明治開化 安吾捕物
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著者名:坂口安吾 

 一助はお加久に叩き起されてシブシブ目をさました。めっぽう寒い日だ。昨夕から風がでて波も高くなっていたから、天気はよいが、今日は仕事にアブレそうな予感がした。一助は横浜の波止場で荷役に働く俗に云うカンカン虫であった。
「今日はアブレそうだなア。行くだけムダかも知れねえや」
 目をさまして顔を洗う習慣のない一助、シブシブ起きてグチの一ツも言いながら二三度手足を動かすうちに仕事着に着終っている簡易生活。あとは貧しい食膳の前へ坐る以外に手がない。お腹の大きいお加久が彼の坐るのを待って、
「アブレた方が良い口にありつくかも知れないよ。路地を出たとこの塀にハリガミがしてあるってさ。髪の毛のチヂレた大男を一ヶ月六十円で雇うそうだよ」
「バカめ。大男で髪の毛がチヂレているのが、どうした」
「お前の悪口を云ってるんじゃないよ。塀のハリガミにそう書いてあるとさ」
 一助は能登半島の奥で生れた。江戸時代には能登相撲という言葉があって、能登の国には大男が多く、腕の力が特に強いと云われていた。身長に比して腕が長い。相撲に適した体躯の人が能登人に多いと云われていたのである。
 一助は五尺七寸余。当時は一般に日本人の身長が低かったから、今なら六尺の大男ほど目立っていた。同じ村から能登嵐という明治初年に前頭四五枚目までとったのが引退して相撲の親方をやっていた。これが帰郷の折一助に目をつけて、相撲になれとすすめたが、弱気の一助はとても関取などにはと断っていた。
 ところがその後ふとしたことで村の若者と口論のあげく、相手の鎌で左の小指とクスリ指を根元から斬り落されたが、その代り相手の腹を蹴倒して生涯不治の半病人にしてしまった。そのために、村に居るのもイヤになったが、発奮もした。
「いッそ、江戸へでて相撲になろう。オレは術を知らないからダメだと思っていたが、あの喧嘩ッ早い野郎を蹴倒して半病人にしたところをみると、見どころがあるのだろう。まだ二十二だ。天下の横綱になれるかも知れねえ」
 そこで夜逃げ同然村をでて、東京へ行き、親方にたのんだところが、
「このバカヤロー。指の満足のうちになぜ来ないだ。指が一本なければ手の力は半分もはいりやしねえ。二本もなければ相撲とりにはカタワ同然だ。帰れ、帰れ」
 とケンもホロロに追い返えされてしまった。今さら帰国もできないから、人のすすめるままに、立ちん坊まがいの仕事をつづけて、カンカン虫に落ちつき、女房をもらって横浜の貧民窟に住みついた。
 この一助、生れつき髪の毛が大そうチヂレていた。一本一本コクメイにより合わせたようにチヂレている。村に居るうちは、他にも似たようなチヂレ毛の持主が居るから、特に注意もひかなかったが、上京以来は、どこへ行っても髪の毛のことを云われる。
 ひところは食うものをつめて床屋へ行って坊主頭にしてもらったが、女房を貰ってからは、食う方も元々満足にはいかないから、当節では覚悟をきめてチヂレ髪にハチマキしめて大ッぴらにやってる。けれども、これを人に云われると、不キゲンになってしまう。
 食事を終りかけたところへ、
「おうッ。カラッ風のせいか、めっぽう冷えこむなア。朝メシはまだか」
 と誘いにきた同じ長屋のカンカン虫。一しょに外へでると、
「お前に耳よりな口があるそうじゃないか。人間万事、人の持たない物を持つ方がいいらしいや。オッ。このハリガミだな」
 と立ち止ってはみたが、この字の読める者がない。むろん一助も読めないのである。
 ところが、カンカン虫の溜りへ行くと、どうやら横浜の諸方にこのハリガミがあるらしく、溜りの近所にもあるという。字の読める者も二三いて、
「なア。一助。このハリガミだぜ。頭髪のチヂレたる人入用。大男ほどよろし、とある。手金十円、後払い五十円。地方巡業一ヶ月の予定。日本壮士大芝居。ハハア。政治芝居の悪役かなア。一助に似合いの口だ。行ってみねえ」
 どこへ行っても、寄るとさわると、ゴウバラな話である。
 けれども、一助の予感の通り、その日の仕事にアブレたから、ママヨ、と考えた。とにかく、たった一月の巡業で六十円とは大そうな話だ。手金十円くれるというから、だまされても月に十円ならカンカン虫よりも悪くはない。
 そこで字の読める男から募集者の所番地をきいて、本牧のチャブ屋街の中にあるTエンドK兄弟商会別館というのを訪ねて行った。
 朝のおそいこの街はまだ半分眠りの中だが、めざす商会別館はさすがに開店している。西洋の酒や食べ物を商う店らしい。赤いワシ鼻のたれた西洋人の男が店の掃除をしている。
 一助が来意をつげると、西洋人はジロジロと上下に彼を眺めていたが、チヂレた髪の毛を見ると納得したらしく、彼を店の裏へつれて行った。裏口をはいって廊下をまがり扉をひらくと、階段が現れた。そこを登ると、屋根から光がもれるほかには窓のない暗い小部屋があった。
 ワシ鼻の西洋人は一助をそこへ待たせて扉の向う側へ姿を消した。やがて現れたのは、一助がまだ見たことのないフシギな外国人であった。ところが、このフシギな外国人は日本語をいくらか知っていた。無言でここまで案内した男とちがって、いきなり聞き覚えのある言葉で話しかけられたので、一助は面くらって、すくんだほどであった。男は一助をイスにかけさせて、
「アナタ、ステキデス」
 満足そうにうなずいてこう云うと、ポケットから日本の札タバをつかみだして、一枚の十円札をテーブルの上へのせ一助の方へ押しだした。
 それから一ヶ月半すぎた。
 お加久は一助が居なくなって五日目に、一助から手紙をもらった。達筆な代筆で一ヶ月後に帰るとあり、十円同封してあった。ところが一月すぎても一助は帰らない。お腹の子はそろそろ生れそうになるし、お加久は心配でたまらなくなって、長屋の人々に相談し、警察へ届けでた。
