでもあったのである。
 飯がすむと、次郎はまたしばらくの間、母の説教をきいた。説教をきいている間に、涙がひとりでに乾いて、彼の心は妙に落ちついて来た。同時に、恭一と俊三とに対する憎悪の念が、冷たく彼の胸の底ににじむのを覚えた。

    七 玉子焼

「次郎、また一人でそんな所にいるのかい。ほんとに、どうしたっていうんだね。早くこちらに来て、お父さんにご挨拶をするんですよ。」
 お民に、そう声をかけられた時には、次郎は、暮れかかった庭の木立の間を、一人でぶらつきまわっていたのであった。
 父の俊亮は、猿股一つになって、お民に蚊を追わせながら、座敷の縁で酒をのんでいた。そのそばには恭一も俊三も坐っていた。
 次郎にとっては、彼の父は、まだ何とも見当のつかない存在であった。というのは、父は、この村から三四里も離れたある町で小役人を勤めていて、土曜から日曜にかけてしか帰って来なかったので、次郎は里子時代に、めったに彼と顔をあわせる機会がなかったし、まして、彼に言葉をかけて貰った記憶などほとんどなかったからである。
 次郎は、しかし、父の顔つきだけは、いつとはなしに、はっきり覚えこんでいた。そして、その顔は、たしかに家じゅうの誰のよりも親しみやすい顔だった。むろん、お浜の亭主の勘作などにくらべると、ずっとやさしそうに思えたのである。
 で、次郎は、今日母から、
「夕方にはお父さんが帰っていらっしゃるんだよ。次郎がここに帰って来てから初めてだね。」
 と言われた時には、一刻も早く逢ってみたいような気になった。
 そして、いよいよ夕方になって、父を迎えるために、みんなが庭に打水を始めた時には、次郎は珍しく恭一のあとについて、柄杓(ひしゃく)で庭石に水をまいて歩いたりしたのだった。
 それでも、彼は、いざ父が帰ったと聞くと、妙に気おくれがして、みんなと一緒に玄関にとび出して行こうとはしなかった。それどころか、彼はその騒ぎの間に、一人でこっそり、庭の植込に這入りこんでしまったのである。そして、父が服を脱いだり、湯殿に入ったり、母がお膳の支度をして、それを座敷の縁側に運んだり、恭一と俊三とがはしゃぎ廻ったりしている様子を、じっとそこから覗いていた。
 しかし覗いているうちに、彼はだんだんつまらなくなって来た。もともと彼は、父に隠れる気など少しもなかったのだが、つい妙な機(はず)みで、こんなことになってしまった。それに、困ったことには、誰も自分が見えないのを気にかけている様子がない。かといって、今更植込の中から、のこのこ出て行くのも変だ。彼は自分が庭にいるのを、何とかして皆に気づかせたいと思った。で、父がいよいよ晩酌(ばんしゃく)をはじめた頃に、わざと足音を立てて庭をうろつき出していたのである。
 彼は母に声をかけられたときには、しめたと思った。それなら、その声に応じてすぐ出て行くのかと思うと、そうでもなかった。母の言葉は彼が素直に出て行くには、少し強すぎたのである。
 彼は母の声をきくと、すぐ、くるりと座敷の方に背を向けて立木によりかかってしまった。
「次郎ちゃん、父ちゃんが帰ったようっ。」
 恭一が彼を呼んだ。
「父ちゃんが帰ったようっ。」
 俊三がそれをまねた。
 次郎は皆の視線を自分の背中に感じていよいよ動けなくなってしまった。
「すぐあれなんですもの。……全くどうしたらいいのか、私、わからなくなっちまいますわ。」
「なあに、今日は、はじめてなもんだから、きまり悪がってるんだよ。」
「そんなしおらしい子ですと、私ちっとも心配いたしませんけど、なかなかそんなじゃありませんわ。」
「やはり家になじまないからさ。そのうち、おいおいよくなるだろう。」
「そうでしょうか知ら。」
「何しろ、あれにとつては、この家はまるで他人の家も同然だろうからね。」
「そりゃ、そうですけれど。……でも、あんまりですもの、何かお浜に強く言って聞かされて来たんではないかと思いますの。」
「まさか。……かりに言って聞かされたにしても、あんな子供に、そう巧く芝居が打てるもんじゃない。」
「すると、あの子の性質なんでしょうか。」
「性質ということもあるまいが、自然ああなるんだね、これまでのいきさつから。」
「このままでいいのでしょうか。」
「いいこともあるまいが、当分仕方がないさ。」
「まあ、貴方はのんきですわ。あたし、一刻もじっとして居れない気がするんですのに。」
「そんなにやきもきするからなおいけないんだよ。」
「では、どうすればいいんですの。」
「つまり、教育しすぎないことだね。」
「だって、私には放ってなんか置けませんわ。
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