 そこで警察からTエンドK商会の本牧別館へ問い合せると、そのような日本人に心当りはないし、第一ここには西洋人が住んでるだけで、日本人が泊っていたこともなく、壮士芝居にも心当りがない。また、そのようなハリガミを出した覚えもない。という返事であった。まことに、そうであろう。西洋人の経営する食料品店TエンドK商会が日本の壮士芝居の俳優を募集する筈はない。そのハリガミが事実としても誰かのイタズラであることは明かなようだ。
 そして、そのようなハリガミをたしかに見たという人もあったが、また、そのハリガミを見て募集に応じたチヂレ毛の男もあって、
「そんなハリガミをした覚えがない」
 とTエンドK商会の西洋人に断られてスゴスゴ帰ったという証人も現れた。そして一助の失踪はウヤムヤになってしまったのである。

          ★

 克子は結婚して十七日目に、兄の大伴宗久が病に倒れたという報せをうけた。予感していたことが、やっぱり、と、克子は胸を痛め、良人(おっと)宇佐美通太郎と共に馬車を急がせて、広大な大伴邸へのりつけたときには、叔父の大伴晴高が小村医師と共に兄の隣室にションボリしていただけであった。
「お兄様の御容体は?」
 克子がせきこんで尋ねるのを、晴高は手で制して、
「静かに。静かに」
 なすところを失うほど困惑しきっている様子であった。
「そんなにお悪いのですか」
「生命の危険はとにかくとして、カンがたかぶっているのでなア」
「お姉様がつきそってらッしゃるのですか」
「イヤ、イヤ。誰もつきそっておらぬのじゃ。つきそうと、カンがたかぶる。ただ、克子に会いたいと云われるので、そなただけが、あるいはと思うて。ま、かいつまんで御容体をお話し致すから、おかけなさい」
 克子を椅子にかけさせて、叔父は小村医師の顔を見ては助言をもとめながら、だいたいの経過を語ってきかせた。
 宗久が発作を起して倒れたのは、克子が結婚して六日目にも、一度あった。そのとき宗久はウワゴトの中で、
「そこにいるのは、誰だ!」
 時々あらぬ方を見て、そう叫びだしたが、そこには誰も居らず、常に何か夢に脅やかされているようであった。
 二日ほどで発作は落着いた。その後、シノブ夫人が附ききりで、書斎と居間と寝室以外に出ることがなかった。
 しかるに、昨夕以来にわかに発作が起り、前回とちがって、今回は狂暴であった。彼は日本刀を握り、シノブ夫人に心中を追って、逃げるを追いかけ、とめに入る侍女や使用人の男たちをも一様に斬り殺しかねなかった。
 シノブ夫人の父、須和康人、また大伴家歴代の家老の家柄で今もって大伴家の相談役についている久世喜善、及び叔父晴高が参集して主治医小村とともにいろいろの策を試みたが、いくらかでも静かに言葉を交す気持になるのは、叔父晴高に対してだけで、それも長くは続かなかった。
「お前は大伴晴高ではあるまい」
 十分間ぐらい静かに話しているうちに、宗久はモックと頭をもたげて、狂暴な目を光らせて、こう叫びはじめた。今にも刀を握って斬りかかりそうに見えるのである。
「これは異なことを言われる。よくこの顔を見なさるがよい。まさか私の顔を見忘れは致されまい」
「黙れ! 顔だけで信用はできぬ。貴様は須和康人であろう」
「顔だけで信用ができなくては、さて、さて、私もまことに困却いたすのう。それでは何をもって証明いたしたら納得なさるかの」
 晴高にこう云われると、宗久もさすがに考えこみ、やがてひどい落胆が顔に黒々と表れて黙りこむこともあったし、時にはフッと何か考えついたらしく、やにわに鎌首をもたげて、
「ウヌ。刀で斬ってみれば、わかる。須和と久世と貴様と、三人、そこへ並べ。ハラワタを突き破って正体を見届けてやる」
 いきなり起き上って刀をぬいて斬りかかってくる。こうして、晴高すらも刀で追いまわされてしまうのである。宗久の衰弱は甚しいし、根が生れつき虚弱のところへ、学問に凝って、ほとんど書斎を出たことがないから、いかにも身の動きがおそく、宗久に追いまくられても、アワヤの思いをみることは先ず女でもめったになかった。けれども家人一様に抜き身をブラさげた宗久に追いまくられる運命をまぬがれない。
 要するに、宗久は誰も信用しないのである。女を見れば、シノブ夫人も侍女たちも見分けがつかず、男を見れば、貴様はその本人ではあるまいと叫んで、いっかな信用しなくなるのであった。
 ただ妹の克子を思いだして時々フッと会いたくなるらしく、
「克子をよべ。はやく、よべ。あいつだけはまだ、信用ができるはずだ」
 こう叫んだ。けれどもその言葉のように自分でも思いこもうと努める気分になるらしく、次第にあまり力のこもらない呟きになるのであった。
 晴高はこう語り終って、克子よりもむしろ宇佐美通太郎を見て苦笑しながら、
「そのようなわけで、病状が特別だから、御新婚のあなた方にお伝え致すのを躊躇しておったが、今となっては克子の心づくしの看病だけが頼みの綱。兄上の心を静めるように皆の者に代ってつとめていただきたい」
 叔父の顔は困りきっていた。
 そこへ扉をあけ跫音(あしおと)を忍ばせながら姿を現したのは、シノブ夫人と、その父須和康人に久世喜善であった。彼らは抜き身に追いまくられ疲れ果て別室で寝(やす)み、いま目をさまして来たのであろう。
 この三名を見ると、克子はなんとなく悪感(おかん)を覚えた。とは云え、二人の男は立派な大紳士である。須和康人は鉱山業者で大金満家。久世喜善は大伴家の家臣ながらも最高重臣の相談役、克子とても礼を失って対することはできない。一同鄭重(ていちょう)に礼を交してのち、喜善は克子に向って苦笑しつつ、
「さて、克子さま。まことに大役で恐縮ですが、兄上様の御心を静めていただきとう存じます。すでに、令夫人も、小村医師も、我々もサジを投げておりますので、克子さまの手にあまる場合には最悪の事態に至りますのでなア」
「最悪と申しますと?」
「まことに申上げにくいが、兄上様がかように刀をとって暴れられては致し方ございませぬ。精神病の医師に見せて、場合によってはカンキンも致さねばなりませぬ」
 克子は全身の感覚を失うように思った。ようやく我にかえったが、混乱はうちつづくばかりであった。怖しいことだ。兄が精神病院へ入院すれば、兄に弟も子もない大伴家はどうなるだろう?
 いま、自分に課せられていることは、なんと重大な、また残酷なことであろうか。死せる父よ母よ。兄とわが身の上に宿りたまえ。つつがなく当家を守護したまえ。
「では……」
 克子は思い決して一礼し、しッかと力をこめて、兄の部屋の扉に向って進んだ。

          ★

 病床の兄はねむっていた。起してはなるまいと思い、跫音を殺して、ようやく枕元の椅子にたどりついて腰を下して、さて途方にくれた。
「なんておやつれになったのだろう」
 思わず溜息がもれた。婚礼の三日あと、良人とともに挨拶にきたときは、こんなにやつれた兄ではなかった。それからわずか十数日で、頬の肉はゲッソリ落ちて、手は骨だけのように小さく細くなっているではないか。
 克子は兄の寝顔を見つめて、悪夢を見つつある思い。どれぐらい坐っていたか、それも判じがたいような悲しさであった。せいぜい三十分ぐらいのものであったらしい。兄は目をさました。兄の目が克子を見つめてまだいぶかっているうちに、
「克子です。御気分はいかがですか」
 顔をよせてニッコリ笑いかけると、宗久はジッとみつめて、うなずいて、
「克子か。そうか、会いたかった。ここは、どこだ?」
「ここはお兄様のお部屋です」
 宗久は何か寝床の中を手さぐりしていたが、首をふって、
「ウソだろう」
「ほら、あたりをごらんなさいませ。いつもと同じお部屋よ。天井も、寝台も、壁も」
 宗久の目はやや光った。
「バカな。同じ物はいくつもあるのだ。同じ部屋をつくるぐらいはワケがないことだ。オレが抱いてねたはずの刀がどこにもないではないか」
 克子はハッとした。静かに立ち上り、フトンの中をたしかめ、寝台の下や四囲を改めたが、見当らなかった。すでに叔父たちが取りあげて隠したのだろう。それはすぐに思い当ったが、それをどのように説明すべきか、克子は時間をかせぐために空しく探していたのである。
 克子は椅子にかけて兄の手をとり、
「お兄さま。どうして刀などが御入用なのでしょうか。そのワケを克子に教えて下さいませ」
「ここにはお前のほかに誰もいないね」
「おりません」
 宗久は目をとじた。総てがメンドウくさいのか、自分で何か確かめる様子も表わさない。さればとて、さッきの疑念が納得できた様子もない。彼は甚しくものうそうに目をとじたまま、
「オレはお前だけ信じているよ。こうして目を閉じていると、お前が見えなくなる。けれども、そこにいるのは克子だと思うことができる。何も見えなく、信じることができるほど静かなことはないなア」
「それはどのような意味なの? そのワケを教えて下さい。お兄さま。何か御心配がおありではございませんか。克子がお役に立ちますなら、どのようなことも云いつけていただきとうございます」
「まア、まて。いそいでも、なかなか分るものではない。オレにもオレのことすらも分らない時がある。信じられない時がある。三位一体という言葉があるが、あの本当のワケはどうやら分りかけたのかも知れぬ。人間は三人ずつ一組の人間らしい。一人の人間が三ツの顔と体をもっているらしい」
 ああ、兄上はやっばり狂ってらッしゃるのか。イヤ、イヤ。私がそう信じては最後ではないか。何か意味がある。それを判ってあげなければならないのが私の役目ではないか。克子は必死に悲しさをこらえた。
 宗久のウワ言のような言葉はつづいた。
「しかし、オレは一人しかない。そして、克子も一人しかいない。この部屋には、オレが一人、お前が一人しかいない。そして、一人しかいない人間は正しく、信じるに足る」
「人間は誰でも一人ずつですわ」
「そうではないよ。心のネジくれた人間は、心は一ツだが、顔も体も別々にいくつもあるものだ。ちょうど虫のようなものだ。虫は何百匹の同類も一ツのものと変りがない。さすがに人間は、何百ということはないが、一人が三人の顔と体をもっている」
「たとえば、どなたが、そうでしょうか」
「克子よ。お前の目にはまだ分るまい。たとえば、大伴晴高と須和康人と久世喜善が実は一人の人間だ。そして……」
 宗久はやゝ口ごもった。そして、やゝ言いかねる様子であった。心の傷がそこにあるかも知れないと思われるような苦しさが、うかがわれた。
 しかし、宗久は何事もないような顔つきにもどって、
「シノブも一人ではないのだ。ほかに二人のシノブがいる。カヨと、キミが、シノブなのだ。誰にも分るまいが、仕方のないことだ。お前には分らせたいが、まだ、分るまい。だが克子よ。お前だけはオレの言葉を信じてもらいたいものだ。ここに附き添っていてくれると、今に分る時がくるだろう。いつまでもここに居てくれ。オレが眠っている間も、ここを動いてくれるな。オレはお前だけしか信じることができないのだから……」
 こう呟いているうちに、宗久はねこんでしまった。その寝額は、さっきに比べて、たしかに安らかなようだった。
 三人の男が一人の男。三人の女が一人の女。それは、どういう意味だろう。考えただけではとても分りそうなことではなかった。
 しかし、三人の女は一人のシノブだと云ったが、三人の男は一人の誰だろう?
 シノブは、美しく、社交家で、明るかった。彼女がアニヨメとして克子の前に現れたときには、すくなからぬ敬意をいだいたものである。しかし兄の生活は、結婚後、むしろいけないようであった。明るく、美しく、利巧なアニヨメの力でも、兄の性格的な暗さはどうにもならないのであろうか。
 しかし、兄の新婚後、二ヶ月足らずで克子もお嫁に行ったから、兄夫婦の生活の内部のことは深く立ち入って知る機会がなかった。
 克子がアニヨメのことで、思いがけない噂をきいたのは、結婚後のことであった。それをきかせてくれたのは、良人通太郎であった。通太郎の先輩で、海外の視察から戻ってきた八住という若い手腕家が、通太郎の花嫁が克子であると知って、こう語ったそうだ。
「たしか君の新夫人の兄上大伴宗久氏は須和康人の娘シノブさんをめとっておられると思う。私はこのシノブさん父子にはロンドンでお目にかかったことがある。昨年の春ごろのことだから、もう一年半の昔になるが、当時シノブさん父子には影の形にそう如くに常に一人の青年が一しょであった。外務省の俊英で、久世隆光という前途有望な外交官だ。こう云えば御存知であろうが、大伴家の重臣、久世喜善の長子がこの隆光です。須和康人は鉱山業の視察のために娘をつれて渡欧したのだそうだが、ちょうど休暇中の久世隆光が通訳がてら案内に立ってやったというのも、シノブさんの色香にひかれてのことだというが、須和が娘をつれて外遊したのも、娘の色香でいろいろの便宜を当てにしての算用らしいな。とにかく、隆光君とシノブさんとの交情は我々在欧の岡焼き連のセンボーの的であったよ。シノブさんは昨年の暮に帰国した。と、隆光君も今春、外国勤務をとかれて帰国した。上官に頼みこんで内地勤務にしてもらったのだそうだが、シノブさんの後を追って帰国したい一心からだという専らの評判だった。ところが、このたび私が帰朝しておどろいた。シノブさんはこの初秋に大伴宗久氏と結婚したではないか。表てむきの媒的人は某公爵だが、内輪の取り持ちは久世隆光の父、喜善だというではないか。息子に因果を含めるために帰朝させたと考えても妙な話。大伴家といえば、南国の大藩の宗家。その富は莫大であり、しかも注目すべきことには、大伴家所領の山々こそは日本最大の地下資源の眠るところ。あまつさえ、山師や事業家の暗躍をシリメに、当主大伴宗久どのは書斎の中で居眠り同然の読書にふけって、血まなこの山師事業家どもを全然そばへ寄せつけない。ところで、累代の家老筋たる重臣が主家のために特に取りきめた縁組にしては妙ではないか。世に金権結婚と称する通り、華族が金持と縁を結ぶことはある。なるほど須和康人は金持には相違ないが、大伴家は華族ながらも特別の大金持ち、須和康人の富も遠く及ぶところではない。金権結婚と云いたいが、これでは話がアベコベだ。大伴家累代の重臣が縁組をすすめるならば、五摂家の姫君などが、いかにも然るべきところであろう。このへんの話がまことに奇怪で、アベコベだとは思わないかね」
 宇佐美通太郎は小大名の子息であるが、バカ殿様の生活が生れつき性に合わないスネ者で、大洋にあこがれ、航海にあこがれていた。そこで造船術を学んだが、かく決意したときから、家督は弟にゆずる覚悟であった。そして、克子を迎えたときは目的通り、すでに一介の造船技師として、また航海技術研究家として、ただの市民になっていた。先輩は話をつづけて、
「なア。宇佐美君。貴公は世間の噂を御存知か。久世喜善が克子さんを貴公の嫁御に選んだのは、貴公が大名の嫡流のくせに、名誉も金もいらぬという、妙な気骨のあるところが気に入ったせいだと云うぜ。まったく、当節カネや太鼓で探してもオイソレとは見当らない妙な気骨だて。妹の嫁入費用で当主の財産を減らしたくない家老のメガネにかなうのは尤も千万だ。若年ながらも、すでに造船航海術の英才。それ以下におちぶれることはなかろうし、おちぶれても嫁の実家の財産を目当てにするような貴公ではない。久世喜善は目が高いというもっぱらの大評判だぜ」
 まったく、世事にはうとい通太郎であった。八住にこう云われてみると、それまでなんの気なしに聞き流していた人の言葉に二三思い当ることがある。また、その後も同じような噂をチョイ/\耳にしたが、今度は下地ができているから、人々の遠まわしの言い方もよく意味が分る。なるほど。義兄やオレの結婚について、世間ではそんな噂があるのか、と思い当った。そこでこの話を克子にきかせた。
 克子もむろん初耳であった。深窓の娘にそんな噂はとどかなかったし、兄の結婚についても、シノブを一目見て舌をまいて敬服した克子であった。西洋で智徳をみがいた天下の大令嬢と身辺の者どもが噂するのをきき知っていたから、その実物のまさにさもありぬべきキラビヤカな立居振舞を見ては、さすがに大したものよと舌をまくばかりで、その他のことは考える余地もなかった。生れつき虚弱で、社交ぎらいで、ただ書斎の虫のような兄にはちょッとツリアイがとれないようなヒケメさえ感じたほどであった。
 しかし、大藩の当主としては陰鬱で風采の上らぬ宗久であったが、その学識は彼を知る者の絶讃せざるなき有様で、学問は名も金もいらぬ者にしてはじめて深く正しかるべし。これを大伴宗久に見るべし、と友人逍遥が言ったという。彼は古代の史実や風俗等について宗久に教えを乞うていたそうだ。奇しくも宗久と通太郎とが、名も金もいらないという同じ鑑定を得ていたのである。
 結婚前の宗久は単に書斎の虫であった。明るいところはなかったが、静かで落着いた毎日であった。
 ところが、新婚後の宗久は、昔ながらの書斎の生活が次第に乱れているようだった。結婚前には明るくはないが、自然で、安静なものに見えたのに、今では何かのために苦しみ、何かを遁れたいような苛立たしいカゲリや、いたましい暗さがあった。
 もともと克子の部屋は宗久の書斎から遠く離れていたが、彼の結婚までは気の向いたとき兄の部屋へ自由に出入できたのである。しかし、新婚後は、自由に出入もできない。別に禁ぜられたわけではないが、兄の書斎の隣室も、寝室の隣室も、その他の多くの部屋部屋がシノブの居間や化粧間や応接間や寝室などに飾り代えられ、それにつづいてキミ子にカヨ子という二人の侍女の部屋があった。この侍女は宗久とシノブの二人につきそって身の廻りの世話をやき、その下にスミという小間使いがいる。それだけで宗久の一家族が構成され、まるでシノブや侍女にさえぎられて、克子はその奥へ気楽に踏みこみがたい感があった。次第にそこが他人の家になったように思われた。
 その彼方の一劃には、いつも女たちの明るい笑声がわきたち、音楽がかなでられ、訪なう客も絶えるとき少く、食卓は常に賑やかで長時間であった。
 克子は夕食の時だけその食卓につらなった。他の食事は時間が違っていたし、夕食としても克子の時間にはおそすぎたが、強いてそれに合わせるように努めていたのである。
 けれども女主人や侍女たちや訪客たちの明るい笑声の蔭に男主人の姿だけがだんだん暗く悲しく苦しげなカゲリを深め、いつも何かを逃げるような、逃げたいような哀れさの深まるのを見るにつけ、克子はそれを見る苦しさにも堪えがたかったし、それでなくとも、あまりに長くつづきすぎる談笑について行けなくなるのであった。
「私がヒガンでいるせいかしら」
 と克子は反省してみた。しかし、毎夜の食卓に、いつも他人が二人いる。それが宗久と克子の兄妹だ。大伴家の家風も、兄の生活の流儀もそこにはなく、当家の者が、己れの家の生活からハミだしてしまうというのが有って良いことであろうか。
 もっとも、克子も一度は別に考えたこともあった。シノブの明るい生活流儀をはじめて見たとき、
「これが本当の生活だわ。いまにお兄さまも明るく幸福になるでしょう。利巧なお姉さまがきッとそうして下さるでしょう」
 と考えた。けれども兄が同化する風がないので、一度は兄がいけないのだ、と思ったこともあった。
 けれども女主人や侍女たちは兄を同化させようと努める風がなく、その離れるにまかせているだけではないか。
「むしろ突き放しているようだ」
 と克子は思った。そして自分も次第について行けなくなり、頭が痛いとか、用があるとか口実をもうけて、自然に自分も女主人の食卓から遠ざかってしまった。もっとも、克子は己れの婚礼の準備に多忙でもあった。
 彼女が生家に別れを告げるとき、兄の生活はこのように暗くいたましかった。
「可哀そうなお兄さま。私が立ち去ると、ひとりぽっちだけど、私が居ても、もはや、どうにもならない」
 それが生家を立つときの克子の思いであった。別れる生家は実に暗かった。だが、新家庭には希望をもつことができた。そのために、いっそ兄の将来について暗く悲しく思いふけり、悪い予感をもったのである。
 克子は良人からシノブと久世隆光の噂をきいたとき、まさかと思った。久世隆光は時々女主人の食卓にまねかれていた。才気煥発の談論と、一座の空気とピッタリした親しさ。けれどもそれは久世隆光に限ったことではない。除け者の兄のほかの総ての者がただ一様に一座の空気に親しいものに見えただけのことだ。そのころの克子の目はまだ稚(おさ)なかったのだ。悲しさに曇ってもいた。
「果して兄はこのようになってしまった」
 兄の病みつかれた寝顔を見つめて、克子の胸にはただ苦しくて、救いがたい暗い思いの数々が溢れでてやまなかった。
「なぜ兄はこうなったか? どのようにすれば、失われた心の安静をとりもどしてあげられるのだろう?」
 その目当ては一ツもない。だが、たった一ツ確かなことは、その適任者は地上にただ自分一人しか居ないこと。他の総ての者が自分ほどひたむきに兄の身を思いはしない、ということのみであった。
 そのとき宗久が、ふと目をひらいた。長く克子を見つめていたが、
「お前は誰だ?」
 本当に怪しんでいる声である。ねむる前の兄の言葉がまだナマナマしく耳についている克子はビックリして、
「私です。克子ですわ」
「いつ、来たのだ?」
「私と話を交してから一ねむりなさったばかり。お目がさめたばかりで頭がハッキリなさらないのでしょう。たった四五十分前のことですのに。私に、いつまでもここに居なさい、と仰有(おっしゃ)ったではありませんか」
 宗久は思いだしたようである。けれども、どの程度に思いだしたか、怪しいものであった。宗久は真剣に考えている様子だったが、
「お前は結婚したと思うが、たしか、そうであったな」
「ええ。結婚しました。なんてむごたらしいことを仰有るのですか。たしか結婚した筈だろうなんて。克子のことは、他人の出来事のようにしか頭にとめてらッしゃらないのね」
「イヤ、イヤ。それを咎めてくれるな。オレが総ての物を疑らねばならないのは、誰よりもオレ自身にとって、これほど苦痛なことはないのだからなア。ところで、お前は誰と結婚したのだっけな」
「宇佐美通太郎です」
「そうか。たしかに、記憶している。お前の良人はどんな人だ。悪い奴だろう?」
「いいえ。お兄さまと同じぐらい、立派で正しい心の持主です。そして、勇気があります」
 宗久はカラカラと空虚な笑声をたてた。
「オレの目をごまかすことはできない。お前はハリガネで松の木に縛りつけられたろう。そして泣いて叫んだろう。オレはそれをきいて行ってやろうと思ったが、足が痛くて、行くことができなかった」
 兄はやっぱり狂っているのか。恐怖を必死に抑える苦しさ。ただ祈るばかりである。すると宗久の語気はケロリと変って、大きな目をあけて克子を探しながら、
「宇佐美通太郎はどこにいる?」
「いま、隣室に来ております。お兄さまの身を案じて、どのようにでもお役に立ちたいと堅い覚悟をいだいております」
「そうか。つれてこい」
 実にケロリと変って、アッサリした言葉であった。

          ★

 通太郎を連れて戻ると、宗久は自分が命じたことを忘れたように眠りかけていた。二人が到着の挨拶をのべても、二三分は目をあけなかった。ようやく、薄目をあけたが、特に通太郎の方も見ようとはせずに、
「君はオレをどんな人間と思っているか」
「おちかづきが浅いから直接の判断ではありませんが、克子の言葉を通じて、大そう学問好きな、社交ぎらいの方と承知しておりました」
「キミは学問は好きか」
「学ぶことも好きですが、それを自身活用してみたいと思っております」
「大きなことを言うな」
 からかうような言葉であったが、むしろ反対の感情が、何かハッと感動したような表情がうごいた。宗久が、自らそれを意外としたらしく、しかし素直にそれについて考えをくりのべ、また、まとめているようであった。そして険しい目をチラとあけたが、それを閉じて云った。
「通太郎君。君の心は、おごっているぞ。君の目は、人間の多くが、三で一を作っていること。それを見てはおるまい。ヨコシマな者は、一人で三ツの顔と体を持っている。別の名すらも持っておる」
 通太郎はこの意外な言葉に、考えこんで、答えることができなかった。
「なぜ、黙っているか! そこに誰も居らぬのか! 克子は、どうした?」
 宗久は目をつぶったまま、猛りたって、叫んだ。目があかないのだろうか?
「克子はここにおります」
「なぜ、早く、返事をしないのか」
 通太郎がそれに答えて、
「返事ができなかったのです。兄上のお言葉が意外にすぎて理解いたしかねたのです。一人で三ツの顔と体を持った人間が、どこに居るでしょうか。真に有りうるでしょうか。有りうるならば、誰がその人間でありましょうか。それを説明していただかなければ、理解に苦しみます」
 宗久はそれを無表情にきき流して、暫し答えなかったが、相変らず目をとじたままで、
「君はエジプトのナイル河が海へそそぎ、その砂が海の底をわたって、海を距てて積みなしたところ、アラビヤの沙漠の辺にある国の名を知っているか」
 前説明が長くて奇怪であるが、要するにアラビヤの国の名を知っているか、という意味であろう。通太郎は思いつくままに、
「エルサレム」
「オウ!」
 かすかに叫んで、宗久は大きな目をあいた。通太郎をシッカと見つめて、
「エルサレムだと?」
「ちがいましたか」
 宗久は何事かに落胆しきったようだった。そして大切な物をしまいこむように、実にゆるやかに目をとじた。そして、いたましい声で、呟いた。
「お前たちは、しばらく、立ち去ってくれ。オレを一人にしておいてくれ。オレが呼んだらすぐ来ることができるように、隣りの部屋に待っていてくれ。夜も交替に起きて、オレの呼ぶ声をききもらしてはならぬぞ。オレの頭には、いま波がゆれている。それを鎮めるためには、オレは一人で考えてみなければならぬ。早く行け」
 二人は静かに引き返った。
 隣室には、人々が待っていた。
「どのような様子であったね」
 晴高が待ちきれないように問いかけた。他の人々は、宗久が狂暴にならなかったことがむしろフシギな面持のようであった。
 二人は交々(こもごも)、会談の様子を物語った。朝寝坊のシノブはまだ姿を見せていなかった。しかし、シノブが目をさまして姿を現したことを、物の気配によって、克子は感じた。そして、克子はその方を見た。見返した。しかしシノブの姿はなかった。そこに姿を見せて居たのは、茶菓を運んできたキミ子の姿であった。だが、克子の感覚が狂ったのではなかったのだ。シノブの現れと見た物の気配が、たしかにキミ子の身から発していたのだ。
 それは「黒衣の母の涙」とよぶ独特の香水であった。しかし、コチーのスペシャルというような筋の通った香料ではない。のみならず、非常に高価ではあるが、甚しくインチキな一外国婦人の私製品であった。誇大な広告にも拘らず、一向に広告だけの効能がなくて、一月足らずで夜逃げ同様日本を去ったロッテナム夫人の香水である。彼女が散々の不評に居た堪らず、日本を去ったのは一週間程前の事で、巷を賑わしている話題の一ツであったが、それにまつわる余談の一ツとして、今なおロッテナム美人術を信じその香料を身につくる者は大伴シノブ夫人のみなり、呵々、という新聞記事がもてはやされていたのである。
 克子も婚礼前に、シノブ夫人にすすめられて、ロッテナム美人術へムリヤリ連れて行かれた。裸体で寝椅子にねる。いろいろの香料で洗顔し、全身の皮膚を洗い、最後に油をぬってマッサージして黒布で顔を覆い、全身を覆う。器に香料をたいて、これをささげた黒人の男と女が四囲をゆるやかに廻りつつ歩いている。そして香料の燃え絶えた時間の後に黒布をとりのぞき、油を去り、仕上げに薄く化粧して一日の手術を終る。これをくり返すこと五日または七日で全身皮膚なめらかにクレオパトラの如くに冴え、顔のシワを去り、霊水をたたえた如くにスガスガしく顔に精気がこもるという。
 これがロッテナム美人術の広告の要旨である。ところが、高い金を払って五回七回くり返しても、シワがとれるどころか、かえって皮膚があれるばかりである。クレオパトラの玉の肌などとは途方もない大ウソである。たちまち人々に愛想をつかされてしまった。
 このロッテナム夫人の売りつけた香水が「黒衣の母の涙」。はじめは高価を物ともせず、西欧かぶれの淑女貴婦人が争って買いたがったものだ。なにがし公爵夫人が身につけている。なにがし男爵夫人も買いもとめた、と一ツ売れるたびに噂がとんで、世を賑わしたものであった。その流行は十五日か二十日あまり。婚礼がその流行期に当っていたから、克子もシノブにすすめられて、ムリにこの香水を嫁入道具の中へ忍ばせられた程である。
 もとよりシノブは当時からこの香水を愛用していた。しかしそれはシノブだけの話である。侍女のキミ子らがそれを身につけたことはない。一瓶が二百円という驚くべき高価な香料だもの、いかに流行といえ、第一級の金満家の夫人令嬢以外には手のとどかないものであった。当時の二百円は戦前の一万円にも当ろう。今なら何百万円の香水ではないか。
 シノブ愛用の香水を侍女が身につけているのは意外であった。貴婦人はその香水が己れ一人に独特なのを誇るのが常識ではないか。だが、そのような常識論よりも、もっと奇怪な、謎のような暗合があるのだ。
 それは兄が呟いたフシギな言葉、アラビヤの国の名エルサレム、それであった。
 それが単にアラビヤの国名のみならば、まだしもそれに多く拘(こだ)わることは滑稽かも知れない。兄は長々と呟いたではないか。
「エジプトのナイルの河が海へそそぎ、その砂が海底をわたり、海を距てて積みなしたところ、アラビヤの沙漠の辺……」
 これぞまさにロッテナム美人術の広告中の文章ではないか。兄がロッテナム美人術を知っているとはフシギなことだ。いつも書斎にとじこもり、世事に興味をもたぬ兄が。
「ここに、何かイワレがある……」
 克子は石のように、考えこんでしまった。しかし、どのようなイワレがありうるというのだろう。克子はただの一度だけ訪れたことのあるロッテナム美人術の店内の様子なども思いだした。別に思い当ることはない。ロッテナム夫人は醜女であった。エルサレムの生れというが、当り前の西欧人によく見かける顔とそう変りはない。
 変っているのは、むしろ煙りつつある香料の器をささげて寝椅子のまわりを歩く二人の黒人男女であろう。それはまさに真ッ黒けの逞しく大きな黒人男女であった。
 そう云えば、もう一人、黒人がいた。これも大きな黒人で、やっぱり頭髪がチヂレていたが、これは手術室にははいらない。ただ出入りのお客の世話をやき、扉を開けたてする役であった。そして、この黒人がドアに左手をかけたとき、克子は目にとめて奇妙によく覚えていたが、その左手の指はたった三本しかなかったのである。

          ★

 その翌日の暮方、克子はやつれ果てて我家へ戻ってきた。生きている人間の顔ではなかった。
 兄の病床を見舞って以来一睡もせぬ克子ではあったが、今朝はこんなにやつれてはいなかった。通太郎も急変にそなえて別室に一夜を明したが、事もなく一夜は明けて、その報告に病室から現れてきた克子の顔は、疲れはあっても明るかったのである。そこで通太郎も安堵して、克子を残して己れは我家へ立ち戻ったのである。
 しかるに短い冬の一日が暮れるまでの時間のうちに、妻は死の国を往復して、ようやく再びこの世へ這い戻ってきたような様子である。あの世を往復した人間にはこの世の挨拶がないのであろう。我家へ立ち戻って良人に再会しても感情すらもないようであるから、さすが沈着の通太郎も、
「まさか兄上の身にもしものことが……」
 と思わず立ち上ると、克子はようやくこの世の風が目にとまったように、良人の胸に顔を埋めてさめざめと泣きくずれてしまった。
「兄上は死にました」
 克子はむせびつつ叫んだ。
「おイノチに別状はありませんが、兄上はもはやこの世のお方ではございません。人々が精神病院の一室へ押しこめてしまったのです。兄上のお姿は再びこの世で見ることができませぬ」
 克子が病床へ駈けつけて以来、次第に常態に復しつつあるかに見えた宗久は、意外にも妹の眼前で精神病院へ拉(らっ)し去られた。彼女が立会人であるかのように。
 その朝、通太郎が辞去するときは、宗久はまどろんでいた。そのかなり安らかな眠りを見すまして、克子ははじめて一夜つめきった兄の枕頭をはなれて、待ちかねていた一同に好転しつつあるやに見える一夜の経過を報告した。目をさますたび、昼夜にかかわりなく起りがちだった病人の発作は、その一夜中起らなかった。
 克子が兄の病床へ駈けつけたときは、兄は妹の顔を見ても、その現実と幻想との区別がつかない状態だった。しかるにその一夜のうちに、妹に関する限りは幻想は去り、いつの目覚めにも変りなく枕頭に侍っている妹を見ては、予期したことを確かめて安らぎを覚えるようであった。
「そのへんへフトンをしいて、お前も、もうやすんでは……」
 と云ってくれたりしたが、それはすでに夜更けであることや、克子が夜もすがら枕元にいてくれる約束などを明確に意識している証拠であろう。現実と幻想がダブっていた日中には、五分前の約束も、今の時間も、現実的な知覚がなかったようである。
 一夜あけて、兄は安らかに眠り、克子は希望にみちて枕頭をはなれ、一同にも吉報をつたえた。寝もやらぬ看病の疲れなどはまったく感じられなかった。湧きでてくる明るさだけで心がいっぱいだった。
 むろん人々は喜んだ。その場に居合わせて喜ばない人はいなかった。晴高叔父も、須和康人も、久世喜善も。通太郎は云うまでもない。手持ち不沙汰な徹夜のツキアイなどのできないシノブ夫人は冬の陽差しが真南にまわる頃でないと目がさめないから、その場にはいなかった。しかし彼女の分身のような侍女のキミ子とカヨ子が居合わせて、よろこんでいた。そこで通太郎は安心して、妻に後をまかせて、いったん帰宅したのであった。
 まったく、克子はそのとき、シノブ夫人の分身のような……、と、たしかにそう思ったことを記憶していた。今から思えば、この一つが不吉なツジウラだったのだ。シノブ夫人はこの席にはいない。どうせ、居る筈のない人だ。しかし、その分身のようなキミ子とカヨ子がいる。……
 なぜ、それが、不吉なツジウラなのだろうか?
 克子はそれを茫漠たる思考の中で思いだそうどしていた。
 兄が発作のウワゴトの中で、シノブ夫人と、二人の侍女は三位一体、三人はただ一人の同じ人間だ、とくりかえし叫んだ言葉は忘れる筈はないけれども、それは克子を納得させた言葉ではなかった。むしろ、その言葉によって兄の妄想や悪い病気の方を納得させられ、寒々と悲しい思いをさせられたウツロな言葉だ。
 あのとき彼女が「分身」を感じたのは、ジカに胸に刺しこんできた甚だ現実的な知覚によってであった筈だ。実にハッキリした何かであった筈である。
 実にそれが、その一晩中、彼女には思いだすことができなかったのである。疲れきっていたせいであろうか。それが一晩中思いだせなかったということも、そこにツジウラと似たような何かの宿命があるのかも知れない。

          ★

 居合わした人々は克子の報告をきいて一様によろこんだ様であった。そして、その後、兄の容態が再び悪い方へ向ったキザシは決して起っていなかったのだ。
 しかるに午後になって、克子は別室の人々に呼びよせられた。別室には人々の物々しい姿があふれて殺気立っているように思えた。
 そこには総ての人が居たように思われた。久世喜善、隆光父子も。須和康人も。シノブも、侍女たちも。叔父晴高も。小村医師も。そして、そのほかにも多くの人々がいた。
 たとえば、大伴家の親族代表とも云うべき某公爵や侯爵など。また、日本の貴族代表とも申すべき某々公爵等の姿までまじっていたのだそうである。
 また、積田、尾山、加奈井、という三名の医学の権威、積田は医学全般の最高権威者であるが、尾山、加奈井は精神病の権威者であるという。その三名が集っていた。そしてその場の中心的な人物は、日本の代表的な大貴族たちではなくて、実はこの三名の医学の権威であったのである。全くそれらの勢威ある侵入者たちは多くの従者をしたがえており、その従者たち単独でもこの客間の卑しからぬ賓客として遇せらるべき人々であったから、それはもう一見しただけでは全く判断のつけがたい、ただ物々しく怖るべき群集であったにすぎない。
 この物々しい群集は、桓武(かんむ)の流れをくみ、南国の一角に千年の王者たりし一貴族の末裔、侯爵大伴宗久の精神鑑定のために突如として侵入したものであった。
 このような大貴族や大博士が事もあろうに大集団をくみ、シサイあって来駕光臨の栄をたまわった以上は、克子が血肉をわけた唯一の妹で、来駕光臨のシサイに対して申立つべき異議を胸に蔵していても、申立てる機会がないのは当然だった。彼女の異議を予期している貴族も博士も従者もいない。この威風堂々たる大訪問を恭々しく迎える当然きわまる附属品の一ツであるという外には克子の姿に意味も存在も認めた者がなかったのである。
 威風みつるが如き大鑑定の現場に於ては、被鑑定人のたった一人の血をわけた妹が人々の蔭に小さく身を隠すようにして見ていることすら、貴族の慣例に反するようなウロンな眼で見られなければならなかった。
 克子のマゴコロの看病によってのみ心の安らぎを得てようやく快方に向いつつあった宗久は、誰かの鬼の手で叩き起されて――それが誰の手であっても、克子以外の手はみんな一様に鬼の手にしか思えなかったが――エンマの庁へひきだされてきた。
「宗久どの。この者はそなたの何者に当るお方でござろうかの」
 こう問いを発したのは晴高叔父であった。ズラリと威儀高らかに控えているエンマたちの前にでて、たッた一人ウロウロしているのは晴高だけであったが、こうタクサンのエンマが居流れている前で誰一人としてうろたえる者の姿が見当らなければ、それこそ地獄絵図の何倍も怖しいものであったろう。なぜなら、それらは本来冷血な鬼の姿ではなくて人間の姿であるし、引きだされた人は彼女のただ一人の兄なのだ。
 この者がそなたの何に当るか、と指さされたところには、白衣の洋装を身につけたシノブ夫人が立っていた。
 女が美しいということは、男のいかなる威畏にも匹敵して劣るところのないものだ。シノブ夫人はエンマの法廷には不案内な外来者のようであったが、たまたま天女が地上へ迷い降りて、ここへ引ッ立てられてきた程度の外来者のようであった。白い裳をひき、一見天女の姿によく似て、まぶしく見えた。
 彼女は晴高が自分を指さしていることも、指さすにつれて自分の良人が自分を見つめているであろうことも、超然として無関心のようだった。たぶん、この外来者は人間の言葉を知らないのだろう。さもなければ、良人の妻たる者を指さして、これはお前の何に当る者だ、という奇怪な訊問の対象にされているのに、超然としていられるものではない。
 克子は見るに忍びぬ兄の姿を必死に追うた。兄は無礼な質問に答を拒むかも知れないが、拒んだところで当然ではないか。しかもたったそれだけで、妻の顔も見分ける能力を失った病人だという悪い判定を下されはしないか。克子はそんなことを考えて、胸を痛めた。
 兄は己れの妻の方を見ていたが、何か屈辱を感じたような複雑なカゲリが走った。しかし、その屈辱の内容については、兄以外の誰にも、むろん克子にも分らない。そして、兄がいま苦しめられている何かが甚しく複雑な何かであるということだけが確信できるだけだった。
 兄は叔父の背後に威圧するように控えている多勢のそして無言のエンマ達を吟味した。
 兄はエンマの誰かに顔見知りが居るだろうか。書斎に閉じこもっているばかりで、華族同士のツキアイなどに出たこともなく形式的な式や賀宴にはたいがい叔父や久世喜善が代理ですましているから、ひょッとすると親族代表のような大殿様の顔なぞも忘れているかも知れない。
 エンマの顔を一ツずつ吟味して兄が何を発見したかはその顔に表れなかったが、兄は何かを会得した如くに素晴らしい顔附をした。そして、その顔附の表した意味は、この人は聡明である、ということだけのように見えた。つまり、この人はエンマたちの威圧に押されもしないし、反抗的に苛立ちもしなかったのだ。そして、それら外部的な事柄にこだわらずに、問われたことに正しく答えれば足りる、と判断したことを表していた。
 これにまさる聡明な判断があるものではない。しかも、問いつめられ、威圧されてそうなったのではなく、自分で静かに吟味して、冷静にだした結論だ。この場に処してかく為しうる人は驚くべき聡明冷静な人であろう。およそ狂人の片鱗だにも見られはしない。
「偉なる人、聖なる人、兄よ」
 克子は叫びたいと思ったほどだ。
 兄は静かに質問に答えた。
「この者は、妻シノブです」
 すこし、からだがふらついていた。それは病臥の果てであるから、当然のことである。そして、声は総ての耳には聴きとれなかったほど低かったが、低声は兄の生れつきのものでもあるし、衰弱によって甚しくもなっていた。他に異状はない。真実を答えれば足りると信じ、そしてただ真実を答えた平静さ。これ以上に聡明な人為(ひととなり)と品格を表わす例が他にありうるだろうかと克子は感動して見まもったほどであった。
 ところが、意外にも、叔父は同じ物を指して、また、訊ねた。
「あれは、そなたの何者でござるか?」
 しかし、叔父の態度も、もはや慌ててはいないのだ。むしろ怒っているように見えた。
「たぶん、叔父の耳には兄の声がききとれなかったのだろう。あるいは、答を聞きちがえたのかも知れない。モウロクして、お耳が遠くなったのだわ」
 と、克子は考えた。そして、安心して叔父の指さす方を見た。克子は、アッ! と自分の叫んだ声がきこえたような衝動をうけた。シノブ夫人の居た場所にいま立つ人は別人なのだ。侍女キミ子である。シノブの姿は掻き消えた如くに失われていた。
 克子ですらも叫び声を発したかと思うほど驚いたのだから、兄のおどろかぬ筈はなかった。兄は身動きもしなかった。ただ、見つめていた。その顔は克子の方からは見えないが、脂汗がしたたるような苦悶の姿に想像された。
 兄は緩慢な動作で、ハナでもかむように、両手で顔を覆うた。そうするうちに、冷静をとり戻したようだ。そして、それ以上に乱れなかった。兄は顔を上げて、
「この者は、妻の侍女キミ子。しかし、実は妻と同一人間です」
 やや亢奮のせいか、さッきよりも声は高く、ふくらみのある澄んだ声が冷たく張りつめた空気をきりさいて人々の耳に流れこんだ。
 叔父はユックリうなずいて、甥の顔をきびしく見つめていたが、実は落胆しきったように目をふせてしまった。しかし、思い直したのだろう。また、同じ方を指して、
「あれは、そなたの何者でござろう?」
 と、三度、訊ねたのである。
 その瞬間に克子は叔父の指さす物を見るまでもなく、総てを知った。そして、そうか、その実験かと思った。もはや、驚く心をも失ったのだ。しかし、何も知らぬ一座の人々は、三度同一の所を眺め、そこに第三の女を見出して、やや、ざわめきが起った。
 二人の女の姿が消えて、第三の女の姿が現れていたという奇蹟のせいではない。なぜなら、そのことは奇蹟ではなかったから。今までの女の姿が消えて、新しい女の姿が現れるのはフシギではなかった。タネも仕掛もない。その壁際にはカーテンが垂れている。そこから出たり入ったりしているだけのことで、ひそかに人目をくらますためのような奇術的なタクラミはなかった。
 人々のはげしい期待や関心は、さらに第三の女について宗久がいかに答えるであろうか、ということであったろう。
 ところが、人々の興味の高まることとは逆に、宗久は克子と同じように、第三の質問を受けた瞬間に、すべてを予知したようであった。
 宗久は、第三の方を形式的にチラと見たにすぎなかった。そして第二の質問に答えるまでの長い時間を要することもなく、また特に衝撃をうけたような挙動もなく、至って投げやりに答えた。
「あの者も、妻の侍女のひとり、カヨ子と申す者です。しかし、かの者も実は妻と同一人です。妻シノブ、侍女キミ子及びカヨ子、三名の者は、まったくただ一人の人間です」
 その奇妙な答弁を待ちかまえていたらしい人々は、ここに至って緊張を破り、思いのままにザワメキを起した。そのザワメキは人々がすでに全く同一の結論を得て論争の余地もなくなったことによる余裕や安らぎを表していた。今に至るまでの緊張は、結論に至るまでの道程を表したものだ。もはや緊張は無用である。満堂の人々は、他の総ての人が自分と同じ結論を得て同じ心に相違ないと信ずるに足る明々白々な証拠を見出したからであった。
 さすがに叔父の晴高は元気がなかった。その訊問にはカマもなければオトシアナもないけれども、とにかく自分の問いに対する答えによって血をわけた甥が狂人と断定されては、浮いた気持にはなれなかろう。
 晴高は人々のザワメキが静かになるまで浮かない面持で身の持て扱いに困(こう)じ果てているようであったが、満堂のザワメキがおさまると、改めて威儀を張り、
「宗久どの。あれを見られい」
 また、指さした。
 一同はギョッとした。すでに明白な証拠が現れて万人を承服せしめるに足る結論が出たというのに、この上さらに何事が有りうるのだろうか。宗久と血のつながる叔父のことだから、この人の頭もどうかしているのかと人々は思ったほどだ。
 同じ驚きは克子にもあった。彼女も思わずハッとして、叔父の四度指さす方を見たが、そこに彼女が見たものは、別に奇があるとも思われぬもの、単に蛇足にすぎないようなものであった。
 今まで一人ずつ現れていた三名が、今や並んでそこに姿を現しているだけのことである。すでに分りきったことではないか。こんなことを今さらつけたしてどうするつもりか。まさかオペラのフィナーレの手をエンマの庁でも終幕の挨拶に用いているわけでもあるまい。
 他の一同も、今さらなんのこッた、という面持であった。けれども晴高はバカバカしいほど大マジメなもので、
「宗久どの。あれを何と見られる?」
 意外に激しい語気である。
 宗久はすでに人々のザワメキが起ったとき、人々の心中に起った思いを読みとったのであろう。そのザワメキを身に浴びたとたんに、彼は一切の意志したものを投げて、すべての気乗りを失った様子であった。
「オレがいかに真実を語っても、どうせ誰にも分りやしないのだ」
 そう語っているように見えた。
 さッき示したあの聡明な態度、己れの信ずる正しい真実を語れば足りると心に定めた人の落ちついた態度から、このように総てを投げた態度に変るには、たぶん彼の心に、もはや人々に理解してもらうことを諦めた変化が起ったのだろう。
 彼は親の意志によって心にもないことをせざるを得ない子供のように、オツキアイだけの視線を、その方向にふりむけた。と、その瞬間に、この部屋に落雷があったようだった。部屋のマンナカの彼の姿だけがたった一人切り離されて、無音のカミナリに叩かれたように見えた。
 彼は視線をふりむけたところに三人の女の姿を認めたとたんに、その中間の姿勢のところでバネがきれたように停止した。次にカミナリが何かの意志によって冷めたい石の姿にちぢんで行きつつあるように見えた。と、彼の全身は静かにふるえはじめていた。ふるえは次第に高くなる。少しずつ。実に、少しずつ。満潮の静かなキザシが数日後の颱風の怒濤にまで少しずつ少しずつ高まるものを示していると同じような緩慢な過程に見えた。
 ところが、その次の一瞬間に起ったことが、それを注視しつつあった各人によっても、まるで違った物を見たように印象されているのである。なぜなら、思いがけない影が目を掠めて走ったような唐突きわまる一瞬の変化が、アッと思うヒマもなく起って、終っていたからであった。
 克子の目が見たものは、こうであった。その時までの兄の姿勢は、意外きわまる物を見出した人が内心の混乱と争いつつ必死にそれを見まもる時の姿勢のように、あるいは恐怖のあまりそれに飛びかかる寸前の姿勢のように、両手を胸の両脇にシッカとちぢめて小腰をかがめて、そして、ふるえはじめているのであった。と、その一瞬に、胸の両脇にちぢまっていた両手が、そして、ちぢまったままふるえる以外にはどうしようもないように見えていたその両手が、にわかにパッとひらいて各々天の方向に延びきったように思われた。
 それはその両手の手首につけておいた操り人形のヒモを、その一瞬に誰かがヤケに引っぱりあげた結果に起った突然の動作のように見えた。まったくそのような一瞬間のハジカれた動きであった。にわかに両の手がパッとひらいて天へ延びると同時に、それにつれてちぢんでいた両足もいくらかは延びたものか、もしくはいくらか飛びあがったのかも知れない。人々は宗久の手も足も全部の動きを捉えることはとても出来なかったのである。ある一人の人は、柳の枝に飛びつこうとしている絵の中の蛙のような姿が衝撃的に起ったのだと言っているが、克子が見たのもそれに似た人の姿であったかも知れない。それに似た影が一瞬に起って、一瞬のうちに終っていた。そのとき、一瞬の影から発したのか、他の位置の他の物体や人体から発したのか、誰にも正体を捉える術がなかったような一ツの音が、同時に起って、終っていた。その影にも音にも、前ぶれがなくて、後に残った動きも響きもなかったのである。まさしく一瞬の影が唐突に過ぎただけのことであった。
 影は、そこに、倒れていた。大伴宗久は、彼が立ちすくんでいた場所に、今や、ただ倒れていただけであった。
 大博士たちと大貴族たちとによる鑑定人も立会人も、相手の身分を考慮して意見の発表をためらうような考慮もいらなかったが、第一、相談までにも及ばす、各々が目を見合せて総てが一決していたようなものであった。
 侯爵大伴宗久は、その倒れた位置から精神病院の一室へ運び去られてしまったのである。否、彼はその位置に倒れた時から、もう侯爵ではなかったと言うべきかも知れない。否、その瞬間から、人間ですらもなかったかも知れない。そこに倒れていたものは、もはや影にすぎなかった、と言うべきであるかも知れない。
 南国の一角に千年の王者であった大伴家はこの一瞬に亡びたのであろうか。あとに残ったものは、ただ莫大な財宝だけであった。それはシノブの手に帰したものであろうか。

          ★

 宇佐美通太郎は、妻の語る現実の悲劇を、そして、その悲劇中の一人物の語る言葉を科学者の注意深さで、熱心に耳にとめ、心にとめようと努力していた。けれども俗事は陰険で表裏が非科学的に複雑であるから、いくら注意深くても、世事にうとい科学者の見逃し易い要点があった。その代りには、アベコベに、世事に通じた人々が見逃し易いものを確実に捉える場合もあった。
 また彼は最も世俗的な要点を見逃し易い代りに、いったんそれを発見して心にとめると、その重要さを人一倍理解して、さらに奥を究める能力があった。
 彼は大伴家の莫大な財産について世俗的な関心がなかったから、義兄の風変りな結婚も、その妹と結婚した自分のことすらも、大伴家の財産をめぐる誰かの意図によるものだということを久しく気附かなかったほどである。

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